所沢航空記念公園

 東京のJRや私鉄は地下鉄を経由して意外な場所同士がつながっていますが、2013年3月16日からは何と私の住んでいる西武池袋線の練馬からみなとみらい線の横浜中華街まで直通1本でつながりました…

 などという話もありますが、今回はその西武池袋線を逆方向に所沢まで乗って、さらに西武新宿線に乗り換えて1駅行ったところに航空公園という駅があります。ここは1911年に我が国最初の飛行場である所沢飛行場が開設された場所、その跡地は整備されて今は所沢航空記念公園になっています。

 駅前には航空公園にふさわしく、引退したYS11旅客機の機体が芝生の真ん中に展示されていました。YS11を「ワイエスじゅういち」と読む人も多いですが、正式には「ワイエスいちいち」と読むのが正しいようです。輸送機(
)設計()研究協会によって作られ、番目のエンジン候補を搭載し、番目の機体仕様で誕生した機体という意味でワイエスいちいちなのですが、実際には関係者からもワイエスじゅういちと呼ばれているらしい。

 これは第二次世界大戦後、日本の航空機メーカーが初めて開発した国産の機体で、1962年8月30日に初飛行しました。私の
11歳の誕生日ですね(笑)。敗戦国として航空機の開発・製造を禁止されていた日本でしたが、再び「日本の翼」が復活したわけです。現在はもう製造中止になっていますが、合計181機が製造され、短距離輸送に手頃な性能が注目されて海外からの受注も多かったと聞きますし、国内でも民間航空会社ばかりでなく、自衛隊や海上保安庁や運輸省が使用していました。海上保安庁のYS11は操縦させて貰ったことがあります、ゲームでしたが…(笑)

 実際には小児科医の頃、伊豆諸島のうちの大島から神津島まで乳児検診で回りましたが、その出発に際して羽田から大島まで1回だけ乗りました。羽田を離陸して上昇後、水平飛行に移ることなくそのまますぐに降下して大島空港に着陸という呆気ない空の旅でしたが、ああ、これが戦後初の国産飛行機だなという感慨は今も覚えています。航空公園駅前に展示してある機体は羽田−大島線に就役していたと説明文があったので、もしかしたらあの時に私を運んでくれた機体かも知れません。左側の後ろから5番目か6番目の窓のあたりでした。

 さて今回の所沢航空記念公園でのお目当ては日本海軍の零式艦上戦闘機52型の展示です。1944年(昭和19年)に製造され、サイパン島で米軍に接収された機体で、当時のままのオリジナルのエンジンで飛行可能な唯一の零戦が2012年の12月から4ヶ月間、日本に里帰りして公園内の記念館に公開されていたのです。
 零式の「零」は皇紀2600年に制式採用されたという意味(最後の桁の0です)、艦上戦闘機とは航空母艦に搭載して使用する戦闘機という意味、52型は「5番目に改修された機体に2番目に換装されたエンジン」ということを2桁の数字で表したもので、上記のYS11とは機体とエンジンを表す数字の順番が逆になっていますね。

 ところでYS11は「ワイエスいちいち」が正式な呼称でしたが、零戦52型は「ごおにいがた」か「ごじゅうにがた」か。これは文字の資料としてはあまり見かけないのですが、まだ試作機段階の呼称を「
十二試艦戦」(12番目の試作艦上戦闘機)と表記し、最初の量産型を「零戦一一型」と表記したものが多いです。ということは「じゅういちがた」と読むなら「十一型」と書くはずでしょう。「ごおにいがた」が正解と思います。

 あまりマニアックなことばかり書いても誰も読んでくれなくなりますが、この52型は零戦の中でも最も数多く量産された型で、世界中で今も保存されている機体も比較的この型が多い。だから2001年に制作された悪名高きアメリカ映画『パールハーバー』に登場するコンピューターグラフィックの零戦も52型がモデルになっていて、本当は21型なのに…と飛行機マニアの不評を買いました。

 靖国神社にも52型が保存されていますが、呉の大和ミュージアムには52型より後の62型が保存展示されています。また昔のプラモデルマニアであればご記憶もあるでしょうが、「零戦」のプラモデルも52型が一番多く、中でも重武装型の52型丙は主翼の下に小型爆弾やロケット弾を装備したので、プラモデルとしてはけっこう見栄えがしたものです。しかし零戦乗りの撃墜王だった坂井三郎さんは21型が最も良かったという談話を残しています。

 マニアックな話はそれくらいにして、まだ実際に昔のまま空を飛べるという機体を目の当たりにして改めて思ったことは、操縦席(コックピット)の狭さです。ソロモン諸島方面の航空戦ではラバウルからガダルカナル島まで片道3時間、零戦は長大な航続距離ギリギリの戦場を往復したといいますから、搭乗員の肉体的・精神的疲労は想像を絶するものがあったでしょう。しかも目的地での仕事は生命を賭けた空中戦…。
 新幹線のグリーン車で東京から関西まで往復して、日帰りの仕事をしただけでもクタクタになってしまう軟弱な私たちに可能な作業ではありません。それも今日だけ飛べばよいというものではない。もしかしたら明日も同じような出撃が命令されるかも知れないのです。まさに非人間的な戦いでした。

 でもガダルカナル戦はまだいい、激務を果たして帰って来れればまた大地の上で眠ることができる、しかし大戦末期の特攻隊員たちの気持ちを考えると私はいたたまれなくなります。こんな小さなコックピットに身体を押し込んだが最後、あとはもう窮屈な姿勢のまま自分の人生も終わってしまうのです。まるで生きながら棺桶に入れられたような気持ちになった隊員もいるに違いありません。

 このことは靖国神社の零戦を見ても、大和ミュージアムの零戦を見ても、その他の零戦や他の場所に保存されている戦闘機などを見てもいつも同じことを考えますが、当時のパイロットたちの御苦労を察するとか御冥福を祈るとか、そんな生やさしい言葉では表現できないようなものを感じますね。

         帰らなくっちゃ