練馬光が丘

 私の自宅から約4キロほど北西の方角を望むと、視界の一番奥の片隅に白亜の高層マンションが見えますが、それは現在「光が丘」と呼ばれる一大ベッドタウン地域の一部です。
 今年(2017年)は練馬区独立70周年ということで、別に70年前に板橋区との独立戦争で勝利したというわけではないのに、数々のイベントが催された1年でした。練馬区のキャッチフレーズは「
みどりの風吹くねりま」だそうですが、練馬区中央の北部にある光が丘は、その地名の約半分を占める光が丘公園の広大な緑地帯をはじめ、ベッドタウン区画の中に立派な公園が幾つも整備されていたり、高層マンションを隔てる生活道路空間も見事な並木や花壇で飾られていたりして、まさに「緑の街練馬」を象徴する地域と言ってよいでしょう。

 私も定年退職してから少しまとまった時間を持てるようになり、いずれ再度のご奉公に備えて体力維持増進の目的も兼ねてご近所を散策していますが、中でも自宅から片道1時間弱の光が丘は絶好のウォーキングコースです。
 光が丘の街路の南半分は二層構造になっていて、下層は川越街道や笹目通りなどの幹線道路につながる広い道路を中心とした都市空間(写真左)、上層は高層マンションの間の並木道で結ばれた生活空間(写真右)のように機能的に分離されています。子供や老人が車道に飛び出すような事故は起こりにくいわけですね。
 また北半分の公園地域も立派なもので(下の写真)、皇居や明治神宮など特殊な場所を除けば、一般人にも自由に開放されている公園としては、同じ練馬区内の石神井公園や、世田谷の砧公園などと並んで都内屈指の規模でしょう。

 さて私は光が丘を訪れるたびに思い出す風景があります。あれは高校卒業式を終えた1970年(昭和45年)3月21日だったか22日だったか、貰ったばかりの卒業証書を持ったまま、部活動の後輩と一緒に現在の光が丘の方へブラブラと当てもなく歩いて行きました。昔からウォーキングは嫌いではなかった…(笑)。
 高校の卒業証書は貰ったけれど、卒業式に先立つ3月20日、国立一期校の大学合格発表で不合格が決まっており、国立二期校の入試を2〜3日後に控えていました。どうせ浪人覚悟のかなり呑気な受験生でしたね。後から親にはずいぶん怒られましたが、今さら付け焼き刃で勉強しても競争率数十倍の超難関校に受かるわけがない、自分の実力なんて自分が一番よく分かっておりました。まあ、国立一期校とか二期校とかいう言葉も今では死語…(笑)。

 さて私が中学生の頃から、東京の区分地図帖が盛んに発刊されるようになりましたが、23区を1つずつ見開きA3版2ページに収めた地図だったから、練馬区とか世田谷区とか面積の広い区の地図は縮尺が小さくなってしまう、最近の地図帖は行政区の境界に関係なく都内全域を等しく長方形で区切って1/10000の縮尺に統一してあり、この方がはるかに使い勝手はいいです。
 それはともかく、他の区よりもずいぶん小さい縮尺で描かれた練馬区の地図でしたが、その地図には「光が丘」という地名はありませんでした。縮尺がいくら小さくたって、これだけ広い地域の町名が書かれないはずはありませんが、当時は「田柄(町)」とか「高松(町)」とか「旭町」とか現在も残る町名に囲まれて、広大な面積を占める「グラントハイツ」という名称が…。

 ここではまだ戦後のアメリカの占領政策が続いていたわけです。資料によると1942年、現在の光が丘公園の真ん中を突っ切るように陸軍の成増飛行場が建設され、戦争末期には陸軍の戦闘機隊が帝都防空のために展開していたほか、陸軍の特攻隊の一部もここに駐留したりしていたようです。
 敗戦とともに成増飛行場は連合軍に接収され、在日アメリカ空軍の家族宿舎として、1947年にグラントハイツと改称されました。したがって私が中学生や高校生だった頃の地図帳には練馬区北部の広大な地域はグラントハイツと記載されており、当時はまだ『戦後』が私たちのこんな身近に残っていたわけです。

 ちなみにグラントハイツの“グラント(Grant)”とは第18代のアメリカ合衆国大統領の名前に由来します。南北戦争で南軍のリー将軍を破った北軍の司令官で、共和党から大統領選に出馬して当選しました。陸軍出身の初めての大統領だそうですが、同じ大統領の名前でも『ルーズベルトハイツ』とか『トルーマンハイツ』としなかったのは、アメリカの対日占領政策の融和的な方針が垣間見えるような気がします。トルーマン大統領は当時まだ現職でしたが、特にルーズベルト大統領は自分が始めた戦争の終結を見ずに亡くなっており、戦勝国としては敵国の首都にその名を冠した施設を強圧的に作って故人を顕彰するという選択肢もあったはずですが、アメリカはそうはしなかった。戦後の日本を自分の陣営に取り込むつもりがあったからでしょう。
 あとグラント大統領は1879年に国賓として来日した時に、日光東照宮で天皇しか通れない橋を特別に渡ることを許されたものの、それは畏れ多いと辞退したというエピソードがあって、日本人受けも良かったと思います。スペードやハートの大統領ならきっと許可がなくてもズケズケ渡ったでしょうが…(笑)

 それはともかく、駐留軍人の家族も次第に帰国して減っていくにつれ、1960年代からグラントハイツの返還運動が高まりを見せ、1973年(昭和48年)にグラントハイツの全面返還が完了しました。まだ残っていた空軍関係の施設はすべて横田基地へ移転されたそうです。昭和48年と言えば私はもう大学の医学部で学んでいましたから、話を元に戻して、高校卒業式の日に後輩と一緒に光が丘あたりをふらついた時はもう返還作業が順調に進んでいた時期のはずですし、「光が丘」という町名も1969年(昭和44年)に正式に決定されたと資料にありますが、珍しく私の記憶には残っていません。

 それで私が光が丘を訪れるたびに思い出す1970年(昭和45年)当時の風景、大変美しく機能的に整備された現在の姿からは到底想像もつかないのですが、見渡す限り一面の畑(たぶん大根か)、あと数百メートルほど先に10軒ほどの民家の集落と、そこへ電線を通すための電信柱が数本見えただけです。あののどかな農村の風景が30年40年という時を経て美しい1つの街に生まれ変わった、その奇跡のような変貌に驚嘆しつつも、私の脳裏には高校卒業の日にほっつき歩いた田舎道がいつもダブって見えるのです。


         帰らなくっちゃ