越中島

 ここは江東区越中島、高校生だった頃、大学受験を考える時に一番よく目にした住所です。ここはかつて東京商船大学があった場所、今では東京海洋大学の越中島キャンパス(海洋工学部)と名前を変えていますが、私の心の中では永遠の第一志望校ですね。高校時代は水泳の遠泳とか鉄棒の片手懸垂とか、船乗りとしての体力を鍛えるために一生懸命頑張ったものでしたが、いくら遠くの空や植物の緑を眺めてみても近眼だけは良くならず、ついに受験を断念せざるを得ませんでした。

 私はなぜか子供の頃から船乗りに憧れて、防衛大学校は視力が悪いと海上自衛隊に入れないと諦めた時から、東京商船大学を熱烈に志望していました。その憧れの地がここ越中島のキャンパスだったわけですが、今になって思い返してみると、あれからもう半世紀近く、あんなに憧れた東京商船大学のキャンパスのあった地に足を踏み入れたことが一度もありませんでした。ちょっと不思議なことです。

 医学部を卒業した2年目から、対岸の中央区明石町にあった都立築地産院に2年間勤務しましたが、歩いて1キロ半もなかった越中島をついに訪れることはありませんでした。もしかしたら、あんなに憧れたのに近眼であるというただそれだけで冷たく私を見放した“昔の恋人”への恨みだったかも知れません。

 そう言えば岩田豊雄(獅子文六)の『海軍』という小説、昭和17年に発表され、当時の世相に迎合して愛国心を煽る内容でしたが、主人公の親友 牟田口隆夫は海軍兵学校を熱烈に志望するも視力低下のため不合格となったことで海軍を恨むようになったのと軌を一にしているようにも思えます。小説『海軍』の牟田口隆夫は海軍を恨んで正反対の画家の道を選ぶが、結局海軍士官となった主人公の谷真人と再会したことから海軍を描く画家を志すに至るという物語でした。

 さて私も老境に達して“昔の恋人”もクソもない、もう東京商船大学との“確執”も消えて、今後の生涯でまさかこの地を訪れることがあろうとは思いも寄らなかったのですが、先日もんじゃ焼きを食べに行くことになりました。もんじゃと言えば月島が有名ですよね。焼く時に生地に文字を書いて遊んだことから“文字焼き”→“もんじ焼き”→“もんじゃ焼き”になったという説が有力みたいですが、それはともかく…。

 皆とメトロの月島駅で待ち合わせしたところ、私は50分くらい早く着いてしまった、それでちょっと月島周辺を散策してみようと思ったわけですね。地図をご覧になればお分かりのとおり、月島は4方向を隅田川や晴海運河や朝潮運河などの水に囲まれていて、ど真ん中の初見橋交差点で大通りがX字型に交差しています。ここから北西に向かうと昔築地産院に勤務した明石町、南西に向かうと勝どき方面、南東に向かうと最近の都政の喉元に刺さった魚の骨のような豊洲方面になりますが、この交差点をどっちへ行くという当てもないまま、私は当てずっぽうの自然な流れで北東に足を向けました。そして500メートルも行かないうちに相生橋越しに見えてきたのが、旧東京商船大学構内にある練習船明治丸だったのです。

 私がこの船を見たのは初めてでしたが、東京商船大学の構内に帆船があるらしいということは昔から薄々は知っていました。かつて深夜の時間帯に放送していたラジオ講座、前半と後半の講義の時間調整の合間によくいろいろな大学の校歌や応援歌などを聴かせてくれましたが、一度だけ東京商船大学の寮歌というのを流したのですね。何しろ第一志望校でしたから一度聴いただけで大体歌詞を覚えてしまいましたが、その中に構内の練習船のことが歌われていました。

一)霞める御空(みそら)に消え残る 朧月夜の秋の空
  身に沁みわたる夕風に 背広の服をなびかせる
二)紅顔可憐の美少年が 商船学校の構内の
  練習船のメインマスト トップの上に立ち上がり


確かここで後半の講義が始まってしまいましたが、我ながらよく覚えているものです(笑)。

 ところでこの明治丸ですが、灯台巡視船として英国に発注して1874年(明治7年)に竣工、明治天皇の巡幸や小笠原諸島の調査にも活躍した後、1897年(明治30年)に商船学校の校内練習船となったそうです。1975年頃まで操帆訓練や結索実習にも使われたらしいから、もし私が東京商船大学に入学していたらたぶんお世話になった船だと思うのですね。

 1978年(昭和53年)には現存する唯一の鉄船ということで重要文化財に指定され、現在も手厚く保存されていますが、この船が1876年(明治9年)に明治天皇の東北・北海道巡航から7月20日無事に横浜に帰着したのを記念して、1941年(昭和16年)に海の記念日、さらに1996年(平成8年)に国民の祝日である海の日になったというのは今回ネットで初めて知りました。こういう由緒ある記念日を、東京オリンピックを記念する体育の日なども含めて、十把一絡げにハッピーマンデーにしてしまった恥知らずな戦後の政治家どもにはただただ呆れるばかりです。

 今回は昔の片思いの恋人との再会に関する記事でした(笑)。


         帰らなくっちゃ