海軍カレーの真実

 下のレトルトカレーのパッケージは、昨年カミさんが広島県の呉市に行った時のお土産です。最近では海上自衛隊の護衛艦では毎週各艦独自のレシピによるカレーライスのメニューが出ることはよく知られていて、護衛艦対抗の形でカレーコンテストが行われることもあり、軍港を訪れた一般見学者たちがカレーを求めて長蛇の列をなしたなどと、時々ネットを賑わわしているようです。お土産にもこんな護衛艦ごとのレトルトカレーが販売されているのですね。海上自衛隊ばかりではありません、まだ大学で教えていた頃、学生さんから陸上自衛隊員が野外演習に携行するタクアンの缶詰をお土産に貰ったこともありました。

 食品の他にも、陸海空自衛隊員の使用する腕時計の販売だとか、最近では私が若かった時代には想像もできなかったような軍事色の強い商品がけっこう人気で売れているようです。それが良いことか悪いことか、各人の政治的立場や国際情勢の読み方にもよるでしょうが、私に言わせれば、昔はこういう商品を含む軍事的事項をあまりにも頑なに狭量に排斥しすぎた、何事も極端に押さえつければ必ず反動がくる、それも極端な反動がくる、迷彩模様が人々のファッションに取り入れられるようになったことといい、護衛艦のカレーがお洒落なお土産になることといい、軍事を取り巻く時代の要素は今や昔とは反対側へ大きく振り子のように振れようとしています。それが誰のせいかは今回は問わないことにして…。


 こちらはやはり軍港の街横須賀、JR横須賀駅の改札口にはこんなカモメの水兵さんがカレーを捧げ持ったマスコットが置かれています。名前は“スカレー”、横須賀
(ヨコスカのスカを、ライスカレーのスカに掛けているんでしょう。街を歩けばあちこちに『海軍カレー』のレストランを見かけます。

 ところで何で海軍とカレーが関係あるのか?今ではかなり多くの人がご存知でしょうが、海上自衛隊の艦船が長期間にわたって洋上で行動していると、乗組員は曜日の感覚がなくなってしまうので、毎週金曜日の昼食はカレーライスにして一応1週間のケジメを意識するそうです。これは旧帝国海軍時代からの伝統を海上自衛隊も受け継いでいるからだそうですが、月月火水木金金の猛訓練がモットーだった旧海軍に、そんな週末を意識させる伝統がはたしてあったのか?もしあったとしても土日返上の猛訓練の最中に、毎週金曜日に律儀にカレーなんか作っていたんだろうか?

 こういうことになると最近ではネット上にたくさんの蘊蓄
(うんちく)が垂れ流されることになりますが、それがまた一致していないのですね。確かに現在の海上自衛隊の艦船では遠洋航海中は曜日の感覚を保つために金曜日はカレーのメニューだそうです。これは海上自衛隊出身の投稿者も保証してますし、何しろ現存する“日本艦隊”の艦上で行われていることですから、もし間違っていればたちまち現役の乗組員の方々から訂正が入ると思いますので、これは事実としましょう。

 では昭和20年に消滅した旧日本海軍の金曜日のメニューもカレーだったかどうかに関しては、ネット上の記載もまちまちです。信憑性のありそうな記事ですと、海上自衛隊のカレーのメニューは週休2日制になってから金曜日になったとのことで、それまでは土曜日の昼食だったというのがあります。土曜日は半日勤務ですから、昼食をカレーにして飯とおかずを同じ皿にしておけば週末の洗い物も少なくて済むという理由ももっともです。

 しかし旧海軍も土曜日がカレーだったという説に関してはとたんに怪しくなります。私も旧日本海軍関係の戦記はかなり読みましたが、あまりカレーのことが書いてあった記憶はありません。確かに開戦後は金曜も土曜も日曜もない戦場ですから、特にカレーにこだわるはずもありませんが、開戦8ヶ月前に戦艦霧島に乗り組んで烹炊所に配置された高橋孟さんという方の『海軍めしたき物語』(新潮文庫)という本の中にも、味噌汁やすき焼きや汁粉の作り方は書いてあっても、カレーに関する記載は無かったように思います。そんなにカレーが艦内食の神聖なメニューならば、もう少し書いてあっても良さそうです。

 曜日感覚の維持かどうかは別として、何でカレーが海軍兵食に取り入れられたかについて、明治年間の海軍軍医であった高木兼寛が脚気予防のために取り入れたと書いてあるサイトもあります。確かに高木兼寛は白米主食が脚気の原因と見て、海軍兵食に何とか洋食の要素を取り込むための副食としてカレーを利用したかも知れませんが、肉食を嫌う当時の日本人兵員のために彼が実行した食事改革の柱は米麦混合食だったと聞いています。副食は特にカレーとは限らないわけですね。

 また明治時代の日本陸海軍を問わず、大勢の兵員を養う給食献立としてカレーライスはとても合理的であり、日露戦争に従軍した陸海軍将兵が除隊して今でいうレシピを郷里に持ち帰ったことによって日本の一般家庭料理にもカレーが登場することになったと書いてあるサイトもあります。いかにもありそうなストーリーではありますが、もし陸軍でも兵食にカレーを導入していたのであれば、当然肉食の要素も加わりますから脚気も予防されていたでしょう。しかし日露戦争の旅順攻城戦では、麦食の海軍部隊は脚気を克服していたのに、陸軍部隊は依然として脚気に悩まされていたという記録もあります。

 つまり海軍カレーの歴史ひとつとっても、書籍やサイトに氾濫する情報を矛盾なく説明することは不可能なのです。たとえば戦前の日本海軍艦艇が土曜日にカレーを作っていたかどうか、現在の海上自衛隊の艦艇が毎週金曜日の週末に律儀にカレーのメニューを守っているのはどうやら本当としても、それをネット情報を鵜呑みにして旧海軍からの伝統であると、何の疑いもなく納得してしまうのは危険なことです。たぶん平時の旧海軍の各艦艇では、主計科の上官が自分の嗜好にしたがってメニューを決める裁量をふるっていたのではないかと思います。カレーの好きな上官の乗り組んだ艦では毎週のようにカレーが出ただろうし、辛い物の苦手な上官の乗り組んだ艦ではカレーどころか砂糖の味付けの副食ばかりということもあったかも知れません。当時の日本の軍隊はそういうことが横行する社会でもあったようです。

 人文科学に限りませんし、自然科学も同じですが、特に歴史はそう簡単にストーリーを単純化することはできないと心得るべきです。旧海軍の伝統を受けて、曜日の観念を維持するために現在の海上自衛隊でも毎週金曜日はカレーにしているというストーリーは大変わかりやすくて魅力的ですが、書籍やネットの情報は本当に正しいのかと疑う健全な常識を失ってしまえば、歴史はステレオタイプな雑学の集大成に堕してしまいます。まあ、軍艦のカレーくらいなら激辛も多少は我慢できますけどね。



続・海軍カレーの真実

 前回、海軍カレーの真実についての記事を書いたついでに、歴史というものは巷に溢れる雑学の丸写しで分かりやすいストーリーに仕立てて満足していてはいけないと語りましたが、そんな記事をアップした翌日、何と偶然にも日本海軍の食事に関する書籍を2冊も書店で発見し、2冊とも購入してしまいました。歴史もそうですが、真実を探し求めようとする人間の前には、それにふさわしい史跡や資料の方からこちらに近づいて来るような不思議な因縁を感じますね。ネット上の耳障りの良い雑学知識だけで満足していたら、おそらく書店の書棚の前を通ってもこの本は目に止まらなかったでしょう。
 本当は前の記事に補遺の形で付け加えてもよかったのですが、たぶん一般の方々がそんなにお買い求めになるような本ではないと思うので、項目を改めて記事にしようと思います。もうしばらくカレーの話にお付き合い下さい。

 まず1冊目は高森直史さんという方が書かれた『海軍食グルメ物語』(光人社:2003年)という本、著者は終戦の年に6歳、その後管理栄養士の資格を取得して海上自衛隊に勤務された方で、術科学校や防衛大学校教官、護衛艦の補給長、護衛艦隊司令部幕僚などを歴任されて、最後は一等海佐(昔で言えば海軍大佐)にまで昇られています。初期の在職中はさまざまな旧海軍出身者から海軍料理の基本を含め、いろいろな経験談を聞くことができたそうで、中でもアメリカ重巡洋艦インディアナポリスを沈めた潜水艦長は特に印象に残っているような書き方でしたね。

 ちょっと話は脱線しますが、この潜水艦長は橋本以行中佐で、『伊号58帰投せり』という著書は私も読みました。最後は伊号58潜水艦の艦長で、1945年7月29日深夜、グアム島とレイテ島を結ぶ線上でアメリカ重巡洋艦インディアナポリス号を撃沈、この艦は広島に投下された原爆の部品をテニアン島へ輸送後、レイテ島で第5艦隊に合流するべく単独で航行していたところ、不運にも索敵中の伊号58潜水艦に発見され、発射された6本の魚雷のうち2本ないし3本が命中、この排水量1万トンの巨大な艦はわずか12分間で沈没してしまいました。

 日本海軍が最後に屠った敵艦、アメリカ海軍が最後に喪失した軍艦ということ以外にも、インディアナポリスの沈没には、我が国の福島原発事故にも共通する組織の欠陥が露呈されていて興味深いのでもう少し書いておきます。インディアナポリスは護衛も付けずに戦場の海を単独航行していたわけですが、マクヴェイ艦長は駆逐艦の護衛を要請したにもかかわらず、もう日本軍の脅威は無いからという安易で楽観的な判断によって却下されています。
 さらに魚雷命中後わずかな時間に発信されたSOS信号を受信、伊号58潜水艦が打った「敵艦撃沈」の無電も傍受しながら、「まさかね〜」という驚くべき無責任な怠慢によって情報確認も救助活動も行われなかった結果、1196名の乗組員のうち助かったのはわずか316名、何と880名が艦と運命を共にしたのです。犠牲者のうち沈没後に海面に浮かんだ者は900名近くいたのですが、海軍上層部の怠慢によって4日間以上も放置されたため、多くの者が疲労で海底に沈み、ある者はサメの餌食になりました。ちなみに人食い鮫の恐怖を描いた『ジョーズ』という映画の中に、「俺は昔インディアナポリスに乗っていたんだ」というセリフが出てきますね。

 しかもアメリカ海軍はこれだけの大惨事を起こしていながら、日本潜水艦の脅威はないと判断して護衛も付けずにインディアナポリスを単独航海させた将官や、沈没後も事態を深刻に把握せずに救助活動の遅延を招いた責任者たちは、あろうことか、何とすべての責任をマクヴェイ艦長1人に負わせて自分たちは免罪されました。フェアプレイのアメリカにしてこういうことが起こるのですね。旧敵国ながら許されることではありません。艦長は後に自殺しています。

 さて脱線が長くなりましたが、話を海軍カレーに戻します。高森さんの本には、日本海軍が毎週カレーの献立を作っていたというような記載はいっさいありません。ただカレーに関する面白いエピソードがあります。すでに普及していたカレー粉を使った新メニューとして、昭和7年に海軍経理学校が研究した料理が紹介されていました。従来のビーフカレーや豚肉カレーに加えた新メニューは、ライスカレーとしてあさりカレー、チキンカレー、伊勢海老カレーの3種、カレー調味料理として小えびカレー煮、魚のカレー焼き、あじのカレー焼き、豚と馬鈴薯のカレー煮の4種だそうです。単語は原書のままです。そう言えば私が子どもの頃は、まだカレーライスをライスカレーと言う大人もいましたね。また魚のカレー焼きとあじのカレー焼きが並んでいるのはちょっと変ですが、次に紹介する本と照らし合わせると前者は魚のカレー揚げかと思われます。しかし伊勢海老カレーとは豪勢な…(笑)。

 さてもう1冊の本は藤田昌雄さんという方の『写真で見る海軍糧食史』(潮書房光人社:2007年)、どういう経歴の方か詳しい記載がないが、特に日本陸軍を研究されていて、陸軍の衣食住を研究したついでに海軍の食事も研究されたそうです。食糧を引っくり返して糧食というのも軍隊用語ですね。

 この本は秘蔵写真だとか貴重な資料だとかが満載で、パラパラとページをめくっているだけで楽しいのですが、ここでは昭和12年度の練習艦艇の1週間分の献立例を引用しておきましょう。長くなりますが、おそらく多くの人にとって非常に興味深い資料と思われますので、なるべく原文に忠実に引用します。

第1日目
朝食)米麦飯、里芋味噌汁、茄子辛子漬
昼食)米麦飯、鯛煮魚、茄子脂煮、胡瓜漬
夕食)米麦飯、牛肉野菜シチュー、大根漬
夜食)素麺

第2日目
朝食)米麦飯、キャベツ味噌汁、茄子塩漬、海苔佃煮
昼食)米麦飯、たかべ煮魚、若芽葱ヌタ、大根漬
夕食)米麦飯、すいとん汁(鶏肉入)、茄子漬
夜食)汁粉

第3日目
朝食)米麦飯、玉葱味噌汁、茄子味噌漬、鰹塩辛
昼食)米麦飯、卵とじ、菜漬
夕食)米麦飯、すき焼(牛肉、豆腐、麺、野菜)、福神漬
夜食)砂糖入乾パン、珈琲

第4日目
朝食)米麦飯、里芋味噌汁、梅干、鰮
(いわし)若柳煮
昼食)米麦飯、かます煮魚(あんかけ)、胡瓜漬
夕食)米麦飯、薩摩汁(豚肉、野菜)、沢庵漬
夜食)缶詰果物(パインアップル)

第5日目
朝食)米麦飯、南瓜味噌汁、葉唐辛子佃煮
昼食)米麦飯、ぼら照焼、野菜付合煮、沢庵漬
夕食)米麦飯、牛肉野菜煮込、大根味噌漬
夜食)饂飩
(うどん)

第6日目
朝食)米麦飯、若布味噌汁、福神漬
昼食)米麦飯、柳川もどき(豚肉)、沢庵漬
夕食)米麦飯、鰮
(いわし)缶詰、煮込饂飩(うどん)、梅干
夜食)おじや

第7日目
朝食)米麦飯、千切大根味噌汁、昆布佃煮
昼食)米麦飯、牛肉野菜煮(缶詰)、勝利漬
夕食)赤飯、煮しめ(うしお鯛)、葉唐辛子佃煮
夜食)支那そば


いかがですか。昭和12年になってまだパン食がまったく無いのに驚きますね。それはともかく、まだ戦闘状態に入っていなかった旧帝国海軍の練習艦隊のメニュー1週間分を連続して引用しましたが、カレーは1回も入っていません。ということは、必ずしも帝国海軍は1週間の区切りとしてカレーライスを作っていたわけではありません。現在の海上自衛隊の艦船が週末ごとに律儀にカレーを作って曜日の感覚を維持するのは、別に旧帝国海軍の伝統ではなく、海上自衛隊の新しい伝統と考えた方が良いのではないでしょうか。あとこのメニュー表、月曜・火曜・水曜・木曜・金曜・土曜・日曜ではなくて、第1日目〜第7日目となっていることも注目してよいかと思います。やはり旧海軍に週末などなかったのです。

 巷に氾濫する雑学や豆知識の類を安易に丸呑みして物識りになったような満足感に浸るのではなく、少しでも変だな、本当かなと思ったら、その疑問を忘れないようにして、真実に近づく努力をすること、その楽しさを分かって頂けたら嬉しいです。

