歌は世につれ

 
歌は世につれ 世は歌につれ
とは昔はよく言われたものだったが、歌は世の中の人心をいちはやく先取りしているものだなとつくづく思うことがある。2007年頃にユーキャンという会社から発売された『美しき日本の歌−こころの風景』というDVD、これは確か以前『あおげば尊し 2番』の時にも触れたが、このDVD歌集の中に同じく文部省唱歌でお馴染みの『我は海の子』も収録されている。作詞は宮原晃一郎さんという方。

我は海の子 白浪の
騒ぐ磯辺の 松原に
煙たなびく 苫屋
(とまや)こそ
我がなつかしき 住み家なれ

生まれて潮に 湯浴みして
浪を子守の 歌と聞き
千里寄せくる 海の気を
吸いて童
(わらべ)と なりにけり

高く鼻つく 磯の香に
不断の花の かおりあり
なぎさの松に 吹く風を
いみじき楽と 我は聞く

丈余の櫓櫂
(ろかい) 操りて
行く手定めぬ 浪まくら
百尋千尋 海の底
遊びなれたる 庭広し

幾年ここに 鍛えたる
鉄より堅き かいなあり
吹く潮風に 黒みたる
肌は赤銅 さながらに


 小学校6年生の時の音楽の先生が、ご自分の少年時代を回想しながら歌詞の解説をして下さったことなど思い出す。ユーキャンの歌集によれば、この歌は現在は3番までしか教えていないと書いてあるが、私の小学校の先生は確かにあの時5番まで教えて下さった記憶がある。もし音楽の教科書には3番までしか教えていなかったとしたら、きっとあの先生が4番5番まで付け足して歌わせて下さったに違いない。

 しかしこの歌の続きには、私が小学生だった昭和30年代には絶対に封印しておかなければならぬ歌詞があった。その6番と7番も平成年間になって発売された歌集にはきちんと収録されている。

波に漂う 氷山も
来たらば来たれ 恐れんや
海まき上ぐる 竜巻も
起こらば起これ 驚かじ

いで大船を 乗り出して
我は拾わん 海の富
いで軍艦に 乗り組みて
我は護らん 海の国


 氷山や竜巻が…というのはいささか大袈裟だから歌うのも気が引けたと思うが、軍艦に乗り組んで国を守ろう…などとは当時は口が裂けても言えない時代だった。まあ、そんな時代に私は海上自衛隊を志願する少年に育っていったわけではあるが(笑)。
 いずれにせよ、21世紀になるまでは、日本人の大多数は『我は海の子』の歌詞に軍艦が登場することを知らなかった、あるいはすっかり忘れ果てていたが、ほぼユーキャンのDVD歌集が発売される前後の頃から、何となく軍艦を歌い込んだ『我は海の子』の歌詞がネット上などにも見られるようになった。
 別に現政権が軍艦の歌詞を意図的に復活させたとか言っているわけではない。日本も憲法解釈までをねじ曲げて海外に積極的に派兵できる国になった、そしてその政策を支持する国民も増えてきた、そういう世相を歌は敏感に先取りしていたのだなと思う。

 そう言えば私がまだ幼児の頃、『汽車ポッポ』という童謡があって、煙を吐きながら鉄橋を渡る蒸気機関車の絵が描かれたページに歌詞が記されていた。作詞は富原薫さんという方。

汽車汽車 ポッポポッポ シュッポシュッポシュッポッポ
ぼくらを乗せて シュッポシュッポシュッポッポ
スピード スピード 窓の外
畑も飛ぶ飛ぶ 家も飛ぶ 走れ 走れ 走れ
鉄橋だ 鉄橋だ 楽しいな

汽車汽車 ポッポポッポ シュッポシュッポシュッポッポ
汽笛を鳴らし シュッポシュッポシュッポッポ
愉快だ 愉快だ いい眺め
野原だ 林だ ホラ山だ 走れ 走れ 走れ
トンネルだ トンネルだ うれしいな

汽車汽車 ポッポポッポ シュッポシュッポシュッポッポ
煙を吐いて シュッポシュッポシュッポッポ
行こうよ 行こうよ どこまでも
明るい希望が待っている  走れ 走れ 走れ
がんばって がんばって 走れよ


 ところが最初この歌は出征兵士を送る歌として昭和13年に作詞されたらしい。作詞者は同じだが、題名は『兵隊さんの汽車』という。

汽車汽車 ポッポポッポ シュッポシュッポシュッポッポウ
兵隊さんを乗せて シュッポシュッポシュッポッポウ
僕らも手に手に日の丸の
旗を振り振り送りませう 万歳 万歳 万歳
兵隊さん 兵隊さん 万々歳


 ネット上の記事によれば元歌はこういう歌詞だったようだが、戦後は平和の世相を反映して、明るい希望に向かって走る内容にガラリと変わった。またいずれ汽車の行き先は戦地になるんだろうか。



新・ボランティア元年

 今年(2016年)はあの東日本大震災から5年目ということで、3月20日の日曜日に第2回「わたしたちの震災フォーラム」が東京広尾の愛育クリニックの研修室で行なわれた。子どもの心と身体の成長支援ネットワークということで、ボーイスカウト、ガールスカウト、YMCAと、愛育病院や現地の医療スタッフを中心に、さまざまな人たちが集まって震災直後から被災地相馬市の子供たちのキャンプなどの活動を支援してきた、その経験を未来へ活かそうという試みである。

 フォーラムでは全体会の後、6つのテーマで分科会に分かれてディスカッションしたが、私もYMCAキャンプでの変化を考える分科会でファシリテーターを務めさせて頂いた。余談だが、最近よく聞くファシリテーターという単語、こういうフォーラムとかワークショップなどで使われるようになり、私も大学の教員同士のワークショップで何度もやらされている。自分は積極的に意見を言わず、会議をスムースに進行させる役目、日本語で進行役と言った方が分かりやすいかも知れない。

 この分科会では御殿場のYMCA東山荘
(とうざんそう)の杉野さんから概略説明の後、副所長の佐久間さんから「支援者のための心のリフレッシュプログラム」ということを中心にディスカッションした。これはもっと端的に言えば、“支援者を支援する”ためのプログラム…、とこう書かれてすぐに理解できる日本人はたぶん少ないのではないか。

 私もこのサイトを起ち上げて以来、何回か書いてきたことと関連する問題であり、しかも日本人にはほとんど馴染みのない概念でもあるので、こういう機会にもう一度まとめてご紹介しておきたい。

 1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災では多くの市民が被災地支援などのボランティアに参加して、日本でも災害ボランティア活動が定着したという意味から、この年をボランティア元年とも呼ぶようになったが、そういうボランティアの人たちが“燃え尽き症候群”に陥らないように、彼らの心もまた十分にケアをしなければいけないのではないか。それがこの分科会の主張である。

 何でボランティアの人間まで面倒みなきゃいけないんだよ、ただでさえ被災された人たちは大変なんだ、その被災者を支援・援護するためにお前らはボランティアに参加したんだろうが…、というのが多くの日本人の思考パターンだと思われる。しかしその思考パターンを未来へ向けて変えていく必要があるのではないか。

 当時神戸在住だった東山荘副所長の佐久間さんも、阪神・淡路大震災では支援活動に明け暮れて“燃え尽き症候群”になった経験があり、被災者を支援する側であるボランティアの心もまた手厚く支援してあげなければいけないということを分科会ではお話しされていた。

 元気な人間が積極的にボランティア活動に参加して偉いなあ、ここまでは誰でも当たり前に感じるだろうが、問題はここから先、ボランティアに参加できるくらい元気なんだから弱音なんか吐くなよ、困っている被災者のためにもっと頑張れよ、これが一般的な日本人の感性なのだ。

 背後の一般的日本人の感性がこうだから、ボランティアに参加した人たちは、ここで挫けてはいけないと思い詰め、自分よりもっと挫けそうになっている被災者のために、自分に期待してくれている被災者のために、自分と一緒に支援活動で頑張っている仲間のボランティアたちの負担を増やさないために、頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って、もっと頑張って頑張って頑張って頑張って…そして燃え尽きてしまう。そんなボランティアの人たちは被災者を支援する資格もない弱虫だったのか?そこを考えて頂きたい。

