私が小児科を辞めたわけ
何で小児科を辞めて病理に変わったんですか、とよく訊かれるので、その頃の心境の変化について書いておこうと思う。確かに病理には元々臨床をやっていて、後から移ってきた人も多いが、小児科から病理に来た人というのは私も含めてそれほど多くはない。医学に関係のない人ならともかく、医師の間からも時々不思議に思われるのも無理はない。
2004年からは医師の研修制度も大幅に変更されて、医学部を卒業してもすぐに自分の専攻の科を決めずに、最初の2年間は内科・外科・小児科・産婦人科などの科で一通りの研修を行なうことが義務付けられるようになったが、私が卒業したのはちょうど医学部紛争の一段落でインターン制度が廃止されてしばらく経った頃で、卒業と同時に各自が希望する科に入局するのが普通だった。そして大部分の医師にとっては、卒業時に決めた科で修練を積んで、停年まで勤め上げることになるのである。
まず基礎医学か臨床医学であるが、基礎医学とは一言で言えば研究者、臨床医学とはいわゆる「お医者さん」。生化学や生理学や病理学などのように主として基礎的な実験を行なって医学研究の進歩に貢献する基礎医学に対して、患者さんの診療に従事する内科や外科や耳鼻科や精神科などが臨床医学である。
私も卒業に当たって、基礎へ行こうか、臨床へ行こうか、一応は考えたが、「学問のために生きるか、生きるために学問をするか」という古の哲人の問いかけは常に脳裏にあって、自分は一生研究に没頭して、基礎研究のために生きるような性分ではないと判っていたから、どうせ生きる糧を得るための仕事なら、患者さんに直接タッチして治療する臨床に行こうと、それほど迷わなかった。また学生時代から小児科の小林登教授の研究室に出入りして、小児腫瘍の疫学調査のお手伝いをさせて頂いていたので、臨床の中でも小児科に行くのはごく自然なような気がしていた。
ついでに書いておくと、世の中には生きるために学問をしている人(=たくさん論文を書いて出世して教授になるために研究をやっている人)はずいぶんいる。しかし私が小児科時代に遺伝学の師匠筋だった中込弥男先生は、最初小児科で臨床をやっておられたが、患者さんが皆研究材料のように思えてしまうので、御自分は臨床をやっていてはいけないと思い直して基礎研究に専念された立派な先生である。本当に学問のために生きるお手本のような方で、日本の遺伝学の第一人者であるが、私にはそういう性分はなかった。
そこでいよいよなぜ小児科を辞めて病理に移ったかという話になるが、私は小児科の中でも生まれたばかりの新生児や未熟児医療をやってきた。お産の前後の医療を特に周産期医療というが、従来のように産科で母体と胎児を診て、小児科で新生児や未熟児を診るという二本立てでやっていては良い成績は上げられないと考えて、産科の先生方に分娩手技を教わって周産期医療を一括して実行したところ、より少ない労力と医療費で周産期死亡率を全国平均の半分以下に引き下げることが出来た。だがこういう体制はすぐに広く全国に普及できるというものではない。
私が一貫した周産期医療を試みたのが遠州総合病院だったことも良かったのである。遠州総合病院の小児科は常勤医が4人だったが、いずれも若くて熱心な気心の知れた仲間ばかりであった。重症な未熟児が入院してきても、本来の夜間当直以外にローテーションを組んで、4人交代で泊まり込んで治療に当たったが、こういう連帯感は医療の現場でも大切である。
ところが遠州総合病院以外の病院ではなかなかこうは行かなかった。重症の未熟児がいても、私は未熟児が専門ではありませんと言われれば、当直以外のローテーションに入ってくれとも言いにくい。実際、小児科というものは未熟児・新生児ばかりではなく、他の領域もそれなりに忙しいのは事実である。
