赤富士
今年(2013年)も昨年に引き続き、相馬市の子供キャンプの付き添い医師として、富士山の麓の御殿場に行って来ました。いつ見ても富士山は雄大でしたが、今回はちょっと不思議な現象に遭遇したので、こちらに書いておきます。
まだ日の出前の富士山、御殿場の夜景に覆いかぶさるように聳えていて、なかなか幻想的な光景です。神秘的でさえあります。凍てつくような早朝の冷気に震えながら眺めていると、やがて朝一番の光が射し込んで富士山頂を赤く染めました。
ハッと息を呑んで見守っているうちに、朝の光はみるみる山腹から裾の方までを照らし出し、ほんの一瞬でしたけれど、富士山全体が不思議な赤みを帯びて輝くように見えました。
これが御殿場から見る赤富士だそうです。赤富士とはもともと夏から秋にかけて、朝日を浴びて富士山が真っ赤に染まる現象を指し、めでたい瑞兆とされています。葛飾北斎の浮世絵、富嶽三十六景の『凱風快晴』はあまりにも有名ですね。北斎の赤富士、どこから見た富士山か記載が無いので場所が特定できないそうですが、富士山が朝日に輝く場所ということで、山梨県側から見た絵ではないかと言う人が多いようです。
しかし私の直感で言わせて貰えば、『凱風快晴』の富士山は右側から太陽の光が当たっているような構図になっているので、これが東とすれば静岡県南側から見た絵、それも空には鰯雲がいっぱいに広がっていて、日の出の早朝のようには見えません、晩夏から初秋にかけての午前10時頃と推定します。
今回、御殿場から見た冬の赤富士も厳粛な雰囲気を醸し出していましたが、私は以前、本当にもっと真っ赤に燃え上がるような富士山を見たことがあります。
あれは昭和54年(1979年)の8月末か9月初めのことでした。小児科医になって3年目の夏、私は都立築地産院(現在は廃止された)に勤務していましたが、翌春から浜松の病院に転勤することが決まっていました。
それで築地産院で夏期休暇を貰って、浜松の病院に実地検分を兼ねて乳児検診に行ったわけです。乳児検診は午後1時からだったので、東京駅を午前10時前後に発車する新幹線に乗りました。当時はまだ静岡県内に停車するひかり号はありません。もちろんのぞみ号などまだ無かった…。
こだま号の自由席に1人で座って早めの弁当を開いていたところ、列車は三島駅を過ぎて富士市のあたりに差しかかりました。今では新富士の駅がありますが、当時はそれもまだ無かった…。
ここらは富士山がよく見えるんだよね…と思いながら何気なく車窓を覗いた瞬間、箸を持つ私の手が止まりました。真っ赤な富士山…燃えるような富士山…、ちょうど北斎の凱風快晴の実写版という表現がピッタリの光景が目に飛び込んできたのです。私は目を離すことができず、列車が富士川の鉄橋を渡ってトンネルに入るまでの何十秒間かの間、ずっと窓から後ろを振り返るようにして赤い富士山を見上げていました。
赤富士だ、北斎の赤富士だ、私は呆然となった頭で考え続けていました。あの時の富士山は今でも目に焼き付いています。あれから3年間、浜松に勤務して新幹線や東名高速道路で東京と何度も往復しましたし、結婚してからはカミさんの実家のあった名古屋へも新幹線で何度も行きました。それこそ富士山は何百回も見たはずですが、残念ながらあの日のような燃える赤富士を見ることは二度とありませんでした。
北斎の赤富士は晩夏の午前10時頃、静岡県側から見た絵だと私が感じるのも、そういう若い頃の体験があったからです。あの日、乳児検診を終えた私は浜松市内に1泊して翌日からは三島に移動、国立遺伝学研究所で染色体検査の基本を教わりに行きました。このサイトでも時々お名前が出てくる中込弥男先生(日本の染色体研究の第一人者です)の研究室へお邪魔したのです。
ちょうど大学を卒業して3年目、医師としての立ち居振る舞いがようやく板に付いてきた頃でした。あれから私も医療の現場でずいぶん長い道を渡り歩いてきた気がします。定年まであと3年、医療人としての道も終わりが見えて来た時に、今度はまた御殿場で赤富士に巡り会う、不思議なものですね。
瑞兆の赤富士との因縁を感じます。3年前に送り出した現在の学科の1期生たちは、あの頃の私と同じ職業人生の道を歩んでいるはず、その後に卒業して行った者たち、これから巣立って行く者たちも同じ道を歩んでくれるでしょう。彼らにも瑞兆がありますように。
補遺:北斎の凱風快晴が静岡県南側(富士市あたり)から見たものと感じる根拠をあと2つほど。
1)今回御殿場側から見ていたら、朝日の光は先ず富士山頂の左側に当たったが、北斎の絵では陽光は右側から当たっている。
2)静岡県南側から富士山を見た時、右側の裾野に宝永噴火でできた宝永山がコブのように出っ張るのが景観上の難点ですが、北斎はわざわざこの部分を画面に入れないように富士山を右側に寄せて描いている。普通の絵心から言えば、山梨県側から見た富士山の右の裾野を切ろうとは思わない。
と書きましたが、ちょっと訂正があります。
実はこの年の冬に引き続き、夏も御殿場を訪れて富士山の途中まで登って来ました。世界文化遺産に指定されて国内外から多数の観光客を集めている富士山でしたが、地元の方の案内で静かな登山を楽しむことができました。それでその時に撮影した写真がこれ…。
富士山を登って行くと、ある高度から先は背の高い樹木が無くなり、赤茶けた火山礫と灌木の茂みだけになります。これを森林限界といいますが、富士山の森林限界を上から見下ろした景色です。本当にきれいに一線を画して高い樹木が生えていませんが、この景色を見下ろした時、はたと思い当たることがありました。
葛飾北斎の浮世絵の凱風快晴(赤富士)ですが、どこから見た富士山か書き残してくれていないので、想像したり推理したりしなければいけません。私は北斎の赤富士の絵では陽光は右側から当たっているから、これを南とすると山梨県から見た絵ではありえないと推理しましたが、どうやらこれは私の大いなる誤解だったようです。
北斎の赤富士では、山肌の赤と緑の境界線がやや右に傾いて塗り分けられている、私はこれを太陽に当たった部分と早とちりしてしまって、太陽は右から当たっていると勘違いしたわけです。しかしこの赤と緑の境界線こそ、まさに富士山の森林限界でした。そうだとすれば森林がよく育っている画面の左側が南ということになり、この絵は山梨県側から見た景色としてまったく矛盾しなくなります。
やはり理屈ばかり言っているより現物を見た方が一目瞭然ということもありますね。北斎先生に振り回されてしまいましたが、それにしても何で北斎先生はこの絵に観望地点を記しておいてくれなかったんでしょうか。単なる書き忘れではないと思いますが…(笑)