軍艦長門碑

 横須賀軍港に関してはこのコーナーでも何回か触れていますが、今回は特に港に面するヴェルニー公園(かつての臨海公園)にある軍艦長門碑について書いてみます。現在ではJR横須賀駅から見て奥側、ショッピングセンター寄りの一角に、軍艦山城の碑、軍艦沖島の碑、横須賀軍港を詠んだ正岡子規の句碑などと一緒に並べられていますが、私が初めて見た昭和52年3月には右の写真のように海上自衛隊の桟橋がある海面を背景に建てられていました。

 この碑はその前年、昭和51年5月27日の海軍記念日に建てられたようですが、当初は連合艦隊旗艦を何度も務めた在りし日の戦艦長門が横須賀軍港に停泊していた勇姿を偲ぶ意図があったのではないかと思われます。右の写真をもう少し下のアングルから撮影して台座の石を消せば、大きさといい方向といい、ちょうど巨大な戦艦が海を圧して錨を下ろしているように見えるかも知れませんね。

 しかし建立後まだ1年経っていなかった昭和52年当時の真新しい軍艦長門碑、ブロンズの戦艦長門のレリーフはまさに鉄
(くろがね)の偉容を示していますが、令和2年の青く錆びた姿は昭和後期から平成全期間に及ぶ40余年の歳月を乗り越えた風格を感じさせます。別の記事にも書きましたが、三島由紀夫は金銅の鳳凰を戴いた金閣寺を時間の海を渡る船に見立てていますが、この戦艦長門像もまた昭和後期から平成・令和の時の流れを渡ってきて、さらに次の時代へと航海を続けて行くのでしょう。

 ちなみに左の写真で軍艦長門碑の奥に見えるのは戦前に建てられた国威顕彰碑で、知らない人には積み木を積んだような変な形にしか見えないでしょうが、これは旧日本海軍の高雄型重巡洋艦の艦橋を模したものです。その重厚な姿は城の天守閣に例える人もいるほど、旧日本軍艦の美の極致とも言われますが、戦前の駐日ドイツ海軍武官は巨大すぎて実戦になれば敵弾が命中しやすく、演習用には最適だろうと辛辣な評価を下したという話もあります。

 思えば初めてこの碑を見た昭和52年3月は、私が医学部を卒業して医師国家試験を受けたばかりの頃、まさに医師としての職業人生の船出だったわけです。まだ研修も始まっておらず人生で最もホッとしていた春の日、この軍艦長門碑を眺めていたら、いきなりオーストラリア陸軍退役軍人のSelfさんが碑の背後からひょっこり現れ、何となく意気投合して三笠公園など案内してあげた、その年の夏休み、新人研修医1年目の特典で3週間の休暇を取ってオーストラリアへ初の海外旅行、Selfさんの住むメルボルンへも遊びに行きました。あんな長い休暇はその後の職業人生で一度も貰ったことはありませんでしたが、軍艦長門碑の前でのSelfさんとの出会いは医師としての我が職業人生の最初を彩る素敵な思い出でした。

 そして今度は私自身が退役医師としてこの碑の前に立ってみると、東大病院での小児科研修を皮切りに幾つかの病院で周産期医療を実践、さらに病理医として修練を重ねてきた過程で出会ったさまざまな人々、嬉しかったこと悲しかったこと、楽しかったこと辛かったこと、いろんな出来事が次々と脳裏に浮かびます。私もまたこの戦艦長門のブロンズ像と共に航海を続けて来たのだなあと感慨も深いです。またあの日のSelfさんが碑の後ろからひょっこり出てきて、オーストラリア訛りの強い英語で、君も良くやったよと言ってくれるかも知れません。



 さてここからは少しマニアックな話で恐縮ですが、横須賀と言えば海軍、海軍と言えばカレーという連想が最近では有名です。しかし海軍カレーは特に日本海軍由来というほどではない、むしろ海上自衛隊カレーとでも呼ぶ方が適切だというようなことを別の記事で書きましたが、それでもやはり横須賀方面に出かけると“海軍カレー”という看板はよく見かけます。これは京急電鉄の終点である三崎口の駅前にあったパンの宣伝の旗、カレーを象徴する黄色の地に「よこすか海軍カリーパン」と染め抜いてあり、下部の説明文には
由来
元々、イギリス海軍の「軍隊食」であったカリー。
明治期にイギリス海軍を範として成長してきた日本海軍は、
カリーを「軍隊食」に取り入れたことに始まる。

