水中翼船

 昨年(2018年)と今年(2019年)の夏、伊豆大島の健診に行きましたが、その往復には東京竹芝桟橋を発着する東海汽船の高速船(ジェットフォイル)を利用しました。学生時代に友人たちと大島に行った時は、カトレア丸などという大型客船で前日の夕刻に東京を出港、東京湾口を出たあたりでしばらく漂泊して時間を稼いだ後、翌日の早朝に大島の元町に入港というスケジュールだったと思いますが、高速船だと東京〜大島間の所要時間は約1時間50分弱、ものすごい時間短縮ですね。

 何で高速船はそんなに速く海の上を走れるのか。羽田空港とか三浦半島あたりで東京湾を行き交う船舶を眺めていると、ゆったりと航行するフェリーや貨物船やタンカーや自動車運搬船や、場合によっては軍艦(護衛艦)の間を縫うようにして、タッタッタッタッタッタッ…とまるで韋駄天のように快速を飛ばして駆け抜けていく小さな船がいる、それが東海汽船の高速船=ジェットフォイルなのです。

 ジェットフォイルはまさに“海のジェットエンジン”、吸い込んだ海水を勢いよく後方へ噴出して前進する船ですが、そんなジェットエンジンで推進するから高速が出せるわけではありません。船舶は海水を押し分け、かき分けしながら推進するから、その水の抵抗は空気よりもはるかに大きい。その水の抵抗を軽減するために、ジェットフォイルはこの写真のように「ヨッコラショ」とばかりに船体自体を海面から浮き上がらせて航行しているのです。

 海面から船体を浮き上がらせるために、船底には飛行機のような翼が取り付けられており、水中を前進する際に飛行機の翼と同じ原理で揚力を発生させて船体を持ち上げています。飛行機の翼も空気中を前進する時に揚力が発生して機体が空中に浮かび上がるわけですね。こうして海面上に浮かび上がって波の抵抗を受けなくなった船体は、スクリュー(プロペラ)で前進することもできるし、ジェットエンジンで前進することもできる。ジェットエンジンで前進するタイプのものをジェットフォイルといい、これらを総称して水中翼船といいます。

 上の写真は神津島方面からやってきたジェットフォイルが大きく右旋回して元町港の岸壁に接近するところです。船体が大きく右に傾いてなかなか勇壮な光景ですね。右に傾きながら右に旋回する、左に旋回する時は左に傾く、たった今、そんなの当たり前じゃないかと思いませんでしたか。サーキットを走行するレーシングカーも、競輪の自転車も、高速でカーブを曲がる新幹線の車両も、どれもみんな右へ曲がる時は右に傾いている、それと同じ…?

ボーッと生きてんじゃねえよ!(笑)

 高速でカーブを曲がる自転車も自動車も鉄道も、もし平坦な場所で旋回すれば車体が遠心力でカーブの外側へ放り出されてしまうから、わざわざ路面や線路が内側へ傾斜して作られているのです。別のコーナーにちょっとだけ書きましたけれど、私はかつてゆるやかにカーブする浜松駅の追い越し線路上に停止した新幹線に一晩閉じ込められたことがあります。ここは猛スピードで列車がカーブしながら通過する線路なので、カーブの内側に向かって10度ほど傾斜しています。正常に運行している新幹線なら、その傾斜を転がり落ちる重力と遠心力が釣り合って快適な旅を楽しめるというものですが、停止してしまうと転がり落ちる重力だけになってしまうので非常に居心地が悪かった。

 さて陸上の交通機関が右へ曲がる時は右に傾く、左に曲がる時は左に傾くのは、乗り物自体がそうなるのではなく、路面や線路がそのように作られているからだということはお分かりになったと思いますが、海上を行く船は違います。船が遠心力で放り出されないように海面に傾斜をつけておくことはできませんから、船が右に曲がる時は遠心力で左へ傾き、左に曲がる時は遠心力で右へ傾きます。陸上の乗り物のイメージとは逆です。

 次の写真は2012年の海上自衛隊観艦式のものです。私が乗せて頂いた護衛艦せとぎり(DD-156)の右舷側を護衛艦はるゆき(DD-128)が高速で追い抜いていくところ、艦首と艦尾の波が実に勇壮でした。この後はるゆきは洋上給油訓練展示のため補給艦ましゅう(AOE-425)に接近、私の乗ったせとぎりはその洋上給油を支援するため補給艦ましゅうの後方に位置を占めるべく、かなり急激な転舵を行いましたが、その時の乗艦者に対する艦内アナウンス、
「本艦は間もなく
へ曲がります。船が大きくに傾きますのでご注意下さい。」