補遺1:海軍流・伊勢海老カレーのレシピ
 豪勢な伊勢海老カレーのレシピが藤田昌雄さんの本に載っていました。このメニューは下士官や水兵の兵食ではなくて、給料天引きで士官が注文する士官食のようです。山本五十六も食べたかも知れませんね。海軍経理学校研究部がまとめた『海軍研究調理献立集』にできるだけ忠実にご紹介します。
材料)伊勢海老60匁(約200g)6尾、玉葱 大3個、塩、古生姜(硬くて繊維の多いショウガ)少々、麦粉、カレー粉、バタ、飯、林檎2個、牛乳1合
調理法)生姜と玉葱を微塵に切り、バタを溶かした鍋に入れて狐色に炒めてカレー粉を加へ、静かにトロ火で煎り麦粉を加へて煎り湯を入れてよく混ぜあわせ塩を入れて煮立てる。海老の頭を剥ぎて
(そぎて)切らずに其の中に入れて煮込み海老の味が良くカレーの中に附いたときに頭を引き出して捨て、其のカレーの中に皮をむいた林檎をすり卸して煮る。海老の賽の目に切りたるを加へて煮、牛乳少量を入れ、更に飯を盛り脇に掛けて供します。
どなたか料理したら、お金は払いますから試食させて下さい(笑)。

補遺2:戦艦長門の場合
 こういうことは調べ始めたらキリがありませんが、まだ曜日を数えていた昭和3年5月24日、
木曜日の昼の兵食献立がカレーだったようです。連合艦隊旗艦を交代で勤めるほどの有力な主力艦でありながら、カレーが金曜でも土曜でもなく木曜だったわけです。

補遺3:明確な裏付け
 この記事をアップロードした4ヶ月後の2018年6月、この記事にも登場する高森直史さんが潮書房光人新社から『海軍カレー伝説』という本を出版され、その中で現在巷に横行する“海軍カレー”に関する伝説を明確に否定されておられます。戦後のある時期から、海軍ならカレーくらい作るだろうという安易な思い込みで人々の口の端に上るようになり、さまざまな街興しなどにも利用されるようになっていったとのことです。



B29重爆撃機の墜落

 前回別のコーナーの深川の記事の中で、1945年3月10日の東京下町空襲について書いた時、ふと思い出したことがあったのでいろいろ調べてみた。私がまだ小学校3年生か4年生だった頃、同じクラスの男子から何度か聞いたのだが、学校のあった目白付近にアメリカ軍のB29重爆撃機が墜落したとのこと。彼が言うには、学校から400メートルほど離れた千登世橋に墜ちたのだそうだ。
「ねえねえ、千登世橋にアメリカのB29が墜ちたんだよ。日本の兵隊さんが落としたんだよ。」
当時から軍事マニアの傾向があった私でさえ知らない知識を持っていることがよほど嬉しかったらしく、彼はたぶん両親か祖父母から聞かされた目撃談を得意になって語ってくれたものだ。

 私もその話は記憶の中にずっと残っていたが、そんな細かいことを調べられる資料や書籍が簡単に手に入るわけじゃなし、インターネットが普及してきた頃に「千登世橋・B29」とキーワードを入れて検索をかけても該当する事実も見つからなかったし、たぶんそんな事もあったかも知れないけれど、彼の覚え違いの可能性だってあるしなと勝手に決めつけて、そのままになっていたのだった。

 それで今回ちょっと思い立ったついでに、再び「千登世橋・B29」と検索をかけてみたところ、たにし亭というサイトにヒットした。『たにし亭』というのは目白通りと不忍通り
(しのばずどおり)の交差点近くに、澤井ふささんという大正3年生まれの女将さんが戦前から昭和53年まで40年近くも営んでおられたおでん屋の名前らしく、店をたたまれた後にかつての常連客たちが店を惜しんで同名のサイトを起ち上げたものである。女将さんは平成19年に亡くなったが、かなり人徳のあった方で店も繁盛していたようだ。たにし亭の位置は千登世橋から500メートルほど東側になる。

 そのサイトの中に、豊島区役所が発行した『五十年目の祈り』という広報誌に収録された「飲食業者の食糧難時代」という記事が引用されている。澤井さんの戦前から戦後にかけての苦労談をもとに編集されたもののようだ。昭和20年の春になると東京も数次の空襲を受けていて、3月10日の空襲で東京下町が灰燼に帰してからは目標が山の手に移り、4月13日の空襲では目白界隈が爆撃されて「たにし亭」の店も焼けてしまう。それで千登世橋南側で焼け残った家に間借りしていたところへ5月25日深夜のいわゆる“山の手大空襲”を迎える。

 余談ながらこの“山の手大空襲”の晩は、私の実家がある椎名町方面にまで焼夷弾が落下して、当時の椎名町4丁目まで焼け野原になったと母や祖母から何度も聞かされたものだった。椎名町6丁目にあった私の実家から数百メートル東側まで焼けたという。深夜の東の空が真っ赤だったらしい。

 この晩「たにし亭」の女将さんは、明治通りと目白通りが立体交差する千登世橋の下へ避難しようとした時、現在の大正製薬のあたり(千登世橋の約500メートル南側)、学習院下にB29爆撃機が墜ちてきたという。頭からのしかかってくるような感じで、恐怖に立ちすくんでいるうちに振動で吹っ飛ばされ、地面にたたきつけられたそうだ。避難のために千登世橋方向へ移動する時のことで、空襲開始からそんなに経っていない時刻のことと思われる。間借りしていた家は高田南町(現在の高田1〜3丁目あたり)だから、土地勘のある者から見ればほんの200〜300メートル、目と鼻の先に巨大な爆撃機が墜落したことが分かる。まだ爆弾・焼夷弾も残っていただろうし、何と言ってもこれからマリアナ方面まで帰投するための膨大な燃料を持っていたはずだ。そんな物体がそんな至近距離に墜ちてきて、よく無事だったものである。

左が現在の千登世橋。橋の上が目白通りで下が明治通り。「たにし亭」の女将さんはこの方向から橋の下を目指したと思われる。右が神田川の向こう側の大正製薬。73年前にB29が墜ちた場所。

 さてB29が墜ちたのは千登世橋ではなく、たぶんあのクラスメートの両親のどちらか、または祖父母が千登世橋の上あたりから見たこの光景を彼に語り伝えていたのかも知れない。それでキーワードをもう少し南の方の町名に変えて再検索してみたら、ChinchikoPapaさんという方の落合道人というブログを見つけた。お父上が学生として東京大空襲を経験されているので、たぶん私と同世代の方と思われるが、私の実家に近い新宿区落合の地域の歴史を中心に、実に精力的に記事をお書きになっていて、その中に5月25日の山の手空襲についての詳しい取材記事もある。

 驚いたことに、このブログによると千登世橋の南、学習院下に墜落するB29爆撃機の断末魔の姿を撮影していた人がいたとのことで、お許しを得てその写真を拝借した。撮影地点は墜落地点の真東よりやや北側の小石川の高台、同じ夜に撃墜された別のB29爆撃機が千代田区麹町へ落下する姿も捉えられており、それがこの2葉の写真である。右側が学習院下、左側が麹町に墜落するB29爆撃機の火焔の軌跡である。
 学習院下へ墜ちた方は、おそらく地上数百メートルで爆発とともに主翼が吹っ飛んで螺旋状にクルクル回りながら落下し、胴体の方はそのままほとんど垂直ダイブで地面に激突したものらしい。こんな物を至近距離で目撃した「たにし亭」の女将さんの恐怖はいかばかりだったか。麹町へ墜ちた方は地面激突直前に胴体が折れて、浮力を失った尾部の方が先に手前に墜ちたように見える。

 この夜の空襲では、日本側の反撃も少ないと甘く見たB29爆撃機は、より効果的な民間人殺傷を企図したものか、ずいぶん低空で焼夷弾をばらまいたので、日本軍の高射砲陣地の餌食になったものが多かったようだ。海軍の戦闘機隊が16機を撃墜したのと合わせて合計26機のB29爆撃機が本土上空で失われ、日本本土空襲の全期間を通じて最大の損害を記録している。記録によればマリアナ基地を発進した498機のうち464機が日本本土に到達、26機を喪失したらしい。前記の落合道人さんのブログによれば20人以上の搭乗員がパラシュート降下したが日本側に拘束され、簡単な尋問の後に処刑されたという。たぶん多くは日本刀による斬首で、民間人殺傷という戦争犯罪に加担した以上、それは戦時国際法に照らしてやむを得ないことであるが、刃が振り下ろされる瞬間に故郷で待つ肉親の顔など思い浮かべたであろう彼らの心情もまた哀れである。同じ理由で戦後大勢の日本軍人や軍属もB・C級戦犯として処刑されたのだった。(こちらの記事も参照)

 これは豊島区郷土資料館所蔵の、学習院下に残骸を晒すB29爆撃機のスケッチだそうで、機体に乗っているのは調査している日本人だろう。撃墜したB29の残骸を調べると、あらゆる作りが日本の工業水準をはるかに凌駕していて、専門の技術者などは到底日本に勝ち目はないと観念したそうだ。

 さてこれで私の小学校時代のクラスメートが話していた“千登世橋のB29”実は“学習院下のB29”について複数の裏付けが取れたわけだが、これをネットで調べていくうちに、さらに東京空襲にまつわる不思議な話があることを知った。それは“山の手大空襲”に先立つ3月10日の“下町大空襲”、深川をはじめ本所、浅草などの下町が焼き払われた時のことだが、マリアナ基地を出撃した325機のB29のうち279機が日本本土上空に到達、14機が失われたとあるが、このうち3機はどうも東京上空ではなさそうなのだ。

 ネット上にはいくつかの記事が見られるが、著者平山洋氏の依頼により常葉叢書『宮城蔵王不忘山B29三機連続墜落事故の謎』の内容がネット上に公開されている。東京下町が空襲されていた昭和20年3月10日から11日にかけての“事故”の経緯を簡単にまとめてみる。
●11日午前0時頃、第314爆撃団第29爆撃群所属の#42-63564の機体が不忘山南東1キロに墜落。
●11日午前1時半頃、第314爆撃団第19爆撃群所属の#42-65310の機体が不忘山南西1キロに墜落。
●11日午前2時頃、第73爆撃団第498爆撃群所属の#44-69747の機体が不忘山北西2キロに墜落。
まったく所属編隊の異なる3機のB29がほぼ同じ時間帯に東北地方に飛来し、標高1705メートルの不忘山に激突または接触後滑落して異国の地に残骸を晒して果てた。

 果たして単なる偶然が重なるだけで、こんなことが起こり得るのだろうか。航法を誤った爆撃機が東京から針路を外れて東北地方へ行ってしまった、しかも東京から300キロも離れた山肌に、揃いも揃って低空でぶつかる、本当に航法の間違いだけなのか。平山洋氏はその点に疑問を抱いて詮索を進めている。

 本来ならばマリアナから東北地方はB29重爆撃機をもってしても航続距離が足りないから、東京を爆撃するつもりで出撃したB29が誤って東北地方へ迷い込めば無事に戻れるはずはない、しかし同じ3月10日の晩、単機または少数機で来襲したB29が福島県平市、岩手県盛岡市、青森県上北郡、宮城県仙台市を焼夷弾攻撃しており、しかも仙台市を空襲した2機のB29は無事にマリアナ基地に帰着している。つまり補助燃料タンクを増設して航続距離を伸ばした少数機よりなる別動隊で、最初から東北地方を空襲する計画があったのではないか。たぶん補助燃料タンクを増設したB29は数が限られていて大編隊を組めなかったし、もしかしたら東京下町空襲を陽動作戦として、何か秘密任務を帯びてあまり目立ちたくない作戦行動に従事していたのではないか。

 平山氏はさらに大胆な仮説を展開していく。戦時中に日本でウランを産出するのは福島県石川郡石川町ただ1ヶ所であった。私が小学生の頃は、岡山と鳥取の県境にある人形峠が日本のウランの産地と習ったが、ここのウラン鉱山は戦後に発見されたもの、戦前から戦時中にかけて日本唯一のウラン産地は東北地方にあったのである。つまりアメリカ軍は日本の原爆製造を阻止するために、ウラン精錬に無くてはならない東北地方の発電・変電施設を狙った可能性があると平山氏は指摘する。不忘山をはじめ東北地方に来襲したB29の進路上には重要な電力施設が存在していた。

 しかし東北地方に飛来したB29が投下したのは焼夷弾だけだったが、もし発電所や変電所やダムを破壊するつもりなら、もっと貫通力の大きな爆弾を使用するのではないかと私は思う。さらに腕利きのパイロットや爆撃手を乗せたB29で昼間に精密爆撃を試みるのではなかろうか。確かに昼間の爆撃では日本の防空戦闘機隊の迎撃も恐かったかも知れないが、地形に不慣れな東北地方の山間地を深夜に計器飛行するのだってリスクが高い。

 おそらくこの謎は永遠に解明されることはないだろう。原爆開発競争という両国にとって高度の国家機密が関わる事項だとすれば、少数機が東北地方に来襲した陰では日米の諜報機関が激しく火花を散らしていたに違いない。通常爆弾で昼間精密爆撃など敢行すれば、アメリカの意図は日本に筒抜けになる。あくまで東京空襲の途中で迷子になった爆撃機が東北地方を誤爆したように見せかけたい。とりあえず電力施設の周辺を焼き払って日本側の対応を見極めようと思ったか。夜間のピンポイント爆撃を成功させるためには、飛行機を目標まで誘導する地上要員(早い話がスパイ)の協力が必要と思われるが、日本側はこれを察知して爆撃機と地上誘導員の連携を妨害、このため3機の爆撃機は高度を取り損なって不忘山に激突した…。

 まあ、想像を逞しくすれば、こんなスパイアクション小説みたいな虚々実々の筋書きも組み立てられなくもないが、こういう国家の諜報戦に関する事項は絶対に表に出てくることはないだろう。戦争に勝っても負けても、自国の諜報機関の実力や手口や弱点が推測されかねない事実は、アメリカも日本も現在に至るまで隠し続けているに決まっている。



天上大風ー東大戦没同窓生慰霊碑

 本郷の東京大学正門前から、本郷通りをはさんだ向こう側を眺めると、そんなに目立つモニュメントではないが、『天上大風』と書かれた石碑がマンションの敷地に建っている。この書は良寛禅師(1758−1831)によるものであるが、石碑自体は「東京大學戦没同窓生之碑」であって直接良寛禅師を記念するものではない。

 この碑の由来についてくどくど説明するよりも、石碑の左側に記された碑文を紹介する方が事情を理解しやすいであろう。

 昭和6年(1931)から昭和20年(1945)まで15年(満州事変、日中戦争、太平洋戦争)にわたる戦争で東京大学も多数の戦没者を出したが戦後50年のあいだその実数は不明のままであった。このたび大学による学徒出陣の調査が行われ1700人近い戦没者が明らかになったが、その実数は2500人にも達すると推定されている。
 私たち医学部卒業生有志はこの事実に驚き、悲しみ、世紀が変わる前に追悼の碑を建ててこの事実を後世に伝えるべく追悼基金を組織した。
 この「東京大学戦没同窓生之碑」は、大学正門前のこの地にお住まいの方々から温かいお心をいただいて建立が可能になり、同窓生あい集って建立するものである。
 「避けがたい状況の下に、愛する人々のために一命を捧げた」若者たちのいたましくも悲しい事実を歴史に刻む碑であって、戦没同窓生への深い思いを「天上大風」という良寛の言葉に託した。
 今世紀最後の東京大学五月祭初日の今日、ここに同志あい集ってこの碑を建立し音楽と花を捧げ深い哀悼を世に伝えるものである。
平成12年5月27日 医学部戦没同窓生追悼基金


という次第である。私もこの年にはもう東京大学には勤務していなかったので、こんなセレモニーがあったことは何も知らなかったし、またこの碑文の妙に奥歯に物がはさまったような文面からも推察されるとおり、東大五月祭という華やかな行事に合わせたに割には、かなりひっそり行われたようだ。

 碑文のとおり、多数の東大同窓生が先の大戦で学徒出陣し、膨大な犠牲者を出したが、その実態はいまだに正確に把握されていないようだ。驚くべきことである。自然災害や交通機関の大事故などの犠牲者については、警察や消防や自衛隊などの方々によってかなり正確に身元が判明するのに、国家の命令で好むと好まないにかかわらず学業半ばで戦地に動員されて死んだ学徒の身元調査や死亡状況が、戦後50年以上も放置されていた、いや、もはや戦後100年経とうが200年経とうがおそらく実態は不明なまま歴史の中に風化していく状況になってしまったのではないか。