 私は“燃え尽き症候群”に関しては佐久間さんの“先輩格”でもあるが、会議のファシリテーターという立場上、あまり熱く語りきれなかった部分も含めて、なぜボランティアが燃え尽きて倒れるまで頑張ってしまうのか、その原因とも思える我が国の特殊な精神的風土について書いてみる。私も小児科医を辞めた原因は典型的な“燃え尽き症候群”だった。

 おそらく日本では“ボランティア”に参加する人というのは、大きな災害になればなるほど、一般的国民から見て“眩しい存在”なのだと思う。本当は自分も何かやらなければいけないんだけれど、いろいろな事情があって支援活動に入れない、だからボランティア活動に入っていける奴らは偉いなあ、そういう羨望や憧れが裏返しになった一種の後ろめたさも感じているのではないか。
 2004年のイラク日本人人質事件で救出された人質たちに対する過度のバッシングが起こった背景には、ボランティア活動の一環として現地入りしていた人質たちに対するこういう屈折した心情があったと私は考えている。

 災害などでボランティア活動に入る人たちもそんな背後の一般市民たちの目をどうしても意識してしまうのではないか。だからいったん活動に入ってしまうと、途中で弱音を吐くことが罪悪のように思えてしまう、倒れそうになっても最後までやり遂げなければ申し訳ないような気持ちになってしまう。

 1995年をボランティア元年とすれば今年はもう22年、しかしそうやってボランティア活動が特別なものだとして持て囃そうとするから、実際にボランティアに参加する人たちが過剰な期待を背負い込んでしまって、自分の心が折れるまで頑張ってしまうのだろう。そうなる前に支援活動に当たっている人たちの心をケアする必要性を考えたのが、今回私の担当した分科会の主眼であった。

 人の心は頑張り過ぎれば必ず折れてしまうものだ、その認識を新たにして欲しい。責任感の強い人ほど折れやすい、そして責任感の強い人ほど災害が起これば被災者のために何かしなければいけないと考えやすい。

 アメリカではボランティア活動を過度に美化しない代わりに、そういう活動に参加する人間の心を十分にケアする体制は整っているそうだ。燃え尽きそうになった人間を一度現場から遠ざけてリフレッシュさせるプログラムが整備されているとのこと、日本でもYMCAが取り入れているプログラムの一環を今回は紹介して頂いた。

 災害ボランティアとはやや事情が異なるが、私がかつて燃え尽きた新生児医療など高度医療の従事者(医師、看護師)、あるいは国民を守る軍人(自衛隊員)、こういう職種は患者や一般国民を支援してその生命や財産を守ることが職業上義務づけられており、災害ボランティア以上に現場からの離脱が許されない。

 しかしアメリカでは支援活動が職業的義務であるこれらの職種に対してさえ十分な心のケアが考慮されているのだ。すでに1980年代にはアメリカ小児科学会がコメントを出して、NICU(新生児集中治療管理室)の医師や看護師の心のケアについて対策を勧告していたが、日本では『コウノドリ』という周産期医療を描いた最近の漫画の単行本第7巻で、NICUスタッフ増員に無理解な院長と燃え尽きた女医が登場している、まだそんな情況らしい。

 また以前タイのリゾート海岸で開催された学会に参加した時、反対のインド洋側の海岸で津波被災地の支援活動に入っていたアメリカ海兵隊員の姿をたくさん見かけた。被災地での活動で受けた心身の重圧を癒すために交代で休暇を取らせて貰っていたのであろうが、もし日本の自衛隊が被災地に派遣されて同じような休暇を取っていたら、果たして日本のマスコミや世論はそれを許すだろうか。

 他人を支援・救護するのが職業的義務である人々に対してさえ十分な心のケアをするアメリカなら、災害ボランティアの人々ももっと楽に活動できるのかも知れない。
 現地で頑張り過ぎない、頑張り過ぎそうな人は早めにリフレッシュさせる、そんなに肩肘張ってまなじり決して頑張るのがボランティアではないよと気付かせてあげる、自分の心が癒されなければ他人の心も癒せない。そうやってもっと心に余裕を持ったボランティア活動ができるようになってこそ、初めてボランティア元年と言えるのではないか。



熊本震災と日本の未来

 1年ちょっと前に書かれた2015年1月11日(日)付けの週刊現代のネット記事が目に止まった。
『首都直下巨大地震の確率急上昇!これは絶対に来る!東京46%横浜78%埼玉51%。いますぐ逃げたほうがいい』
というタイトルで、(1年前の時点の)最新の研究結果を踏まえて、今後震度6弱以上の大地震が起こる確率が、特に首都圏で急上昇したという内容の記事である。

 地殻プレートに関する新しい知見や、1923年の関東大震災より過去に起こった古い地震の記録なども含めて再検討した結果、特に関東地方で首都圏大震災が起きる確率が上記のような高い数値になったということで、依然として残る都市構造の脆弱性や、大正年間に比べて著しく増えた外国人居住者や観光客による集団パニック発生の危険なども指摘されているが、何十年も前から、次に瓦礫と灰の山になるのは自分の住んでいる街であると覚悟させられてきた首都圏の住民にとっては、ああ、またかという程度のインパクトしかない記事である。

 ところが記事の最後の段にきて、明日にでも起こり得る巨大地震に安穏としていられるレベルではないから、思いきって首都圏を脱出し、地震発生確率の低い地域へ移住することを真剣に検討してもよい段階だろうと述べている部分で、ではどこが比較的安全かという例を読んで、本当に地震の予知ほど困難なものはないのだなと痛感した。
 1年前の記事が挙げていた地震発生確率のかなり低い安全な地域とは、北海道西部(札幌・函館0.9%、旭川0.4%)、山陰地方(松江2%、鳥取5%、山口4%)、そして九州(福岡・佐賀・熊本8%、長崎5%)…。

 その九州の熊本で4月14日以来、震度6以上(場所によっては震度7)の地震が頻発し、まだ詳細は分からないが、かなりの被害が出ているらしい。被災地の方々には心よりお見舞い申し上げます。

 まさに昨年10月に再稼働したばかりの鹿児島県の川内原発を狙い撃ちしたかのような今回の大地震である。福島原発事故の後始末の目処さえ立っていないのに、川内原発の再稼働を強引に推進した日本の政財界、それを許した日本の司法、そしてそういう政治勢力を選挙で圧倒的に支持する日本国民、そんな日本という傲慢な国に対する古来大和の神々からの怒りの警告にさえ思える。
 早くも今回の震災は神意だ、神罰だとする論調も出回り始めているようだが、そんなことは科学的にあり得ないにせよ、今回の震災を我が国の政治体制やエネルギー政策を見直す機会にしなければ、日本国民は未来の子供たちに大きな重荷を背負わせてしまうことになるのは確実である。

 おそらく日本の政財界は、今回の熊本県の地震を政治的に最大限に利用しようとするだろう。先年の震災と原発事故の復興もままならない東北地方から国民の目をそらし、今のところ安全に動いている川内原発をアピールして、ホラ、我が国の原子力技術はこのとおり安全ですよと宣伝するだろう。
 そんな現政権の狡猾な政治手法が私には予見できてしまうし、それにまんまと欺かれて、次の選挙でも原発再稼働を推進する政権を圧倒的に支持してしまう国民の政治的無関心も予見できてしまう。
 21世紀中盤へ向けて我が国の政治的進路が最終的に決定される公算が高い2016年という年に起こった熊本の地震、まさに日本の国民と政治に対する古来大和の神々からの試練だと思った方が良いのではないか。



男の時代

 ここ2〜3年で驚くのは、男子がよく勉強するようになったことです。最初にこの徴候に気付いたのは、私がこの20数年来かかわってきたある全国レベルの試験でのこと、最初の頃は全受験生の得点の平均値と標準偏差を調べて比較すると、どの科目を取っても必ず女子が優位でした。数百人が受験する規模の試験ですが、100点満点にして女子の成績の方が2〜3点以上高いのですね。
 まあ、男子はやるべき時が来ればやるからね、などと同じ男族として男子受験生を心の中でずっと弁護はしておりましたが、最初の異変が認められたのは数年ほど前、幾つかある受験科目のうち1科目か、年度によっては2科目、男子受験生の得点が女子を逆転する現象がチラホラ見られるかなと思っていたら、ここ1〜2年はほぼ全科目で男子の得点が女子を上回るようになりました。

