旅先のトイレ

 宿泊は常にテントで野宿、夜行バスや寝台列車、自家用車を利用し、食べ物も自分の食べる物はインスタント食品から調味料まで全部リュックに詰めて持って行くという徹底した旅人でも、旅先で必ずお世話になるのがトイレです。まあ、野○ソの話は別のコーナーでしましたけれど、まさか旅に出て最初から最後までコレって人はいませんよね。

 旅に出ると便秘がちになる人が多いですが、旅先では交通機関などの時刻表に縛られてなかなかいつもと同じ時間に排泄できない、同行者の目が気になって恥ずかしくてトイレに行けない、慣れない環境では出る物も出ない…などいろいろな理由が考えられますが、別のコーナーでもお話ししたとおり、我々陸上に棲む哺乳類は天敵から追跡を防ぐために、安全なテリトリー、つまり自分の家庭か縄張りまで排便を我慢できるように長〜い大腸を発達させたわけですから、これらはすべて生物学的に納得できることではあります。別にあなたのウ○コの臭いの跡をつけてくるストーカーなどいるとは思えませんが…。

 特にこれらの中でも慣れない環境の違い、それも狭い意味に限ってトイレという限られた空間内の仕様の違いについて書いてみます。咸臨丸で初めて太平洋を渡ったと教科書に書いてある幕末の遣米使節団の一行は、もちろん洋式トイレなど知っていたはずもない、たぶん通訳で同行したジョン万次郎(中浜万次郎)あたりから話くらいは聞いていたと思いますが、実際に聞くと出すとは大違いだったはず、便器に腰掛けても“いつもと違う環境”に大腸の動きに微妙な狂いが出るので、仕方なくあの上に跨がって用を足した者もいたと読んだことがあります。もちろんすでに水洗トイレでしたが、まさかあそこで顔を洗った者がいたかどうかは定かでない…。



 ところで話は脱線しますが、日本史の教科書に万延元年(1860年)の遣米使節団は咸臨丸で太平洋を渡ったと書いてあったような気がしますが、実はアメリカ軍艦ポーハタン号(Powhatan)でサンフランシスコまで行きました。日本軍艦の咸臨丸はよく言えばポーハタン号の護衛、つまり幕末版の集団的自衛権、実際は日本人による太平洋横断の研修航海、だから遣米使節団は咸臨丸に乗っていません。従来の教科書の記載は真実ではないということになります。

 ところでサンフランシスコに着いた使節団一行はワシントンやニューヨークも訪れていますが、どうやって北米大陸を横断したのでしょうか。
 1.大陸横断鉄道に乗った
 2.飛行機を使った
 3.パナマ運河を通った
 4.南米ホーン岬を回った
 5.一度帰国して西回りで出直した

 最近の学生さんたち得意のマルティプルチョイス問題ですね。でも残念ながら正解はありません。強いて言えば1と3を足して2で割ったのが正解に近い、遣米使節団はポーハタン号でパナマまで行き、当時はまだパナマ運河はありませんから、地峡横断鉄道で大西洋側へ渡ったそうです。2を選んだ人は常識が無さすぎですね。なお余計なことですが、ポーハタン号の名前はディズニーのアニメにもなったポカホンタスのお父さんらしい。

 大西洋側へ渡った一行は今度は別のアメリカ軍艦ロアノーク号(Roanoke)に乗り換えてワシントンへ向かいましたが、では帰国の途はどうしたでしょうか。
 1.スエズ運河からインド洋へ入った
 2.喜望峰を回ってインド洋へ入った
 3.飛行船を使った
 4.往路を逆に辿った
 5.全員がアメリカ永住権を獲得して帰国しなかった

 これは全員が正解したと思いますが、スエズ運河の開通は遣米使節団の9年後ですから、喜望峰を回って品川に帰港しました。では帰国に当たってどの船を使ったでしょうか。
 1.ホーン岬を回っていた咸臨丸
 2.ホーン岬を回っていたポーハタン号
 3.ロアノーク号
 4.別のアメリカ軍艦
 5.昔馴染みのオランダ商船

 ちょっと難しいですね。正解はアメリカ軍艦ナイアガラ号(Niagara)で、正解は4です。当時のアメリカ海軍最新鋭の軍艦だったようですが、チョンマゲつけた奴らをこれに乗せれば腰を抜かして恐れ入るだろうとの思惑も外れて、80年後には真珠湾を襲撃してきたわけですから、どんな小国に対しても油断せず、それなりの潜在力を認めなければいけないという教訓ですか。
 遣米使節団一行はナイアガラ号で帰国の途中、アフリカ黒人奴隷売買の様子や(まだ南北戦争の前だった)イギリスに奪われた香港での中国人の様子などもつぶさに見聞しているはずですから、その後の日本の行く末を案じての帰国だったと思います。