と書いてあります。まあ、その真偽のほどについては私の記事も読んで頂いたうえで、皆様ご自身が考えて下さればよいと思いますが、この旗に描かれている戦艦も実は長門なのです。

 戦艦長門が私たち“軍国懐古少年(笑)”の前にプラモデルとして甦ったのは、昭和9〜11年の近代化大改装を経て太平洋戦争に参加した時の1本煙突のスッキリした姿でしたが、戦前の軍国少年たちが憧れた戦艦長門は、まさに軍艦長門碑に刻まれた2本煙突の姿、しかも2本のうち前部の煙突がクニュッと後方に屈曲させられた奇怪な姿、それがまた戦前の国民の目には頼もしく映ったのかも知れませんが…。

 前部煙突がクニュッと屈曲した戦艦長門は、令和元年に東宝から公開された映画『アルキメデスの大戦』にもCG映像で登場しましたが、それまでは横須賀のヴェルニー公園以外でお目にかかることは滅多にありませんでした。だからいつも横須賀を訪れるたびに、ヴェルニー公園の軍艦長門碑は珍しいなと思って眺めていたのですが、このカレーパンの旗に描かれた戦艦長門は前部煙突がクニュッと曲げられるより前の姿、さらに珍しいのです。

 まあ、ヴェルニー公園のは“軍艦長門碑”と書かれているから、煙突が1本だろうが2本だろうが、前部煙突がクニュッと曲がっていようが曲がっていまいが、ああ、このブロンズのレリーフは“長門”なんだろうなと思う人が大部分でしょうし、そういう人は近代化大改装で煙突が1本のスッキリした姿になったと言われても、その姿をネットや書籍で確認したいとも思わないでしょうから、いちいちドヤ顔で新造時や改装後の図面などを並べることは致しません。ただ私のような艦船マニアが、なぜこのカレーパンの旗に描かれた軍艦の絵に異様な興味を示すのか(笑)、その理由を簡単にお話しましょう。

 別にこの旗の絵は精密に描かれたものではないし、何となくカレーに便乗して海軍の雰囲気を盛り上げるためだけに描かれたと言ってもよい、だったら何でもいいから大砲をくっつけた船の絵をいい加減にあしらっても良かったし、宇宙戦艦のアニメで有名になった戦艦大和っぽく描いても良かったし、横須賀を母港として連合艦隊旗艦を何度も務めた戦艦長門っぽく描きたいのであれば、戦前の軍国少年を魅了した“前部煙突クニュ”の姿にするか、戦後の軍国懐古少年がプラモデルで作った“1本煙突スッキリ”の姿にしても良かった。だのに何でわざわざこのレアな時期の戦艦長門のデザインを使ったのか。このカレーパンの旗の作者はよほどの海軍マニアではないかと思うのですね。


 この軍艦の絵が長門であると決めつける根拠は赤い矢印の部分です。大正9年に竣工した戦艦長門はスッキリと直立した2本煙突だったが、航海中に風を切る艦橋に向かって前部煙突の煤煙が逆流するのを防止するためのキャップが大正11年に設けられました。ちょうど簪
(かんざし)のように出っ張った部分です。長門では後ろへ流れるような形状で取り付けられましたが、同型艦の陸奥では直立しています。

 また前部煙突に逆流防止用のキャップを付けたのは、やはり近代化改装前の扶桑型戦艦(扶桑、山城)や伊勢型戦艦(伊勢、日向)も同様ですが、これらは主砲の配置がこの絵とは違います。

 結局長門型戦艦ではこういうキャップの煤煙逆流防止効果は不十分であり、長門では大正13年、陸奥では大正12年に前部煙突をクニュッと後方へ屈曲させる工事が行われました…、なんて艦船マニアからすれば「そんなこと今さら言われなくても知ってるよ」と言われそうなこと、そうでない人たちからは「そんなことどうだっていいじゃない」と言われそうなことを長々と書いてしまいましたが、カレーパン宣伝の旗にまで、せいぜい2〜3年しか見られなかったレアな姿の戦艦長門が登場する、やはり海軍の街横須賀恐るべし…というところでしょうか。


         帰らなくっちゃ