 それだけではありません。私が教えている大学の卒業式で、学長から卒業証書を授与される総代は在学期間を通じて成績最優秀の者が選ばれますが、もう今年で7回生になる卒業生のうち、今年と一昨年の総代は男子でした。初めの数年間は女子の独擅場で、たまに少しできる男子がいるなと思っていても、パソコンゲームにはまったりして総代の地位を逃していたものです。それがここへきて男子が総代を獲得するようになった…。
 昨年の卒業生女子は全国模試でトップを3回獲得した者がいるとか、上位10傑にウチの学科の女子が7人入るとか猛者揃いでしたから、男子がいくら逆立ちしてもかなう相手ではありませんでしたが、そういう例外的な年度を除けば、最初に書いた全国レベルの試験で男子優位になってきたのと時期がほぼ一致しており、全般的に男子が頑張る時代の到来を象徴するような出来事なのかなと思います。
 私の学科だけではなく、卒業式で同時に証書を授与される他学部・他学科の総代たちにも男子の姿が目立つようになりました。残念ながらこちらはこの7年間の傾向をきちんと把握していませんから確かなことは言えませんが、例年壇上に上がる各学部・各学科の総代を見ていて、振袖に草履履きのお嬢さんたちが転ばなければいいがとハラハラしていた、その心配が少なくなっているような気はします。

 男子が頑張ってくれるのは同じ男子一族としては嬉しい限りですが、男子が頑張らなければいけない時代というのはちょっと気になります。魔性の歴史ではありませんが、日本の歴史の大きな潮流を嗅ぎ取って世の男子諸君が無意識に頑張り始めたとすれば、もっと女子にも元のとおり頑張って欲しい気もしますが…(笑)。
 せっかく頑張っている男子に水を差すわけではありませんが、世間では我が国も集団的自衛権を行使して海外に派兵できる国になった、あるいは今回の熊本の震災の震源は東に移動して日本列島最大級の断層系である中央構造線が不気味に動き出している気配がある、日本の若い男子陣は、自分たちがもっと頑張らなければ…とそういう危機的な時代の空気を感じ取っているのかも知れません。



明治傀儡政府

 まだ高校1年生の頃、友人から光瀬龍氏の長編SF小説『百億の昼と千億の夜』を借りて読んだことを思い出した。当時は私も熱烈な光瀬龍作品のファンだったが、それでもあの作品の茫漠たる虚無感に圧倒されて、筋書きも何が何だか理解できないうちに読了してしまったものだ。
 舞台も古代アトランティスからはるか未来のトーキョーまで時空を越えて広がっていたような記憶があるが、さらに登場人物がまた想像を絶する顔ぶれ、プラトン、阿修羅、シッタータ(釈迦)からナザレのイエスやイスカリオテのユダなど、これでいったいストーリーがどういう展開をしたのか、今になってみるとはっきり思い出せない部分が多いのだが、ただ一つ鮮明に覚えているのは、ナザレのイエスは悪玉だったということ、少なくとも少年時代の私にはそうとしか思えなかった。

 もちろん当時の日本は信教の自由が完全に保証されており、何を信じようが咎められることはなかった。あの忌まわしいオウム真理教のような過激なカルト集団や、キリスト教やイスラム教の原理主義などが存在することも、当時の大多数の日本国民の頭の中にはおぼろげにすら意識されていなかった。そんな信教の自由の中にあって、ここまでナザレのイエスを悪玉として描くのかと、光瀬龍のこの作品に強烈な違和感を覚えたのである。

 しかしその後、個々のクリスチャンの人たちとの親しい交際は別として、世界史の中でキリスト教が犯してきた数々の罪業を検証するたびに、『百億の昼と千億の夜』のラストシーン、シッタータ(阿修羅だったかも)がイエスを追い詰めていく場面が思い出され、光瀬龍は正しくキリスト教の本質を捉えた作品を残していたのだなとしみじみ感じたものだった。この作品の中でナザレの男イエスは、宇宙の絶対者である“シ(=死)”の手先として、人類文明の中に滅亡のプログラムを内在させる役なのだ。

 実際の世界史でもキリスト教は世界各地に滅亡をもたらした。インカ帝国、マヤ帝国、イースター島、神の愛を説きながら近づいてきたキリスト教宣教師どもを尖兵として、優れた航海術と武器を持ったキリスト教の軍隊や商人は世界各地で財宝を略奪し、住民たちを奴隷にしていった。中世のスペイン、ポルトガルも、近世のイギリス、オランダも、結局はキリスト教の侵略国家であった。個々のクリスチャンは善良でも(マザー・テレサなどその典型)、しかしキリスト教国家は善良な仮面を被った悪魔でしかなかったのである。

 日本にも1549年、宣教師フランシスコ・ザビエルによってキリスト教はもたらされた。彼ら宣教師どもは口では神の愛を説き、西欧の珍しい品々を権力者に献上することで、日本での布教も許されるようになったが、腹の底ではいつか自国の艦隊を呼び寄せてこの国を乗っ取ってやろうと考えていたはずである。
 彼らは日本の有力な大名も何人か改宗させたが、このキリシタン大名どもはけしからんことに日本人を奴隷としてポルトガル人などに売り飛ばしていた。一説によれば火薬1樽と引き換えに日本人女性50人を売り飛ばしたというし、また1582年に派遣された天正の遣欧少年使節の一行は、行く先々で裸にされて鎖に繋がれた日本人女性の姿を目の当たりにして憤慨した記録も残っているそうだ。まさにキリシタン大名は売国奴であった。

 織田信長も豊臣秀吉も最初はキリスト教に友好的だったが、こういう宣教師やキリシタン大名どもの所業を見聞するに及んで、ついにキリスト教の布教を禁じ、キリシタン弾圧に転じる。相手がインカやマヤや、中国やインドならば、彼らもそれを口実に強力に武装した艦隊を派遣して一挙に侵略の牙を剥き出しただろうが、当時の日本は長いこと戦乱に明け暮れた戦国時代の末期であり、ヨーロッパ諸国と比べても遜色ない軍事大国であったから、そう簡単に手は出せない。しかも織田信長という軍事の天才もいたし、巨大鉄船のような兵器の建造技術も持っていた。
 私の推理では、とりあえず誰か(明智光秀)をそそのかして内乱を起こし、織田信長を抹殺して日本に傀儡政権を作ろうとしたと思っているが、光秀や他のキリシタン大名が宣教師どもの意のままに動くようになる前に、秀吉によって内乱の芽は摘まれてしまった。その後、豊臣を倒した徳川家もまたキリシタンに対しては警戒を緩めることなく、中世ヨーロッパのキリスト教国家による日本侵略の夢は当分は水泡に帰したのである。

 しかし幕末の危機は戦国時代のようにうまくは回避できなかった。ペリーが艦隊を率いて日本に開国を迫る、世界経済も少しは変化しており、アメリカではまだ黒人奴隷の輸入が続いていて日本人が奴隷にされる危険も無くはなかったものの、中世の宣教師どもが神の愛を口にしたように、新しい方法=貿易による相互扶助を持ちかけて開国を迫ってきた。しかし彼らは腹の底では一方的に骨の髄までしゃぶりつくしてやろうと企んでいたはずで、中国(清)などは阿片戦争で徹底的に食い物にされていた。

 イギリスが中国(清)をやったなら、俺たちアメリカは日本を、というようなことをペリーは思っていたであろう。しかし1853年に初めて来航して翌年2度目に来訪した時には、江戸湾上に強力なお台場の砲台が完成していた。ペリーはもちろん驚いただろうし、その情報を伝えられた他の西欧諸国も驚いたに違いない。
 織田信長が鉄砲を使いこなした戦術の天才であり、しかも鉄船の建造技術も持っていたことにポルトガルの宣教師どもが驚いたのと同じことだ。江戸幕府相手には戦えない。あれだけ戦術的な配置の海上砲台をきわめて短期間に建設できる築城軍事技術は侮れないと覚悟したであろう。

 当然、19世紀の西欧列強も、それなら内乱を起こして傀儡政権を樹立してやれと、16世紀のポルトガル宣教師どもと同じことを考えて機会を窺っていたと思われる。うまい具合に手先に使える勢力はいないだろうかと思っていたところ、長州藩、薩摩藩というお調子者がいた。お台場の砲台のような周到さも持たないまま、血気にはやって外国船を砲撃するような軽率な奴らが見つかったのだ。薩英戦争では薩摩側も戦果を上げたと言われているが、英国艦がたまたま油断して短い射程しかない薩摩の大砲の砲撃圏内にいただけだし、長州藩に至っては日本の権威の象徴である皇居に向かってさえ砲撃するような、戦略も道理も無い、使いっ走りにするにはちょうど良い連中である、こいつらを使えば目の上のタンコブの江戸幕府を転覆できるぞ。

