鵜原理想郷

 先日古稀を迎えた時の記事で、阿川弘之さんの小説『雲の墓標』の文章をふと思い出したと書きました。古稀の70歳どころか、まだ青春の20歳代の日々を死と隣り合わせの特攻隊員として過ごした主人公たちの物語でしたが、その最後の場面が鵜原海岸であることは別の鵜原の記事の中にも書いてあります。
「雲こそ吾が墓標 落暉よ碑銘をかざれ
で始まる最後の書簡を親友に送って戦死した特攻隊員、生き残った親友はここ鵜原の海岸で亡き友を偲び、その心境を遺族に書き送るのです。
「私は今、房州東海岸の鵜原というところに居ります。いずれにしても吉野兄の身体は此のはるか沖に眠っているものと私は思うのです。天際の、海と雲とが合するところに、潮を墓にして、雲に碑銘を誌して、静かに眠っておられるでしょう。ここはきびしい崖の切り立った、曲折の多い、うつくしい海岸です。崖に石蕗が密生して黄色い花を咲かせています。北アメリカへの大圏航路にあたるようで、沖合をよく、米国のものらしい大きな汽船が通過して行きます。嵐が近いらしく、日はときどき射しますが、雲は乱れて、海は荒れております。

 これらのことに関しては別の記事の中でも少しだけ触れてありますが、それとは別に鵜原には私の中学・高校の寮があって、私の若かりし頃の思い出とも深く結びついているのですね。だからこそ『雲の墓標』の最後のシーンが鵜原であることも特に強く印象に残っているわけですが、古稀にこの小説の文章を思い出した時に、新型コロナの感染が下火になって自由に都県境越えができるようになったら、ぜひ鵜原を訪れてみたいと考えるようになりました。

 とは言うものの鵜原は、ちょっと新宿へ、ちょっと横浜へ、というように簡単に出かけられる場所ではありません。外房と呼ばれる房総半島の東海岸は、内房などに比べても列車の接続が悪く、中学・高校時代の思い出をたどってフラッと日帰りで訪れるのはいつもより勇気が要りました(笑)。

 7時15分に東京駅を出発する朝一番の特急わかしおに乗って1時間半で勝浦に着きます。そのさらに1駅先が鵜原です。途中の茂原くらいまでは週末のゴルフを楽しむ団体なども乗っているのですが、勝浦に着く頃には列車はガラガラ、同じ首都圏の1都3県などと一括りにされるのが不思議なほどのんびりした土地でした。

 勝浦といえば新型コロナ騒動の初期、中国の武漢から帰国した人たちが勝浦に3週間ほど隔離されたことを思い出しますが、その際に帰国者たちを率先して受け入れた“ホテル三日月”も車窓から見えました。ウィルスの正体もよく分からないままこんな遠隔地で軟禁状態に置かれた帰国者たちは心細かったでしょうが、自分たちも未知のウィルスの脅威に晒されることになるかも知れぬホテル従業員や勝浦市民たちも大変な覚悟だったろうと、舞台となったホテルを眺めながら今さらながら思いを新たにしました。勝浦市民の多くは、客室に隔離されている帰国者たちを窓の外から励まし続けたと当時の報道で伝えられています。

 今では無人駅となった鵜原駅改札から海へ向かう道をたどり、中学2年生の時に水泳を鍛えられた鵜原海岸に出ました。海に向かうと、『雲の墓標』の中の情景描写にあるような厳しい崖の切り立った曲折の多い海岸線が目に飛び込んできます。ああ、ここは50年以上前の自分にとって大切な場所だったんだ…そんな感慨が湧き上がってきました。あの頃はデジカメも無けりゃスマホも無い、それより前に写真を撮りまくる趣味もない(笑)、だから鵜原海岸の風景画像は別の鵜原の記事に載せてあるような、陽気な後輩が映った写真1枚きりしかありませんでした。

