たった2秒の観光

 汽車を歌った童謡・唱歌は幾つもありますね。子供の頃に歌った歌詞を思い出してみると、
 汽車 汽車 ポッポポッポ シュッポシュッポシュッポッポ
 
ぼくらを乗せて シュッポッシュッポ シュッポッポ
という『汽車ポッポ』(作詞:富原薫 作曲:草川信)。昭和13年にこの曲が発表された時は、汽車に乗っていくのは“ぼくら”ではなくて、戦地に向かう兵隊さんだったという話は別のコーナーでご紹介しました。

 もう一つの『汽車ぽっぽ』(作詞・作曲:本居長世)もユーモラスで印象深い歌でした。まだ丹那トンネル開通前、東海道本線が現在の御殿場線を迂回していた頃の昭和2年に作られた歌で、2両の蒸気機関車を前後に連結して御殿場の急坂を登っていく情景だそうです。
 
お山のなか行く汽車ぽっぽ
 ポッポッポッポ黒い煙を出し
 シュッシュッシュッシュ白い湯気吹いて
 機関車と機関車が 前引き後押し
 なんだ坂 こんな坂 なんだ坂 こんな坂
 トンネル鉄橋 ポッポッポッポ
 トンネル鉄橋シュッシュッシュッシュ
 トンネル鉄橋 トンネル鉄橋
 トンネル トンネル トントントンと
 登り行く

まあ、蒸気機関車を知らない世代にはなかなかピンとこない歌かと思いますが、大きな缶で火を焚いて、蒸気の力でピストンを動かして車輪を回しながら走って行く蒸気機関車の姿は、一生懸命に走る人間のようにも見えたものです。昔の子供たちはよく何人も前後につながった“汽車ごっこ”で町内を走り回りましたが、先頭の子供は両手を左右でグルグル回しながら、蒸気機関車のピストンの真似をしていました。

 そもそも『汽車ぽっぽ』という時の“ぽっぽ”は、平仮名で書こうが片仮名で書こうが、蒸気機関車が蒸気を噴き出す擬音語のわけですね。鉄道員のことを“ポッポ屋さん”ということもありますが、まさに蒸気機関車の音なのです。電車や電気機関車の現代なら“ピッピ屋さん”と呼ばなければいけませんが、あまりにも風情がない(笑)。

 ところで私が覚えている汽車の童謡がもう一つあります。今度は“ぽっぽ”がつかない『汽車』(作詞:大和田建樹 作曲:大和田愛羅)で、明治45年に尋常小学唱歌になったらしいですが、作詞者については乙骨三郎とする説もあります。また歌の情景は常磐線の広野駅付近とも言われていますが、ここは東日本大震災に伴う原発事故で2011年から2014年まで不通になった区間でもあります。

 さて『汽車』の歌詞はこんなものでした。

 今は山中 今は浜 今は鉄橋渡るぞと
 思う間もなくトンネルの 闇を通って広野原

 遠くに見える村の屋根 近くに見える街の軒
 森や林や田や畑 後へ後へと飛んでいく

 廻り灯籠の絵のように 変わる景色の面白さ
 見とれてそれと知らぬ間に 早くも過ぎる幾十里


歌った覚えのある方も多いと思います。私などはガキの頃に歌った変な替え歌も覚えていますね。
 
今は夜中の3時頃 デコボコ親父が夢を見る
 布団と便所と間違えて あっと言う間に寝小便


 まあ、それはともかく(笑)、トンネルを抜けたら広野原、それが常磐線の広野あたりが舞台だという説の根拠らしいです。広い野原…ではなく、広野の原っぱ…ということですね。確かに常磐道や常磐線はトンネルと鉄橋を幾つも通過しながら山の中と海辺を走って行きますから、この歌の情景とマッチすると言えるかも知れないが、広野原を広い野原と一般的に解釈しても、例えば東海道線の熱海・湯河原あたりから小田原へ向かう情景にも一致するように思えます。

 しかし今回の話題は童謡の『汽車』がどこの情景かということではありません。昔は列車に乗ると窓から見える景色の移り変わりがとても楽しみだったけれど、最近の鉄道旅行ではそんなに楽しくない、そういう話…。別に大人になって列車に乗ったら居眠りしてた方がいい、ということではない、私は今でも列車(通勤電車も含む)の窓から眺める景色が好きです。日本中どこもかしこも同じように都市化して同じような景色になってしまったから面白くないわけではないし、列車のスピードが速くなりすぎて景色を楽しめないからでもありません。

 あと確かに山陽新幹線や上越新幹線はトンネルが多すぎて、景色自体が少ないということはありますね。地下鉄よりちょっとマシなだけか(笑)。
闇を通って また闇だ〜♪
ですね。また将来誕生するリニア中央新幹線(リニアモーターカー)は時速500キロ超という零式戦闘機の巡航速度をはるかに上回る高速で地表を突っ走るわけですから、景色を楽しむ余裕はたぶんないし、その高速走行に耐える車体の強度を保つために窓もほとんど無いらしい。

 しかし普通の列車で地上の町や村を走っても、流れる景色を眺める楽しみは昔に比べたら半減しましたね。沿線の障害物が多すぎます。まず当然のことながら、電気機関車や電車を走らせるための架線の支柱が、鉄道全線にわたって数百メートル間隔で立ち並んでいますから、これが窓から見える景色の前景としてビュッビュッと後へ後へと飛んでいくわけです。蒸気機関車時代にはそんなものは無かった。

