霞ヶ浦
霞ヶ浦で他の水鳥に混じって越冬中のオオハクチョウの一団です。最近では餌付けも計画的に行なわれているせいか、日本で越冬するオオハクチョウが増えているそうです。やはり動物も待遇の良い場所を選ぶんですねえ(笑)。
冷たく曇った2月のある日、霞ヶ浦を訪ねてみました。琵琶湖に次ぐ日本第2位の面積を持つ湖で、東京からは常磐線上野駅から約1時間10分(特急なら50分足らず)で行けます。比較的行きやすい場所にあるのに、私が霞ヶ浦を訪れたのは今回が初めてでした。
漁業や観光も盛んな霞ヶ浦ですが、やはり私にとっては旧日本海軍の予科練(海軍飛行予科練習生)との関係で、少年時代から記憶に刻まれた地名です。予科練は昭和5年に制度ができ、当初は横須賀航空隊で訓練が行なわれましたが、昭和14年から霞ヶ浦湖畔の土浦航空隊に移りました。その後太平洋戦争勃発と共に全国に練習航空隊が設置されたのですが、予科練=霞ヶ浦という連想は、あの有名な“若鷲の歌”によるところが大きいと思います。
1943年に制作された戦意高揚映画『決戦の大空へ』の挿入歌として大ヒットしましたが、あの勇壮な歌詞につられて大空への憧れをかき立てられた少年たちも大勢いたと思います。
若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ でっかい希望の雲が湧く
というような歌詞でしたが、創設当時はそれこそ競争率数十倍という狭き門だった予科練も、戦局が傾きかけてからは、消耗品としての若者たちをゴッソリ抱え込んでおくだけの制度に成り下がっていたのではないかと思うと胸が痛みます。
何しろ戦争末期には訓練用の飛行機も燃料も乏しくなり、子供騙しみたいな装置で爆撃訓練をしていたかというような話も読んだ覚えがあります。私がハマっていたフライトシミュレーターの方がずっとマシですが、もちろんあんなゲームソフトは当時アメリカにもありませんでした。
飛行機が無いから毎日シャベルを抱えて本土決戦用の防空壕掘りをさせられていた人たちは不幸中の幸いで、大空へ憧れたはずが人間魚雷“回天”や体当たりボート“震洋”などの要員に回された人も多かったようです。そんな状況下で飛行機に乗って特攻に行くことになった人たちは、仲間うちではおそらくエリート中のエリート、いずれ本土決戦で死ななければいけないならば、防空壕の中での爆死ではなく、好きな飛行機で死ねて嬉しいと思ったに違いありません。
そういう方々が残した遺書などから、少年たちは敢然と祖国に殉じたなどと美化する風潮もあるかとは思います。しかし当時の中学校の教師は、学校から予科練志願者をたくさん出すことが学校の名誉になるので、教え子たちに予科練志願を強制した、そのために戦死した教え子に対する懺悔の気持ちを戦後もずっと引きずって生きてきた元校長の話など新聞に紹介されていたこともありました。
半世紀以上も昔、人間を消耗品扱いした日本という国家とその指導者たちの姿勢を検証することなく、美化されただけの予科練を語り継ぐことは、また将来の日本に新たな悲劇を生むことになるのではないでしょうか。
かつて霞ヶ浦航空隊があって、ドイツの巨大なツェッペリン飛行船も来訪したあたり、海軍の練習機が連日飛び回っていたあたりの湖岸を、冷たい風に吹かれて歩いていると、いろいろなことが頭に浮かびました。願わくは霞ヶ浦がいつまでも北の大地の渡り鳥たちが安心して羽を休めることのできる越冬地であり続けて欲しいですね。