 そもそもこの碑文、東大同窓生の戦没者を悼む趣旨でありながら、何で大通り1本はさんだ広大な本郷キャンパスの中に建立されなかったのか、また東大同窓生の戦没者は各学部にわたっているはずなのに、何で医学部卒業生有志としか刻まれていないのか。

 その事情は後ほど触れるとして、何で戦没者を悼む石碑に良寛禅師の書が刻まれているのかについて考えてみたい。20世紀も終わらんとしていた頃には、おそらく東大医学部の同窓会組織(鉄門倶楽部)の広報や趣意書の中に理由や由来が書いてあったかも知れないが、とにかくひっそり行われたセレモニーだったらしいので私は知るよしもないし、またこの石碑を紹介してある幾つかのサイトにも明確に書いてあるわけではない。

 良寛禅師といえば、子どもの素直な心を愛して諸国を旅した和尚ということで、昔は子ども向けの絵本などにも登場しており、私も幼い頃に祖母が寝物語に読んでくれた絵本で、「りょうかんさまは…」という部分を読む祖母の声だけは記憶に焼き付いている。どんな物語だったかは全然覚えていないが…(笑)。

 「天上大風」(“てんじょうおおかぜ”と読むらしい)について、空は穏やかに見えても高いところでは激しい風が吹いていると解釈する方もいるが、これでは平和に見えても動乱の風が吹いているものだということになって、戦没者の追悼にはふさわしくない。いろいろサイトを探して、私ならこれが一番この石碑にふさわしいと思われる良寛禅師の逸話を見つけた。

 
諸国を放浪していた良寛は子どもが大好きだったので、ある日凧揚げをしている子どもたちをニコニコしながら眺めていた。その日は風がなくて凧がうまく揚がらないので、良寛の姿を見つけた子どもたちは彼の近くに寄ってきて凧を揚げて欲しいとせがんだら、良寛はその凧に「天上大風」と書いた。空の上には風が吹いているものだよと教えられた子どもたちがもう一度凧を揚げたら、今度は凧は天高く舞い上がったという。

 戦没学徒も子ども好きな良寛に見守られて安らかに眠れというようにも受け取れるが、それでは亡くなった学徒に対するあまりの子ども扱いであろう。「揚がらなかった凧」がキーワードだと思う。出陣して戦死した学徒の学業の志もまたついに揚がらぬまま終わってしまった。学問によって世に貢献しようとした学徒の志に、良寛の「天上大風」の書を刻むことによって、今一度世の中に高く掲げてやりたい、それがこの石碑の趣旨なのではないか。

 我が国では20世紀の半ば、多くの学徒が戦地に動員されて志を果たせぬまま戦死してしまった、二度とこういう悲劇を繰り返してくれるなという警鐘を鳴らすことだけが、戦没学徒に対する唯一の慰霊なのである。良寛の言葉に乗せて戦没学徒の志を高く掲げ、本郷通りの反対側の本郷キャンパスで賑やかに開催されていたであろう五月祭の主人公たちが戦火に斃れるような時代は二度とあってはならないと誓った、あるいは誓って欲しい、それがこの石碑の趣旨であると私は信じる。

 では何でその石碑が東大キャンパス構内に建てられなかったのか。その理由はこの翌年に建てられたもう一つの慰霊碑によって明らかになる。今度は本郷キャンパスの裏手の暗闇坂、竹下夢二美術館隣の民家の塀に埋め込まれたレリーフがあるが、これも東大医学部卒業生有志が建立したものだ。

 レリーフの隣に刻まれたプレートの碑文を紹介する。

 昭和6年(1931)から昭和20年(1945)まで15年にわたる戦争(満州事変、日中戦争、太平洋戦争)
東京大学医学部は同窓生の中から200人を越える多数の戦没者を出した。彼らの多くはアリューシャン列島アッツ島からニューギニア、ガダルカナル島、中国、東南アジア、沖縄に拡がった戦火の中で、また広島・長崎で医療従事中に原子爆弾の劫火に斃れた。
 私たち医学部卒業生有志はこの事実を悲しみ、これを後世に伝えるべく、基金を組織して戦没者と戦没地の調査を行い、同窓会鉄門倶楽部に医学部構内への追悼碑建設を提案した。同倶楽部はこの事業の実行を決議して医学部教授会の承認を求めたが、未だその採決に至らず、いまや戦没世代同窓生は碑の完成を見ることなく世を去ろうとしている。
 この「東京大学医学部戦没同窓生の碑」は、戦後最初の総長南原繁先生の戦没学徒哀悼の志を承け、この地にお住まいの鹿野家の皆様から温かいお心をいただいて建立するに至ったのであって、避けがたい状況下に、愛する人々のために一命を捧げた若者たちのいたましくも悲しい事実を歴史に刻む碑である。私たちは戦没同窓生への思いを戦いに斃れた友を担って母校に帰り来る学友の群像に託し、近い将来同窓会鉄門倶楽部の決議が実行され、この碑が医学部構内に移築されることを期している。
 新世紀最初の東京大学五月祭の今日、ここに同志あい集ってこの碑を建立し、音楽と花を捧げて深い哀悼を世に伝える。
平成13年5月27日 医学部戦没同窓生追悼基金

 私が今さらくどくど書くまでもなく、この碑文がすべての事情を雄弁に語ってくれている。要するに医学部教授会が東大構内への碑の建立に反対したのである。戦火に斃れた友を担って悲しみのうちに帰ってきた同窓生たちは、まるで源義経の腰越状のように、裏門からさえ母校に入れて貰えず、まさに象徴的な暗闇の中に放置されているのだ。おそらく1年目は医学部教授会に遠慮して、あのような中途半端な碑文になった。しかしそれでは戦没同窓生慰霊の意味がない、それで構内への慰霊碑建立に反対した医学部教授会の行為自体をも碑文に刻んで後世に残すべく、翌年の2基目の石碑となったに違いない。

 東大医学部教授会の中に、自分たちの政治勢力拡大のために感情的な反戦スローガンで戦後の国民に誤った洗脳をしてきた護憲派リベラルの手先もいる。そういう連中が“戦没者”という言葉を、何でもかんでも“戦争”に結びつけるムチャクチャな論法で、自分たちの勢力の主張を感情的に国民に訴えるプロパガンダとして利用したに違いない。召集されて戦地に赴かされた同窓の先輩たちをまるで戦争協力者と誹謗したに等しいではないか。そういう心ない行いをする情けない教授連がいることを、私は医学部同窓生として恥じるものである。



津波の惨事は予見できたか

 何とも痛ましいというか、やりきれない裁判であった。2011年3月11日の東日本大震災に続いて石巻市立大川小学校を津波が襲い、児童74名と教職員10名が犠牲になった大惨事で、子供たちの遺族が宮城県と石巻市に対して損害賠償を請求した訴訟である。2016年10月の仙台地方裁判所の一審に続いて、2018年4月の仙台高等裁判所の二審も市と県の防災避難体制の不備を指摘して、遺族側の請求をほぼ認める判決を下した。

 この裁判は控訴期限ギリギリの2014年3月10日に起こされたことを見ても分かるように、教職員も多数殉職していることから、亡くなった教員の責任まで問うことへの葛藤も大きかったのであろう。確かに当日在校した先生方は自分だけさっさと逃げ出すようなこともせず、最後まで子供たちのそばに寄り添って最善を尽くそうとされたのであるから、それを今さら死者を鞭打つような裁判を起こすのは酷だという思いもあったに違いない。しかしこれだけ多くの児童が犠牲になっているのに、誰の責任か分からないままうやむやになってしまうのでは、亡くなった子供たちにも顔向けできないという苦渋の選択だったと思う。我が子が亡くなったのはすべて想定外の津波のせいで片付けてしまうならば、東京電力の原子力発電所事故の怠慢や無責任と同じことではないか、という気持ちはあったであろう。

 一審と二審の司法判断はさておくとして、私も昨年(2017年)6月に石巻を訪れて、大川小学校跡地の惨状も目の当たりにしてきた。鉄筋2階建ての校舎の壁が粉砕され、コンクリートの梁や柱が飴のようにねじ曲げられており、津波の破壊力をまざまざと見せつけられる思いだった。

 2011年3月11日のあの日にここで何が起こったのか、その場に居合わせなかった者が軽々しく後知恵の批判めいたことを発言することは厳に慎まなければいけないが、そうかといって当事者を鞭打たない、同情して深く追求しないという日本人の美徳を発揮し続けるだけでは、亡くなった子供たちが浮かばれないという状況もあったことが、その後のジャーナリストらの情報開示請求や関係者の聞き取り調査などから明らかになったという。

 あの日の午後2時46分に地震発生、下校準備中だった児童らはただちに一次避難場所の校庭に集合したが、その後で津波警報が6メートル級から10メートル級に引き上げられた時点に至っても、なお二次避難場所が決まらず、教頭、教諭など学校関係者や地区の大人たちが不毛な議論を続けていたらしい。教頭や一部教諭は学校の裏山に避難させようとしていたが、地区の区長は津波はここまで来ないと言って譲らず、“喧嘩みたいに揉めていた”し、たまりかねて裏山に登ろうとした子供たちは「列に戻れ」と怒られて校庭に引き戻されたという証言がある。そのまま裏山に登って逃げていれば助かったものを、地震発生後50分以上、津波襲来の1分前になるまで、子供たちは校庭に待機させられ、そのまま津波の犠牲になった。

 誰もが明確な責任感をもってリーダーシップを発揮できない状況だったと思われる。津波を想定した避難マニュアルも一応あるにはあったが、二次避難場所としては「近所の空き地や公園等」としか記載されておらず、「学校の裏山」なり「数百メートル先の高台」など具体的な指示は何も書かれていなかったために、その場に居合わせた大人たちは後難を恐れて、つまり後から自分の判断の責任を追及されるのを恐れて、児童たちに明確な避難先を指図できなかった。教頭や教諭たちは最初「山へ登れ」と指示したにもかかわらず、おそらく地区の区長などに言い負かされた結果、裏山への避難を口々にせがむ児童たちをわざわざ死地に引き戻してしまったのだ。責任問題が絡んでくると、自分の守るべき者たちさえ守れなくなる日本の大人社会の弱点が見えてくる。これは神風特別攻撃隊の記事の中でも論じたことだ。

 たびたび問題になる学校の裏山であるが、私も現地を見て驚いた。“学校の裏山”と言うより“学校の校庭”と言っても良いほどの場所にあり、震災後はフェンスが張られて立ち入れなくなったが、写真を見れば分かるとおり、子供の足ならば十分に登ることが可能な程度の斜面であるし、事実子供たちは普段からこの裏山に登ったりして親しんでいる場所だったようだ。この斜面の途中、フェンス上縁のやや上にある小さな立て札の場所が津波の到達した高さである。ほんの数分もあれば子供たちは安全地点まで逃げおおせたであろう。

 こう書くと、それじゃあ障害のある子はどうするんだとか、学校に避難してきている高齢者はどうするんだとかいう一見博愛主義的な批判も出てくるが、それは別問題であろう。とりあえず斜面を登れる元気な子供たちは先に山へ逃がしてやる、そしてその後に取り残された者たちを余力のある大人たちが担いででも一緒に登って逃げれば良い。日本という国には、もしそういう事態になったら取り残された者たちを見捨てて自分だけ逃げるような人間は少ないのだ。(責任から逃げる人間は多いけれど)

 いろいろ追求したって子供たちは帰って来ないのだし、本当は責任がある人たちの中にも津波の犠牲になった人も多いことだろうし、もうあの時あの現場に居なかった者が声高に批判するのは止めようというのも、日本人の心情としては理解できるが、私が6年後の現場に立って痛切に感じたことがある。それは一部の人たちにとっては不謹慎きわまることだと知っているので今まで誰にも語らなかったが、やはりこの際だから書いておこうと思う。

 私が大川小学校跡地に立って真っ先に感じたこと、あまりにも突拍子もなく聞こえると思われるが、もしもあの場にミッドウェイ海戦を知る者が1人でもいれば惨事は回避できただろうということだった。太平洋戦争中の1942年(昭和17年)6月に日米海軍が戦った海戦であり、知っている人には今さら言うまでもないが、それまで連戦連勝に近かった日本海軍、まさかまだアメリカの機動部隊は出て来ないと油断していたところ、想定外の事態で意外にもアメリカの空母が迫っていた、それで陸上基地を攻撃する予定で爆弾を積んであった艦載機を、艦隊攻撃用の魚雷に換装しようとすったもんだしているうちに、アメリカ空母の艦載機に先手を打たれて4隻の日本空母全滅という大敗北を喫した戦いである。

 地震発生で児童を校庭に一次避難させたはいいが、津波警報が発せられてもまだ二次避難先が決まらず、裏山へ登らせるという緊急の先手を打たなかったばかりに大惨事を招いた、私にはミッドウェイ海戦を知る者さえいれば、と地団駄を踏みたくなる思いだった。

 戦争と震災は違うとか、津波と敵艦載機を一緒にするなとか言う人も多いだろうが、それは屁理屈である。小学校の位置から太平洋は山に遮られて見えない、もし太平洋の海面が望めれば異変への対処がもっと切実に感じられたかも知れないが、海が見えないだけに津波がここまで来るはずはないという楽観論を排除できなかった、そうなると自分だけの判断で児童を山へ登らせれば、後で勝手なことを指示した自分の責任が問われるのは必至、そういう恐れがあってあの場の大人たちは互いに金縛り状態だっただろう。

 ミッドウェイではまさかアメリカ空母がそんなに早く先手を仕掛けて来ないだろうという認識でも、最悪の場合を想定するべきであった。そして今回も北上川河口の山に挟まれた地形を理解していれば、10メートル級の津波が遡って学校に到達することは最悪のケースとして想定するべきであったし、ミッドウェイ海戦を知っていれば当然想定しなければいけないと気付くはずであった。後知恵ではない、太平洋で日本の先人たちが血をもって贖った
(あがなった)歴史の教訓である。

 人間は悲しいもので、自分の経験からしか教訓を引き出せない。『天才は歴史から学ぶが、凡人は経験から学ぶ』という格言が世界各地にあるが、それはまさにこのことである。人生のうちに2度もアメリカ機動部隊と対戦する人はいないし、2度も未曾有の震災と津波から学童を守る立場になる人はいない。いや、ちょっとこれには語弊があって、ミッドウェイ海戦の司令長官は4ヶ月半後に行われた南太平洋海戦でも司令長官を務め、この時は前回の失敗の経験を活かして油断せず、敵空母発見と同時にさっさと艦載機を発艦させてから、消火・防火対策を十分施して敵の攻撃を待ち受け、アメリカ空母ホーネットを撃沈してアメリカ海軍をして“史上最悪の海軍記念日”と嘆かせている。

 しかしこんな雪辱の機会に恵まれる人間は普通はいないのであって、同じような危機を迎えるのは通常人生ただ1回きり、そのたった1回の危機に少しでも適切な判断を下せるように歴史を学べというのが格言の教えなのだが、中でもミッドウェイ海戦のような戦争の歴史だと、単なる毛嫌い以上に極端に拒絶反応を示す人が戦後日本には少なくない。日教組や全教組といった極端なリベラル左派に牛耳られてきた教育界では特にその傾向が強いのではなかろうか。

 戦争における先人たちの歴史を研究することは、国家の戦争を容認することとは次元が異なる。それらをごちゃ混ぜにして、自分たちの主張を感情的に国民に訴えるデマゴーグに利用する政治勢力が、戦争の研究を妨害し、先人たちの戦争体験を学ぶ機会を奪って、本来ならば平時においても有用であったはずの歴史の教訓を空しくしてしまった事例が他に幾つもあったのではないか、それを痛感させられた一連のできごとであった。