 船は旋回とは逆方向へ傾くこともお分かり頂けたと思いますが、これはなかなか実感が難しいようですね。1957年に公開された新東宝の戦争映画『明治天皇と日露大戦争』は、嵐寛寿郎さんが明治天皇役で出演されている希少価値の高い映画ですが、この作品の中の日本海海戦の場面、東郷司令長官の有名な敵前左回頭に際して、撮影に使われたミニチュアの戦艦が全部左側に傾いていました。つまりレーシングカーや新幹線などと同じように、旗艦三笠以下の連合艦隊の軍艦がカーブの内側に向かって傾きながら旋回していくのです。これは私にはかなり違和感がありましたね。

 1969年に三船敏郎さんが東郷司令長官を演じて公開された東宝の『日本海大海戦』も、左回頭で船が右へ傾くはずの場面で、ミニチュアの戦艦が波浪に弄ばれて何となく揺れているようにしか描かれていなかった。やはり映画制作者は自信がなかったのか、あるいは観客が違和感を感じないように敢えて曖昧な揺れでごまかしたのか。ただし『明治天皇と日露大戦争』も『日本海大海戦』も、コンピュータ・グラフィックはもちろん無く、特殊撮影技術も未熟だった時代に、見事に迫力のある海戦シーンを丁寧に制作されていることに脱帽です。

 しかし映画ではない、実際の日本海海戦の現場にいた東郷司令長官以下の連合艦隊の乗員たちは、敵前回頭に当たって自分の立っている場所がたとえ1メートルか2メートルでも敵艦隊側に傾いたわけですから、内心ではさぞかし怖かったんではないかと思います。その剛胆さにも脱帽ですね。

 なお2011年の年末に放映されたNHKの『坂の上の雲(第3部)』の最終回、同じく日本海海戦の敵前左回頭の場面では、左へ回頭を始めた戦艦三笠の右舷前甲板が激しく波をかぶって、艦が大きく右に傾いた先に濛々たる黒煙を上げるバルチック艦隊の姿が迫るという迫力あるシーンが見られました。艦船の旋回に伴う傾きを正しく描くまでに100年以上かかったということか(笑)。

 さて陸上の乗り物はカーブと同じ側に傾く、船はカーブと反対側に傾く、しかし飛行機の場合はまたちょっと違う。飛行機は曲がるために機体をカーブの内側に傾けるのですね。これはフライト・シミュレーターなどというゲームをやった人なら何となく“体感”されたかも知れませんが、その前に少しだけ高校時代の物理学を復習してみましょう。

 まず飛行機の玩具に糸をつけて自分の身体の回りを等速円運動させる時、玩具を振り回す糸を引っ張る力が加わっています。これが向心力です。しかし実際の飛行機にはもちろん糸はついていませんね。飛行機が空を飛べるのは翼が発生させる揚力と、飛行機を下へ引っ張る重力が釣り合っているから。そして飛行機の機体を少し傾けると揚力の方向も傾いて重力との合成で、円運動の中心に向かう向心力に相当する力が発生します。ザックリ言ってしまえば、この力によって飛行機は等速円運動を開始し、旋回するわけです。

 実際に旅客機に乗っていても、着陸体勢に入るまでの旋回飛行や、前途の積乱雲を避けるために方向転換する時など、機体が大きく傾くのが分かります。客席の一方の窓からは海面や陸地が見え、もう一方の窓は天空の高みを指しますからね。今度乗る時にはよく注意してみて下さい。

 さてここで最初の水中翼船に話を戻しますが、水中翼船は“船”とはいいながら、普通の船とは逆、つまりカーブの内側に船体を傾けながら旋回します。これは水面下に隠れている水中翼を傾けることで円運動の向心力を発生させているわけですね。

 いや、何となく理屈は分かっていたつもりでも、大島の元町港でジェットフォイルの旋回運動を実際に目の当たりにすると、やはり胸躍るものがありました。私に高校時代の物理学を復習させてくれた東海汽船のこのジェットフォイルは“セブンアイランド虹”という船、同型船のセブンアイランド姉妹には“愛”、“友”、“大漁”がありますが、いずれも老朽化が進んでいて、すでに“セブンアイランド夢”が引退してJR九州から購入した“大漁”に交代、この“虹”も間もなく引退して、2020年には新造の“セブンアイランド結”が就航するそうです。

 ジェットフォイル船は米国ボーイング社のライセンスを受けた川崎重工業が一手に受注建造していますが、この“結”は25年ぶりの新造船だそうです。1隻2隻の建造では割高になるので、現在佐渡航路や高松航路などでジェットフォイルを運用している各海運会社とも歩調を揃えて新造船の建造計画を進める動きもあるようです。セブンアイランド級のジェットフォイルは航海速力43ノット、1ノットは1時間に1海里(1852メートル)進む速さだから、大体時速80キロ弱ということになります。高速道路を自動車で“普通に”走る速度ですね。日本各地の海で川崎重工業製のジェットフォイル姉妹が時速100キロ近くで走り回る姿を期待したいと思います(笑)。


         帰らなくちゃ