伊能忠敬の日本地図

 旅といえば必ずお世話になるのが旅先のトイレ…、ではなくて地図ですね(笑)。日常を離れた旅という空間では、自分は今どこにいるんだろうという好奇心が、私なんかは先に立ちますね。日常生活からどのくらい座標軸が離れているのかを空間的に示してくれる必須アイテムが地図です。

 現在我々が使っている日本地図、学校時代の地図帳ばかりでなく観光地図や交通地図まで含めて、江戸時代の伊能忠敬を抜きにしては語れません。正確な国土の形を初めて目に見える形で提示してくれたのが伊能図とも呼ばれる大日本沿海輿地全図
(だいにほんえんかいよちぜんず)でした。

 東京深川の富岡八幡宮境内には伊能忠敬の像があります。測量開始200年の節目を記念して2001年に建てられたもののようですが、10次に及ぶ測量には自宅のある深川黒江町(現在の門前仲町)を出たら、先ず富岡八幡宮で道中の無事と測量の成功を祈願してから出発したとのことで、像はここに建てられたわけですね。

 ところで伊能忠敬というと、我々は子供の頃から日本最初の地図を作った人としか認識してきませんでしたが、実はこの地図作り、伊能忠敬50歳を過ぎてからの後半生の偉業だったというから驚きです。

 伊能忠敬は1745年(延享2年)に上総国に生まれ、若い頃は不遇でいろいろ苦労したようですが、17歳で利根川沿い佐原村の伊能家に入婿してからは、家業の酒・醤油の醸造に励みながら少しずつ頭角を現し、36歳の時には佐原村の名主になり、浅間山噴火による天明の飢饉にも対処しています。

 本当はこれだけでも立派な人生だと思うのですが、やはり伊能忠敬は日本地図を作るという天命を背負って生まれてきた人だったのですね。46歳で家督を譲り、興味を持っていた暦学や天文学をさらに深め、50歳の時に江戸へ出て来て深川黒江町に居住します。そしてこれもなかなか真似のできないことですが、19歳も年下の高橋至時
(よしとき)に弟子入りしました。村の名主まで勤めた過去の実績も自尊心もいっさい捨てて、しかも名主時代には洪水で水没した田畑整備に必要な測量の実地経験も豊富だったはずなのに、敢えて“一介の若僧”に頭を下げて地図作りの学問を本格的に学び始めた。そこの人生後半戦に入ったあなた、できますか?(笑)

 さて1800年(寛政12年)から1816年(文化13年)にかけて10次にわたる全国測量の旅が始まりますが、実に気の遠くなるような大作業ですね。手始めは蝦夷地(北海道)の測量でしたが、当時ロシアのプーチン…ではなくラクスマンが根室に来航して通商を求めるなど、風雲急な防衛上の必要から幕府は蝦夷地の測量を許可しました。しかし伊能忠敬と師匠の高橋至時は最終的に日本全図を完成させるつもりだったのでしょう、奥州の往復路も含めて北海道の太平洋岸の測量を完成させます。

 実はこの時伊能忠敬と高橋至時の頭にあったのは日本地図だけではなかったそうです。地球の緯度1度に相当する距離を実測して、地球の大きさを計測しようという雄大な計画もありました。伊能忠敬は天文学にも通じていて、天体観測で緯度を計測することにも慣れていました。最初は深川と浅草の距離の実測から地球の緯度1度の距離を推定しようとしたのですが、あまりに近すぎて誤差が大きい、それではと言うので江戸と蝦夷地の間の距離を実測したのですが、当時のヨーロッパで計測されたものと比べても遜色ない結果を導いたそうです。村の名主として功成り名を遂げた人がもう一度人生をやり直し、西欧のレベルに追いついた。そこの人生後半戦に入ったあなた、できますか?(笑)

 伊能忠敬の測量技術はそんなに新しいものではなかったようです。歩測で距離を実測し、方位盤で2点間の角度を計測し、それを海岸線や街道に沿って延々と繋いでいく。本当に気の遠くなるような作業です。ゴルフ場のキャディーさんがホールまでの距離を測るなんてもんじゃない。伊能忠敬は几帳面で根気強い性格だったそうですが、そんなこと言われなくても分かりますね(笑)。