朝鮮半島に雪崩の季節

 2018年6月12日、シンガポールで史上初の米朝首脳会談が開かれ、アメリカのトランプ大統領と北朝鮮の金正恩委員長が歩み寄って握手する歴史的なシーンが鳴り物入りで全世界に中継された。両首脳ともこの会談の手柄を誇らしげに宣言したが、その成果については疑問視する専門家が多い。会談の主な合意内容は、朝鮮半島の非核化に向けて北朝鮮が努力すること、およびアメリカは北朝鮮の現体制を保証することの2点で、この合意の上に今後新たな米朝関係を築いていく決意を述べたにとどまっており、北朝鮮による半島非核化への具体的なプロセスが何ら示されていないばかりか、アメリカは世界で最も抑圧的な国家の一つと言われている北朝鮮の現体制を保証する確約を与えてしまったのである。

 世界中の識者がいろいろコメントしているが、私もこの第2点目、北朝鮮の現体制を保証したことはアメリカ史上最悪の汚点だったと思う。これまで民主化運動を弾圧する中華人民共和国の人権問題をさんざん批判してきたアメリカ合衆国にとって、これは言い逃れできない明白なダブルスタンダードである。これまで良くも悪くも自由の象徴だったアメリカ合衆国のイメージは裏切られ、これでもはやアメリカに中国の民主化運動を支援する大義名分は無くなったと言ってよい。おそらく中国民主化運動の指導者たちの中には大きな失望を感じている人も多いだろう。

 しかも自由の旗手の地位を棒に振ってまでアメリカが手にした物は何も無い。北朝鮮が完全に核兵器を廃棄する具体的な方策は何も示されておらず、これをもって米朝首脳会談の勝者は金正恩委員長だとする論調があるし、トランプ大統領が見かけ上の外交成果に溺れて北朝鮮にしてやられたという見方もある。確かにトランプ大統領は自分が米朝関係の新たなページを開いたと高らかに宣言する一方、具体的な核廃棄の道筋も決められないまま、北朝鮮の経済復興については日韓に丸投げしただけだった。自分の手柄を吹聴するだけであとは何も実行しようとしない図々しい輩そのものではないか。どうせ韓国にその力量は無いから日本にお鉢が回って来ることになるだろう。

 しかしトランプ大統領がいかに無能なお調子者にしろ、いくら何でもわざわざこんな敗北外交をしたとは思えない。やはりアメリカの有権者の支持を得て大統領になるくらいの人間だから、それなりの考えはあってのことではないのか。

 それでちょっとこれまでのトランプ大統領の外交を見直してみると、実に恐ろしい可能性の予測も見えてくる。トランプ大統領は昨年12月にエルサレムをイスラエルの首都と認定、イスラエル建国70周年の2018年5月14日にアメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移転した。その前後、『死海文書』の話題がネットなどを賑わせたことを覚えておられるだろうか。何でも1947年に死海のほとりの洞窟で発見されたユダヤ教の古文書には神の預言が記されていて、3000年以上も昔に神はエルサレムをイスラエルの首都と定めた、イスラエルの民は長い流浪の果てにイスラエルを建国、70年間は不安定な時代が続くが最終戦争(ハルマゲドン)が起こって再び神の栄光が…云々などと解読されるらしい。

 ちょうどトランプ大統領がエルサレムを首都に認定した事実を予言している、だから2018年は本当にハルマゲドンが起きるかも知れないと一部の人々は説いた。そんな荒唐無稽なこと、『死海文書』なる怪しげな古文書の預言のとおりに歴史が動くはずないと思っている人は、何と宗教的な人間かと逆説的に揶揄する論説を何かで読んでハッとしたことがある。神の預言のとおりに歴史が動くのではなく、神の預言として歴史を作ろうとする人間がいる、それが政治だという内容だった。

 なるほど!目からウロコだった。読み解かれた神の預言のとおりに権力を振るえば、その権力があたかも神から付与された権威そのものとなる。トランプ大統領のような人間にとってそれは最高の栄誉であろう。トランプ大統領はイスラエルの民を救うメシアとして行動しようと決意した。つまりトランプ大統領は以後のアメリカの主戦場を中東に定めた可能性がある。そうなると最大の懸案はアジア情勢、中東でイスラエルを助けて戦っている最中に、背後で北朝鮮にミサイルを撃たれてはかなわない。もはや現代のアメリカ合衆国には国家を上げて二正面戦争を遂行する実力は残っていないのだ。それで背後の北朝鮮の若造とは敗北外交も承知で、こんな屈辱的な首脳会談を展開したと私は考える。エルサレム問題と今回の米朝首脳会談をリンクさせてみれば、それ以外の結論は思いつかない。

 しかしいずれにしても当面の間、北朝鮮の核兵器に関しては以前ほどの危険な脅威ではなくなった。朝鮮半島の雪解けムードは今後しばらく続くだろう。日本にとってめでたし、めでたし…で済むだろうか?残念ながらそうは行かないと見る。雪解けとくれば雪崩の季節、いったいどんな雪崩が予想されるのか。

 北朝鮮自体の脅威は減少した、それを口実にアメリカの強大な軍事力は中東方面へシフトするだろう。アメリカ合衆国は第二次世界大戦後、世界の警察官を自認しつつ、自国の権益を守るためにアジアへも膨大な軍事力を派遣しており、それは戦後長いことロシア(ソ連)や中国の兵力とガップリ四つに噛み合って地域の安定をもたらしてきたが、トランプ大統領は今それを無責任に引き上げようとしている。

 アメリカの強力な兵力が中東にシフトして空洞化した部分に次に何が入ってくるか、それが極東地域の雪崩の深刻な原因となるだろう。果てしない膨張政策を目論む中国(中華人民共和国)がアメリカの空白に入り込もうとして動乱が起こる可能性は非常に高いと思う。我が国の尖閣諸島のみならず、台湾海峡や、南シナ海で中国が領有を狙っている地域については厳重な警戒が必要となるだろう。中東を“聖戦”と位置づけ、北朝鮮の金体制を保証した落日の自由主義国家アメリカなどもはや頼りにならない。そんな状況で中国と対峙できる国がアジアにあるだろうか。



あなたは誰を護るのか

 2018年6月18日、通勤通学時間帯の午前8時少し前、大阪市をマグニチュード6.1の大地震が襲った。日本列島の地殻変動がここへきてかなり活発になっているのを感じるが、このくらいの揺れには動じることなく平然と生活する日本人に外人観光客も驚いているらしい。しかしあまりに地震に慣れて、多少の被害はやむを得ずと諦めてしまう、あるいは責任者を許してしまうのも困ったものである。

 今回の大阪地震で最も痛ましかったのは、何と言っても小学校のブロック塀が崩れて学童が犠牲になった事件、これはもはや自然災害などではなくて、人災あるいは事件といってよい。大阪府高槻市の寿栄小学校のプール脇のブロック塀が地震によって崩落し、ちょうど登校途中だった4年生の女児が下敷きになって亡くなった事件である。この塀はプールの基礎部分の上にさらにブロックを積み上げて3.5メートルの高さにまでなっており、しかも支えの鉄骨が頂点まで入っていなかった。建築基準法で定められたブロック塀の上限2.2メートルに違反する構造であり、付近の住民や卒業生等によると、このブロック塀は当初から道路側に傾いているのが目に見えていたと言うし、防災アドバイザーという立場で学校を訪れた第三者が危険性を指摘したにもかかわらず、市の教育委員会は無資格者による杜撰な点検のみで問題なしと判定、学校側もそれ以上の追求をしなかった、そんな状況で地震が発生して不安視されたとおりブロック塀が倒壊し、たまたま下を通っていた児童が生命を奪われた。

 言い逃れできない高槻市の責任に、関係者が深々と頭を下げて謝罪する光景がマスコミやネットに載ったが、いくら大人どもが頭を下げて謝ったって亡くなった児童は帰って来ない。こうなる前にきちんと対処してあげていれば何事も起こらず、地震に伴って報道されることもなく、その児童も震災後再開された小学校に普通に登校していたはずなのである。建築基準法に違反しているブロック塀の危険性を指摘されていながら見過ごした責任者は当然のことながら許せるものではないが、今回のような事件を引き起こすかも知れない体質はほとんどすべての日本人に共通のものと思われる。

 1978年(昭和53年)に起こった宮城県沖地震で、崩れたブロック塀の下敷きになって亡くなった人が多かったことから建築基準法が一部改正されているが、そんな教訓は40年経った現在でも活かされていなかった。そもそも起こり得る危険をできるだけ未然に防ぐために法令を遵守しようなどと考えている関係者は少ないのではないか。医療事故なども同じだが、今回のような死亡事故(事件)が1件発生した背景には、いわゆる「ヒヤリ ハット」というニアミスの事例が何十件とあり、さらにニアミスとまでは行かなくても、ちょっと危なかったなという程度の事例は何百何千件もあると言われている。つまり氷山の一角というわけだ。事実、今回の事件を受けて大阪府が点検したところ、府内の小中学校の8割以上で違反ブロック塀が見つかったという報道もあった。

 建築基準法に違反していても、地震が来なければ事故は起こらない、地震が来ても塀が何とか揺れに耐えてくれれば事故は起こらない、万一塀が倒れてしまっても下に誰もいなければ人身事故にはならない、「アー、危なかったな、人に当たらなくて良かったな、運が良かったな」で済んでしまう。そこまで見越して何千分の一未満の確率でしか起こらない悲劇を防ぐための予算や労力を惜しむ人間は多いだろうし、自分の上司や同僚のそういう怠慢を知っても諫められない人間もたぶん多いだろう。今回あの場所で児童が亡くなったことを知って、「あの時もっと自分がしっかりしていたら…」と密かに自責の念に駆られている人は少なくないと思われる。

 そもそもブロック塀に限らず、人間の営みの空間である建築物を作る際に、面倒な建築基準法など気にする人間は少ないのである。都内の某大学が2012年度に完成させた新校舎では、図面を引く段階で権限の強い学部や学科が贅沢なスペースをふんだんに分捕ってしまったために、ある学科の実習室は元々倉庫予定だったスペースを転用して急遽間に合わせただけ、100m2もない床面積で窓の無い部屋に50人以上の学生を押し込む劣悪なものだった。これだけでも学校建築に関する別の法令に違反しているのであるが、経営者も管理職も事務方職員も知らんぷりを決め込んでいたところ、いざ実際に実習が始まってみると室内の二酸化炭素濃度は危険なまでに上昇して、建築基準法にも違反していることが明らかになった。幸い内部からの指摘で事無きを得ているが、仮にそのまま見過ごされていたとしても二酸化炭素中毒による学生の死亡や重体の事故が起きる確率は何千分の一未満ではあっただろう。我が国の適法精神などその程度のものではないのか。実際、校舎完成後も文科省など第三者と称する監査や評価が何度か入ったが、綺麗に整備された部分だけを形式的にざっと案内されただけで、あとは大学側から茶菓の接待など受けて帰って行ったらしい。

 悲劇の確率はせいぜい何千分の一、と多寡を括った状況を身の回りに見つけた時に、あなたはどのように行動するのか。非常に低い確率ではあるが悲劇の主人公になってしまうかも知れない人を護ろうとするのか、それとも法令に従うための予算の出費を嫌う経営者・管理職や、面倒な折衝や調整など真っ平御免の事務方の人間を護ろうとするのか。残念ながら歴史を見ていくと、力の強い方を護る、あるいは積極的に護らないにしても仕方なく追従する人間の方が多いのが実情である。つまり我が身が可愛いだけであるが、そういう歴史の裏事情を図らずも見せてくれたのが今回のブロック塀倒壊であった。



三原山の大噴火

 最近このサイトに、大阪の地震でブロック塀が倒壊した事件だとか、同じく満員電車に長時間閉じ込められたとか、東日本大震災の津波からの避難が遅れたとか、後から責任を問われかねない事態になると決断が鈍ってしまうという日本人の欠陥が災害で露呈された話を3つばかり()書いてきましたが、今回は逆に、そういう突発的な非常時に発揮された日本人の優れた資質を書いてみたいと思います。昭和61年(1986年)11月の三原山大噴火に関するエピソードで、これまであまり大きく取り上げられることもなかったようですが、今回たまたま仕事で伊豆大島に行った機会にいろいろネットを調べたところ、私も初めて事実を知った次第でした。

 伊豆大島を観光された方なら誰でもご覧になったことがあると思いますが、島のほぼ南西側、大島一周道路に沿って、ウネウネとうねったような縞模様の地層が露出した断崖が数百メートルにわたって続いている場所があります。地層大切断面、または地元の方々からはバウムクーヘンなどと呼ばれていますが、これだけの規模の地層断面が戦後の昭和28年(1953年)、道路拡張工事まで発見されなかったというのは驚きですね。

 恥ずかしいことに、私はこの地層は褶曲
(しゅうきょく)によるものであると、うっかり漠然と考えてしまいました。つまり地殻の両側から力が作用して、地層が波打つように盛り上がったと思ったわけですが、実は違うのです。この層状構造は、約150年ごとに起こる三原山の大噴火による堆積物が100層ほど積み重なったものだそうです。地上に露出している部分だけでも1万数千年にわたる噴火の歴史が刻まれているわけですね。

 大地と人間の時間のスケールの差をまざまざと見せつけられました。私が初めてこの地層大切断面を見たのは昭和58年(1983年)6月のことです。都立病院の小児科医として大島を起点に新島、式根島、神津島を乳児検診で巡回した時、大島での打ち合わせ終了後、保健所のワゴン車で島内を案内して貰いました。平成30年(2018年)の今回は老人介護施設の健診で約35年ぶりの訪問、あの時は若手の小児科医だった私も35年後の今は老いぼれの病理医になってしまったわけです(笑)。この間、大島の地層断面は一部で数ミリほど表面が風化したかも知れませんが、三原山が1万数千年かけて作り上げた地形は悠久の時間の中でほとんど変わらずに存在し続けていたのですね。

 人間1人の人生なんて自然の営みに比べたらほんの一瞬の光芒に過ぎないのだと改めて感じました。地位や財産や名声を追い求めて汲々とする人も多いですが、そんなものはこの地層のほんの一層にも満たないのですね。結局人生の極意とは、土井晩翠が諸葛孔明の生涯を謳い上げた『星落秋風五丈原』に詠んだごとく、
 
功名いづれ夢のあと 消えざるものはただ誠
に尽きるのでしょう。本当はその“誠”でさえ悠久の時間の中に埋没してしまうのですが、だったら不正でもハッタリでも噛まして金持ちになりたい、有名になってチヤホヤされたい…という生き方は、私はしたくありません。

 ところで昭和61年の三原山大噴火ですが、私が乳児検診で大島を訪れた3年半後のことでした。大規模な地割れ噴火を起こして何本もの火柱が立ち上っている映像が連日報道されており、私はもう病理医になっていましたが、あの時の保健所の方々や住民の方々は大丈夫だろうかととても心配だったものです。