確かに未熟児以外の小児科ばかりでなく、外科や内科など他の診療科の医師も忙しいが、未熟児・新生児のように時と場所を選ばずに超重症の患者が突然運び込まれてくる現場は、むしろ救命救急センターに近い。それに内科や外科は医局員や常勤医師の人数も多いし、救命救急センターも病院の採算ベースに乗るし、若手医師のローテーションの希望もあるので、未熟児センターに比べれば人員の余裕はあったろう。超重症の未熟児が入院するたびに2〜3名のベテラン常勤医師が交代で泊まり込まなければならないような体制では長続きしない。しかもそうやって必死に治療しても、超重症未熟児は数日から一週間くらいで亡くなってしまうことも多かった。生まれたばかりの赤ん坊が手当ての甲斐なく死んでいくのを看取るのは精神的にも打撃が大きい。
私がまだ未熟児センターに勤務していた頃、アメリカでも新生児集中治療施設の医師や看護婦が心身共に加わる重圧のために「燃え尽き症候群」になりやすいことが報告され、未熟児室のスタッフは適当なリクリエーションの時間を取るべきだという論文が、米国の小児科学の雑誌にも掲載された。(Marshall RE & Kasman C: Burnout in the Neonatal Intensive Care Unit. Pediatrics 65:1161-1165, 1980)
しかし2〜3人の常勤スタッフで未熟児施設を担っているような日本の多くの病院でリクリエーションなど望むべくもない。私も新婚間もなかったカミさんが海外ロケに出発するので見送りに行こうと思って、当日の前後2日間を当直に当てておいた。こうすれば真ん中の当日は帰宅することが出来ると予定していたのであるが、選りに選ってその当日に限って400グラムの未熟児が入院してしまい、カミさんの見送りどころか、数日間病院に泊まり込むことになってしまったのだ。しかもその子は助からなかった。
しかしこんなことは何も自分だけのことではない、他にも常勤2〜3名で未熟児・新生児医療を支えている先生方も当時はまだいらしたので、そういう先生方と励まし合ったり、未熟児用の人工呼吸器などを病院間で融通し合ったりして何とか頑張っていたのだが、ある日、自分の心の中にとんでもない考えが浮かんだ。「この患者さえ…。」…のところは医師としてとても文章に書けることではない。こんなことでは臨床医を続ける資格はない、私は小児科医を辞める決心をした。互いに励まし合って細々と未熟児医療を続けていらした先生方も時を前後して多くの方が撤退され、現在も未熟児医療に携わっているのは、大学病院とかセンター基幹病院とか、スタッフ数に比較的余裕のある病院に勤務されていた先生方ばかりである。
何でこんな愚痴っぽいことを今更のように書くかと言えば、日本の医療制度が貧困なために、多くの熟練した医師が苛酷な現場を続けることが出来ないという現実を知って欲しいからである。医療が貧困と言っても、それは発展途上国のように器材も資金も絶対的に不足しているというのではない。日本国が官民揃って医療費を買い叩いたために、必要な場所に必要なだけの医療スタッフを配置する収益を確保することが出来ないのである。
医師なら身を削って患者のために頑張るべきだとおっしゃる国民は多かろう。だがほとんどの医師(特に小児科医)は頑張っているのである。頑張って、頑張って、もうこれ以上頑張れないというところで力尽きていくのである。スタッフの数さえ現在の2倍配置されていれば、まだまだ停年まで頑張れた医師は多いのである。
アメリカでは未熟児室のスタッフの「燃え尽き症候群」予防の重要性が学会誌にまで掲載された(上記)。未熟児を助けるために、先ず未熟児室勤務のスタッフの心身の健康に配慮しようというのだ。日本では官僚も、学会も、病院上層部も誰もそんなことを思ってくれたりする人はいない。
太平洋戦争では軍用機のパイロットもアメリカでは三交代制だったという。1ヶ月戦場にいたら、次の1ヶ月は休暇、次の1ヶ月に訓練をして、再び前線に帰って来るのだ。これに対して日本のパイロットは戦場に出たら出っぱなしで、戦死するまで帰れなかった人が大部分だったという。例は不適当かも知れないが、私は未熟児医療に携わりながらそんなことを思い合わせていた。日本という国は、戦争をやるにしても高度医療をやるにしても、上層部は精神主義を声高に叫ぶばかりで、現場の人間は消耗品扱いなのである。
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