旅客機の座席

 先日カミさんがベルリンへ録音の仕事ででかけた。ベルリンにはものすごく音響の良いホールがあって、あの名指揮者カラヤンもたびたび録音に使ったということらしいが、残念ながら私には何のことやらチンプンカンプン…(笑)

 それはともかく、カミさんが成田を発つ時に「これから行って来ま〜す♪」という連絡が携帯電話に入った。私はそれから学生さんの講義をして、病院で仕事をして、学生さんの試験の採点をして、夕食を食べて、残業をして、家へ帰ってパソコンをいじって、シャワーを浴びて、一晩寝て起きたら、「今、着きました」とまた携帯電話で連絡があった。

 今はあんなポケットに入るような携帯電話機1つで日本とヨーロッパ間のリアルタイムの会話が可能なことに先ずビックリ、昔のTVニュースなどで海外特派員との間に交わされる通話は妙な間
(マ)が気になったものだが…。
「もしもし、ベルリンの○○さん、聞こえますか?」
「……
(シ〜ン)……ハイ、よく聞こえますよ。東京の△△さんですね。」
「ハイ、東京の△△です。そちらの天気はどうですか?」
「……(シ〜ン)……気温もとっても快適です。東京はどうですか?」
「とっても暑いです。午前中からもう35度もあるんですよ。」
「……(シ〜ン)……エエエエエッ?ビックリしたぁ!」

と、何となく間抜けな会話が可笑しかったものだが、最近は個人の携帯する電話機だけで、まるで国内と少しも変わらない会話ができることに隔世の感を覚える。

 しかし会話はリアルタイムでも、やはりヨーロッパは遠い。
フランスへ行きたしと思えども フランスはあまりに遠し
の時代ほどではないけれど、私があれこれと1日の日課をこなしている間ずっと、ロンドンでトランジットはあったものの、カミさんは飛行機の中で過ごしていたわけである。

 あの狭い航空機内で過ごす時間ほど苦痛なものはない。旅客機は空を飛ぶ必要上(当たり前だが)、空気抵抗を減らすために機体はできるだけ細身に作らなければいけないから、客船のようにバカでかい図体のものを作って旅客を快適に楽しませることは不可能だ。
 列車ならまだ空間のゆとりがある。私も昔、急行桜島号で西鹿児島へ行ったことがあって、24時間以上の乗車はかなり疲れたが、足を前の座席に投げ出したり、通路を歩き回ったりして何とか我慢できた。それに大地に車輪が着いているという安心感もあったし…(笑)。

 もう私も10時間以上のフライトはできれば遠慮したい。東西に動けば時差の問題もあるが、やはりあの窮屈な空間に押し込められたまま目的地へ運ばれていく感じが耐えられない。ビジネスクラスというのもあるが、基本的には座席にベルトで括り付けられているわけで、列車のように退屈したらデッキに立って外の景色を見に行くなんてことは出来ないし、第一、外の景色なんて雲ばかり…。

 エコノミークラスはもう地獄だ。少し若かった頃に学会でマドリッドへ行った時、往復に英国航空のエコノミークラスを使った。その半年前に乗った日本航空国際線のエコノミークラスもそんなに広くなかったが、英国航空のはさらに狭かった。体格の大きい欧州人が利用する機会ははるかに多いはずなのに何で日本航空より狭いんだと、憮然とした覚えがある。
 その後、『タイタニック』という映画が大ヒットして、タイタニック号の一等船客の待遇は王侯貴族並みだが、最下等の船客は狭いキャビンに押し込められ、あまつさえ沈没に際して脱出の通路も施錠されて塞がれてしまうシーンを見た時に、ああ、そういうことかと納得できた。要するに地獄の沙汰も金次第、金をケチる客は“貨物”として最低限の待遇しか与えないということか。
 イギリス人の後裔が建国したアメリカに運ばれるアフリカ黒人奴隷の悲惨な待遇は本で読んだことがあるが、何の罪も無い黒人を鎖で繋いで身動きできない船倉に押し込めて運んだという。何週間もの航海の末に多数の奴隷たちが死んだそうだが、この黒人奴隷輸出〜タイタニック号の下等船客〜英国航空のエコノミークラスは、もちろん程度の違いは雲泥の差だが、何となく同じ連続線の思想上にあるようで恐い。

 往路の飛行機がそんな次第で、復路少しでも楽に寝て帰りたいと、帰国前にカウンターで通路側のシートを押さえた。エコノミークラスは窓側、中間、通路側の3列になっているので、自分がトイレに立ちやすいように(隣人に跨いで通られるのはやむを得ない)、また通路に足を投げ出しやすいように、と思ったわけだが、機体トラブルでマドリッドの離陸が遅れ、ロンドンでの乗り継ぎも1便遅れた。変更された成田行きの飛行機の座席は、通路側でも窓側でもない中間座席、しかも両隣に白人の大男…最悪(泣)。
 しかしそれでも数時間の遅れで帰国できただけでも有難かった。本来ならロンドンの空港近くに1泊して翌日の便を待たねばならなかったのだが、英国航空の親切な空港職員のお陰で同日中に帰ることができた。

 最近では英国航空の機体仕様も改善されてエコノミークラスも少しは広くなっていると思われるが、何より英国航空は日本航空ほどではないにしろ、携行荷物が最も安全に届くのだそうだ。カミさんが今回ベルリンでの仕事にルフトハンザではない英国航空を選んだのは、大切な楽器を運ぶのに万全を期したからだそうで、他の国の航空会社は近頃まったく信用できないらしい。帰途に立ち寄ったロンドンの街は、やはりそれだけの信用を裏打ちし、世界に冠たる王国の風格が漂っていたそうである。


          帰らなくっちゃ