メルボルン(Melbourne)

 私の最初の海外旅行は1977年(昭和52年)の夏、行く先はオーストラリアでした。羽田空港を深夜の飛行機(カンタス航空)で発って早朝のシドニーに到着、そこからキャンベラを経由してメルボルンへとやって来たのです。
 メルボルンの最初の印象を私は「古い街並みが新しいビル街に侵蝕されつつある都市」と手帳に書き残していますが、さらに「古い尖塔を持つ巨大な教会がたくさんあり、それらは新しいビル街の侵略に対して頑として揺るがぬ威容を示しているように見える」とも追加しています。メルボルン市内には下のような教会の尖塔があちこちに見られ
、異国へ来たのだなという感慨を新たにしたのでしょう。
 メルボルンは中世ヨーロッパの雰囲気を色濃く残しているとされ、アメリカナイズされた近代的なシドニーや、完全な人工都市のキャンベラとはまったく違った市街地の様相を呈していましたが、15年後に国際学会で再び訪れた時にはずいぶん変わってしまったなと思ったものです。新しいビル街の“侵略”に古い街並みが壊れていくのは、別に日本に限ったことではなさそうです。
 15年後の再訪の時にこの教会を探そうとしたのですが、確かに地図上ではこのあたりだったと思うのに、それらしい尖塔を見つけることができず残念でした。あれからさらに15年ほど経ちましたから、今のメルボルン市街はさらに再開発が進んでいることでしょう。

 メルボルンでの雑感を2つほど…。
 一つは空港からシャトルバスで市内ターミナルに到着、ホテル(The Southern Cross Hotel)までスーツケースを引っ張って歩いていたら(要するにタクシー代を節約しようとしたのです)、人の良さそうなおばさんが近づいて来て、どこへ行くのかと訊くのでホテルの名前を言うと、大きく両手を広げて「とっても遠いわよ」と言う(もちろん英語で)。そして代わりにタクシーを拾ってくれて運転手に行き先を告げると、私をタクシーに押し込んで、「良い旅を」とか何とか言ってニッコリ笑いながらどこかへ去って行きました。
 タクシー代を倹約しようとしていたので余計なお節介には違いないのですが、言葉の判らなそうな外国人がウロウロしているのを見かねて、頼まれもしないのに援助の手を差し伸べようとするこの国の市民の心に感じ入りました。今で言うボランティア精神ですね。私も東京で外国人がウロウロしているのをみたら、できるだけ“What would you like?”とか“May I help you?”声を掛けてあげるようにはしていますが、やはりちょっと勇気が要ります。(普通、英語の教科書には“May I help you?”と書いてありますが、オーストラリアで私に初めて聞いてくれた人が“What would you like?”だったので、私もそっちをつい使ってしまいます。)
 結局、この時のタクシーの乗車距離は街路2区画、わずか数百メートルで、1.40オーストラリア・ドル(当時の日本円で400円くらい)でしたが、街路2区画を歩くには遠いと感じるこの国の人々の感覚にも驚かされました。メルボルンのホテルをチェックアウトする時も、航空会社のターミナルまで歩いて20分の距離なので徒歩で行くと言ったらドアボーイが怪訝な面持ちをしていました。

 もう一つ、文化の違いを感じたのは靴です。メルボルンでは当時の東大小児科教授だった小林登先生の御紹介で王立小児病院(The Royal Children's Hospital)を見学させて頂きましたが、外科医が手術をする時も靴を履いているという話には驚きました。もちろん靴カバーを着けていますが、完全清潔区域でなければならない手術室の中でも靴を脱がないとは…。最近ではどうだか知りませんが、少なくとも当時はそうでした。
 何人かの病院の先生にはご自宅での夕食に呼ばれましたが、一家の団欒の最中も靴は履いたままです。これは最初から欧米人の習慣として話には聞いていましたが、やはり実際に靴を履いたまま家庭の中で食事をしてみると、日本人にとってはなかなか窮屈なものです。試しに今夜お宅で靴を履いたまま夕食をなさってみたらいかがですか。



 ところで私がメルボルンを訪れた理由は、この年の春に横須賀で三笠公園を案内して差し上げたジョンさんというオーストラリア陸軍の退役軍人の方と知り合いになったこともあるのですが、実はそれよりもっと前からメルボルンは私が一番行きたい外国の町でもあったのです。日本人が今ほど自由に外国旅行もできなかった昭和40年代、しかもわずかな外国旅行の機会があるとすればアメリカ西海岸かハワイか西ヨーロッパといった時代に、なぜ私が南半球のメルボルンに興味を持ったかというと、ある1冊の小説がきっかけでした。
 ネビル・シュート(Nevil Shute)という人の「渚にて」という小説を読んだのは中学3年生の頃でした。ある先生が授業中に紹介してくれたので読んでみたのですが、非常に強烈な印象だったのです。1960年代のある日、世界全面核戦争が勃発して北半球諸国はすべて壊滅してしまう。なぜか南半球には核ミサイルは1発も飛んで来なかったので、オーストラリアは核爆発による破壊を免れるのですが、地球の公転に伴って地軸の傾きによる南北大気の混合が起こり、高濃度の放射性物質に汚染された北半球の大気が次第に南半球に拡散してきて、生き残った南半球の人々も徐々に死滅していくというストーリーでした。
 そんな時にアメリカ海軍の原子力潜水艦がメルボルンに入港してくる。アメリカ海軍最後の軍艦です。この潜水艦の艦長とメルボルン娘の淡い恋を中心に、人類最後の日までの残された人生を精一杯生きようとする市民たちの姿を明るく描いており、核戦争の恐怖を描いたSF小説というよりはむしろ切ないホームドラマ風の作品でした。
 艦長とヒロインの娘は互いの心を十分わかっていたが、艦長は故国アメリカに残してきた妻子を裏切ることなく、娘も艦長のその心をいたわりつつ最後の別れを迎える場面は圧巻でした。北半球にいた妻子は確実に亡くなっているのです。だが艦長はその妻子にオーストラリアの土産を買い、アメリカ海軍最後の軍艦を自沈させるためにメルボルンを出港していく。
 他の登場人物たちも家族との時間を大切にし、独身者は生涯の趣味に残りの人生を賭ける、そんな奇麗事があるもんか、あと数ヶ月しか生きられないと判ったら、殺人でも強姦でも何でもかんでも好き放題やってやるのが本当だろう、というのが最近の人々の感想ではないでしょうか。ところが1960年代には、最後の日々を高潔に生きる主人公たちが登場する小説が存在し得たのです。核戦争による大気の放射能汚染は今のところまだありませんが、21世紀を迎えてモラルの汚染は確実に進行しているのではないでしょうか。

            帰らなくっちゃ