華麗なるコンサート・ミストレス大谷康子 金山茂人
いつ頃だったか記憶は定かではないが、あるパーティーの余興でモンティの難曲「チャルダッシュ」をいとも楽しげに「奏き歩き」とでもいうか、お客様の間を泳ぐ人魚の如くヴァイオリンを奏でている達者なヴァイオリニストに遭遇した。大谷康子との最初の出会いの瞬間であった。その後縁あって東京シティ・フィルから当楽団に移籍したが、いまや日本のヴァイオリン界をリードする重要な一人といっても過言ではあるまい。
最近あらゆる分野で女性の進出が著しいが、プロのオーケストラにおいても優秀な女性奏者が大勢いる。しかしコンサート・ミストレスまで昇り詰めた奏者は数少ない。ましてやオーケストラだけではなく、ソリストとしてもこれほど活躍しているヴァイオリニストは稀である。しかも彼女のスケジュールを知るととても並のコンサート・ミストレスでは通用しない。
仕事の中心は東京交響楽団ということには変わりないのだが、当楽団年間150回前後のコンサートをこなしている。大谷さんはこのうち約半分の70〜80回が出番である。これだけでも大変と思うが、その他当楽団が関知していないスケジュールの透き間に、全国からリサイタルやチャリティコンサート等の要望が殺到する。
更に東京音楽大学の教授という重要な肩書きが加わる。何でも常時お弟子さんが30〜40人いるらしい。そればかりか教授会、諸々の会議等、行事が多く相当束縛される。その他受験期になると受験生が押しかけ、いったい彼女はいつ眠るのかというのが音楽界の七不思議の一つとなっているのも無理からぬことだ。
ようするに一流の音楽家というのは技術だけでなく、気力、体力とも並はずれたバイタリティが必要ということがご理解いただけよう。
ちなみに彼女の当楽団での立場は終身雇用ではない。一年毎の契約団員である。もしちょっとでも調子の悪い日が続くと「彼女最近大丈夫なの」ということで次年度は契約解除ということになりかねない。全楽団員の憧れであるが、その分妬みもすごく恐いポジションである。
定期会員の方々をはじめとして彼女をいつも聴いて下さっている方には説明はいらないが、一度も見たことがないという方にとって、そんなに恐い席でも堪えられる人なのだからきっと物事に動じないどっしりとした恰幅の良いおばさん風を想像しがちと思うが、実際の大谷さんは華奢で10m以上離れるとうら若き20代と錯覚する。もっとも難しいのはたとえ音楽家として技術が一流であっても人物に問題があると務まらない。その点、性格は底抜けに明るく、楽員からの信頼も厚い。その上食欲たるやものすごくそして喋り魔。つまりヴァイオリンを奏いている時を除けば口はアケッパナシということか。
家庭では意外にも(失礼!)賢夫人で通っている。一方的に食べるばかりではなく料理が得意で、たまに休みがあると旦那様のために腕を揮うのだという。ダンナ様というのは某大学病院の病理学の助教授とのこと。ときどきコンサートに見えるが一見茫洋とした風貌と大人(だいじん)風の人格者と思わせる方でこのような風格を漂わせる人だからこそ大谷さんに相応しいのであろうと周囲は納得している次第。
しかし人間いかなる大人物でも欠点があるから人生は楽しい。家の掃除が嫌いなのかあるいは時間がなくて出来ないのか不明ながら、噂によると4年程前に引越した豪邸に一歩踏み込むと足の踏み場もなく、あらゆる物があちこち散らかっていて、レッスンに訪れる生徒さんはレッスン室まで掻き分けカキワケながらやっとのことで到着するのだそうだ。
大谷さんはサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」を日本で最も多く演奏している記録保持者ではなかろうか。確かに多い時は月5〜6回というのも珍しくはない。しかも演奏毎に新しい発見があり、「小品ながらあらゆる表現力、テクニック、音楽性を兼ね備えている名曲」と大谷さんは断言する。今夜演奏するラロの「スペイン交響曲」もきっとお客様を満足させてくれると確信しているが、一度ぜひ「ツィゴイネルワイゼン」の名演も聴いてくださる機会を見つけたいものだ。
彼女は電車に乗っていても、駅の構内、デパート等々とにかく人が集まっているところを見ると「皆さ〜ん、私のヴァイオリンを聴いてくださ〜い」と楽器をケースから取り出して奏きたくなるのだそうだ。このことはまさに大谷康子の音楽に対する哲学的原点であり、生まれつきの「ヴァイオリンの権化」とは、このような音楽家のことをいうのであろう。
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