 さらに仕事に関しては厳格一途だったようで、測量の道中では助手たちの飲酒を禁じていたそうです。確かに酔っぱらってフラフラしていたんでは正確な距離は測れない。伊能忠敬は一歩69センチで歩く訓練をしていたらしい。マーチングバンドなんかでも、これは隊列を乱さないために8歩で5メートル、または8歩で4メートルを歩けるように普段から訓練しているそうですが、伊能忠敬の1歩はこれより大きい。身長160センチ前後と推定されてますから、かなり大股で日本中を歩き回ったわけです。体力も必要な全国測量、伊能忠敬はさぞ身体頑健と思いきや、若い頃から身体が弱くて寝込むこともしばしば、高齢になってからは慢性気管支炎の症状も出てきていますから、全国測量の旅を支えていたものは気力と根性だったのでしょう。

 現代のような最新の測量機器もなく、三角測量のような新しい測量技術もない、歩測と方位測定によるデータを、山など不動地点の観望や天体の運行の観測によって補正しながら、地道に日本中を歩き回ったわけですね。1次の測量で東北から北海道東岸、2次で伊豆から房総、3次で東北日本海岸、4次で東海道から北陸、5次で近畿から中国、6次で四国、7次と8次で九州、9次は忠敬は高齢のため不参加だったが伊豆諸島、10次で足元の江戸府中と、まさに東奔西走の16年間。北海道の未測量だった地域については間宮林蔵のデータを加え、最終的な地図作りが進行していた1818年(文政元年)に伊能忠敬は74歳で息を引き取りました。

 見たかったでしょうね、最後に完成した日本全図。小図(とは言っても縮尺1/432,000の広域図)が3枚、縮尺1/216,000の中図が8枚、縮尺1/36,000の大図(精密図)が214枚。彩色された風景なども描き加えられた美しいものだったそうですが、これだけのものを50歳を過ぎてから弟子たちを率いて作り上げた伊能忠敬の意欲、知力、人望、好奇心、向学心、使命感、まさに並々ならぬものがあります。

 人生100年と言われる時代にあって、定年までに築き上げてきた社会的地位や名誉にしがみつくことなく、新たな第二の人生に向かって旅立つ覚悟こそ、我々現代人が最も見習わなければいけないものだと感じました。



補遺:
 あまりネット上にも見ないのですが、伊能忠敬について児童向け図書などで子供の頃に読んだ話で、特に記憶に残っているものが2つほどあります。

 1つは伊能忠敬が迷信など信じなかった話。忠敬が測量の旅に出発しようとすると草鞋の紐が切れた、周囲の人々は縁起が悪いからと延期を勧めたが、こんなことはよくあることだと笑って紐を結び直して家を出た、しかし今度は冬の寒さで弱った燕が足元に落ちてきた。人々は恐れおののいて再び出立を止めたが、忠敬はまったく気にも留めず、この時も無事に測量を終えて帰ってきたという話。

 もう1つは完成した伊能図を最終的に座敷に広げて日本全図を連結してみたが、海岸線がグルリと一周してきたところで数センチほと微妙に合わない。やはり歩測の限界かとも思われたが、それこそ日本列島が地球の球面状にあるための誤差だった。伊能忠敬も高橋至時も最初から地球の球面を想定したうえで地図作成を始めていたそうですから、この話の真偽のほどは分かりませんが、地図の1枚1枚は平面として描かれますから、最後につなぎ合わせた時に球面の誤差が出たというのはありうる話。それほど伊能忠敬の作業は精密だったということです。

 ちなみに忠敬より19歳も若い師匠の高橋至時は4次測量の終了後に亡くなりました。忠敬はこの年若い師匠を生涯敬愛し続け、自分の死後は同じ寺に葬ってくれるように頼んだとのこと。それで伊能忠敬の墓は高橋至時と同じ上野現空寺にあります。


         帰らなくっちゃ