 織田信長を抹殺した、あるいはたまたま消えてくれた後にも、やはり国を誤らない豊臣秀吉や徳川家康がいたことで日本は危機から救われたが、不幸にして幕末には、光秀のクーデターに相当する薩摩・長州のクーデターが成功してしまったのだ。この薩摩と長州を結びつけたのが土佐の坂本龍馬、明治以降の権力者が書いた日本の歴史では織田信長と並び称される英雄扱いだが、私に言わせれば国の未来を見通す力もなく、キリスト教の脅威を見抜く知恵もなかった国賊級の大馬鹿者、信長と並べるなど信長に対して失礼極まりない。

 薩長のクーデター成功後は、キリスト教諸国の傀儡である明治新政府の下で欧米化していった日本、戦争のやり方も植民地の作り方も見よう見まねで欧米化して、200年以上も非戦を貫いた江戸幕府の精神とは逆方向へ突っ走ったのである。
 明治時代以降の日本史の教科書に書いてあるような、泰平に慣れて無能化した江戸幕府を倒したからこそ列強の侵略を防げたという物の見方も、本当に正しいかどうか検証しなければいけない。江戸幕府の施策である江戸湾上の砲台を見て、ペリー艦隊は驚いていったん退去したのである。無能集団にはこんなことはできない。

 その後、昭和時代に一時キリスト教諸国に刃向かったが、しょせん傀儡は宗主国にかなわない。元の木阿弥で戦後もキリスト教諸国の傀儡として生きることを選択している日本、外国資本に国民の資産を売り渡すTPP(環太平洋パートナーシップ)や郵政民営化、外国の戦に日本の兵士を奴隷のように従軍させる集団的自衛権を振り回す21世紀の長州派閥系列の政治家どもと、火薬欲しさに日本娘を売り渡したキリシタン大名、いったいどこが違うのだろうか。



古墳時代のご先祖様

 今年(2016年)の6月、鎌倉市の由比ヶ浜こどもセンターの建設予定地から5〜7世紀頃(紀元400年〜600年代)の古墳時代のものと思われる石棺墓が発見され、中からほぼ完全な人骨が見つかったという報道があった。

 仰臥位で埋葬されていた人骨は推定年齢10歳代後半の男性らしく、この年齢は縄文時代から室町時代あたりまでの日本人男性の平均寿命14〜15歳に相当する。ただしこれらの時代は乳幼児期の死亡率が圧倒的に高かったから、その分を割り引いて考えなければならないが、それでも当時5歳まで生き延びた日本人男性の平均寿命も22〜23歳前後だったと言われている。江戸時代の半分、現代の1/3にも満たない平均寿命だが、全体的に短命だった当時としても比較的若くして亡くなられたご先祖さまと言えるだろう。

 こういう古代人の骨や遺体が発見されたなどという報道を読むと、たぶんほとんどの人たちは真っ先に考古学的な興味をそそられるだろうが、本当は先ず供養の気持ちを抱くのが人間としての礼儀というものである。
 確かに骨や歯の摩耗状態などから当時の生活習慣や食生活などを推定できるので、考古学的にも貴重な学術資料ではあることは間違いないが、これらの人骨のDNAを分析すれば、このご先祖様と同じ遺伝子を受け継いでいる現生日本人の数は百人や千人の単位で数えられるものではないはずだ。

 このコーナーの最初の記事や別のコーナーの関連記事でも書いたとおり、人は誰でも父母は2人いる、祖父母は4人いる、曾祖父母は8人いる…と1世代遡るごとに先祖の数は2nで増えていき、古墳時代はどう少なく見積もっても60世代は遡っているから、このご先祖様の生きていた時代には我々の先祖は100京人(1億人の100億倍)という天文学的な人数がいることになってしまうが、古墳時代の日本の人口はせいぜい300万人程度と推定されている。
 しかもこの間、日本は多産の時代、婚外子当然の時代を経て、血縁関係は濃密に絡み合いながら子孫がどんどん広がっていったはずだから、この人骨を直接のご先祖様に戴く現生日本人は数万から数十万人くらいはいるのではないか。いずれにしても、ただの学術資料として知的好奇心だけで眺めていてはいけない。もしかしたらあなたの「ひいひいひいひい………ひいお爺ちゃん」かも知れないのだから(笑)。

 嘘か本当か知らないが、よく建設業界の内輪話として洩れ聞くところによると、建設予定現場からこういう歴史的資料が出土すると学術調査が入って、工期の延長やそれによる予算の超過が生じることがあるので、歴史的遺跡の保存や調査に不熱心な業者もいるという。
 とんでもないことである。過去の人たちに供養の気持ちを抱くことは、今度は自分たちが未来の人たちから供養して貰うということでもある。それとも我々現代日本人は、自分たちの遺骨や生活跡が数百年後の工事機械に蹂躙され、粉砕されて産業廃棄物として処理されてもいいやと割り切れるほど、即物的でドライになってしまったのか。



私の思ったとおり

 今年(2016年)7月10日に行われた参議院選挙は安倍自民党を第一党とする勢力が、憲法改正に必要な2/3の議席を獲得して圧勝した。きちんと法律や歴史を学んだリベラル側の論客たちが、安倍を選挙で勝たせれば憲法に緊急事態条項などを盛り込まれて国民の基本的人権も危うくなると盛んに訴えていたが、ほとんどの有権者は聞く耳を持たなかった。

 今さら私ももうこんなことにコメントする気はさらさらない。結局は私が予想したとおりに事態が進行しているからだ。2000年代の終盤、自民党と民主党が大きく議席の奪い合いをして日本にも二大政党制の期待が膨らんだ時、私は自民党も民主党もダメとなった時は、日本は極右の台頭を許すだろうと別の記事で危惧した。さらに翌年にはまだ民主党がモタモタしているのを見て危惧をますます強くした。
 自民党も民主党もダメになって、結局党名だけ見れば政権はまた自民党に戻ったように見えるが、今の自民党は昔の自民党ではない、誰が見たって安倍に乗っ取られて極右化した政治勢力である。昔の自民党の長老たちも一時は危惧を口にしたものだったが、最近は座敷牢にでも幽閉蟄居させられてしまったか。

 日本が極右化しても有権者さえしっかりしていれば国を誤ることもないが、日本国民の大部分はもう戦争を知らない世代ばかり、現在の日本人は幼時から不十分な戦争教育しか受けていない。当時の左派勢力に乗っ取られた日教組・全教祖などによって、日本の子供たちは「戦争」とか「武器」とか「自衛隊」とか「軍隊」とか言われたら迷わず条件反射で声を揃えて「
NO」と言うように仕向けられてしまっている。

 自分自身の頭で戦争の論理、戦争を抑止する論理を考える訓練の機会を奪われた国民たちは、国外に敵を想定して国民を洗脳・誘導する極右勢力の論理を見破ることもできず、ズルズルと安倍自民党に引きずられてしまった。中国、韓国、北朝鮮、イスラム国…、まさに極右勢力が政治的に利用できる“国外資源”は十分すぎるほど存在している。

 日本が極右化して国民はズルズルと引きずられる、そんなことは私は数年前から想定済みだから、今回の選挙結果にはちっとも驚かない。最も進んだ憲法とされるワイマール憲法の下でヒトラー率いるナチスが民主的な選挙によってドイツ国民の支持を受けて政権を獲得するや、全権委任法を成立させて憲法も国民の意志も関係なく勝手に立法を制定できる独裁制に移行した1930年代のヨーロッパの悪夢を、今再び21世紀の日本国民は目の当たりにしようとしている、というより国民自らの手でその運命を招き寄せた。

 国民が選び取った運命だから私も別にこれ以上とやかく言う気はないが、1930年代の日本国民もまたドイツ国民同様、大正デモクラシーの残り火の中で全体主義への道を選び取った。当時の人々の頭の中では、別に国家統制の締め付けが少しくらい厳しくなっても自分の生活にそんなに影響はないと楽観していたはずだ。軍部の発言力が強まっても、国民の抱いていた戦争のイメージは日清戦争か日露戦争、せいぜい中国大陸で戦われていた満州事変程度のもの、銃後の生活はそんなに変わりっこないと思っていただろう。まさか徴兵猶予になるはずだった大学生の息子が学徒で動員され、若い娘も軍需工場に動員され、日本中の都市が空襲や艦砲射撃に晒されることになるとは想像もしていなかっただろう。

