初めての独り旅(野方給水塔)

 その機会は突然やって来ました。私は4歳から6歳まで、自宅からバスで2つ先の幼稚園に通っていましたが、現在のように幼稚園の自家用マイクロバスが送り迎えしてくれるような時代ではありませんでしたから(何しろ自家用車のある家でさえ珍しかったし、自動車などは当時の金で何十万円もした。国産最高級のトヨペットクラウンデラックスが百万円だった)、自宅近くの停留所から保護者(私の場合はたいてい祖母だった)がバスに乗せると、2つ先の停留所で保母さんが受け取ってくれる、帰り道はこの逆、というまるで手荷物のような通園生活でした。

 しかし今のようなワンマンバスが東京に登場したのはずっと後の時期で、当時のバスはまだ女性の車掌さんが必ず乗っていましたから、保護者も保母さんも園児を車掌さんに託しておけば安心な時代でもありました。幼児誘拐などという物騒な事件もほとんど無かったのです。(ちなみに我々の世代は幼児誘拐事件というと、1963年の村越吉展ちゃん事件がピンと連想されますが、被害者と加害者の名前が一般の人々の記憶に永く刻み付けられるほど稀有な事件でした。ところが最近では同等以上の残虐な犯罪が毎月のように報道されますから、ある意味でとんでもない時代になったものです。)

 さて手荷物のように停留所間を行ったり来たりして幼稚園生活を送っていましたが、ある日、思いもかけない事態となりました。バスの車掌さんか幼稚園の保母さんの勘違いと思われますが、帰り道で一つ先の停留所まで連れて行かれてしまったのです。当時の停留所名で「椎名町3丁目」でバスに乗せられ、「椎名町4丁目」を越えて次の「西落合1丁目」で降ろされるところを、さらに一つ先の「西落合3丁目」で降ろされてしまったのです。(その後の町名変更等で停留所名は何回か変わっていますが、何年かして西落合1丁目と3丁目がちょうど逆になりました。さらに最新情報では、都営地下鉄大江戸線の開通により、旧「西落合1丁目」は現在「落合南長崎駅前」になっています。)

 幼い私は焦りました。一番後ろの左側の窓際に座っていたのですが、停留所に迎えに出ている祖母の姿が、あれよあれよと言う間にバスの後方へ消えていくではありませんか。「ボク、ここで降りるの」と言えば良かったのですが、バスの車掌さんとはいえ知らない大人に話しかけることなど咄嗟には出来ませんでした。こうして私は西落合3丁目(当時)の停留所にポツンと独りで取り残されてしまったのです。

 考えてみればこれが最初の独り旅だったかも知れません。自宅の敷地の外では保護者と一緒に歩くものだと固く信じていた私にとって、たった一人で広い世界に放り出されてしまったような心細さでした。後に初めて独りで新潟に旅した時も、初めて独りでシドニーの空港に降り立った時も、あれほどの心細さは感じませんでした。

 停留所に独り取り残された私はしばらく呆然と途方に暮れていたようです。泣いた記憶はありません。停留所の近くをねずみ色の外套を着たおじさんが、こちらを心配そうに見下ろしながら通り過ぎました。(当時は「グレーのコート」などという洒落た言い方はありません。「ねずみ色の外套」です。)このおじさんが家まで連れて帰ってくれないかなあと期待しましたが、黙って通り過ぎて行ってしまいました。世の中は甘くないと思い知らされましたが、あのおじさんに別の所へ連れて行かれたらもっと大変なことになるところでした。

 バス通りを逆に歩いて行けば良いと思いつくまで、しばらく時間がかかりました。知らない所を独りで歩いてはいけないという親や幼稚園の保母さんの言いつけが逆に作用して、その場から一歩を踏み出す勇気が出なかったのですね。だからあれが初めての「独り旅」の経験だったと思っています。本来の停留所まで幼児の脚でも10分もかからなかったでしょうが、とても長く感じました。

 歩いている途中、後ろを振り返ると野方の給水塔が大きく見えました。ご覧のように巨大な円筒形に丸屋根がついたコンクリート製の不思議な建造物で、昭和5年に水道タンクとして完成しました。完成当時は関東大震災後の復興でこの付近が急速に住宅地化したため、安定的な水道供給の必要が生じたのだそうです。同じような水道タンクは東京の各地に何ヶ所かあり、特にここから数キロしか離れていない板橋区の大谷口にはまったく同じデザインの塔が建っています。ここ野方の給水塔は現在の地名では中野区江古田になりますが、すぐ近くに都内でも有名な哲学堂公園があり、私たちは「哲学堂の水道タンク」と呼んでいました。

 本当はちょうど私が振り返ったあたりから見える給水塔の写真を撮りたかったのですが、大きな建物が視界を遮ってしまうので、仕方なく少し違う角度からの撮影になりました。しかし給水塔は現在も当時と同じような姿で江古田の街並みを見下ろしています。私が生まれて初めて独りで眺めた「異国の風景」です。

                  帰らなくっちゃ