 実は昭和61年11月15日、三原山が12年ぶりに噴火、その時はまだいわゆる“御神火”といって観光客を呼ぶ絶好のチャンスと期待されていたようですが、11月21日午後4時15分、突然大音響と地震を伴って大噴火が始まり、噴煙は8000メートル上空まで噴き上がりました。さらに山裾では地割れ噴火も始まり、溶岩流が元町(大島の表玄関とも言える町)に向かって流れているとの情報も入り、たちまち島は大パニックになりました。
 ただちに大島住民1万人を島外に避難させなければならない。突然の災害にもかかわらず、避難は翌22日の未明には完了しましたが、その中で発揮された関係者の並々ならぬ自己犠牲の精神を伴った勇気には本当に頭が下がるものがあります。大島の20歳以上の男性は全員が地区消防団に所属するそうですが、その若者たちが動けない老人を背負って港に避難させた、自分が幼い頃に世話になった老人たちの救出という命がけの作業を厭う者はいなかったそうです。
 次に溶岩流の迫る元町港が危ないというので乗船場所が島の南端の波浮港に変更されますが、さらに波浮港も水蒸気爆発の危険ありとのことで再度元町港に戻されます。港にごった返す何千人もの避難民を運んだのは東海汽船のバスの運転手たちでした。しかも情報が錯綜したためにバスの乗降まで含めれば片道30分は必要だったであろう元町〜波浮港を38台のバスが2往復したそうです。自衛隊でも警察でもない民間企業の運転手がこの命がけの作業を率先して行ないました。
 こうして港に集められた住民たちの脱出のために、海上自衛隊や海上保安庁ばかりでなく、東海汽船の船舶も溶岩流迫る元町港に着岸しました。また急を聞いて近隣諸島の漁船なども駆けつけたそうです。去年(2017年)封切られた『ダンケルク』という映画の中で、ドイツ軍迫るフランスのダンケルク海岸から連合軍の兵士たちを救出するために、英国民間の漁船や観光船までが駆けつけるという話がありましたが、戦後の日本にも同じようなことがあったのです。
 また深夜から明け方にかけての脱出劇だったので、照明が消えてはパニックに輪をかけることになる、そこで島の発電所の所員が最後まで島に残って発電機の修理と保守に当たりました。

 こういう英雄でも何でもない人たちの英雄的な行動のおかげで、大島の全島避難は1人の犠牲者も出すことなく、翌日未明までに完了しました。以上のことはこちらのサイトに出ていますが、まるで映画の題材にもできそうなほど感動的な全島避難の救出劇、こんなサイトにでもヒットしなければ知ることもなく終わるところでした。日本人は自分が関与したこの種の英雄的な業績をあまり吹聴しません。つまり当たり前のことを当たり前に遂行したとしか思わないのですね。当たり前なことを自慢したり吹聴するのは恥ずかしい、それが日本人の強さだと思います。

 日本国民のほとんどはこの勇敢な資質を先祖から受け継いでいると思いますが、それが責任を問われる決断をしなければいけない場面になると何で急に臆病になってしまうのか。火山弾や溶岩流は怖くないけれど、他人や世間から責任を問われて指弾されるのは恐ろしい。本当に不思議な国民性だと思います。



やっとお会いできましたね、美濃部少佐

 もうずいぶん以前のことになってしまったが、私もこのサイトの神風特別攻撃隊のページに、特攻というムチャクチャな作戦に内心は反発しつつも、中間管理職の悲哀で部下を特攻に出さざるを得なかった隊長クラスの人間が多かった中で、特攻に頑強に反対し続けて自分の隊からは特攻を出さなかった美濃部大尉(戦争末期に少佐に進級)がいたという記事を書いた。渡辺洋二さんという方の書かれた『彗星夜襲隊』(朝日ソノラマ→後に光人社NF文庫)という本に紹介された海軍芙蓉部隊の隊長である。光人社NF文庫の副題には「特攻拒否の異色集団」とあるとおり、美濃部さんは大尉時代のフィリピン戦においても特攻の創始者大西瀧治郎中将にも意見を言って、自分の部下からは1人も特攻を出さなかったという。

 その美濃部さんがお書きになった私版本があるということは以前から知っていたし、美濃部さんの遺族であるお嬢様とも10年ほど前の一時期メールのやり取りがあって、その折に貴重な歴史の証人だからぜひ出版をされたら良いとお勧めし、当時は私も自分の父の従軍記を軍事雑誌に投稿していた関係もあって、光人社の担当者にご紹介もしていたのだが、その後出版の話は一向になしの礫で、ああ、これでもう美濃部少佐の著作も広く世に出ることはないのかと残念に思っていた。美濃部少佐自身も単に戦後のヒューマニズムの視点から特攻に反対していたわけではないと述べられているし、お嬢様も父君が特攻拒否の人という面からしかマスコミなどに取り上げられて貰えないご不満もおありだったようなので、光人社との出版の交渉は不調に終わったのだろうと勝手に推測していたところ、何と昨年(2017年)になって方丈社という出版社から復刻版『大正っ子の太平洋戦記』として出版されたことを知り、さっそく買い求めて読んでみた。私にとっては美濃部さんとの初対面である。

 読んでみて、なぜ10年前の出版交渉が成立しなかったのか納得できる気がした。おそらく美濃部さんの原稿は大学ノートか何かに横書きだったと思われ、普通の出版社の縦書きには馴染まなかったのだろうというのが一つ、ではなぜ原文が横書きだったかというと、美濃部さんは旧日本海軍の専門用語をほとんど略語でしか記していないからだが、これがまた門外漢には非常に分かりにくい。たとえば連合艦隊はGeneral FleetだからGFと省略するのは「艦これ」などというネットゲームに夢中になっている若い人でも知っている人は多いだろうが、では機動部隊はTask ForceだからTFかと思えば実はこれがKDB、日本語の「きどうぶたい(
KIDOUBUTAI)」の頭文字だというから、海軍軍人の言葉遊びにちょっと恐れ入ってしまう。また空母がA、戦艦がB、巡洋艦がC、駆逐艦がd、戦闘機がfc、爆撃機がfb…等、等。

 こんな略語などは現代の出版技術ですべて普通の日本語に変換すれば良さそうなものだが、おそらく御遺族は父君の手書きのままの出版を望まれたのかも知れない。こういう略号の他にも、「艦これ」マニアでなくてもちょっと戦史を知っている読者ならすぐに指摘できるような初歩的な間違いも随所に見受けられる。たとえば真珠湾攻撃の機動部隊(KDB)を護衛した高速戦艦が比叡と金剛になっているが、実際は比叡と霧島である。またマレー沖で海軍航空隊が撃沈した英国東洋艦隊の戦艦はプリンス・オブ・ウェールズともう1隻はレパルスであるが、初出の部分でレナウンとなっている。ただし本のずっと後に出てくる部分では正しくレパルスとなっている。(レナウンとレパルスは同型艦)

 あとミッドウェイ海戦を批判する部分で、航空戦を知らない司令官として暗に南雲忠一を砲術専門と書いているが、実際は水雷専門である。ちょっとマニアックだが、こういう書籍を手に取ろうと思う読者なら簡単に指摘できるような誤りが他にも数多く散見され、光人社のような戦記に慣れた出版社なら当然訂正をしてからでなければ出版しないだろうが、たぶん御遺族は父君の記載内容の変更を潔しとされなかったのではないか。

 あまりに専門的で簡略すぎる略語の多用といい、初歩的な事実記載の誤りといい、この本はせっかく方丈社が出版してくれたけれども、これは読みにくいと言って敬遠し、資料的価値が低いと言って途中で投げ捨ててしまう読者も多いのではないかと、私も最初のうちハラハラしながら読み進んでいたが、途中から美濃部さんがこの本を通じて後世に言い残したかったことがはっきり分かった。そこで及ばずながら、私が読み解いた美濃部さんの真意とでもいうべきものをこのサイトに書き残し、この本が後世にわたって長く読み継がれていくための一助としたい。

 美濃部さんが書き残したかったことは3つあると思うが、その1番目は海軍兵学校(海兵)同期生の鎮魂である。海兵の厳しい訓練と教育の中で互いに培った同期生の友情は終生変わらぬ強固なものだという。それが卒業後数年を経ずして始まった対米戦争の中で、その同期生たちを次々と戦場に失った悲しみは我々戦後世代には決して心から理解できるものではないだろう。美濃部さんは若くして太平洋の各戦場に散った同期生たちを惜しみ、簡略ではあるが可能な限りの文面を割いて、彼らの戦死状況とともに鎮魂の言葉を記しておられる。
 またご自分が参加されなかった戦闘に関しては、その戦場にいて生き残った同期生たちの残した記録を掲載しておられるが、そのために本書全体を通じて戦争の経過の記載が前後することが多く、戦史として通読することを困難にしているのも事実である。しかし美濃部さんは『大正っ子の太平洋戦記』をご自分1人で執筆されたとは思っておられない。戦死した友、生き残った友、兵学校で苦楽を共にしたすべての同期生と一緒に執筆したとの自負が感じられる。

 美濃部さんが書き残したかったことの2番目。それは近年さまざまなメディアが取り上げたとおり、特攻作戦に対する厳しい批判である。太平洋戦争(大東亜戦争)の目的も忘れ、真珠湾攻撃をはじめとしてまだ連合軍の戦備も整っていない隙を突いて“空き巣狙い”的に上げた戦果に慢心し、驕り高ぶって北はアリューシャンへ、西はインド洋へ、南はソロモン群島へと際限もなく戦線を拡大し、内南洋(日本の絶対国防圏)の護りもおろそかにして戦略も戦術も無いままに貴重な航空戦力をすり潰した挙げ句、若い搭乗員(パイロット)の技量未熟を口実に特攻作戦に踏み切った無能な上層部、猛烈な敵の弾幕に突入した経験もなく、自分は出撃する気もないくせに若手搭乗員にばかり二度と帰らぬ特攻出撃を命じた卑劣な指揮官に対する批判、私がこのサイトに神風特別攻撃隊について書き始めたのは2003年2月のことだが、その6年前に亡くなった美濃部さんの霊が乗り移って書かせたのではないかと思うくらい同じ論法で特攻作戦を批判されている。

 しかし美濃部さんは戦後のセンチメンタルなヒューマニズムの視点から特攻作戦に反対したのではない。軍人なら戦争に際して国家の命ずる作戦に生命の危険も顧みず従事するのは当然だが、何の工夫もなく兵士の愛国心に乗じて安易に特攻を命じた無策な上層部は許せない。現に美濃部さんは夜間航法を得意とする偵察機のパイロットを戦闘機に配置転換し、戦闘機による夜間襲撃法を編み出してアメリカ軍に一泡吹かせているのだ。こういう工夫もなく、パイロットの技量未熟を口実に自分の無能を棚上げして若者たちに特攻を命じた者を許せない。特攻を命じた指揮官たちの無能と無責任を不問に付して、特攻隊員たちを美化するジャーナリストや銃後の国民、平成の国民たちへの警鐘ではなかろうか。このことも一言一句とまでは行かなくても、私のサイトに書いたこととほとんど同じである。

 そして美濃部さんが書き残したかったことの3番目。これは本書にある美濃部さん自身の言葉で語るのが最も効果的であろう。

 
平成っ子たちよ、君達は別の意味の太平洋戦争を繰り返そうとしている!平和、戦争反対、経済繁栄、自由、生活環境の保全。これが君達の21世紀に向けての世論だ。しかし、このような虫の良い独りよがりが世界に通じるものか。富栄えた日本は、これ以上戦う必要は無いであろう。しかし世界の7割は今も飢餓に苦しむ中で、安住の地とその権益を拡大しようとするのは当然である、その間に争いは起こる。グルメあさりに浮かれる日本人が、世界は仲良くしようと訴えるだけで通ると思うのか。自由経済は資本と技術の進んだ先進国が勝つに決まっている。後進国(現在は発展途上国というがここは原文のまま)がそれでついてくるだろうか?

 その上で、戦争中は上官にも楯突くべきは楯突いた美濃部さんは次のように提言する。

 
平成の若者よ、心から平和安定を願うなら、日本人の生活を50%切り下げよ。そのお金で飢餓民族の経済発展を支援せよ。今の日本人にその覚悟と実行力なくして世界平和を唱える資格は無い。

 私もこのサイトのどこかに書いたことだが、まったく同感である。美濃部少佐、できれば生前お会いしたかったです。



美濃部少佐余聞

 前回、太平洋戦争中に特攻に反対して自分の隊の部下を特攻に出さなかった美濃部正少佐の著書『大正っ子の太平洋戦記』にようやく巡り会えた機会に、美濃部少佐がこの本を通じて何を後世の我々に伝えたかったのかを私なりに解釈して記事にした。美濃部少佐の特攻批判は奇しくも私の神風特別攻撃隊のサイトの要旨とほとんど同じであり、興味のある方はそちらを読んだうえで、ぜひ美濃部少佐の本を手に取って頂きたい。

 菊水作戦を控えた昭和20年2月末に木更津基地で行われた次期作戦会議の席上、美濃部少佐が連合艦隊主席参謀黒岩少将に面と向かって楯突く有名な場面も、ご本人の筆でしっかりと記載されている。米軍の沖縄進攻に対する迎撃は全軍特攻、練度の落ちた搭乗員の現状では特攻以外に打開策無しと言い放つ黒岩少将に対して、反骨精神旺盛な美濃部少佐は、抗命罪覚悟で末席から立ち上がって異議を述べる。
「全力特攻、特に速度の遅い練習機迄駆り出しても、十重二十重のグラマンの防禦網を突破することは不可能。特攻の掛け声ばかりでは勝てないのは比島(フィリピン)戦で証明済」
黒岩少将は、末席の若造、何を言うかとばかり色をなした。
「必死尽忠の士4000機空を覆うて進撃するとき、何者がこれを遮るか。第一線の少壮士官の言とも思えぬ」

満座の中で臆病者呼ばわりされたも同然だが、黒岩少将以下その席に並み居る将官たちは誰一人として自分が出撃する気は無いのだ。それに対して美濃部少佐は夜間洋上飛行に長けた水上偵察機の搭乗員を戦闘機に配置転換して夜襲部隊を編制、厳しい訓練を行なっていたのである。

 若い搭乗員は死を恐れていない、同じ死ぬならカラ念仏でなく、死に甲斐のある作戦を立てて欲しいと要求した美濃部少佐に対して、黒岩少将は「それならば君に具体策があるのか」
連合艦隊参謀たる者が一介の飛行隊長に向かって発する言葉ではない。唖然とした美濃部少佐は、戦闘機による夜襲部隊の編制・訓練経過を答えた後に、あの有名なセリフを満座の上官にたたき付けるのである。
「2000機の練習機を駆り出す前に、ここに居る古参パイロットが(練習機白菊で)西から帝都に進入されたい。私が箱根上空で零戦で待ち受けます。一機でも進入できますか」

 まあ、無能な上司はこういう正論を吐く部下に対してなす術がない。心の中で舌打ちしつつも正論に刃向かうことはできないのだ。連合艦隊の上層部も正論を無視することができず、結局夜襲専門の戦闘機と艦上爆撃機よりなる美濃部少佐の芙蓉部隊は特攻待機から外されることになる。だからといってこの部隊が安閑と生き延びたわけではなく、沖縄に来襲した圧倒的な米軍兵力に対して果敢な夜間襲撃を加えて相当の戦果を上げているが、戦死・未帰還となった隊員も少なくない。しかも戦局も最終段階の本土決戦となれば美濃部少佐を先頭に古参の搭乗員は洋上の敵機動部隊に体当たり攻撃をかける予定になっていた。決して特攻を忌避したわけではなく、他に工夫もなく漫然と特攻を命じた上層部を美濃部少佐は許せなかったのだ。

 さて『大正っ子の太平洋戦記』には、そんな“特攻拒否の人”としての美濃部さんの別の一面が窺える記述がある。美濃部さんは軍人として常に戦うための創意工夫を怠らない人だった。だからこそ何の工夫もなく安易に部下に特攻を命じた上層部を批判し続けたわけであるが…。

 私が面白いと思ったのはミッドウェイ海戦大敗北後の昭和17年、連合艦隊司令長官から広く海軍士官に異例の通達があり、斬新な兵器や戦法について意見を募集したらしい。どうせ若造の言うことに耳を傾けるわけがないと訝しがりながらも、当時大尉だった美濃部さんは大型潜水空母のアイディアを提出したとのこと。
 彗星艦爆を8機搭載した大型潜水艦50隻を建造して大西洋に進出させ、計400機の爆撃機をもって米国東海岸の航空機工場を爆撃するというもの、彗星は後に美濃部少佐の芙蓉部隊が装備した機種だが、昭和18年6月に量産開始というから、ミッドウェイ海戦のあった昭和17年に一介の大尉が知っていたとは思えない。あるいは後にご自分が指揮した部隊の彗星の記憶と混乱していて、実際に連合艦隊に提出した意見書には単に艦爆(艦上爆撃機)とのみ書いたと思われる。