 戦後昭和デモクラシーの残り火の中で平成国民が選び取った極右安倍自民党政権、この先どうなるか予断はできないが、大正デモクラシーを投げ捨てた人々に襲いかかったのとはまた異なる運命が待ち受けているだろう。子息が徴兵されて南方や大陸方面の戦闘へ動員されることはないだろう、テロは起こるかも知れないが、日本中の大都市が灰燼に帰すような空爆を受けることもないだろう。
 しかし私が郵政民営化からTPP合意へとつながってきた極右自民党路線を見る限り、日本国民が営々と築き上げた資産も、汗水たらして整備した交通やライフラインなどのインフラも、水も食糧もすべてグローバル化の美名の下にハゲタカのような外国資本に供せられ、国民の生殺与奪の権限はユダヤや中華などの巨大資本に握られることになるだろう。

 すべては日本国民が参政権を行使して民主的に選び取ったことだから、もう何も言うことはない。私の予言どおりになってから、ええっ、そんなこと知らなかったと言われてもそれは有権者の責任です。
 天皇のおわす御所に大砲まで撃ち込むような長州賊が、200年以上も非戦を貫いた江戸幕府をクーデターで転覆させた、そういう歴史の流れを汲むキリスト教国家の傀儡政権の末裔の正体に気付かなかったのは有権者の不勉強です。



帰ってきたヒトラー

 最近一部で話題になっている本を読んでみた。ティムール・ヴェルメシュ(Timur Vermes)というドイツのジャーナリストが書いた『帰ってきたヒトラー』(Er ist wieder da:彼は再びそこにいる)で、森内薫さんが見事な翻訳を手がけている。

 物語は1945年4月30日にソ連軍迫るベルリンの総統官邸で自殺したはずのアドルフ・ヒトラーがタイムスリップで2011年の現代に現れるという突拍子もない設定、何しろヒトラーと言えば世界史上では20世紀最悪の政治家、ローマ皇帝ネロと並ぶ最凶の独裁者として忌み嫌われる人物、それが現代に甦って、かつてと同じ思想を独白しながらストーリーが進行するというのだから、さぞや現在の自由ドイツ国民が呪わしい亡霊の排斥に立ち上がって勧善懲悪の戦いが繰り広げられると思いきや、ヒトラー自身はヒトラーのままなのに、周囲の人々は彼がヒトラーになりきった個性的な物真似タレントと誤解してしまい、20世紀そのままのヒトラーの思想と言動を、何となく無意識のうちに現代にも通用するものとして共感し始めていくというところで物語は終わる。

 インターネットやテレビという媒体を知ったヒトラーは、それをかつて示したのと同じ一流の才能で、大衆向け宣伝・煽動の道具として使いこなしていく場面の描写は秀逸である。ヒトラーが自分のメールアドレスを申請しようとして、すでに「Hitler」がからむ名前はすべて登録されつくしているというところも面白い。現代ドイツにヒトラーの心酔者やシンパが溢れているということを暗にほのめかしているが、これはたぶん作者のフィクションではないだろう。ドイツではナチスを肯定する思想の自由は認められていないはずだが、そんなものは観念的な抑止効果しかない。

 外部にユダヤという敵、あるいはロシアという敵を想定して、あいつらのせいで俺たちの国はこんなひどい目にあっている、あいつらを倒せという煽動、それを巧みに使ったのがヒトラーであったが、ヒトラーが駆使したこのプロパガンダの手法を反省することなく、ただヒトラーの第三帝国だけを悪者に仕立てて自己満足してきた現代世界の何とナイーブだったことよ。

 自由と民主主義の旗手を自他ともに認めてきたアメリカの大統領選で、極端な対外強硬路線をブチ上げるドナルド・トランプ氏が多くのアメリカ市民の支持を得て共和党の指名を勝ち取った。大統領選挙ではヒラリーを破るかも知れない。世界の市民革命の口火を切ったフランスもテロを口実に緊急事態宣言の延長が決まった。たぶん世界は第二次世界大戦を上回る大戦争への道を突き進んでいるのだろう。
 第二次世界大戦は、ドイツ・イタリアなどの“持たざる国”が、アメリカ・イギリスなどの“持てる国”に対して世界秩序をひっくり返すという言いがかりで始めたと言える。しかし現代社会ではあらゆる先進国を含めてすべての国が、アメリカもヨーロッパもロシアも中国も、あの国もこの国もすべての国が“持たざる国”になってしまった観がある。

 そして日本も同様である。今回の参議院選挙前は「憲法護れ」とか「“戦争法案”反対」とか盛んに気炎を上げていたリベラルを自称する人たちも、さすがに選挙結果を見て意気消沈したように見えるが、安倍の圧勝は日本国内だけの問題ではないと思われる。日本国民も世界共通の“持たざる国”の国民として、この見えざるヒトラーの亡霊に動かされているのだ。
 第一次世界大戦の反省の結果、ドイツにワイマール憲法体制を敷いてみたが、却ってナチスが台頭する温床となってしまった。第二次世界大戦の反省はナチスだけを悪者にして、あとは戦勝国が正義ヅラをしていたために世界は再び混沌に向かおうとしている。そして次の世界戦争を反省する機会ははたして来るのだろうか。



出戻りゴジラ対ニッポン

 ここは東京都大田区のJR蒲田駅近くを流れる呑川(のみかわ)、昔は酒でも流れてたんでしょうか(笑)。先月(2016年7月)公開された東宝映画『シンゴジラ』で、ゴジラが最初に上陸したのがこの呑川、映画のスクリーンに呑川が出てきた時に思わず「あっ、あそこだ」と思ってしまいました。付近の商店街も『シンゴジラ』に破壊されたことを幸い、「大田区対ゴジラ」などと逆にネタにして宣伝を盛り上げているようです。

 さてこの『シンゴジラ』はなかなか人気のようで、すでに2014年に公開されたハリウッド版『Godzilla』の最終興行収入を上回ったらしいです。もう公開から1ヶ月が経ちましたので、そろそろネタバレ承知で記事にさせて頂きましょうか。

 『シンゴジラ』ではまず謎の巨大生物がこの呑川から東京に上陸して来ますが、その姿はかつてのゴジラとは似ても似つかぬ四足歩行の怪獣、これは映画の後半でゴジラと対決する別の怪獣かなと思いながら見ていると、この四足歩行の怪獣がいきなり立ち上がってお馴染みの二足歩行のゴジラになる、これはちょっと生物学的にはあり得ない。
 ストーリーによると、ゴジラは1個体の一生のうちに四足歩行の水棲動物から二足歩行の陸棲動物に進化する超生物ということらしいですが、トカゲがいきなりチンパンジーになるようなものですから、これは違和感を感じながら観てました。生物があそこまで形を変えるためには骨格や筋肉の構造から呼吸器や心臓の機能を飛躍的に変化させなければいけません。とても1日以内に成し遂げられるものではありませんね。

 生物の個体が姿を変えることをメタモルフォーシス(metamorphosis:メタは異なる、モルフォーシスは形態の意味)といって、毛虫がサナギから羽化して蝶になるような現象が典型です。何でこんな勿体ぶった英語で表現するかといえば、日本語で言うとこの現象は“変態”、最近では別の意味の方が有名ではないですか(笑)。しかし私たちが子供の頃の理科の教科書や科学図鑑には「昆虫は変態する生物である」と立派な日本語で記載してありました。

 それはともかく、“変態”したゴジラはやはり身体機能に無理があったのでしょう、一度は海に引き返しますが、“進化”を完成させてさらに巨大化したゴジラは再び鎌倉から上陸して、武蔵小杉などを破壊しながら都心に向かいます。多摩川に布陣した自衛隊が懸命に東京侵入を食い止めようとしますが敢えなく壊滅、しかし自衛隊の撃った弾丸はすべてゴジラに命中して、周辺への流れ弾による被害が皆無なのは感心しました。もちろんそういう高度な射撃管制のできる実際の陸上自衛隊の技量にも感心ですが、そんな自衛隊の実力を画面に活かしきった制作スタッフにも感心です。自衛隊の弾丸が付近の民家にも命中して爆発する方が映像的には迫力があったと思いますが、そういう映像はいっさいありませんでした。

