千木と鰹木

 今回は「千木
(ちぎ)」と「鰹木(かつおぎ)」というあまり馴染みのない言葉がテーマです。歴史や宗教を民俗学的に研究されている方々以外には興味もないでしょうし、何を隠そう、私自身も約3年前の2018年頃までは知らなかった言葉でした。歴史ミステリー作家の高田崇史さんが書かれた『古事記異聞:鬼棲む国、出雲』(講談社NOVELS:2018年)という小説を読むまでは…。

 千木は神社の社殿の屋根の両端近くで交差している部材のこと、また鰹木は千木と千木の間に等間隔に何本か横に並べられた部材のこと、どちらも神社の社殿の屋根飾りですが、遠く古墳時代や大和朝廷の時代には皇族や豪族の屋敷の屋根にも見られたらしい。

 私は特にそういうものに関心は無かったのですが、高田崇史さんのミステリーを読んでからはちょっと気を付けるようにしています。『古事記異聞:鬼棲む国、出雲』は出雲で起こった謎の殺人事件を巡って、橘樹雅
(たちばなみやび)というヒロインが島根県警の警部と共に謎解きをしていくストーリーなのですが、ミステリー小説のネタばらしなどという野暮なことはいたしません。

 雅は都内の大学で民俗学を専攻する大学院生なのですが、出雲大社や八重垣神社など出雲地方の神社を研究して回る描写の中に、この千木とか鰹木という言葉に関する興味深い説明があったのです。それによると、千木先端の切断面が地面に垂直なものを外削ぎの「男千木
(おちぎ)」、水平なものを内削ぎの「女千木(めちぎ)」といい、男神を祀る神社は男千木、女神を祀る神社は女千木になっているとのこと。さらに男神の神社では鰹木が奇数本、女神の神社では鰹木が偶数本なのだそうです。

 ほう、これは面白い…と思って、それからは神社の前を通るたびに、ここに鎮座されているのは男神様かな、女神様かなと興味を持って社殿の天井を見ながら参拝していたわけです。上の写真左側は横浜の金沢八景の方で仕事があった折、駅前にあった瀬戸神社の社殿、千木先端の切断面は地面に垂直、鰹木は奇数の5本、ここは男神様の神社だなと思って由緒を読んだら、確かに御祭神は大山祇命
(おおやまつみのみこと)と須佐之男命(すさのおのみこと)、いずれも男神様です。

 上の写真右側はよく仕事で行く小岩と新小岩の間にある下小松天祖神社、総武線の電車からよく見えますが、千木先端の切断面は地面に水平、鰹木は偶数の4本なので、ここは女神様だなと思って、ある日の帰りに電車に乗らずに歩いて参拝してみましたら、やはり主祭神は天照皇太神
(あまてらすおおみかみ)、日本神話の女神中の女神でした。

 最近の神社では社殿にこういう千木や鰹木がないものも多いのですが、千木や鰹木が載ったいかにも神社という社殿を見かけた時に確かめてみると、やはり男千木に奇数本の鰹木を持つ社殿には男神様、女千木に偶数本の鰹木を持つ社殿には女神様が主祭神として祀られていることが多く、これはなかなか面白いなと、ひとつ賢くなったような気分を味わっておりましたが…。

 これもよく仕事で行っていた世田谷砧公園近くにある横根稲荷神社です。千木は外削ぎの男千木、鰹木は奇数の5本、ああ、ここは男神様を祀る神社に違いないと思って祭神の立て札を見ると…。

 豊受姫命
(とようけひめのみこと)と宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)のお二人の名前がありました。豊受姫命は“姫”の字があるので分かるように稲や穀物を司る女神、宇迦之御魂神も日本書紀では蔵稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記され、特に稲や穀物の神様として豊受姫命と同一視されることが多いのだそうです。

 ウカノミタマは古事記ではスサノオを父とするとされますが、日本書紀ではイザナギとイザナミが国生みの後に腹が減ったので産んだ稲の神とされています。私たちの国土を作るために空腹をさらに10ヶ月も我慢されたのですね。国を生むとはそれほど大変なことだったのか(笑)。

 古事記にも日本書紀にもウカノミタマの性別について明確な記載はないそうですが、穀物を産み出す神だから女神とされたとのこと。日本神話だけでなくギリシャ神話でも大地と豊穣を司る農業の神様はディメーテールという女神です。娘のペルセポネがゼウスの策略で冥界の王ハーデスの后として連れ去られたことに抗議して天界を去ったので、地上には穀物が実らなくなった、さすがのゼウスも困り果ててペルセポネを返すようハーデスに頼み込んだが、ペルセポネはすでに冥界のザクロの実を何粒か食べてしまっていたので1年のうちの3ヶ月間は冥界に行かなければいけない、この期間はディメーテールが悲しむので大地に穀物の実りがない冬になったと伝えられています。

 ちなみに農業の女神ディメーテールは乙女座(私の生まれた星座・笑)のモデルでもあります。しかし乙女座のモデルは正義の女神アストライアとも…。アストライアは文明を手にした人類が領土欲や所有欲に目が眩んでヒトラーやプーチンのように侵略戦争を正当化するようになったことに愛想を尽かして天界へ去ったと伝えられています(ただ神々の中で最後まで人間に望みをかけてもいた)。またアストライアは正義を計る天秤を持つ女神として天秤座に姿を残すともされています。

 ちょっと脱線が長くなりましたがギリシャから日本に帰って、ん…?横根稲荷神社では男千木の社殿に女神様…?と疑問に思ってネットで調べたところ、wikipediaなどでは男千木・女千木や鰹木の本数は単なる俗説に過ぎないと一蹴されていてニベもありません。私にはそれを判断するほどの民俗学的な素養は皆無ですから、ここで何かを論じることはできませんが、一つだけ言えるのは、ある現象をそんなに簡単に切り捨てていいのかということです。

 高田崇史さんも例のミステリー小説の中で、千木や鰹木と男神・女神は関係ないという説もあると断っていますが、私自身も読後しばらくは幾つかの神社の社殿を見て、ああ、確かに千木と鰹木は祭神の性別を表していると感心していたわけですから、少なくとも統計学的にはある程度意味の有ることが言えるのではないかと思います。一つでも例外が見つかれば可能性が否定される自然科学の分野もありますが、いろいろな人間の思惑や誤謬や試行錯誤が積み重なった歴史学や民俗学のような社会科学の研究分野で、これは俗説と言ってすべてを切り捨てる態度は誤りであると私は言いたい。

 人間がやったことにはすべて何か意味がある。神社の千木を外削ぎにするか内削ぎにするか、屋根に鰹木を4本載せるか5本載せるか、そんな大事なことが単なるその場の偶然や気まぐれだけで決まるものでしょうか。もし単なる偶然や気まぐれだけなら、全国の天照皇太神をはじめとする女神を祀る神社では千木の外削ぎと内削ぎの比率はほぼ半々になっていなければいけない。人間の所業の結果として観察された現象を観察した時、そこにはどういう意志が働いた結果か、あるいは何の意志も働かなかった結果かを考察しなければいけません。それこそが社会科学者の使命だと思います。


         帰らなくっちゃ