 ところで長々と遣米使節の話をしているうちにまた催してきましたので、トイレの話に戻ります。旅先のトイレで私が度肝を抜かれたのが、昭和47年頃の国鉄(まだJRではない)の青森駅、クラスメート数人で初めて北海道へ旅行した時のことですが、上野発の夜行列車降りた時から青森駅はもう真夏、トイレ前の人の群れは誰も無口で自分の番を待っている、私も1人朝のお勤めに入ったトイレは1坪ばかりの空間になっていて便器が見当たらない、それでもよく見回すと壁の周囲に放水口らしきものが3ヶ所ほどありました。そして床には30センチほど高くなった四角いブロック状の踏み台が2個…(しばし黙考)
 ハハア、これはこの踏み台の上にしゃがんで、床の上に用を足して水洗ボタンを押せば、回りの壁から水が噴出して流してくれるんだな…と興味津々で作業開始、実際にそのとおりになる様子を踏み台の上から眺めるのは壮観でしたが、もし踏み台が無かったら大変だ、もし水道管が破裂して膨大な水が溢れてきたら大変だ…とまるで自分がウ○コになったような気分でしたね。

 旅先のビックリトイレは、国内外を問わず、あの青森駅がダントツでトップでした。あと当時はまだ水洗になっていないトイレもありましたが、そちらの話はさすがの私も遠慮させて頂きます。

 外国のトイレは遣米使節団の時代と違ってもう我々も洋式に慣れていましたから、それほど困ったことは無かった。ただ初めて外国に着いたシドニーの空港で、入国審査の前に小用(商用ではない)を足しておこうと入った男子用トイレの便器の位置が日本より高い、これではちょっと背の低い日本人は背伸びしなくちゃいけないな…と、情けないことに私の海外最初の雑感はそれでした。当時はほとんど日本人観光客がオーストラリアを訪れることもなかったからでしょう、最近では背の小さめな東洋人でも背伸びせずに排尿できるように整備されているはずです。

 さて外国のトイレと国内のトイレ、海外経験のある皆さんは何の違いが一番目につきましたか。
 外国には有料のトイレがあります、小銭が無いときはちょっと困りますが、あのお金で綺麗に掃除も行き届いているので気分も良いし、トイレの番人もいるのでトイレ内犯罪も少なくなるでしょう。

 そのトイレの掃除ですが、有料・無料を問わず、あそこを清掃して下さる人には本当に頭が下がります。汚れ方が半端じゃないことも往々にしてあるのに、いくら仕事とはいえ文句も言わずに綺麗にして下さるのですから、やはり愛の心、奉仕の心が無ければできるものではありません。
 私たちの中学では1年生で山上学校(林間学校)がありましたが、当番制でトイレ掃除を必ずやらされた、最終日のキャンプファイアでそれを替え歌にしたグループがありました。
(雪山賛歌のメロディーで)
 
便所掃除は本当につらい 雑巾握る手が汚れるよ
吹雪の日には本当につらい ピッケル握る手が凍えるよ

というのが元歌ですが、あの替え歌の気持ちは大人になった今でもよく分かります。

 ところで外国旅行中もトイレを掃除してくれる人と出くわすことがよくありますが、私が気が付いているのは向こうでは男子トイレは必ず男性がやっていることです。日本の公衆トイレでは清掃員の服装を着たオバサンたちが掃除して下さっていることが多いのですが、外国ではあまり見かけたことがありません。皆さんはいかがでしょうか。

 オバサンたちがワイワイガヤガヤしながら男子トイレを掃除して下さっていると、前立腺の肥大した気の小さなオジサンたちは出る物も出なくなってしまいますが、日本では男子トイレを女性が掃除することが多いのはなぜか考えてみました。
 ひとつはやはり男尊女卑の風潮でしょうか、男が便所掃除などできるか、という封建制の名残みたいな頑固な考え方はまだ残っていると思います。
 しかしもう一つ、日本では男女のジェンダーの違いが外国に比べて意識されにくいという説があります。幕末の日本に来た西洋人は、日本の各地で男女が一緒に風呂に入る習慣に驚いている記載があります。男女混浴してもお互いに見る物を見ず、何となくそれを意識の片隅に追いやって、男も女も一緒に楽しく風呂に入っている、確かに西洋人にとっては驚くべき光景だったことでしょう。
 先日公開された映画『テルマエ・ロマエ part2』でも古代ローマからタイムスリップして来たローマ人温泉技師が、日本の混浴を故国ローマでも取り入れようとして皇帝の裁可が得られない話がありましたが、あれはけっこう真理を突いた話なんですね。

 逆に西洋人が混浴するなどと言い出した時は気をつけなければいけない。相手がこちらを対等な異性と見なしていない可能性があります。第二次大戦後、シンガポールあたりの旧英国領で捕虜になった日本兵の目の前で、勝者のイギリス人女性が平気で素っ裸になって着替えや入浴をしたそうです。彼女らにとって日本人捕虜は家畜以下の存在だったということですね。
 だからもし西洋旅行中に男子トイレを女性が掃除していたら注意して下さい。

         お世話になります