 さて首都圏に再上陸したゴジラとの戦いが本作品のメインテーマなのですが、キャッチフレーズに「ニッポン対ゴジラ」とあるように、現在の日本の政治機構でゴジラ(強大な敵)を迎え撃ったらたぶんこうなるだろうという描き方には、これまでのゴジラ映画には見られない斬新さがありました。もうすでにネットなどにはさまざまなコメントが載せられているのでお判りと思いますが、対応できそうもないことは想定せず、都合の良い楽観主義でしか動かないお役所や、決断のできない烏合の衆と化した政治家たちを尻目に、ゴジラは東京都心を破壊し尽くします。政治劇としても実に秀逸です。

 そして何より感心したのは、昨年の国論を二分したとも言える例の集団的自衛権の問題、あの賛成派にも反対派にもどちらの論客にも与しないストーリーの展開、まず在日米軍の協力なしには国土を守る有効な作戦を立てることもできない我が国の実情、ここではゴジラは強大な仮想敵国中国に見立てられているようです。しかし当然のことながらアメリカも所詮は自国の利益が優先、日本はゴジラに対する防波堤としての利用価値が無いとの判断で容赦なく見捨て、多国籍軍を編成して東京のゴジラに対する核ミサイル攻撃を一方的に決定してしまう。

 頼みのアメリカにも見捨てられて核弾道ミサイルが東京へ向けて発射される期限が刻々と迫る中、日本人チームでゴジラを倒そうという計画が進行していきます。自衛隊や在日米軍相手にエネルギーを使い果たしたゴジラは東京駅でしばしフリーズして充電期間に入ります。まるでスマホや携帯電話みたい…(笑)。
 日本人チームが考えているのはゴジラの口から薬剤を注入して血液を凝固させてしまおうという作戦、本当は口から投与するより直接血管内に注射する方がはるかに有効なのですが、まさかゴジラ相手に点滴を打つわけにいきませんからね(笑)。

 そして最後に首尾よくゴジラの動きを止めて多国籍軍による核弾道ミサイル攻撃を中止して貰うことに成功するのですが、日本人も力を集めて知恵を絞れば何かできるんだという自信回復の意気込みを感じさせてくれるストーリーの展開でした。しかしこの対ゴジラ作戦、あまりにデリケートでいかにも日本人的、いくら映画の中とはいえ、これでよくゴジラを制圧できたものだと私は冷や汗ものでした。
 まず爆薬を仕込んだ無人の新幹線車両をぶつけてゴジラの足元を崩し、倒れたところで口から血液凝固剤を注入しようとしますが、必要量の注入を完了する前にゴジラが覚醒して暴れ始めます。この事態をあらかじめ“想定”して第二段作戦を準備していたのは日本人としては上出来ですが、次の一手も今度は無人の在来線車両に爆薬を仕込んでゴジラの足元を崩し、以下同様というもの。
 東京駅の地図にあまり詳しくない方には分かりにくいと思いますが、途中で覚醒したゴジラが丸の内方面へ動き始めたために在来線車両をぶつけることができた、しかしもし八重洲方面へ動き始めていたら、どういう手でゴジラをもう一度引っくり返そうとしていたのでしょうか。別に娯楽映画のことなので深く考えることもないんですけれど(笑)、私はとても気になりますね。

 新幹線車両をぶつけてゴジラの足元をすくう
倒れたゴジラの口から血液凝固剤を注入する目覚めたゴジラはたぶん丸の内方向(在来線ホーム側)へ動くだろうそこで在来線車両をぶつけてゴジラの足元をもう一度すくう倒れたゴジラの口から血液凝固剤を注入するところで次はあったのか??
 非常に精密で完璧な作戦です、もしゴジラがこちらの想定したとおりに動いてくれればの話ですが…。もしゴジラが八重洲口方向に移動すれば爆薬を仕込んだ在来線車両の使い道はなくなって作戦失敗、東京は多国籍軍の核弾道ミサイルで消滅したでしょう。
 何だか私はミッドウェイ海戦を思い浮かべてしまいます。空母艦載機でミッドウェイ島を空襲する
驚いたアメリカ軍はたぶん空母を出動させるだろうそこでその空母に攻撃をかけて撃滅する、しかしアメリカ軍の出足が想定よりも早かったので日本機動部隊壊滅…。今回の対ゴジラ作戦もそうなる可能性がきわめて高かったのではないかと私などは心配してしまうのですね…?

 何はともあれ、『シンゴジラ』はいろいろな面で日本という国を考えさせてくれた一級の娯楽作品で、心から堪能させて貰いました。



ファッションも世につれ

 以前このコーナーの歌は世につれという記事で、かつては『我は海の子』の歌詞に軍艦が登場し、『汽車ポッポ』の歌詞も兵隊さんを乗せて走る汽車のことだったことを紹介し、戦後の一時期は封印されていたそのような歌詞が最近復権したのは、集団的自衛権に絡めて我が国も海外派兵を可能にするような政策を支持する国民が増えてきた世相を、何年も前から歌が敏感に先取りしていたのではないかと書いた。
 そう思ってもう少しよく観察してみると、実は歌がそういう世相を反映し始めた頃から、人々のファッションにもある種の変化が起こっていたことに気が付いた。

 この写真は世田谷区の砧公園から見た世田谷清掃工場の煙突であるが、無骨な煙突が公園の景観を壊さないように背後の空に溶け込むような色彩に塗られている。なるほど、この色ならば晴天でも曇天でも雨天でも公園に憩う人たちの視界をそれほど乱さなくて済むが、こういう塗装を一般に迷彩塗装という。

 迷彩塗装が公園の景観を守るような平和な目的に利用されているのが目につくのはむしろまれであって、本来は軍事目的に考案されたのが最初ではないのか。

 第二次世界大戦の各国の海軍では北方海域で活動する艦船はちょうどこの煙突のような色に塗装されていた。曇った海の背景に溶け込んで敵の目を欺くためだが、軍艦だけでなく軍用機でも戦車でもさまざまな種類の迷彩が施されていることが多い。
 ちょっと懐かしい話では、太平洋戦争中の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)のプラモデルを作った時など、機体の下面は空の色に溶け込むようなライトグレーやライトブルー、機体上面は海原や密林に溶け込むようなダークグリーンに塗装したことなど思い出す。

 こういう軍事目的の迷彩は各国陸軍や海兵隊、もちろん我が陸上自衛隊の兵士たちの戦闘服にも応用されていて、これは迷彩服と呼ばれているのは皆さんご存知…なのだろうか?ジャングル地帯で行動する部隊ならダークグリーンと茶色を基調としたまだら模様の服、砂漠地帯で行動する部隊なら黄土色とモスグリーンを基調としたまだら模様の服、雪原で行動する部隊なら白とグレーを基調としたまだら模様の服、海浜地帯で行動する部隊なら濃紺とライトグレーを基調としたまだら模様の服を着て、敵の目からなるべくなるべく自分の姿を見えにくくする工夫を凝らしている。

 軍人や戦闘を連想するこんな迷彩模様のファッションを着て歩く人など昭和50年代くらいまでは皆無だった。ところがいつの頃からか、迷彩のまだら模様を知ってか知らずかファッションとして身にまとう人が増えてきたのである。スポーツ用のウィンドブレーカーくらいが最初だったと思うが、最近ではTシャツやリュックサックはもちろん、女子も含めて中学生や高校生のサブバッグ、婦人用の手提げバッグなどにも迷彩模様が見られ、つい先日はついに迷彩模様のベビーカーまで見てしまった。

 一時期フランスのある自動車メーカーの製品について、戦車に乳母車のエンジンを搭載したような車だという酷評があったと思うが、迷彩塗装をしたベビーカーにそんな昔のことも思い出してしまった。いずれにしてもこの国の国民の間に、軍事目的のデザインがファッションとして取り入れられるようになってきたことは、戦後日本を長らく支配してきた絶対的反軍・反戦思想が消滅したことを意味しているのであって、それが良い方に転ぶのか、悪い方に転ぶのか、私たちの世代の古い日本人はもう黙って見守るより他にないのであろう。



