お玉ヶ池
東京都千代田区岩本町2丁目、JR秋葉原〜神田駅のほぼ中間点から400メートルほど東側、都営地下鉄岩本町駅近くに繁栄お玉稲荷大明神という神社があります。バス通りからちょっと入った路地裏のビルに囲まれてひっそり建っている小さな神社ですが、創建されたのは意外に古く、室町時代には太田道灌が崇敬していたと伝えられますから、それ以前にはすでにあったわけです。
当初は桜が池という大きな池のほとりにありました。この池は江戸時代初期には上野の不忍池よりも大きくて、江戸時代に近くの茶屋の看板娘お玉が身を投げたことから、お玉ヶ池と呼ばれるようになったそうです。お玉は人柄も容姿も甲乙付けがたい2人の男から同時に求愛されていて、A君を選べばB君が傷つく、B君を選べばA君が傷つく、どちらを選ぶか決心もつかないまま、自分さえいなくなれば2人とも傷つかないと思い余って池に身を投げた。私はこんなことをした方が却って2人とも傷つくと思うのですが、そんなわけで桜が池はお玉ヶ池と呼ばれるようになったらしい。
似たような話は千葉県市川市の真間(まま)にもあります。万葉の時代、真間に手児奈(てこな)という美しい娘がいて、彼女が井戸に水汲みにくると村中の男も女も皆その美しさを褒め称えました。男たちは手児奈の美しさに夢中になり、先を争って求愛します。手児奈を思って病気になる者、手児奈をめぐって兄弟で喧嘩する者、さらに彼女の噂は遠方の地にも伝えられますが、手児奈は誰の求愛にも応じませんでした。自分が誰かと結婚してしまえば他の男の人たちは悲しんで不幸になってしまう、ああ、どうしよう、そうだ、私さえいなくなれば誰も不幸にならなくて済むわ、と海に入水してしまいました。
お玉にしろ手児奈にしろ、今の時代の人々ならば、何を言ってんのさ、自意識過剰よ…で片付けてしまうかも知れませんが、最近のお嬢さんたちならどうするのでしょうね。しばらく前にテレビのトーク番組で、たぶん受け狙いもあるのでしょうが、複数の男どもを競わせて、同じブランド品をそれぞれの男に貢がせ、そのうち1個は自分で使うが、他は全部ネット・オークションで売って換金してしまう、そうすればどの男も自分の貢いだ品が私に使って貰えてると勘違いして喜ぶから…と呵々大笑しながら放言している女子大生を見たことがあります。少しはお玉や手児奈の爪の垢でも煎じて点滴してやりたい(笑)。
さて繁栄お玉稲荷がある路地の入口に、ご覧のような小さな碑とビル壁面のプレートがあります。一番上のプレートには『江戸最初のお玉ヶ池種痘所のあった所』と書かれ、下の碑にも『お玉ヶ池種痘所跡』と刻まれています。ここは1858年(安政5年)5月に83名の蘭方医が資金を拠出して種痘所を開いた場所なのです。日本最初の種痘所はオランダ商館の医師オットー・モーニッケ(Otto
Mohnike)によって1849年(嘉永2年)に長崎に開設され、その後京都・大阪・岡山・福井などへも広がっていきましたが、江戸では漢方医の既得権益保護の名目で“蘭方医学禁止令”が発出されていた関係上だいぶ遅れたようです。
いろいろな業界の既得権益は、いつの時代でも為政者にとって甘い汁なのでしょうね。しかし日本各地に開設された種痘所での治療実績、すなわち今でいう“エビデンス”というヤツが誰の目にも明らかになってきたため、やっと江戸でもお玉ヶ池に種痘所が開かれました。しかしこの江戸最初の種痘所は半年後に火災で焼失してしまい、翌年に神田和泉橋方面、現在三井記念病院があるあたりに再建され、後に幕府直轄となって教育機関としての機能も表す「西洋医学所」さらに「医学所」へと改称、また明治時代に入ってから「大学東校」から「東京医学校」となり、「東京開成学校」と合併して「東京大学」となりました。
つまりお玉ヶ池種痘所が東京大学医学部の前身であり、医学部が創立百年記念式典などを行う際には、お玉ヶ池に最初の種痘所が完成した1858年5月を起点として数えます。この碑が建っている地には半年間しか種痘所はなかったわけですが、そうやって考えてみるとこの岩本町の街角は私にとってもずいぶん由緒深い場所であるわけです。
人文社から発売されている『切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩』(2002年)という図譜に掲載されている江戸時代の地図からお玉ヶ池を探してみたのが下の左側、嘉永3年出版の日本橋付近の地図によると、江戸時代初期には不忍池より大きかったというお玉ヶ池もほんの水溜まりのようにしか描かれておらず、“お玉イナリ”の隣に申し訳程度に“お玉ヶ池跡”と米粒のように記されているだけです。
この水溜まりみたいな池の近くに開設された最初の種痘所焼失後の移転先も、当時の雰囲気が想像できるような安政以降の地図が掲載されています。下の右側ですが、“この通りを御徒町という”と記された大通りから2軒ほど入った場所に“種痘所”と書かれています。藤堂家の上屋敷に隣接する一角に軒を並べていたみたいですね。現在の大病院や有名クリニックなどのイメージではなさそうです。
