火の見櫓のある風景
火の見櫓(ひのみやぐら)と聞いてすぐに分かる人はずいぶん少なくなったんじゃないでしょうか。単に知識として知っていても、それが日常生活の空間内に存在していた実感のある人は、少なくても30歳以下の都会に住む若い世代にはほとんどいないと思います。一言でいえば遠くの火災を少しでも早く発見するために建てられた高さ10〜15メートルくらいの鉄塔のことで、早期消火や避難誘導を目的とした緊急時の司令塔のようなものです。一部木造のものもあるようですが…。
昭和30年代から40年代の頃までは、東京豊島区にある私の実家の2階からも池袋消防署長崎出張所の火の見櫓が見え、時には望楼の上に人が立って見張りをしている様子が豆粒のように望めたものです。実家から火の見櫓までほぼ800メートルくらいありましたから、それだけの距離の間に視界を遮る2階建て以上の建築が1軒も無かったということで、現在ならとても考えられないことです。まあ、都会では普通の住宅地でも5階建て6階建てというマンションや事務所ビルが建ち並ぶようになりましたからね。
私も火の見櫓など意識に上る機会もほとんどなくなっていたところ、首都圏でもかなり多くの火の見櫓が健在であることを目の当たりにして嬉しくなったので、まずは若い世代のために『火の見櫓』とはどんな物か知って頂くための写真を何枚か掲載します。ネット上にはこういう火の見櫓の写真を集めたサイトも幾つか見られますが、私たちの世代にとっては、けっこう幼い日のノスタルジアを誘うものがあるんですね。
上段左は神奈川県厚木市猿ヶ島、上段右が相模川を越えて隣接する相模原市下当麻、下段左は横浜市港北区の菊名駅付近、下段右は埼玉県蕨市錦町のものです。
子供時代の思い出の片隅にあった火の見櫓が首都圏にもまだまだたくさん残っていたんですね。嬉しくなりました。若い人たちも、「ああ、こういう物なら見たことある」とおっしゃるでしょうね。かつてはこういう望楼の上には叩いて危急を知らせる半鐘(はんしょう)という鐘が備え付けられていて、近所で火事が出た時にはその鐘を打ち鳴らしたものらしいです。私たちが生まれた頃にはもうそんな半鐘で火事を知らせることはなくなっていましたが、私たちの親の時代には半鐘の鳴らし方でいろいろな状況が近所に伝えられたのだそうです。
たとえば遠くの火事ならカーン、カーン、カーンと1つずつ悠長に鳴らす、少し近い火事だとカンカーン、カンカーン、カンカーンと2つずつ鳴らす、それこそ足元に火がついたような切羽詰まった火事ならカンカンカンカンカンと乱打するとのこと。そう言えば昔の特撮の怪獣映画などで、ゴジラが現れた街の火の見櫓の上で半纏(はんてん)をまとった警防団員が必死に半鐘を鳴らす下を、リヤカーを引いたり行李(こうり)を担いだ民衆が逃げ惑っているシーンがあったものです。
こうしてせっかく出会った懐かしい火の見櫓も、近くに寄ってみると鉄塔の塗装も剥げて、老朽化が進んでいることは誰の目にも明らかなほどでした。あと10年20年もすれば古くなって撤去され、もう新しい櫓が建てられることもないでしょう。送電線の鉄塔のように厳重な囲いがあるわけでなく、子供が勝手に登って転落して負傷すれば、こういう建造物の管理者の責任になってしまう時代、昔なら親の責任と言われたものでしょう。また金属資源が高騰した時代には望楼に侵入して半鐘を盗んだ輩も多かったそうです。一見懐かしい風景の中に溶け込むかのように茫洋とした火の見櫓ですが、人の心も変質していく世の中にはついて行けないのかも知れません。
あと何と言っても最近の都会の街並みでは、この程度の高さの望楼からは遠方の火災の発見は絶対無理、四方をマンションに囲まれて視界を遮られた火の見櫓よりは、各所に設置された火災報知器からの通報や119番通報の方がはるかに有効です。本当に特に東京や大阪のような最近の大都市では高い建造物が増えましたね。東京タワーでさえもう視界が遮られてしまう。昔は山手線の西側、新宿から大崎くらいまでを走っている間ずっと東京タワーが見えていたものですが、今では東京都庁の展望台に登ったって、よく探さなければ見えません。
江戸時代くらいから建てられ始めた可愛らしい火の見櫓の望楼、もう平成の世ではお役目を終えて大都市圏から順々に姿を消していくのでしょう。江戸の街を焼き尽くした明暦の大火(1657年)が火の見櫓設置のきっかけになったと言いますから、その歴史は350年以上あるわけです。つまりそれほど長いこと存在感を示していたが、昭和後期くらいになって街並みの中に呑み込まれていった。高さ333メートルの東京タワーが完成したのは1958年(昭和33年)、この塔が街並みに埋もれるような時代が来るとは、あの当時は誰も想像さえしませんでしたが、それが50年も経たずに展望台からも見えにくくなってしまった。高さ634メートルの東京スカイツリーが下町の街並みに埋もれてしまう日は来るのか。末恐ろしい世の中になったものです。