世界津波の日

 2015年12月22日に開催された第70回国連総会本会議で、142ヶ国が提案した決議にもとづいて、11月5日が「世界津波の日(World Tsunami Awareness Day)」に制定されてから初めて迎えた2016年のその日、奇しくも私はあるボランティア活動の一環で福島県相馬市を訪れていた。
 JR東日本の相馬駅は常磐線にあり、本来なら鉄道ファンなので上野から特急列車ででも直行したいところだが、2011年に発生した東日本大震災の津波による被害、および震災直後の原子力発電所事故に伴う警戒区域(帰還困難区域)指定の影響で、鉄道は現在もまだ分断された状態のままである。相馬駅前からは亘理駅との間をつなぐ代行バスが発着していた。

 現在、東京から相馬へ行くには、東北新幹線の仙台駅前から高速バスに乗るのが一番確実なので私もバスを利用したが、高速道路を降りて一般道(国道6号線)を走行中、3ヶ所ほど気になる道路標識を目にした。
ここから過去の津波浸水区間』〜『過去の津波浸水区間ここまで
ここから東日本大震災津波浸水区間』〜『東日本大震災津波浸水区間ここまで

 地図を見ると付近は海岸線から3キロ以上も内陸に入った地域であるが、津波は浜側の県道38号線や常磐線を乗り越えて国道6号線まで到達したらしい。車窓からは海はところどころで遥かに霞んで見えるだけなのに、津波の襲来は時間にして秒単位の出来事だったようだ。この付近一帯でバスに乗った幼稚園児をはじめ何百人もの方々が犠牲になっているのは、あまりに痛ましいことだし、津波の恐ろしさに慄然とする思いだ。

 津波が来襲してからではどんな韋駄天でも逃げられない。来襲する前にいち早く高台に逃れなければ呑みこまれてしまう。
「津波起きたら命てんでんこ」
という戒めの言葉があるそうだが、津波が来たら自分の命はめいめい(てんでん)で守れという意味らしい。

 とにかく海辺で天変地異を感じたら即座に津波に対して警戒すること、その教訓を新たにするために、日本が国連で音頭を取って「世界津波の日」が制定されたということだ。
 1854年(安政元年)11月5日に起こった安政南海地震で、紀州・広村の高台に居を構える濱口梧陵は地震の後に海水が急に沖へ引いていくのを見て津波の来襲を予知、祭りに興じる麓の村人たちに急を告げるべく、収穫したばかりの自分の家の稲束に火をつけて燃やし、火事だと思って高台に駆け上って来た村人たちの命を津波から救ったという逸話、それが「世界津波の日」がこの日になった由来だという。この話は『稲むらの火』というタイトルで、庄屋の五兵衛が自分の稲に火をつけて麓の村人たちを救った話として、小学生向けの本に書いてあったのを覚えている。

 我が国は2011年の大震災で、東北地方の太平洋沿岸に津波による大被害を被ったというのに、早くもその教訓は薄れかけているように見える。特に何十年も昔から警告され続けてきた南関東の震災に伴ってもし津波が起これば、せっかく建造物の倒壊や火災を免れた何万人もの人々がさらに生命を奪われるだろう。
 お台場や東京ディズニーリゾート、みなとみらいや羽田空港など大勢の人々が日夜集まる臨海地域はあっという間に荒れ狂う海に呑みこまれる恐れがある。都区内にかなり深く入り込んだあたりでも「海抜2メートル」とか「海抜3メートル」などという表示板が設置されているのを見かけると、背筋が凍る思いがする。

 関東平野とはまさに海抜の低い平坦な土地が広々と広がっているという意味であり、だからこそ東京のような大都市が発展する地の利を得たわけでもあるが、逆にそれが津波災害の時には人々の生命を奪う原因になりかねない。昨年5月29日の小笠原諸島西方沖地震は震源が深かったため津波は起こらなかったが、もし震源がもっと浅かったならば首都圏で数十万人規模の死者・行方不明者が出ていただろう。

 津波は陸地に上がれば速度は鈍り、さまざまな障害物に当たって多少は勢いも減衰するだろうが、いかにせん人間の力では水平方向に逃れることは無理だ。特に高台のない首都圏の平地で津波に襲われた場合、水平方向への避難が困難であれば、垂直方向へ逃げることを考えなければならない。
 最近ではあちこちに立ち並ぶ高層マンションをはじめとする高層の建造物は、臨機応変に避難場所として開放されなければいけないだろう。マンションの住人でなければ入れないとか、施設の関係者以外は立ち入り禁止とか、おそらくそういう硬直した杓子定規な発想によって、助かったかも知れない何万人もの人々が生命を失うことになると危惧しているが、自分の稲むらを焼き払ってまで人々を救おうとした濱口梧陵の精神を受け継ぐ心構えを新たにしなければいけないと思う。



トランプ時代の予想

 2016年11月8日のアメリカ大統領選挙一般投票で、共和党のドナルド・トランプ氏が民主党のヒラリー・クリントン氏を破って第45代アメリカ大統領に就任することが正式に決まった。これまで報道されてきた内容から知る限りでは、移民制限やイスラム教徒の入国禁止などに対して、これまでの大統領や大統領候補が口にすることもなかったほどの過激な演説を繰り返し、女性蔑視に関してもそこらの教養のないオッサンさながらの唖然とするような発言が目立つなど、こんな野卑な人物がまさか当選するはずはなかろうと、全米・全世界が多寡をくくっているうちに、その「まさか」が現実のものとなって世界中が驚天動地のさなかにあるという感じだ。

 こうなってから、実は自分はトランプの勝利を予想していたなどという記事をネットや雑誌に投稿する輩もいるが、そんな予言者ヅラはまったく見苦しいの一語に尽きる。予言していたなら先に書けよ。結果がこうなってから、実は自分はそれを予想していたなど誰でも言える。震災が起こってから実は自分は予測していたなどという輩と同レベルだな。

 それはともかくトランプ大統領が就任する来年以降、世界はどうなっていくのか、一抹の不安は禁じ得ない。極端な排外主義と孤立主義、自国だけが安穏に繁栄すればそれで良い。まあ、日本も憲法第9条の平和主義を前面に押し出して自国の安全だけを考え続けてきたわけだが、少なくとも日本は自分から世界に紛争のタネを播くことはしなかった、共産主義にもイスラム教にも表立ってそれを排斥する政策を打ち出すことはしなかった。

 しかしアメリカは違う。共産主義諸国に軍事的に対抗し、イスラム原理主義を挑発して戦争を主導してきた。その結果として誰が得をしたか、考えるまでもない、アメリカをはじめとする資本主義国家の軍需産業である。
 トランプ氏の孤立主義も、合衆国憲法を改正して日本を見習った戦争放棄条項を盛り込むならば、私もこれを熱烈に支持しよう。しかしトランプ氏は軍需産業を平和産業に切り替えるどころか、二酸化炭素排出規制による地球温暖化対策さえも放棄して、自国の産業を野放図に増長させようとしている。

 このままでは世界はどうなるか。NATOはロシアと戦争させられ、日本は中国や北朝鮮と戦争させられ、世界中がイスラム国の脅威に晒され、その裏でアメリカ合衆国の軍需産業が一人勝ちで濡れ手に粟の大儲け、という図式が定着するのではないか。

 アメリカ国民が民主的に選んだことだから文句は言わないが、それにしてもイギリス国民はEU脱退を支持するわ、日本国民は対外強硬論をブチ上げる極右政党を勝たせるわ、世界中が孤立主義と排外主義に導かれて戦争に向かってなだれ込んでいくように見える。日米英をはじめとする先進国の有権者は皆それを望んでいるのか。どこかに世界中の人々の想念を支配する装置があって、それでマインド・コントロールが進行しているのではないかという途方もない空想さえ浮かんでくる。まあ、水をブドウ酒に変えたり、触っただけで病人を治したりする超能力を持った輩になら朝飯前のことだろうが…(笑)。



杉原千畝の命のビザ−歴史の皮肉−

 第二次世界大戦開戦直前の1939年にリトアニア共和国のカウナスの日本領事館に領事代理として赴任した杉原千畝がユダヤ人難民に発行した日本通過ビザは、今や「命のビザ」としてかなり有名になっているが、若い世代の中には日本人として知っていなければいけないこの話を聞いたこともない者が多く、もう数年以上前に私の学科の学生さんたちに、「杉原千畝について書きなさい」という試験問題を出したら、「凄い医学上の発見をした人です」とか「人体実験をした人です」とかとんでもない珍答が続出して呆れたことがあった(笑)。