 まあ、架線の支柱はそんなに邪魔になるわけではありませんが、次に沿線に建っている高層マンションや、広告用の看板などが車窓の視界を遮ることおびただしい。東京都内の高架を走っていてさえ、沿線に林立する7階建て8階建てのマンションが目の前に立ち塞がるし、広告用の看板は電車の乗客にわざわざ見えるように設置されるから、もう景色を眺めていると眼が疲れます。
アッ、富士山が見え
マンション〜〜
あれはスカイツリ看板〜〜
ビルの谷間に沈む夕陽もきれ
マンション〜〜
あそこの公園で昔
看板〜〜
てな感じで、網膜も思考も少しも落ち着かない。
マンション看板マンション看板
マンションマンションマンマンマンマン♪
(笑)

 最近では新幹線に限らず、沿線住民の方々が騒音で悩まされないように防音壁が築かれている箇所も多いですから、これはもう騒音も視界も遮断する完全な目隠しになってしまいますが、それでも私は列車の窓から景色を眺めるのが好きです。ガキなんですかね。サン・テグジュペリの『星の王子さま』の一節(内藤濯訳)を一部省略してご紹介します。

「こんちは」と転轍手(スイッチマン:鉄道線路のポイントを切り替える人)が言いました。
「何してるの、ここで?」と王子さまが言いました。
「(一部省略)俺の送り出す汽車が旅客を右に運んで行ったり、左に運んで行ったりするんだ」とスイッチマンが言いました。
そこへキラキラとあかりのついた特急が、雷のようにごうごうと転轍小屋をふるわせてゆきました。
「みんなたいへん急いでるね。なに探してるの、あの人たち?」
「それ機関車に乗ってる男も知らないんだよ」
するとまたもう一つのキラキラとあかりのついた特急が、今度は反対の方向へごうごうと走ってゆきました。
「みんなもう戻って来たんだね」と王子さまが訊きました。
「あれ、同じ客じゃないんだ。すれちがったんだよ」
「自分たちのいるところが気に入らなかったってわけかい?」
「人間ってやつぁ、居るところが気に入ることなんてありゃしないよ」とスイッチマンが言いました。
するとキラキラとあかりのついた3番目の特急が、ごうごうと音を立てて通りました。
「初めのお客を追いかけてるんだね?」と王子さまが訊きました。
「何にも追っかけてやしないよ。あの中で眠ってるんでなけりゃあ、アクビしてるんだ。子供たちだけが窓ガラスに鼻をぴしゃんこに押しつけてるんだよ」
「子供たちだけが、何が欲しいかわかってるんだね。(一部省略)」
「子供たちは幸福だな」とスイッチマンが言いました。


 さて新幹線の車窓もまだまんざら捨てたものでもありませんよ。これは東海道新幹線の米原〜京都間に架かっている瀬田の橋梁から眺めた光景で、向こう側に見える橋が瀬田の唐橋です。この川は琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川で、下流では淀川となって大阪湾に注ぎますが、付近には『枕草子』や『和泉式部日記』にも登場する石山寺があります。大学生時代によく独りで関西方面をブラブラしていた頃、浪人の時に予備校で読んだそういう古典文学に思いを馳せながら歩いていると、まだ0系車両だった新幹線が瀬田川の鉄橋を渡っていく轟音で現代に引き戻された…そんな思い出があります。

 16両編成の新幹線が鉄橋を渡りきるのもアッと言う間ですが、橋梁の水面上の距離が120〜130メートルですから、時速200キロの列車の車窓から見ていると川の水が見える時間はせいぜい2秒もありません。それで私はしばらく前から東海道新幹線で昼間に滋賀県を通る時には、車窓から瀬田の唐橋を撮影してやろうと狙っていました。しかし定期的に新幹線通勤をしているわけではない、いくら時刻や天候のコンディションが良くても、前回瀬田工業高校が見えてから鉄橋通過までのタイミングを計ったはずなのに、忘れてしまってシャッターチャンスを逃してしまう、また特に下りの場合は対向列車に遮られて見えなかったりする、さんざん楽しい苦労を重ねた末に撮影成功したのがこの写真で、向こう側に瀬田の唐橋が写っています。

 この橋は、東から京都に入るには必ず通過しなくてはいけない橋として、古代から戦のときには重要な戦略ポイントだったようです。壬申の乱では大友皇子が橋板を外して防戦したが、大海人皇子(天武天皇)に突破されて負けてしまった、源平時代には源義仲軍も橋板を外して守っていたが源範頼の軍に攻められて敗北した、戦国時代に織田信長を討った明智光秀はそのまま安土城を攻めようとしたが、橋を焼き落とされて再建に3日かかった…等、等。

 昔々は丸木舟を横に何艘も並べて藤の蔓で絡めたから「からみ橋」と呼び、それが転じて「から橋」となったが、戦乱で何度も焼き落とされて架け替えられるたびに中国様式も採用されたりしたので「唐橋」と表記されるようになったということです。たった2秒の観光も楽しかったけれど、この次は学生時代の気ままな散策を思い出しながら、ゆっくりと石山寺と瀬田の唐橋を訪ねてみたいものです・


         帰らなくっちゃ