城ヶ島の雨
今年(2017年)の夏、三浦半島の突端、三浦市の三崎に行って美味しい魚を食べて来ました。私も横須賀までは時々行くのですが、そこから先、京浜急行久里浜線の終点の三崎口という駅まで行き、さらにバスかタクシーで半島の先端まで行くのですから、これはちょっとした小旅行気分、同じ関東地方でありながら、定年退職の気楽さがなければなかなか訪れる機会もない土地でした。
三崎といえばマグロが有名ですが、地元の三崎漁港に上がった新鮮な魚の料理はどれも驚くほど美味で、なぜもっと早くここを訪れなかったのかと後悔しましたね(笑)。三崎の魚料理で美味しくお酒を頂いた後は、三崎の前に浮かぶ城ヶ島に渡ってみました。本当は渡し船で行きたかったのですが、ゆっくり酒を飲んでいるうちに最後の船が出てしまい、仕方なくバスで行きました。三崎から城ヶ島へは、私がまだ小学生だった1960年(昭和35年)に完成した城ヶ島大橋が架かっています。
左の写真が城ヶ島から見た城ヶ島大橋です。レインボーブリッジとかベイブリッジとか、瀬戸内海を渡る本州四国連絡橋とか巨大な橋を見慣れた現代の我々には、全長575メートルのこの橋はずいぶん可愛らしく見えますが、箱桁橋という工法を日本で初めて採用した橋梁で、完成当時は東洋一の大橋と持て囃されたものです。この2年後に北九州の若戸大橋が完成しますが、若戸大橋以降の巨大な橋では吊り橋が主流となりました。
橋の下に石碑が建っていますが、ここには『城ヶ島の雨』という北原白秋の詩が刻まれています。
雨はふるふる城ヶ島の磯に
利休ねずみの雨が降る
と到底読めないような達筆の崩し字体で彫られていますが、元の詩はさらに次のように続きます。
雨はふるふる城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる
雨は眞珠か夜明けの霧か それとも私の忍び泣き
舟はゆくゆく通り矢のはなを 濡れて帆あげたぬしの舟
ええ舟は櫓でやる櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気
雨はふるふる日はうす曇る 舟はゆくゆく帆がかすむ
前夜契った船頭の漕ぐ舟が沖へ向かって通り矢(三崎の東端の地名)を通り過ぎて行く、それを見送る切ない女心を謳ったように思えますが、その船頭は漁が終わればまた戻って来るのか、それとも一夜限りの契りだったのか、いろいろ考えると艶っぽい詩の内容ですね。初めてこの詩を聞いたのは小学生の頃のバス旅行、詩を朗読するバスガイド嬢の鼻にかかったような媚声は今も耳の奥に残っています。
しかし小学生風情がガイド嬢の色っぽい声でこの詩を聞かされたとて、男女の深い情など想像さえできませんよね。初めて聞いた時はとても不気味な情景しか思い浮かびませんでした。無数の“リキューねずみ”がチューチューキイキイ鳴きながら雨のように空から降ってくるイメージ(笑)、なくのは女ではなく、ネズミだったわけです。
私が城ヶ島を訪れた日も、厚い雲間から薄日が射すかと思えば、小糠雨が時々磯を濡らすという、ちょうど白秋の詩の情景のような天候でした。“リキューねずみ”はマウスやラットではなく、“利休鼠”という色の名前だということは、さすがに一つ利口にはなっていましたが、ではどんな色なのか、磯を歩きながらふと疑問に思ったので、東京へ戻ってから調べてみました。
現代の日本人はもう“灰色”とか“ねずみ色”とかいう純正な日本語を使うことは滅多にありません。グレーと言えば、どんなに英語が苦手な人でもすぐに分かります。私が幼稚園の頃は「グレーのコート」などというキザな言い方はしなかった、「ねずみ色の外套(がいとう)」と言わなければ誰も理解できなかったという話は別の記事にちょっとだけ書きましたが、たぶん“ネズミ”とか“灰”とかあまり清潔でない物なので、いつしかグレーという色の名前が定着したのでしょう。
グレーにもダークグレー、ライトグレー、チャコールグレーなど幾つも種類があるように、鼠色にもさまざまな種類がありました。本当は色の名前をいう時に、利休鼠は「りきゅうねずみ」ではなく「りきゅうねず」と言うのが正しいらしいのですが、白秋の詩は「りきゅうねずみ」と読まなければ韻が足りなくなります。
それはともかく、googleで“利休鼠”と検索して画像でそのサンプルを提示させると、同じ利休鼠でもほとんど一定していないので驚きました。まあ、現代ならば波長や吸光度がどのくらいの色とか、何号と何号の塗料をどれくらいの比率で混合した色とか、物理的化学的にかなり厳密な定義もできるでしょうが、色にこういう風流な名前を付けていた時代の人々に限らず、我々にとっても色に関するそんなことはあまり重要ではなく、色の名前を聞いた時に浮かぶ情感の方が大切なのだと思います。
例えば上の画像の一番左下、鼠色が3色に分かれていますが、中央が「利休鼠」で、左側は「深川鼠」、右側は「錆鼠」という色だそうです。ライトグレー、ダークグレー、チャコールグレーに相当するようで興味深いですね。別にどこまでがライトで、どこからがダークかなんて、特に決まっているわけではありません。
「利休鼠」を広辞林で引くと「緑がかったねずみ色」と書いてありますが、そう言われてもね(笑)。確かに色のサンプルを見るとほとんど抹茶のようなのもあって千差万別です。今の私にとっては「(城ヶ島の)磯に降る雨のような色」と言われると一番ピンとくるような…。
補遺:あ、抹茶のような色合いを含むから、茶人 千利休の鼠色か。