 杉原千畝はむしろ医者になるのがイヤで外交官への道を歩んだらしい。しかしソ連情勢の専門家としてモスクワ赴任を望んでいたが、その卓越した諜報能力と活動履歴をソ連当局から忌避されて「好ましからざる人物(persona non grata)」に指定され、結局はフィンランドなどソ連周辺の国々を経て1939年リトアニアのカウナスに赴任する。

 折から第二次世界大戦が勃発、不可侵条約を結んだナチスドイツとソ連に東西から侵攻を受けて国を分割されたポーランドのユダヤ人難民が続々とリトアニアに逃げ込んできて、第三国への逃避行に及ぼうとするが、もはや逃げ道はただ一つ、日本の通過ビザを取得して、シベリア鉄道から日本海のウラジオストク航路を経由してアメリカなどへ脱出するしかない。

 ところがナチスドイツにすり寄ろうとしていた当時の大日本帝国はヒトラーの顔色を窺ってユダヤ難民への救済措置を取ろうとしなかったので、女性や子供も多い難民の窮状を見るに見かねた杉原千畝夫妻が本国の訓令も無視して独断で数千人のユダヤ人に日本通過ビザを発給したとされる。これが命のビザの物語である。

 「困っている人々がいればユダヤ人であろうとなかろうと父は同じことをしたと思う」
と杉原千畝の子息が後に語っているそうだ。
 昨年(2015年)暮れに東宝から『杉原千畝』という映画が封切られ、私は今年になってからDVDで鑑賞したが、映画の中で杉原千畝がロシア語を学んだ日露協会学校ハルピン学院の創始者である後藤新平の言葉が何度か出てくる。後藤新平は日本ボーイスカウト連盟の初代総裁を務めた人でもある。
人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう
おそらく杉原千畝の心にはこの後藤新平の言葉があったであろうし、当時のウラジオストク日本領事館の根井三郎も同じハルピン学院に学んだ杉原の後輩、彼もまたこれ以上ユダヤ人を日本に送り出すなという外務省の訓令を無視して杉原のビザを持つユダヤ人を船に乗せた。そして船が着いた敦賀の市民たちには後藤新平の薫陶があったとは思えないが、やはり困っているユダヤ難民に救いの手を差し伸べる者も多かったという。少なくとも難民の日本滞在中にあからさまに反ユダヤの感情を露わにした者はいなかった。

 そうしてみると後藤新平の言葉は当時の日本人が知らず知らず身につけていた人としての道だったのではないか。困っている人があれば報いを求めず救いの手を差し伸べる。そう言えば昨年同時期に封切られた映画『海難1890』もまた明治23年に紀伊半島串本沖で難破したトルコ軍艦の乗組員に命懸けで救いの手を差し伸べた村人たちの物語だった。

 困っている人がいれば国籍も宗教も関係なく助けてお世話する、思えば古き良き日本人の美徳を描いた2本の映画、『海難1890』と『杉原千畝』だった。しかし2本の映画を見終わって何か割り切れない思いが残るのは果たして私だけか。
 トルコ国民は明治年間に受けた串本の漁民たちへの恩義を忘れず、イラン・イラク戦争でテヘランに取り残された在留邦人救出のためにトルコ航空が決死の救援機を飛ばして、人として救いの手を返してくれた。しかしユダヤ人が第二次大戦後に建国した国家は新たな難民を生み出したばかりか、その難民たちに対して人としての道を踏み行なうことなく、軍事力行使を含む徹底的な敵対行動をとっている。
 彼らの宗教的教義でパレスチナは“神との約束の地”なのかも知れないが、自分たちの親の世代がかつてナチスドイツとソ連から追われたように、難民たちを締め出そうとしているなど、日本人の感覚からすればとても人の道とは思えない。杉原千畝の善意が現代世界にこういう形で返ってきていると思うと、歴史の皮肉を感じて非常に虚しい気がする。



順逆二門無し

 最近(2017年1月)『本能寺ホテル』という映画が公開されて、私もちょっとヒマだったので時間潰しに観てみた。タイトルからも大体ストーリーが分かるとおり、現代の京都にある架空のホテルのエレベーターが1582年(天正10年)6月2日の本能寺の変の当日と時空がつながっていて、主人公の綾瀬はるかが堤真一扮する織田信長最期の日にタイムスリップするのだが、本能寺の変に関する歴史ミステリーという点に関してはそれほど斬新な切り口のある作品ではなかった。

 しかし織田信長の魅力を再確認したい信長ファンにとっては十分楽しめる映画で、人々が自由に楽しく暮らせる世の中を目指してきた信長が、ヒロインから光秀謀反のことを“未来からの警告”として告げられたにもかかわらず(さあ、タイムパラドックスはどうなる)、自分がこのまま本能寺で討たれた方が天下が再び乱れる恐れが少ないと判断、後事を秀吉に託す書状を送ったあとに従容として光秀に討たれて焼け落ちる本能寺の中で生涯を終えるという非常に器量の大きな人物として描かれている。
 こんな大きな人物と時空を越えて出会ってしまったヒロインは、現代にいる頼りないフィアンセの男性に愛想を尽かして、新しい生き方を見つけていくという、世の男性陣としてはちょっと信長に嫉妬してしまうストーリーではあったが…(笑)。

 さて織田信長といえば、楽市楽座など自由な商取引を保証して何百年も時代を先取りしたような、日本の歴史上最大の輝きを放つ人物であるが(歴史人物ファン投票の第1位だそうだ)、選りも選ってその信長を討った明智光秀の方は、当然のことながら日本史上最大の謀反人というレッテルを貼られてしまっている。

 光秀は信長を討った後も信長の遺体を発見できず、したがって首級を天下に晒して自分が新しい天下人になったことも公表できず、諸事が後手後手に回るうちに、遠征先の中国地方から取って返した秀吉の軍勢に山崎の合戦で破れて、後世「光秀の三日天下」と呼ばれることになってしまった。伝えられるところによれば、敗走する途中で落ち武者狩りの手に掛かって落命したらしいが、光秀の辞世と言われる有名な漢詩がある。

順逆無二門 (順逆二門無し)
大道徹心源 
(大道心源に徹す)
五十五年夢 
(五十五年の夢)
覚来帰一元 
(覚め来たれば一元に帰す)

いろいろな人がこの詩から光秀の最期の心境を推し量っているが、光秀はおそらく本当の土壇場にきてこんな詩を詠んだわけではあるまい。本能寺の焼け跡から信長の首級を発見できなかった段階で謀反の失敗を自覚したはずであり、秀吉と山崎の一戦に及んだ時点で自らの最期を悟っていたと私は思う。主君信長に叛いた行為の弁明として、光秀は山崎の陣中でこの詩を詠んだのであろう。

 私は漢詩の素養など皆無だから、この詩の意味を深く詮索しようと思ったこともないが、この第3句目の「五十五年夢」を「二十五年夢」と詠み替えた時に、何となく光秀の心境が分かるような気もした。
 光秀は自分の55年の生涯のことを詠んでいるが、“二十五年”とは私が現在の職場で過ごした職業人生である。最初は病理の医師として患者さんの検体の診断に当たった、後半は学科の教員として前途有為な学生さんの教育に当たった、自分が守るべき人たちの事を考えて懸命に突っ走ってきたという思いはあるが、その過程で経営者や上層部には激しく突っ張ったこと(謀反)も何度かある。そんな正論ばかり言っていても始まらないよ、おとなしく言うことを聞いていた方が偉く取り立てて貰えるよと忠告してくれた人もあったが、守るべき者たちを良心に触れるような危険に晒すわけにはいかないから徹底的に突っ張った。職務に突っ走ったのも(順)、上層部に突っ張ったのも(逆)、すべては自分の心の源から発したことであり、まったく別の2つの心境から発したわけではない。

 光秀の最期の心境も同じようなものだったのではないか。たまたま後の世で日本史のスーパーヒーローになる人物を討ってしまったのが不運と言えば不運だが(戦国時代に限らずそんな下剋上はいくらでもあった)、おそらく経済的な金銭の流通には寛容だった信長も、人々の心の拠り所となる宗教に関しては峻烈だった、まあ、今風に言えば経済的自由は認めるくせに、信教の自由のような精神的自由は認めない、実像はどうだったかは分からないが延暦寺焼き打ちや一向宗弾圧のようなことを繰り返す信長を、光秀は許せなかったのかなという気はする。少なくとも巷間でけっこう信じられているような私心や私怨で乱を起こしたわけではないと思う。


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