お茶の水

 時々お茶の水に出かける用事もありますが、その度にお茶の水橋から聖橋を眺めては、はるか昔のことなど思い出して感傷に耽るような年齢になりました。下を流れるのは神田川…、と言っても、こんな大都会の真ん中では1970年代に
かぐや姫というフォークグループが歌って大ヒットした『神田川』の歌のイメージではありません(笑)。ま、私にとってあの歌の面影を残す神田川は、また別の機会に書くことにしますが、神田川は三鷹にある井の頭公園の井の頭池に源を発し、東京都内を西から東へ流れて最後は隅田川に注ぎます。

 そういった社会科のお勉強はともかく、このお茶の水界隈も昔に比べると綺麗な高層建築も多くなり、街路を歩いているとどこぞ外国へでも来たような気がしますし、目を遠くに移せば何とあの東京スカイツリーまで見えちゃってます。
 しかしお茶の水橋から東を見た時に、美しいアーチ型を描く聖橋の向こうに営団地下鉄丸ノ内線の鉄橋が見え、川の右手に国鉄お茶の水駅のホームが見える…、あ、失礼、今ではJRと言うんでしたね、あと営団地下鉄もメトロか…(笑)。どっちにしろ、この位置関係だけはあの頃から変わっていません。
 ちなみに聖橋は関東大震災復興事業の一つで、湯島聖堂とニコライ堂を結ぶから聖橋だそうです。

 お茶の水橋のこの位置から目を左に移すと、かつての私の志望校だった東京医科歯科大学が見えますが、これも今では綺麗で立派な新病院になっています。私が浪人してお茶の水にある予備校に通っていた時代は、何の変哲もない薄いクリーム色の四角い建物が、周囲より少し高くなった芝生の上に建っていた、昼休みになると、たぶん医学部か歯学部の学生さんたちでしょう、その芝生に座って昼食なんか食べているのが見えることもありました。
 羨ましいな、早くあそこへ行きたいな、と本当に心の底から思いましたね。このお茶の水から本郷周辺にかけては、東京医科歯科大学をはじめ、順天堂大学、日本大学駿河台病院、東京大学病院、少し先の千駄木には日本医科大学と、そんなに広くないエリアに大学病院が目白押しなんですが、ちょうど予備校からの帰り道、地下鉄の駅に向かう道の真っ正面に堂々とそびえる東京医科歯科大学が私の第一志望でした。

 何しろ高校を卒業したばかりの頃の私は視力不足の船乗り崩れ、軍艦でも商船でも良いから船に乗って七つの海を駆け巡るぞ、などという“海賊”みたいな望みを断たれて多少ヤケッパチになっていましたが、それでも医者になれば船医になれると思って、東京医科歯科大学の建物を見上げながら、「よーし、頑張るぞ」と日々心に火をつけていたものです。(海賊…?船医…?チョッパーみたいですね、知らない人にはごめんなさいm(_ _)m・笑)

 あの当時の自分自身を思い出すと、本当によく頑張ったと思います。私は現在では海賊にも船医にもならず、大学で医療人を目指す学生さんたちを教えていますが、人生は本当に若いうちに頑張った方が良いです。よく年配になると「最近の若い者は…」なんて言いますが、私の教え子たちの中には、安くもないウチの大学の学費まで自分で工面しながら頑張って夢を叶えた子が何人かいます。
 私自身は家庭的にも経済的にも恵まれていたから、そういう苦学した子たちの並大抵でなかったに違いない努力は想像するしかないのですが、私も別のページに書いたとおり、楽をしちゃいけないという気持ちだけは常に持っていました。そんな自慢話をすること自体、もう私が老境に差しかかった証拠と言えますが、大学の学費まで出して貰えるような恵まれた環境にいると、つい気持ちが緩みがちになって、初志を忘れる子が多いように思うので、教育的配慮から書いておきます(笑)。

 まあ、このお茶の水橋から見た風景は、今にして思えば、私が生まれて初めて人生を賭けた気持ちの原点ですね。その後、医者になってからも、医者というのは病院でけっこう奉られてチヤホヤされたり、日常の診療業務に忙殺されたりして、普通に自分の限界内で無理なくやっていても誰からも責められないのですが、そんな中で余計に頑張って、新しい周産期医療も始めてみた、医学論文も英語で書いてみた、医学博士にも挑戦してみた、私が現在の教え子たちに一番誇れることです。

          帰らなくっちゃ