街の灯
最近では国内旅行でも大体はホテルに宿泊することが多くなりました。学生時代はもっぱらユースホステルか夜汽車と相場が決まっていたし、もっと子供の頃は日本にはそんなにホテルの数がなくて、いわゆる旅館を利用していたものです。
家にあれば 笥(け)に盛る飯(いい)を 草枕
旅にしあれば 椎の葉に盛る
という有馬皇子が歌に詠んだような、旅先の不自由を味わえるユースホステルや夜汽車の修験者感はホテルにはないし(本当は有馬皇子の歌にはもっと深い意味がありますが、ここでは触れません)、また仲居さんが食事を運んでくれたり布団を敷いてくれたりする家庭的親近感もホテルには無縁なものです。
ホテルはフロントでチェックインしてルームに入ると(横文字ばっかり)、あらかじめ規定どおり清掃された空間に調度品や消耗品も整っていて、ドアをロックしてしまえばあとは誰に気兼ねすることなくくつろぐことができる、日本でも初めてホテルが一般的になりつつあった時代には、そういう個人主義的な安心感が新鮮に思えたものでしたが、最近では仲居さんがお節介に顔を出してくれる旅館とか、周囲の人々の中に自分の身の置き場を探すユースホステルみたいな場所が、時々懐かしくなることがありますね。
さてそれはともかく、最近の多くの近代的ホテルが旅館やユースホステルと違う点のひとつは高層ビルであるということでしょうか。特に大都市や観光地などのホテルでは30階建て、40階建て、あるいはそれ以上というのも珍しくありません。クルーズ客船が大型化するのと同じ経済原理によるのでしょうが、こういうホテルの高層階に運良くチェックインできた時は嬉しくなってしまいます。
極端な高所恐怖症の人に限らず、高層ビル火災に遭ったらどうしよう、今夜ここでテロが起こったらどうしようという不安も無くはありませんが、そうなったらそれはその時、そんなことをいちいち心配してたらきりがありません。宿泊期間中、昼も夜も高層階からの素晴らしい景色を楽しむ特権をフルに活用することです。
ホテルによっては部屋の向きによってマウンテンビュー、オーシャンビュー、ガーデンビューなどと区分されている所もあって、それぞれホテルの立地による最も美しい風景を楽しむことができますが、私は特に変哲のない普通の市街地や住宅地が見渡せるシティビューというのも好きです。
世界各国あるいは全国各地どこにあっても、夜になれば住民が住んでいる場所には光が灯る、夜間の光こそは人類の平和と安穏の象徴なのであって、まだまだ世界には紛争地や被災地など光の途絶えた暗闇があるのは痛ましいことです。しかし少なくとも観光客が訪れるホテルが存在するような場所には必ず光が灯る、それを眺められる幸せを大切にしなければいけないし、それが無い場所に思いを馳せることを忘れてもいけません。
高い場所から見渡す光の点1つ1つに人々の生活がある、それは本当に不思議な感覚ですね。自分も1日のスケジュールをこなして夕食を終え、シャワーも浴びてくつろいだ姿で窓際から外を眺めている、同じように眼下の光の点ごとに休息する人、家路を急ぐ人、飲食を楽しんでいる人、夜勤で働いている人、一望の中だけでも何万人という大勢の人々が、今この同じ瞬間をそれぞれ生きている。特に蝋燭のように縦に連なった光は高層マンションか高層オフィスでしょうから、それだけで数十人以上の人々が集まっている可能性があるわけです。
こういう不思議な感覚、実は私が中学生の時に学校で読まされた本に出ていたものです。すでにご紹介していますが『君たちはどう生きるか』という吉野源三郎さんの本、主人公の少年のコぺル君というニックネームの由来こそこの不思議な感覚でした。
コぺル君は叔父さんと一緒に銀座の7階建てのデパートの屋上から東京の街並みを見下ろしながら(原作の舞台は戦前の1930年代なので東京で最も高い場所の1つだったはず)、自分自身も大勢の人々の群れの中の1人の人間に過ぎないことに気づく、それを叔父さんがちょうど視点が天動説から地動説に移ったコペルニクス的転回になぞらえたので、コぺル君と呼ばれるようになったわけです。
さらに現代社会はコぺル君の時代とは比べ物にならないくらい大きく膨張しています。これだけの光を供給するエネルギーだけでなく、この中に生きている人たちに食料や水を配るためのエネルギー、排泄物を処理するためのエネルギー、娯楽を提供するためのエネルギー。この写真は東京の西郊を望んでいますが、こんな街並みは東京だけではない、いや日本だけでもありません、地球上のさまざまな場所で気の遠くなるようなエネルギーが時々刻々消費されているはずです。
おそらく人類誕生以来20世紀前半頃までに全人類が使用したエネルギーの総計とほぼ同じくらいの量を、21世紀の地球上ではたぶん半年か1年以内に使いきってしまっているのではないでしょうか。この光の洪水を眺めながら、人類の未来はこの夜景ほど明るくないこともまた思い知らされた感じです。