 当時はどうせ荒唐無稽なアイディアと思っていたらしい美濃部さんだったが、昭和20年には本当に潜特型という大型潜水艦3隻が完成、晴嵐という水上爆撃機を各艦3機ずつ搭載する潜水空母だった。美濃部さんも夢物語が現実化したと、たぶん苦笑混じりに書かれている。この大型潜水艦は昭和17年度の改マル五計画に基づいて建造されたから、美濃部さんの進言が採用されたものかどうかはちょっと微妙な時期、と言うよりはたぶん上層部は美濃部さんのアイディアより先に思いついていたのではないか。しかし当然軍極秘事項だったはずで、それを一介の大尉が提案してきて周章狼狽したと思われる。後日美濃部さんの元に参謀がやってきて、君のアイディアは艦政本部(艦艇や兵器の建造を所轄する部署)の反対で見合わせ中と告げられたそうだ。

 こういう航空機を搭載する潜水艦について、本来隠密行動で姿を隠すことが使命の潜水艦に、浮かび上がることを前提とした航空機など積んではいけなかったんだよと、私は学生の講義で話をしたし(笑)、潜特型の大型潜水艦をもってパナマ運河を爆撃する計画があったことも別の記事でちょっとだけ触れているので、興味ある方は参照されたい。

 ついでに戦争もどん詰まりの局面に至ってパナマ運河爆撃計画は、米艦隊の根拠地だったウルシ−環礁攻撃に変更されたが、この時出撃した潜水艦に搭載されていた晴嵐爆撃機には日の丸の代わりに星のマークが描かれていたという。つまり米軍機に化けて敵艦隊に接近しようと考えたわけで、明白な国際法違反だが、これを卑怯と考える精神的土壌は日本には乏しかった。ヤマトタケルが女に化けてクマソタケルを討ったという故事などその好例、討たれた方も相手を卑怯者と罵るどころか、その武勇に感嘆しながら死んでいくから恐れ入ったもの、そもそもクマソタケルが武勇に感嘆して自分の“タケル”の名前を贈ったからヤマトタケルと名乗るようになったわけだ。しかし太平洋戦争末期の潜水艦は出撃した洋上で大日本帝国の降伏を知り、晴嵐爆撃機は星のマークを晴れて日の丸に塗り替えられたうえで、海中に投棄された。

 もう一つついでの話で、この潜特型は伊号第400、401、402の3隻が完成、他に伊号第404と405が未完成だったが、何で伊号第403が欠番かというと、日本海軍の潜水艦にとって3という数字は不吉なもの、そんな話も先ほどの学生の講義で話したとおりで、縁起を担いで403は命名されなかったのだろう。ただし東宝特撮映画の『海底軍艦』という作品には架空の伊号第403潜水艦が登場している。

 さて脱線が長くなって美濃部少佐には大変失礼いたしましたが、美濃部さんのアイディアの工夫は攻撃だけでなく、むしろ防御に活かされている。戦争末期、美濃部さんの指揮する芙蓉部隊は大隅半島都城近くの岩川基地に進出して沖縄に進攻した米軍に対峙していたが、他の陸海軍基地が米軍の猛攻に晒されて北九州へ後退せざるを得ない状況になっていた中で、岩川基地だけは終戦まで米軍に発見されず最後まで踏ん張って健闘した。
 その防御の工夫は、滑走路に刈草を敷き詰めて乳牛を繋ぎ、上空から牧場に見せかける、飛行機は500〜1000メートル離れた林の中に分散秘匿する、駐機中の飛行機からはいちいち燃料を抜いて銃撃を受けても燃え上がらないようにする、敵機が上空を飛んでも基地の所在を暴露しないように対空射撃は控える、など、現在の我々から見るとそんなの当たり前だろうと思われるようなことばかりだが、日本軍はその当たり前のことを軽視したために、銃後の国民が血の滲むような思いで製造した貴重な航空機を丸裸で滑走路に並べたまま、トラック島やフィリピンでむざむざ何十機も何百機も地上で銃撃されて炎上させたとして、美濃部さんは痛恨の思いを綴っている。

 しかしこういう当たり前のことをきちんと実行して、上層部にとって耳の痛い正論を吐く美濃部少佐は、たぶん偉い人たちからは最後まで敬遠されたのだろう。そう思わせる記載が、海軍の沖縄特攻作戦を指揮した第5航空艦隊長官の宇垣纏中将の戦陣日誌『戦藻録』にある。
 昭和20年7月23日に宇垣長官が突然岩川基地を視察したことは美濃部さんの本にも書いてあり、孤立していると思っていた自分の隊も気にかけて貰っていたことを喜んだと同時に、戦後は宇垣中将の『戦藻録』に芙蓉部隊が褒めて書かれていることを感じ入っておられたようだが、私から見れば宇垣中将の記載は失礼きわまりないと思う。

7月23日 月曜日 半晴
(前略)敵の来襲もなし。
この機会に岩川基地を視察すべしと為し青木6航空艦隊
(原文6AF)参謀副長、高橋参謀副長、今村参謀を従え13時15分白菊機(練習機)にて鹿屋発進、在空15分くらいにて岩川着陸、蓑部少佐隊長の説明を聴く。

 この後は滑走路もよく青草で覆われ、航空機の秘匿状況も完全で、これまで敵の攻撃を受けていないことに驚き、水上機出身の隊長ながらよく統率して目覚ましい戦果を上げているとお褒めの言葉が続いた後、さらに昼間は敵に制空権を奪われている現状での夜間戦闘機活用に対する同意も記載されている。

 やっと上層部が美濃部少佐の正しさを認めたとも言えるが、美濃部の字が間違っている。これは失礼ではないのか。本当に自分の非を認め、相手を心からねぎらう気持ちがあれば、その相手の名前を日誌に書くときには正しい漢字を調べるのが普通の心構えではないのか。やはりすでに死を覚悟していたであろう宇垣長官はこの期に及んで、すべてのことが上の空、通り一遍の空虚な言辞に終始したとしか思えない。残された人々も、あの戦争において何が正しくて何が間違っていたのか、それを検証して後世に伝える努力もないまま、日本は終戦を迎え、再び経済大国として歩み出して現在に至っている、そんな気がしてならない。

 今回は美濃部さんの著書『大正っ子の太平洋戦記』にようやく巡り会えたのを機会に、思いついた事柄を余聞としてとりとめなく書いてみました。



情報伝達の技術

 太平洋戦争において日本軍が情報を軽視したということはよく言われることです。日露戦争の頃は日本に向けて航行するロシアのバルチック艦隊の動静を逐一入手しようと、在外公館や商社などから必死に情報を収集し、また日本各地に望楼を設けたり、近海に早期発見のための監視船を配備したりしていますが、太平洋戦争では偵察軽視で敵情を把握する努力もしないまま、むざむざアメリカ軍の奇襲を許す場面がいくつもあったと、前記の美濃部少佐も嘆いていました。

 では平成の日本においては情報はうまく活用されているのか。先日、これはちょっと危ういのではないかと思ったことがありました。現代の日本の上空には軍事・非軍事の機能を備えた人工衛星が何機も飛んでいて、台風や低気圧に伴う前線とか国土の地殻の動きはもちろん、仮に仮想敵国が大軍を動かすような事態があれば即座に把握できる態勢にあると思われますし、巷にはさまざまな媒体を介する多種多様な情報が溢れ、国民個人もパソコンからスマホまでさまざまな“情報機器”を所有していて、いろいろ日常生活に必要な情報を手軽に入手している…はずです。平成日本は情報大国?もしこのまま1940年代に戻ってもう一度アメリカと戦争してもミッドウェイで負けることはない?果たしてそうかな?

 さて私が情報の活用について危惧を抱いたのは次のようなことがあったからです。今年(2018年)最大級と言われた台風24号が9月末に日本列島を総ナメにする形で直撃し、10月1日は首都圏の交通機関が大混乱しました。九州では最大瞬間風速56メートル以上、首都圏でも場所によっては夜中に45メートル以上の記録的な暴風を観測し、翌朝我が家の近所の路上にも重量10キロ以上もありそうな電柱の部品が落下していて、こんな物に頭部を直撃されたら生命にかかわると背筋が凍ったものです。そんな超大型台風でしたから、鉄道や道路など交通機関がダメージを受けて運転を見合わせるのはむしろ当然、安全第一で復旧に努めて下さる鉄道マンや道路マンの方々には頭が下がるのですが…。

 問題はそのダメージと復旧の情報のアナウンスです。私は10月1日の月曜日の朝は横須賀線の衣笠駅で仕事の予定でした。山手線の復旧後一番列車に乗って品川へ、さらに東海道線熱海行きに乗り換えて横浜へ、ここまではかなり順調でした。最初に東海道線に乗ったのは、品川駅でそちらの方が早く来たのと、横須賀線に比べて横浜〜戸塚間の駅が少ないので、早めに大船駅に着いて横須賀線に乗り換えようと思ったからです。
 とにかくこういう時は何があるか分からないから、最近の電車には必ず備え付けられている車内の電光掲示板の情報を眺めていましたが、山手線が運転見合わせから復旧したとか、中央線快速が運転見合わせとか、青梅線が運転見合わせとか、そういう直接関係ない路線のダメージが伝えられるばかりでしたし、車掌による車内アナウンスもありませんでした。
 ところが横浜を出てしばらくすると突然列車は減速して停止してしまいました。その時になって初めて車掌のアナウンスがあり、台風で飛来した障害物が線路上にあるのでそれを除去していること、横浜〜戸塚間には現在4本の列車が走行中で、いつ戸塚駅に到着できるか分からないと説明がありました。そんなことは横浜を出る前に言えよ、すでに3本の列車が横浜を出て立ち往生しているということではないかと怒り心頭でしたが、これはまだ序の口だったのです。
 隣を走る横須賀線の線路上を横須賀線の列車が2本ほど追い抜いて行きました。横浜駅で情報伝達があれば、迷わず乗り換えていたはずの列車です。ノロノロ運転でやっと戸塚駅に到着、ここからは同じことなので向かいのホームの横須賀線に乗り換えようと思ったが、今度は横須賀線の列車が50分以上も来ない。少なくとも2本の列車が先行していったのですから、これはもう台風のせいではないですね。しかしこれもまだ序の口、実は大船駅から先の横須賀線は大変なことになっていたのですが、多くの乗客はまだそれを伝えられていませんでした。その証拠に、東海道線側のホームからは2本ほど列車が発車しましたが、鎌倉・横須賀方面へ向かおうとする大勢の通勤通学客が横須賀線ホームで列車を待っていましたから、それは確かなことです。
 そして大幅に遅れてやって来た横須賀線列車に乗って大船駅に到着してみると、大船〜久里浜間は倒木の影響で不通になっており、復旧の目処は立っていないとのこと。鎌倉方面の学校に通う生徒さんたちも途方に暮れていました。もう一度書きますが、この区間の横須賀線が不通になっているという情報は、少なくとも私が乗った東海道線と横須賀線の列車内では一度も車掌のアナウンスはありませんでしたし、車内の電光掲示板にも流れませんでした。もし横浜駅到着までの間にこの情報が伝えられれば、私は横浜から京浜急行に乗り換えて横須賀中央駅に行き、そこからバスで衣笠に向かうという選択ができたはずなのです。しかし仕事はキャンセルせざるを得ませんでした。

 さて私の愚痴を長々と読んで頂きましたが、わざわざ簡単な鉄道路線図を作ってまで(笑)こんなことを書いたのは、東海道線や横須賀線の下り列車に乗っている乗客にとって、山手線や中央線や青梅線などに比べてはるかに重要な横須賀線不通という情報をなぜ流さなかったのか、車内電光掲示板を作成するスタッフも列車の車掌も、この列車に乗っている乗客にとって何が本当に重要な情報かを忖度する能力も無かったのかということを考えようと思ったからです。

 情報はそれを必要とする場所に適切に伝達されなければ意味はない。まさにそのことを象徴するようなできごとでした。あの日のJRの鉄道マンには情報を適切に乗客に届ける能力が足りなかったとしか言いようがありません。こんなことでは震災や津波などの大災害に遭遇した時に、車内に流される情報に素直に従っていたら却って危険ですね。

 鉄道マンばかりではありません。先日大病を患った旧友から、医者の説明が要領を得なくて不安だという愚痴を聞く機会がありました。医師も患者さんに対して病気の診断・治療・予後に関する適切な情報を伝えなければいけないのに、それが十分できていない。医師が十分な説明=情報伝達ができない理由は、医師自身が病気の実態を素人でも明確に理解できるような形で知っていないことにあります。素人一般が修める高校生物学と医学部の専門教育のギャップが大きすぎて、基本的な人体の構造や機能に関する知識が十分に消化しきれていないことはこのサイトにも折に触れて書いたことがありました。情報を適切に伝達するには、それ以前の適切な教育が必要なのです。

 では今回のJRのスタッフも適切な教育が不足していたのでしょうか。下り東海道線も横須賀線も大船駅を経由して先に向かうなどという路線図は今さら教育するまでもないし、鉄道マンである以上は乗客に対するサービスに徹しなければいけないという心構えも十分に教育されているでしょう。彼らの資質として何がいけなかったのか。それを考えていくと、日本の将来にとって実に憂うべき慄然とせざるを得ない背景が浮かび上がってくるような気がします。

 結論を先に言うと、鉄道マンに限らず、あの鉄道スタッフを含む若い世代の日本人のほとんどは、情報を取捨選択する能力を磨くための訓練を受けていないのではないか。

 あの若い世代が育った時代はパソコンが普及し、インターネットや数々のソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)が整備されつつありました。物心ついた頃にはさまざまな情報機器から溢れるネットの情報を一方的に浴びる状況だったと思います。年長になるにつれてフェイスブックやラインなど友人たちとのつながりもネットを介することが多くなり、ネットで仕入れた話題を無差別に友人たちに受け売りすることで友情も深まったでしょうし、そういうネットへの接続を家族から制限された若者は友人たちとも疎遠になったかも知れません。またネット上には独り遊びできるさまざまなゲームが提供されており、友人がいなければいないでそれほど孤独に苛まれることもなかったのではないか。

 そうやって情報機器を通じて一方的にネットから溢れ出る膨大な情報は、到底生身の人間1人の頭脳で処理しきれる量ではありませんから、この情報はどんな過程に必要で、どの情報は緊急性が高く、どの情報は後回しにしても良いか、そういうことを判断する訓練はまったく無かったと思います。そしてそうやって育ってきた人間がJRに採用されて車掌の勤務に就いていたと考えれば、なるほどあの朝の車内アナウンスが不適切きわまりなかった理由も納得できます。情報を取捨選択して、それを必要とされる場所に提供する能力の根本的かつ致命的な欠損、それ以外に考えられません。

 そういう情報処理能力の欠損した世代が、これから社会の各分野で中堅からベテランの地位を占めていくことになりますが、将来の日本の情報伝達は果たして大丈夫なのか。数年前に信州大学学長の入学式の訓示にあったように、パソコンやスマホなどの情報機器を遮断して自分の頭で考える訓練を、全国すべての子どもや若者たちに強制する教育を考えなければ、日本は情報過剰亡国になってしまうと思います。



究極の戦争抑止兵器

 人類(ホモ・サピエンス)は本当によく同族で殺し合いをする種族である。考古学的にも、戦争はホモ・サピエンス同士のもので、例えばネアンデルタール人を滅亡させるためのような戦争はほとんど無いらしい。と言うより、先日NHKで放送していた人類誕生に関する科学番組によれば、ホモ・サピエンスの集団中に残るネアンデルタール人の遺伝子の比率を見ると、一方が一方を絶滅させたのではなく、地域的に両者が融和して混血が生じたと考えるのが妥当だそうで、戦争は互いに共存する気のないホモ・サピエンス同士の専売特許なのかも知れない。

