こんな場所からあんな物が
仕事で首都圏をあちこち歩いていると、およそ現在位置とは似つかわしくない風物が遠望できて、へえ、あんな物がここから見えたのかと驚くことがあります。その最も典型的なものは東日本各地で望める富士山でしょうか。私の最近の記憶では、東京西部や神奈川・山梨方面など富士山が見えて当たり前の地域を除くと、埼玉県の上尾駅前とか、葛飾区の荒川堤防あたりから富士山が小さく見えた時はちょっと嬉しくなりました。また練馬駅を出た西武池袋線の高架上からは山頂が2つに割れた筑波山を望むことができ、ああ、あそこは高校1年の時に自主的クラス遠足で皆と行ったなあと半世紀以上も昔の思い出を募らせたりしています。
まあ、山は大きいですから富士山や筑波山に限らず、天候に恵まれた日に展望方向が開けている場所に立てば、かなり遠方であっても山は見えると思いますが、大自然の造形である山岳に比べれば遙かに遙かに遙かに背も低く、容積も小さな人工の建造物が遠方から望めた時はびっくりしますね。
首都圏に暮らしていると、東京スカイツリー、東京タワー、そして双子の高層建築である東京都庁などは、かなり遠くから判別可能な人工建造物のビッグ3と言えます。他にも中野サンプラザとか田無の電波塔(スカイタワー西東京)とか練馬の区庁舎ビルなんかも結構意外な場所から見えますが、これらはちょっとマイナーなのでこっちへ置いておいて…(笑)。
こちらの写真は初夏の好天、横須賀方面に出かけた折に観音崎公園の入口から東京湾の北の方を眺めたもので、海上はモヤがかかって霞んでますが、画面中央の左側にひときわ高い塔が望めます。私はまさか東京までは見えないだろうと思っていましたが、よーく見ると東京スカイツリーではありませんか。観音崎から約50キロの東京湾を隔てて、東京下町が望見出来たわけですね。下の写真はその部分だけ拡大したものです。
飛行機の窓から下界を見下ろした時もそうですが、私はこういう時に何とも不思議な気分を味わうことが多い。今の自分が実際に居る場所と、今の自分が見ている遠い場所という2つの離れた場所に同時に存在しているというか、今ここで過ごしている現在時刻と、“かの場所”に居た過ぎし日の時刻という2つの隔たった時間を同時に体験しているというか、とにかくそんな錯覚にも似た不思議な感覚です。
そこまで感じなくても、今この場所で見えている東京スカイツリーは、かつて勤務していた大学の窓から見えたのと同じ物、あの時乗った電車の窓から見えたのと同じ物、あの街で遊んだ時に見上げたのと同じ物、幾つもの“あの時”に見ていた物を“今も”見ている…って不思議な感覚ではありませんか?
特に出先や旅先の風物・事物に限りません。例えば月などの天体も同じです。今夜の天空に輝いている月は、“あの晩”に見た月と同じ…って考えてみて下さい。小学校時代にあの先生の指導でクラスメートと一緒に観測した月、迷子になった夜に頭上にかかっていた月、いつか誰かとどこかで眺めた月の思い出は数えきれないほどあるはずですね。そういうたくさんの過去の時間を今になって同時に体験できるわけです。
前回の東京オリンピックの時の『東京五輪音頭』の冒頭、
ハァ〜あの日ローマで〜眺めた月が
今日は都の空照らす(ア チョイトネ)
4年たったらまた逢いましょと
固い約束夢じゃない ヨイショコリャ夢じゃない
と歌ったものでしたが、同じ風物・事物を、違う場所で違う時間に目にするのは、一種のタイムトラベルなのかも知れません。1964年の東京大会で前回のローマ大会での約束を確かめてくれた物が月…。
小学生の頃に読んだ何かの本で、平安時代に遣唐使で中国に留学していた学生が、唐の長安で月を見上げて故郷の三笠山の月夜を思い出す場面が強烈に印象に残って、そのことを読書感想文に書こうと思うのに、なかなか良い言葉が選べず、非常にもどかしい思いをした記憶が甦ってきました。遠く海外に留学していたその学生は、やはり月という事物を介して懐かしい故郷で過ごした時間を体験していたのでしょう。やはりこの不思議な感覚、今になっても表現する最適な言葉が見つかりません(笑)。