 そして50年の時を経て、私の目の前に広がった海岸の風景はまったくあの時のままで嬉しかったです。向かって左側に突き出た岬の突端からほんの少し離れて三角形の岩が屹立していて、鵜原海岸の地形を特徴づけているのですが、我々が烏帽子岩と呼んでいたこの岩場、鵜原駅前の観光案内所でたまたま貰ったハイキングマップのとおりに歩いて行くだけでは、残念ながら岬の陰に隠れてしまうのですね。マップでは海岸に突き当たったらすぐに左へ曲がるように書かれているのですが、そこは勝手知ったる青春時代の場所、私は今も頭の中にある“思い出マップ”に従って右へ200メートルほど戻り、この烏帽子岩と再会を果たしました。

 さて駅前のハイキングマップでは、なぜ海岸ですぐに左折するように書かれているかと言えば、この左側の岬一帯は「鵜原理想郷」と呼ばれる景勝地で、そこがハイキングの主要な目的地であるからだと思います。マップにはほぼ2キロの起伏に富んだコースが案内されています。聞くところによれば、付近一帯は大正末期から昭和初期にかけて別荘地として開発が進められ、その時に“理想郷”と呼ばれるようになったとのことですが、おそらく経済恐慌や戦争で別荘どころではなくなり、地名だけが残ったのでしょう。

 私は中学2年生の海浜学校に参加しただけでなく、毎年春の音楽部合宿で必ず訪れていました。音楽部の合宿といえば、夏の軽井沢合宿でも旧軽井沢や中軽井沢を往復する運動部顔負けのランニングをやっていたと書きましたが、ここ鵜原でも砂浜を踏んで理想郷の入口まで走ったものです。何で合唱や楽器演奏する文化部でそんなトレーニングが必要なのか、何か目的や理由があったのかと問われれば、「バカになれ」というのが我々の哲学だったとしか答えられませんね(笑)。意味もなく走り続けることに意味を見出していた中学・高校時代の私たちでした。

 理想郷入口のトンネルを抜けると、かなりアップダウンの激しい狭い山道になりますが、10分ほどゆっくり登っていくと、こんな切り立った断崖の上に出ます。『雲の墓標』の主人公の親友もこういう場所に立って、水平線の彼方に眠る亡き友を偲んだに違いありません。私は50年間、鵜原の風景を写した画像はまったくありませんでしたが、この景色は脳裏にあったものと何一つ違っていなかった、崖に吹きつける海風に当たりながら、私は過ぎ去った50年間を思い返しましたが、あの小説の主人公たちの世代にはこの50年という歳月も無かったのだと改めて思いました。

 思い出さえも断たれて戦死した世代の人々に比べて、自分の人生50年を振り返ることのできる私たちはどれほど幸運なことか。思い出を振り返るよすがとなるのはやはり大自然の景色ですね。山や海や川や湖は人間の及びもつかない年月が経過しても変わらぬ座標軸を形成しており、生物の個体から見ればほとんど永遠と言ってよいくらい変わらぬ佇まいを見せています。しかしその座標軸の同じ位置に立って自分の過去を思い起こした時、やはり自分が再びここに来るまでに過ごしてきた時間は、それなりに意味のあった重厚で貴重なものに感じます。

 まあ、旅先でこんなことを考えるのが“センチメンタル・ジャーニー”なのでしょうかね(笑)。軽井沢にあった中学・高校の寮はプリンスホテル系の広大な駐車場になっていたし、また軽井沢自体が“原宿化”してましたが、浅間山と離山の姿は昔のままでした。鵜原でも海岸や理想郷の断崖は昔のまま、半世紀も経っているからハイキングコースなどは断崖のガードレールなども整備されているのかと思ったら、それさえありませんでした。では鵜原にあった中学・高校時代の寮はどうなったか、多少は興味もありましたが、人の作った施設は時の流れに抗しきれずに流転していくのが常だから、昔の面影を留めない場所で落胆するよりは、と思い直して東京へ帰る列車に乗りました。思い出の場所は昔のままの姿でそこに在ると信じている方が幸せですから…。


         帰らなくっちゃ