 まあ、同じ知能と肉体を持つ同族同士が争うことによって、人類は文明を発達させてきた一面があるのも事実である。最初の頃は非力な肉体の人間同士が徒手空拳で蹴り合い、殴り合い、取っ組み合いで戦っていただろうが、獣のような牙や鋭い爪の代わりをする棒きれや石を道具として使うようになり、やがてそれが太刀や槍に進歩していったのと同時に、そういう戦争の道具である武器を振りかざして敵と肉弾戦を繰り広げるよりも、安全な距離からそういう武器を相手にぶつける飛び道具が発達してきた。そして火の使用を覚え火薬を使えるようになると、飛び道具は飛躍的に進歩して銃砲からミサイルという画期的な兵器が発明されたのであるが、これら一連の武器の発達は、ホモ・サピエンスが自らの非力な肉体を補うべく、巨大化した頭脳の働きによってもたらされたわけである。

 つまり他の動物種族たちは生き残りを賭けて、爪や牙を研ぎ澄ませて敵を攻撃する、身体の色を変化させて環境中に身を潜める、そのようなことを何万世代という気の遠くなるような歳月をかけて、適者生存という自然界の進化の法則にしたがって攻守の武器を手に入れてきたのに対して、ホモ・サピエンスは頭脳に内在する知能と意志の力できわめて短期間に戦う能力を飛躍的に増大させたといってよい。

 そして現在、ホモ・サピエンスの持つ戦闘能力は、核弾頭と大陸間弾道弾の開発によって地球上の反対側にある都市を一瞬にして消滅させることも可能になり、その攻撃能力は極大値に達した。もはやホモ・サピエンスは同族に対するこれ以上の攻撃能力を獲得することはないだろうし、もしこの攻撃力を行使する事態になった場合は種族の自滅という最悪の可能性までを考えなければいけなくなる。その自滅への恐怖こそが、皮肉なことに半世紀以上にわたって全面戦争を抑止してきた原動力でもある。

 しかし最近になって、核兵器による戦争抑止効果が疑わしくなってきた。一つには世界の指導者が、ヒロシマ・ナガサキの惨劇の記憶を共有できない世代に交代してきたこともあるが、もう一つは、核戦争が必ずしも東宝映画『世界大戦争』(1961年)や小説『渚にて』(ネビル・シュート:1957年)のような人類滅亡に直結するものではないという考え方が台頭してきたことにもよる。アメリカのテレビ映画『ザ・デイ・アフター』(1983年)や小説『ウォー・デイ』(ストリーバ-&クネトカ:1984年)はそういう観点から描かれている。

 したがって今後は次の戦争を未然に抑止するための新たな武器が必要になる。どこかの政治勢力のように「戦争反対」とか「平和を守ろう」とかいくら叫んだって、戦争を起こす側の耳になんか届くはずがない。

 ではどんな武器が必要なのか。ホモ・サピエンスは核弾道ミサイルをもって最強兵器の極致に達したわけだが、太古の時代の肉弾戦や現在の子ども同士の喧嘩のように、互いにパンチやキックを繰り出して自分の身体の一部を相手に打ち付けるのも、核弾頭を搭載したミサイルを敵国に撃ち込むのも原理的にはまったく同じである。筋肉の収縮によって握り拳を相手に叩きつけて怪我をさせるのも、弾道ミサイルを発射して敵国の都市を破壊するのも、結局は何かの“物体”を相手に衝突させるということだからだ。

 こういう種類の兵器を無力化できる武器があれば次の戦争を抑止できる。それは電磁波を応用した兵器ではないかと思う。空想科学小説やアニメの世界では昔から登場していた光線銃というヤツである。照準した相手に向かって発射すれば、威力は光の速さで伝播するから、レーダーとコンピューターに連動させればどんなミサイルも航空機も一瞬で撃破もしくは無力化できる。世界中の誰もが頭の中では考えている夢の超兵器と思うが、光を一点に集中させるレーザー光線が、大気中を直進する間にエネルギーを減衰してもなお目標を破壊できる、それだけの膨大なエネルギーをいかに発生させるかが大きな問題なのだろうと思う。

 しかしこういう光線銃または光線砲が開発されれば、自分に向かってくるミサイル等の飛翔物体は完全に撃破できるし、地上戦でも敵軍を山影や塹壕などの遮蔽物から一歩も外へ出さずに封じ込めることができる。かつて『鉄腕アトム』のアニメで、アトムが悪人の発射する光線銃のビームをヒラリヒラリとかわすシーンがあったものだが、いかにアトムが敏捷であろうとも光線銃で狙われたら逃れることは不可能だったはずだ。

 しかも光線銃または光線砲は原則的に水平線の彼方にある敵国の領土を直接照準することはできない。これもかつて『宇宙戦艦ヤマト』のアニメで、ガミラスの宇宙船が衛星の反対側にいるヤマトを狙うために、巨大な鏡を装備したミラー衛星を中継のために何機も打ち上げておくシーンがあったと思うが、あんな面倒なことでもしなければ地球の反対側にある敵国領土を狙うことはできない、光線銃または光線砲というのは専守防衛の意外に平和な武器なのである。早く誰かが、できれば日本の自衛隊あたりが早く開発してくれないかなあ。

 何だか今回はSF(空想科学小説)の夢物語みたいになってしまったが、最近は大震災や大型台風が某国の超兵器による攻撃だというような荒唐無稽な話を耳にすることもあり、そんな“地震兵器”や“気象兵器”なんかよりは光線銃の方がよほど現実的かなと思った次第(笑)。



戦争における日本人の度量

 しばらく前にこのコーナーにB29爆撃機の墜落について書いた時に、1945年(昭和20年)5月25日深夜のいわゆる“山の手大空襲”で撃墜されたB29重爆撃機からパラシュート降下して日本側に拘束されたアメリカ搭乗員は簡単な尋問の後に処刑されたと、いろいろなサイトの受け売りや自分自身の思い込みだけで書いてしまったが、実際はそんな単純なことではなかったようだ。安易に記事を書いてしまったことを反省する意味を込めて、その後いろいろな情報から知った状況を改めて記載しておきたい。

 戦争末期、日本本土空襲に参加して撃墜された連合軍機(大部分は米軍機)から脱出して日本側の捕虜になった搭乗員は約570人で、日本側が彼らを無差別爆撃による一般市民大量殺戮という戦争犯罪に加担した人間であると見なしたため多くが処刑されたり、あるいは原爆を含む味方の爆撃によって死亡したりして半数近くが帰還できなかったと、POW研究会のサイトに書いてある。POWとはPrisoner of War(戦争捕虜)、日本が捕らえた連合軍捕虜に関する研究や遺族との連絡などを行なっているらしい。

 このサイトの中に、日本本土近辺で撃墜された米軍機について、戦後アメリカが調査した資料が載せられており、捕虜搭乗員の処刑や虐待などに関するBC級戦犯裁判のためとはいえ、その徹底ぶりは驚くばかりである。日本本土空襲で失われた米軍機(一部英軍機)はほぼ1機残らず把握されており、その搭乗員の運命もまたかなり詳細に記録されている。

 この米軍の手厚さに比べて、日本軍上層部の部下搭乗員(特に特攻隊員)に対する冷淡さはもう虐待・遺棄といっても過言ではない。生き残った特攻隊員に対して、本来なら喜ぶべきであるのに、死ね死ねと責め立てた挙げ句たった1機で自爆飛行同然の出撃を命じ、その搭乗員がどこでどう戦死したのかは現在に至るもなお不確実なままという事例を別の記事に書いたことがある。もし戦争になっても、こういう国のために死にたくない。

 それはともかく、昭和20年5月25日のいわゆる“山の手大空襲”では、一晩に26機という本土空襲期間中最多のB29爆撃機が失われている。日本軍の高射砲の射程外、また日本の戦闘機の活動を封じられる1万メートル以上の高々度からの爆撃ならばB29爆撃機の損害も抑えられるのにと思っていたが、先日ふと思い当たったことがある。特に山の手方面の人家を目標とした場合、板橋のあたりには朝鮮人の居留区があった。板橋の職場で働いていた頃、この辺は朝鮮人が多く住んでいたので空襲の目標にならなかったという話を何回か聞いたことがある。ああ、そうか、高々度からの爆撃だと流れ弾で日本人以外を殺傷してしまう恐れがあったので、対空砲火や迎撃戦闘機の危険を冒してまでも低高度で東京上空に侵入せざるを得なかったのかと思い当たった次第。

 さてその“山の手大空襲”で撃墜された26機のB29爆撃機についても、1機残らず可能な限り最期の状況が調べ上げられているようだ。1998年に『プライベート・ライアン(Saving Private Ryan)』という映画が公開された。ライアン家の4人兄弟のうち第二次世界大戦の各戦場でそのうち3人までが戦死してしまうが、残る4人目の男の子だけはまだ二等兵(private)であるにもかかわらず、ノルマンディーの戦場から生きて家族の元へ返さなければいけないという任務を帯びた特殊部隊の物語だった。1人1人の兵士の運命もおろそかにしない米軍の人道主義は、映画に描かれた単なる絵空事だけではなかったようにも見える。

 “山の手大空襲”で失われたB29爆撃機26機の調査資料をざっと眺めてみよう。
1)機体番号42-24828(第313航空団505爆撃群所属 Lil Spook号)
 千代田区一番町(麹町)に墜落。機長William F.Helfelt中尉以下12名全員戦死と思われるが、遺体は9名分しか確認できなかった。小石川陸軍墓地に埋葬。

2)機体番号42-63558(第313航空団6爆撃群所属)
 豊島区高田の学習院下に墜落。機長Donald M.Fox中尉以下9名戦死。Charles W.Snell軍曹とHarry Magnuson軍曹が捕虜となり、Snell軍曹は火傷のため死亡、Magnuson軍曹は戦後米国へ帰還。

3)機体番号42-62538(第58航空団40爆撃群所属 Winged Victory II号)
 大田区久が原町に墜落。機長Andrew C.Papson大尉以下7名戦死。Delbert W.Miller少尉以下4名が捕虜となり東京憲兵隊へ。戦後米国へ帰還。

4)機体番号42-65269(第58航空団40爆撃群所属)
 江東区東雲に墜落。機長Ronald A.Hartt少佐以下10名戦死。Dale L.Johnson二等軍曹が捕虜となり東京憲兵隊へ。戦後米国へ帰還。

5)機体番号44-69728(第314航空団29爆撃群所属)
 足立区入谷町に墜落。James W.Mackenzie軍曹とEdward J.Cohghlan軍曹が戦死。機長Richard W.Mansfield大尉以下8名が捕虜となり東京憲兵隊へ。戦後米国へ帰還。Dwight H.Knapp少尉はパラシュート降下後荒川放水路に潜伏中、警防団員に発見されたためピストルで1人を射殺、1人に重傷を負わせた。逮捕されて上野憲兵分隊に引き渡され、殺人犯として斬首される。戦後憲兵分隊長は自決、司令官と斬首執行者は戦犯として懲役刑。

6)機体番号42-63537(第58航空団444爆撃群所属 Male Call号)
 川崎市水江町に墜落。David G.Sims大尉以下9名戦死。Glen B.Guyton二等軍曹とMichael J.Robertson二等軍曹が捕虜となり東京憲兵隊へ。戦後米国へ帰還。

7)機体番号42-94002(第313航空団504爆撃群所属)
 浦安市沖合いに墜落。機長Elba G.Hunt中尉以下12名全員戦死。3名の遺体のみ発見。

8)機体番号42-63508(第313航空団505爆撃群所属 Peachy号)
 流山市桐ヶ谷新田に墜落。機長Henry W.Putman大尉以下11名全員戦死。

9)機体番号44-69964(第313航空団505爆撃群所属 Mary Anna II号)
 印西市大字武西に墜落。Vity K.Karfelli二等軍曹など3名が戦死。機長Loren E.Deker中尉以下8名が捕虜になり東京憲兵隊へ。戦後米国へ帰還。機長は警備兵詰め所で殴打などの虐待を受けたとの談話を残す。また戦後7年経ってから畑からKarfelli二等軍曹の遺品のリングが見つかってアメリカの遺族に返還された。

10)機体番号42-94079(第314航空団39爆撃群所属)
 木更津市の畑に墜落。機長Colnelius W.Kobler大尉以下10名が戦死。Harry J.Slater軍曹が捕虜になり東京憲兵隊へ。戦後米国へ帰還。

11)機体番号44-69978(第313航空団504爆撃群所属)
 千葉県長生郡の田圃に墜落。機長Samuel B.Hitt中尉以下4名戦死。瀕死の重傷の1名は収容後死亡、同じく瀕死の重傷で明け方まで息のあった1名は斬首された。武士の情けで介錯したという理屈は聞き入れられず、首謀者と見なされた大尉が絞首刑、斬首にかかわった若干名が懲役刑を言い渡された。またFloyd F.Field中尉以下5名が捕虜となり東京憲兵隊へ。戦後米国へ帰還したが、うち1名は故国を前に病院船内で死亡。

12)機体番号42-24724(第58航空団444爆撃群 Her Majesty号)
 茨城県猿島郡に墜落。機長のHarold M.Bright大尉以下9名が戦死。Harold E.Hardelson二等軍曹は捕虜となって東京憲兵隊に送られた後に病死、Edward F.O'hara二等軍曹も捕虜となり東京憲兵隊へ。戦後米国へ帰還。

13)機体番号42-65327(第58航空団444爆撃群所属 Princess Eileen IV号)
 茨城県鹿嶋市に墜落。機長のJohn E.Shiler大尉以下6名が戦死。John H.Newcomb中尉以下6名が東京憲兵隊へ。戦後米国へ帰還。

14)機体番号42-63513(第73航空団499爆撃群所属)
 茨城県大洋村沖合いに墜落。機長のEdward K.Burreil中尉以下9名は戦死と見られ、8名の米兵の遺体が付近の海岸に上がった。Stanely Forystac伍長とWarren L.Olson軍曹は捕虜となったが火傷がひどく、東京憲兵隊本部医務部で安楽死。

15)機体番号42-24826(第313航空団505爆撃群所属 In The Mood号)
 川口市の田圃に墜落。6名が戦死。Charles J.Couchman Jr.二等軍曹以下5名が捕虜となり東京憲兵隊へ。うちFransis F.Jensen中尉は治療の見込みのない重傷として安楽死、他の4名は戦後米国へ帰還。

16)機体番号42-63529(第58航空団468爆撃群所属)
 埼玉県三郷市の田圃に墜落。機長のHomer H.Hinkle中尉以下4名が戦死。John C.Lamon中尉以下7名が捕虜となって東京憲兵隊へ。戦後米国へ帰還。


 これらの他にも10機のB29爆撃機が硫黄島またはマリアナ基地へ帰投途中の海上に墜落して、うち5機では全員死亡。3機は全員味方基地へ生還した。全員生還したうちの2機は硫黄島に不時着したようなので、これはアメリカ海兵隊が膨大な犠牲を払ってまで硫黄島を占領した甲斐があったというべきか。

 さて興味の無い方には面白くもないどころか、一部の方々には不快かも知れない資料を長々と引用したが、これでもかなりサイトの記載を省略しているし、さらにサイトの原本である米軍の調査資料はさらに詳細をきわめていると思われる。

 しかしこうしてB29墜落の事例を書き連ねていると、大戦中の昭和20年5月25日の深夜に東京山の手の市街地に焼夷弾の雨を降らせて火の海にし、うっかりすればまだ女学生だった私の母親までを殺したかも知れない、したがって未来の世に生まれてくるはずだった私の存在も消し去ったかも知れないアメリカの飛行士たちにも、ジョンとかジェームスとかファーストネームで優しく呼んでくれる人たちがいたことを実感する。

 そしてもう一つ、少なくともいわゆる“山の手大空襲”の晩に関する限り、日本軍、特に東京憲兵隊は思っていた以上に冷静に捕虜のアメリカ飛行士を扱っていたのだなと思った。拘置中に目隠しや殴打などの虐待はあったようだが、少なくとも捕虜を引き取った憲兵隊では理由なく彼らを殺していない。上記のサイトに見られるのは、瀕死の重傷の苦痛を楽にしてやるための斬首または薬殺(その理由を額面通りに連合軍が信じたかどうかはともかく)、および潜伏逃亡中に日本の警防団員を殺傷した者に執行された斬首だけで、あとの捕虜はほとんど戦後故国へ生還している、これは私は意外だった。

