東京湾

 東京に住んでいても、ちょっとやそっとでは行けないような東京湾です。釣り船をチャーターしてシロギス釣りにチャレンジしました。私は船も好きだし、アウトドアも好きですけれど、釣りの経験はまったくありません。昔の職場の部下の人たちから誘われての初挑戦でした。

 朝早く起きてJR蒲田駅で皆と待ち合わせ、羽田の近くから船を出して貰います。船は東京湾をほぼ横断して、最初は対岸の千葉県姉ヶ崎の沖合いあたりまで行きました。もう千葉県の岸壁で陸から同じようにシロギスを狙っている釣り人の姿もはっきり見える距離でした。

 1ヶ所にじっとしていると魚もどこかへ逃げて行ってしまうのか、船は30〜40分ごとに転々と場所を変えて、シロギスを追っていきます。東京アクアラインの真下にも行きました。これはなかなか凄い眺めです。パーキングエリアの通称“海ほたる”から木更津へ伸びる橋梁は圧巻でしたね。私はまだ車で通ったことはないんですが、何かの折に遠くの洋上に橋が架かっているのが見えることはありました。しかし周囲に何も無い洋上に橋桁がズラリと並んでいるのを目の当たりにして、我が国の土木技術のレベルの高さを改めて実感しました。江戸時代のお台場の海上砲台も当時としてはこれに匹敵する技術だったと思います。

 私はどちらかと言うと釣りは苦手ですね(笑)。まず第一にあの餌が気持ち悪い。ミミズかゴカイのような細長い虫を釣り針にくっつけるのですが、私は子供の頃はミミズが大嫌いでした。細長い生き物がニョロニョロ動いているのを見ただけで虫酸が走ったものですが、何と大学の教養学部時代の生物学実習、信じられないことに選りも選って“ミミズの解剖”というのがありました。

 私と同じくミミズの嫌いな方には申し訳ありません。私だってわざわざここに文字にするのも気が引けるのですが、もう少しですので我慢して読み飛ばして下さい。まあ、実習の単位だけは取得しないと進級できませんから、家の庭で見つけた大きめなヤツを大学へ持って行って、エイヤッと覚悟を決めて解剖しましたが、その時以来釣りの餌くらいなら素手で触るのは平気になりました。

 しかし今度は老眼が進行しているので、波に揺られる船の上でシロギス用の小さな釣り針に餌をつけるのに難儀しました。長さ1センチ足らずの小さな釣り針で何度も自分の指先を傷つけているのを見るに見かねてか、しまいには部下だった人が代わりにやってくれましたけど…。

 釣りを終えてまた羽田の方へ戻って来ましたが、羽田空港を離陸する旅客機の航路の真下を通りました。羽田に離着陸する飛行機は東京湾クルーズの船上などから見上げたことは何度かあります。着陸する飛行機は主翼のフラップを降ろして高揚力を発生させつつ速度を落として進入してきますが、離陸する飛行機は勢いをつけてビューンと一気に飛び上がって行きますからシャッターチャンスが難しい。これはほんの一瞬のチャンスを捉えた離陸する旅客機の写真です。

 さて私は釣果は少なかったが(シロギス2尾)、釣り船のチャーターでもしなければ行けないような東京湾上のスポットをけっこう楽しむことができました。誘ってくれた元職場の部下の人たちに感謝です。

 私は定年退職とは職場との縁が切れることだと思っていました。私も大学勤務時代にいくつもの退官パーティーに出席しましたが、宴が終わると主役はひとしきりお別れのスピーチをして、一同から感謝と慰労の言葉を掛けられつつ退場…という手順が多かった、それで退場した後は発起人からタクシーの手配などして貰って体よくお引き取り頂くわけです。会場に残った発起人一同はヤレヤレとホッとした表情で慰労会か何かに向かう、要するに学生時代の“追い出しコンパ”みたいなものです。

 以前大学近くのレストランで飲んでいたら、隣のテーブルの一団の中の1人が私たちに「お騒がせしますが1曲歌わせて下さい」と断りにいらして、皆で感謝の歌の斉唱になった。ハハア、これは職場の送別会だなと思って見ていたら、歌が終わると送別される上司の方だけ花束を貰って1人寂しく先に帰って行かれ、残りのメンバーはしばらくしてから飲み直しとばかり次の店へ繰り出して行った。

 ここまで露骨に“追い出しコンパ”ぶりを見せつけられなくても、どうせ私も定年退職の後は似たようなものだと思っていたら、私の退官パーティーの後は部下たちが二次会の席を用意して待ち構えている、最後の出勤日も酒宴が予定されている、辞めてからも折に触れて飲み会や釣りに誘ってくれる、教え子たちもそうですが、元職場の部下たちもなかなか縁を切ってくれません。辞めた後はもう部下たちから相手にもされず消え去るのみ…という方の部類に入らずに済んだことに感謝したいと思います。
 普段から居丈高に威張り散らしていた上司が退職を控えて、急に部下や学生に対して物腰柔らかになったとか、退職後も置き放した私物で職場の一角を占拠して現役職員の公務の場にしがみついているとか、そういう情けない話をいくつも見聞きしてきただけに、そんな醜態を晒さなかったのは私の誇りです。


         帰らなくっちゃ