さてここで種痘の話に移ります。NHK大河ドラマ『青天を衝け』の中で、幕末期の第121代孝明天皇が天然痘(痘瘡)で伏せっておられる病床に幼帝(後の明治天皇)がお見舞いに訪れる、天然痘は1980年にWHO(世界保健機関)から根絶宣言が出されるまで、古代エジプトの時代から人類を苦しめてきたウィルス性の伝染病です。孝明天皇は幼帝が天然痘に感染するのを恐れて病室に来てはならぬと叱るのですが、幼帝は自分はもう種痘をしたから大丈夫と答える、新型コロナの時代に印象的な場面ではありました。
天然痘(痘瘡)は患者からの飛沫または接触により感染し、7〜16日程度の潜伏期を経て高熱や頭痛などの症状をもって発症、3〜4日目にいったん体温は下がるが、この時に顔面・頭部を中心に全身に発疹が現れます。発疹はやがて水疱となって膿を持つようになり、それが破れてカサブタを形成した後に治癒に向かいますが、身体中のすべての発疹が発赤→膨隆→水疱→膿→カサブタと一斉に足並みを揃えて進行する点が水疱瘡(水痘)との違いであるというのが、医学生時代に感染症の試験勉強をする上での一つの重要なポイントでした。
非常に感染力が強く、感染すると発病する率も高く、しかも死亡率もきわめて高いということで、人類の歴史上にもこの悲惨な感染症の流行はたびたび登場しています。紀元前1100年代のエジプトのラムセス5世のミイラには天然痘の跡が見られるそうですし、ヨーロッパには12世紀の十字軍の遠征で持ち込まれて以来流行が盛んになり、ルネッサンス以後の写実的な肖像画にも天然痘のアバタを描かないのが暗黙のルールになったとも…。
アメリカ原住民やインカ帝国の住人などはヨーロッパ人の移民や侵略によって持ち込まれた天然痘で壊滅的な被害を受けたし、古代日本へも朝鮮半島との人の交流で持ち込まれて大流行を繰り返しました。奈良の大仏建立の背景にも天然痘などの疫病の流行があったと考えられます。
先ほどの大河ドラマ『青天を衝け』の孝明天皇ですが、1867年(慶應2年)12月11日に宮中の神事に参加した翌12日に発熱、なかなか症状が改善せず16日には天然痘が疑われ、17日に天然痘に罹患したと発表されました。その後徐々に食も進むようになって24日には順調に回復されていると思われていたところ、翌25日に発熱、下痢、嘔吐、血便を伴って突然容態が急変、意識喪失や顔面に紫色の斑点も現れてその日のうちに崩御されたと記録があります。元来身体壮健であった35歳の孝明天皇が、天然痘も順調に回復してきたところで突然急変した、孝明天皇は頑強な攘夷論者で、朝廷と幕府が一緒になって新しい政権を担う公武合体論を推進していたため、一気に倒幕を果たしたい薩長や水戸などの過激な尊王攘夷論者にとっては邪魔な存在だった、だから内通する公家の岩倉具視が女官を使って孝明天皇の食事にヒ素を混入させて暗殺したという陰謀説が未だに根強く残っています。悪性の転帰をとる天然痘であったとも言われていますが、医学的には急変する時期がおかしいと思いますし、何より彼ら一味は“尊皇”を掲げながら天皇や皇室を政治的道具としか考えていないことが今も昔も明らかですので、私は維新推進派による孝明天皇毒殺説はあり得ると考えます。
さて天然痘こそは人類が開発したワクチンによって最初に予防に成功した疾患です。天然痘はいったん罹患して幸いにも治癒した後は二度と同じ病気に罹らない、すなわち強い終生免疫を獲得することが知られていて、最初の頃は患者の膿を乾燥させたものを接種して感染を予防するといった非常に危険な方法(人痘法)も試みられていましたが、18世紀末にイギリスのエドワード・ジェンナー(Edward
Jenner)は牛の乳搾りをする農民は牛の天然痘である牛痘に罹ることがあり、人間の天然痘(人痘)よりも軽く済むうえ、しかもその後は人間の天然痘にも罹らなくなるという事実から、牛痘を人間に接種するいわゆる“種痘”を開発、1796年に使用人の子である8歳の少年に牛痘を接種した後に、本物の人間の天然痘を接種して感染しないことを確認した、これが人類最初のワクチンなのです。
私が昔読んだ児童向けの伝記や偉人伝ではジェンナーは我が子を実験台にしたと書かれていましたが、実は使用人の子供であった、いや仮に我が子であったとしてもこれは現在で言えば恐るべき人体実験に他なりません。インフォームド・コンセントの概念など無きに等しかった時代のこととはいえ、こういう人体実験や生体実験の積み重ねによって、現在人類の希望の星になっている新型コロナワクチンも開発されたのかと思うと、ちょっと複雑な心境になりますね。ちなみにワクチンという言葉は、ジェンナーが“牛の天然痘”を翻訳したラテン語
Variolae vaccinae からきています。