 しかしこれをもって当時の日本軍全般が捕虜搭乗員に対して冷静だったというわけにはいかない。戦後に生まれて本土空襲を経験していない我々より若い世代でさえ、戦後故国に帰還できたB29爆撃機の搭乗員に対して必ずしも冷静であり得ない。市街地にあれだけ非人道的な無差別絨毯爆撃を加えた爆撃機の搭乗員を生かして米国へ帰したことに、何か割り切れない気持ちが残るのも事実である。まして軍人・民間人を問わず、焼夷弾の恐怖にさらされて敵愾心を燃やしていた当時の日本人にとっては、さんざん同胞を殺した挙げ句、悠々とパラシュートで降下してきた米兵を冷静に取り扱えという方が無理なのだ。

 1945年(昭和20年)3月17日の神戸空襲で、機体番号42-24849(第73航空団500爆撃群所属)のB29爆撃機が神戸市再度山頂に墜落。機長のRobert J.Fitzgerald少佐以下9名が戦死。Robert W.Nelson少尉とAlgy S.Auganus軍曹が捕虜となり、中部軍司令部で軍事裁判にかけられ、無差別爆撃による市民殺傷の戦争犯罪で死刑の判決を受けて斬首された。Nelson少尉は自分たちは命令に従っただけであり、それが死刑に値するなら、あらゆる国の兵士は全部死刑になるだろうと抗議したが、却下された。戦後日本人B.C級戦犯に対して行われた軍事裁判では立場を逆転して同じ峻烈な判決が下され、多くの日本人が処刑されたが、今にしてこれらを考える時、当時の東京憲兵隊の処置は戦火の異常事態の下でも一定の冷静さを保っていたものとして評価できるのではないか。

 しかし東京の関係者がすべてそうだったというわけではなく、5月25日の“山の手大空襲”の晩に渋谷にあった陸軍刑務所も爆撃で炎上、ここにはそれに先立つ3月10日の“下町大空襲”で撃墜されて捕虜になったB29の搭乗員を含む米軍捕虜搭乗員62名が収容されていたが、全員焼死した。収容されていた400名ほどの日本人受刑者は救出されたが、米軍捕虜搭乗員は救出されなかったし、さらに炎から逃れようとした捕虜の一部は看守によって斬殺されたという。看守自身も空襲下で自分の身さえ危ないのに、何でお前たちまで助けなきゃいけないんだよという気持ちは分かる。むしろ自軍兵士が収容されている刑務所があることくらい情報として知っていただろうに、なぜ米軍司令部はそこに焼夷弾を落として捕虜を見殺しにしたのか、その方が疑問であると私は思う。広島や長崎に収容されていて死亡した米軍捕虜もあり、この記事の最初の方で引用した『プライベート・ライアン』に見る米軍の人道主義も実はうわべだけで、平然と自国捕虜を見殺しにする冷酷さと隣り合わせだったのか。

 とにかく戦争になると軍官民を問わず憎悪が剥き出しになってしまい、平然としていることは難しい。1945年(昭和20年)5月5日に九州で撃墜された2機のB29爆撃機からパラシュート降下して捕虜になった米兵の一部は、西部軍関係者と九州大学医学部関係者によって生体解剖されるというおぞましい事件も起こっているが、そういう時代にあってなお、墜落した米軍機の生存者に対して、日本の一般民衆が示した人道的な処置は驚くべきものである。もちろん空襲で肉親や愛する者を殺された憎しみから米兵に私刑を働いた者は多かっただろうが、戦後米兵から感謝さえされた事例もネット上に1つや2つではない。まさに明治年間のトルコ軍艦遭難事件で示されたのと同等な行為である。

 日本人の多くは、たとえ現時点で自分を殺そうとしていた敵兵に対してさえ、もし自分の肉親が敵地で同じ境遇になったらこうして欲しいと思うことを、実際に目の前にいる相手に与えることができる度量の広さを持ち合わせているのだと誇りに感じると同時に、それを前の記事で、
「民間人殺傷という戦争犯罪に加担した以上、それ(斬首)は戦時国際法に照らしてやむを得ないこと」などと漠然と書いてしまったことを恥ずかしいと思った。



戦艦大和イルミネーション in 呉

 今年(2018年)11月、学会で広島県呉市を訪れたら、メインストリートである蔵本通り沿いの公園に、ご覧のような透明な枠組みにLEDの電飾を散りばめた戦艦大和の巨大な模型がありました。12月から開催される“イルミネーションロード呉”を彩る縮尺1/20の戦艦大和だそうですが、付近には同じ1/20の空母赤城や、実物大の紫電改のイルミネーションの枠組みも準備されていました。プラモデルアートのマニアならばちょっと知ったかぶりの難癖をつけるかも知れない大和や赤城や紫電改でしたが、こういう帝国海軍の象徴がクリスマスのイルミネーションになっていることについて、さすが軍港の街だなと感嘆すると同時に、ちょっと思うこともありましたので書いてみます。

 ちなみにライトアップが始まるとこうなるという画像を、呉観光協会のホームページより拝借しました。ちょっと他に類を見ない迫力のクリスマスイベントですね。まあ、年末年始のイルミネーションと思えば、海軍の街独自の素敵なイベントと思えるのですが、キリスト降誕を祝う行事の一端と考えると、私にはちょっと違和感が…(笑)。

 私の世界史観は極端に言ってみれば「キリスト陰謀説」、キリストは数々の奇跡を行なって神の慈愛を示し、世界中の多くの敬虔で善良なクリスチャンたちを従えて救世主のような顔で人々の前に現れるが、いったん人々の心の中に忍び込むや侵略者の牙を剥き出しにして幾つもの文明や民族を滅亡させてきた、その罪業をいまだに悔いたことのない宗教である、そのキリストの陰謀に国を売ったのが薩長土肥の明治新政府、欧米キリスト教国は都合の良い時には貿易で日本から搾取し、都合が悪くなれば悪玉に仕立てて戦争の矛先を向け、もって自分たちだけが肥え太るために利用し続けてきた…というのが、まあ、簡潔に言った場合の私の世界史観ですが、ルーズベルトやトランプを見れば、当たらずと言えども遠からずか。

 そういう“キリストの陰謀”の中で踊らされて戦わされた帝国海軍の象徴が、キリスト降誕を祝うイベントに使われるのを見ると、私にはちょっと抵抗があります。それが一つ。

 もう一つはそんな荒唐無稽な陰謀説(笑)とは関係なく、もっと深刻な理由です。私もこのサイトの中で何度も書きましたが、私の学生時代の1960年代から1970年代くらいまでは、こんな軍事色豊かなイベントが陽の目を見ることなど絶対に考えられませんでした。とにかく一般国民は戦争反対の一点張りで、災害救援に派遣された自衛隊さえ税金泥棒呼ばわりされるような世相でした。そんな時代に戦艦大和のイルミネーションなど灯せば、いったいどんな混乱が巻き起こったか知れません。

 そういう時代の風潮に関する私の見解は別の記事に書きましたが、それとは別に戦艦大和のイルミネーションは、軍事というものに対する国民感情が極端に左から右へ揺り戻されている状況を象徴しているように見えて不安を感じます。

 『歴史街道』という雑誌の2018年12月号は「日米開戦七十七年目の真実」という特集を組んでいますが、その中に驚くべき証言が記載されていました。井上寿一氏の記事の中ですが、戦後間もない1945年10月に発足した幣原喜重郎内閣の下で「戦争調査会」という国家プロジェクトが起ち上げられた、戦争はなぜ起きたかを日本人自身の手で検証する目的です。後にイギリスとソ連によってこの調査会は潰されますが(たぶん両者とも戦争の責任は自分たちにもあることを自覚していたのでしょう)、この調査会の中で幣原喜重郎は驚くべき内容の発言をしている。

 幣原といえば戦前は英米との協調を基軸とした平和外交の外務大臣として有名ですが、その国際協調路線は満州事変など軍部の暴走によって頓挫させられてしまいました。だから幣原は軍部の横暴が戦争の原因だったと述べたかと思いきや、全然違うことを言って反省しているのです。

 協調路線の1920年代はいわゆる“平和とデモクラシーの時代”、世界的にも軍縮が行われて人々は平和を謳歌していたわけです。そういう時代に「軍人を蔑視し、軍隊なんか要らないとの風潮」が強まって、軍部内に不穏な情勢が生まれたと幣原は述べたそうです。そしてその反動として国民たちの間にも必要以上に軍事力への信仰が高まっていった。つまり平和を守るべきなのは当然としても、国防に任ずる軍人たちを極端に排斥したことが戦争の遠因になったと、当時の協調外交を推進した内閣の責任者が自らの非を反省したというのですね。

 戦後長いこと日本国民は自衛隊を“蔑視”してきたと言っても良いでしょう。戦前と同じことを繰り返してきたわけです。おそらく現内閣の下で国民の支持を得て憲法9条は改正され、自衛隊は新たな道を歩み始めるでしょう。戦艦大和や紫電改のイルミネーションが何の違和感もなく呉市の名物として設置されている状況を見て、戦前の歴史は確実に今また繰り返されていることを感じました。



人食い人種のタブー

 子供の頃からいろいろな本を読んだり、大人たちから話を聞いたりして、世の中には恐いものがたくさん存在していました。幽霊とか妖怪変化の類は恐かったですね、夜中にトイレ(当時は便所)に行けなくて困ったこともあった(笑)。本当に恐いのは幼児誘拐犯だとか強盗犯人だとか、最近でいえばちょっと注意されただけですぐ逆ギレするヤツだとか、実際に自分の身の回りにいるかも知れない人間の方が恐いんですけど、やっぱり幽霊や妖怪の方が恐かったですね。

 実際にいるかも知れないものの中で最も恐かったのは“人食い人種”です。何しろ猛獣や猛禽の類なら人間を食うこともあるだろうが、同じ人間の顔をした奴らが人間を取って食うというのだから、そのおぞましさたるや尋常でないものがあります。やはり幼児の身にとっても食人という行為はタブーだったんですね。その人類のタブーを平気で犯す人間がいると思うと、得体の知れない恐怖に全身が震え上がったものでした。絵本などに描かれていた“人食い人種”は、恐ろしい顔をして、幾つもの人間の頭蓋骨
(しゃれこうべ)に紐を通した首飾りを掛けており、それによる視覚的な恐怖もあったと思います。

 しかし“人食い人種”とはいっても、我々がスーパーやコンビニに夕食のおかずの買い出しに行くような気安さで人間狩りに行くわけではないんですね。最近まで世界各地に残っていた、あるいは残っている食人の習慣は宗教的な意味合いを持つ儀式であることが多いようで、例えば死んだ仲間への畏敬や愛着から遺体の肉や臓器を食べるのではないでしょうか。そういう食人の儀式が原因で、プリオンという病原体が人から人へ感染する病気も知られています。しばらく前に恐れられた狂牛病と同じ系統に属する疾患です。

 さて今回は何でこんなおぞましい話になったかというと、実は以下のような次第です。小学校の日本史の教科書以来お馴染みの大森貝塚、1877年に東京大学教授に赴任するため横浜港に到着したエドワード S モース博士が汽車で東京に向かう途中、大森駅を過ぎたあたりの左手の車窓に貝塚を発見、その年のうちに発掘調査を開始したところ、コード(cord:縄)のマークが押された土器片が多数発見されて“縄文時代”という言葉のもとになった有名な遺跡です。

 初めて来日して最初に乗った汽車の窓からこんな大変な遺跡を見つけてしまうのですから、モース博士の専門的な観察眼は驚くべきものでした。鉄道の線路は遺跡を縦断して敷設されていましたから、鉄道建設工事に関わった技術者たちは当然この遺跡を目にし、手に触れていたはずですが、考古学という発想が無かったにせよ、やはり1人や2人その土地の異常に気付く者がいても良かったのではないか。「ボーッと生きてんじゃねえよ!」の明治版というところでしょうか(笑)。

 ところでモース博士が作成した大森貝塚に関する発掘報告書の翻訳(岩波文庫)があったので読んでみたところ、小学校の教科書には書いてなかった(たぶん児童向けには書けない)ショッキングな内容がありました。モース博士は、大森貝塚に見られた食人の風習の証拠について述べています。
これは日本に人喰い人種がいたことを初めて示す資料である
として、イノシシやシカなど他の獣骨と混在した状態で多数の人骨が発見された、埋葬に使う場所であることも考えたが、発見された人骨はまったくバラバラに散乱しており、特に1体分がまとまって出土したものはなかったと記載しています。さらに発見された人骨は他の獣骨同様、人為的に割られていて、特に腱の付着部には筋肉を外すために多数の切り込みが入ったものもあったようです。

 これらの人骨の特徴は、世界の他の地域に見られる食人の風習と完全に一致するものであると述べており、1500年以上もの長い歴史を持つ日本の歴史書に人肉を食べたという記録も、人肉を食べる習慣を持った民族と遭遇したという記録も無いから、大森貝塚でのこの発見は日本最初の食人の証拠とモース博士は結論したわけですね。

 しかし日本と古くからお付き合いのあった中国の書物には、大切な客人を饗応するために妻を殺してその肉を食べさせる記載もあるし、日本列島をたびたび襲った大飢饉の際には死んだ村人の肉を食べたという伝承も聞いたことがありますから、日本人はたぶん他の民族よりも食人に関するタブーが強く、そういう記録や記憶が外国人であったモース博士にはなかなか気付きにくかったのだろうと思います。

 ただ人間というものは何らかの原因で慢性的な飢餓の状態になれば、緊急避難的に同胞の肉をも食べることがあることは知っておいた方がよいかも知れません。モース博士以降の時代になると、太平洋戦争中に米軍に封鎖されて食糧補給の途絶えた南方の島々などでは、飢えた日本兵が戦死した戦友の肉を食べたそうです。フィリピンの戦場に従軍した体験を持つ作家大岡昇平氏の小説『野火』にも人肉食のことが出てきます。

 また日本ではありませんが、戦後の1972年10月にアンデス山中に墜落したウルグアイ空軍機に乗っていた乗員乗客45名中16名が72日後に奇跡の生還を果たした事件で、彼らは先に餓死した仲間の肉を食糧として生き延びたことが世界中に報道されたこともありました。人間は飢えれば仲間の肉を口にすることもあります。それをおぞましいとか、非人道的だとか言って完全に目を背けてばかりいるのは危険かも知れません。あまりに強いタブーは、いったんそれが破られる事態になると、却って反動で取り返しのつかないところまで混乱することがあるかも知れないからです。

 おそらく縄文時代の大森貝塚の人々も飢饉か何かで食糧が不足して、先に逝ってしまった愛する家族や仲間の肉で泣く泣く生命をつないだのだと信じたいです。だったら生命の糧になってくれた仲間の遺骨くらいもっと丁寧に埋葬しろよとも思いますが、もしかしたら甕棺や墳墓を造ることもできないくらい集落が疲弊していたのかも知れません。

 イギリスの作家HGウェルズもSF小説『タイムマシン』の中で未来の人類が食糧危機に際して同胞の肉を食べるようになることを予言しているし、『ソイレント・グリーン』(1973年)というアメリカ映画は、宝石や貴金属よりも食糧が貴重になった食糧危機の時代、自らの希望で安楽死した人間の遺体から食糧を生産するという物語でした。安楽死を希望した人々は大きなスクリーンに映し出される良き時代の大自然の映像を見ながら、心を癒す音楽(確かベートーベンの『田園』交響曲)に包まれて、仲間の人類を救うために自分の肉体を捧げるのですね。見終わった後の切なさはいまだに胸に残っていますが、あの映画の舞台、調べてみたら2022年の設定とのことでした。


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