大船観音寺
定年退職後は福祉施設や保育施設の健康診断で主に首都圏各地を巡回しておりますが、川崎や横浜以遠の東海道本線沿線も比較的頻繁に訪れています。四季折々の車窓の風景もかなりお馴染みになりましたが、中でもこの大船の観音様は圧巻ですね。高さが約25メートルあるそうです。
大船駅周辺の施設も年間7〜8回は訪れていますし、二宮・辻堂・平塚・真鶴・湯河原など東海道線、また鎌倉・衣笠・久里浜など横須賀線で大船より先の各駅に出かける時も、必ず車窓から拝観しています。
ご覧のように小高い丘の頂上近くに、木々の間からヌッと柔和なお顔を突き出して大船の街並みを見下ろしていらっしゃる、何も知らずに不意にそのお姿を目にしたら、もしかしたらギョッとする方も少なくないと思われます。全体が真っ白な観音様なので、時刻により、季節により、また天候によっても、周囲の樹木の色や太陽光線に映えて実にさまざまな表情をお見せになります。
実はこの大船観音寺、創建年代は意外に新しく、1927年(昭和2年)に護国観音を作ろうと地元の有志が護国大観音建立会を設立して1929年(昭和4年)より建立が開始され、1934年(昭和9年)には塑像のような輪郭は完成していたが、日中戦争の激化や世界大恐慌など時局が悪化したために以後23年間も放置されていました。そして事業は戦後の1954年(昭和29年)に大船観音協会に引き継がれ、1960年(昭和35年)にやっと完成したとのことです。
さらに1979年(昭和54年)に大船観音協会は解散して宗教法人に移行、1981年(昭和56年)から大船観音寺となって伽藍なども整備されました。正式には仏海山
大船観音寺という曹洞宗の寺院です。
丘の坂道を上がって寺に入り、石段を登っていくと巨大な観音様の顔が目前にぬっと迫ってきます。柔和な優しいお顔なんですが、これだけ大きいとやっぱりちょっとギョッとします。鎌倉の記事の中にも書きましたが、奈良や鎌倉の大仏様を作った昔の人々にとって、やはり疫病や天災や飢饉の前に立ちふさがって守って下さる仏様は大きければ大きいほど頼りがいがあったと思います。戦前の昭和の人々が大きな観音様を造ろうと考えた理由も同じだったかも知れません。『護国観音』として建立が決まったわけですから、経済恐慌や交戦国や仮想敵国から日本を守って欲しいという切なる願いが込められていたのではないか。
この大船の観音様は上半身の胸部より上しかありませんが、当初の計画では立ち上がったお姿だったそうです。しかし地盤が巨大な立像を支えきれないとの判断で今のお姿になっているのですが、これが現在の倍以上の立ち姿だったら“見下ろされてる感”はずっと強かったでしょうね。
さて私がこの観音様を初めて見たのは…、いや初めて“見なかった”のは小学生の時でした。たぶん1961年に復元されて記念艦となった戦艦三笠を見に両親が横須賀に連れて行ってくれた帰り道のこと、横須賀線の電車が大船駅に近づいてくると正面から次第に左手の車窓に大船観音が見えてくるのですが、「ホラホラ、ご覧、あそこに大きな観音様が」と両親が指差す彼方を見上げたものの、私には何も見えなかった。まだ幼い私には信心が足りなかったのか(笑)。
私は今でも列車の窓から大船観音を見上げるたびに、あの時の不思議な体験を思い出しています。現在では寺の樹木も大きく成長し、また駅からバスターミナルに直結する歩道橋などゴチャゴチャした風景が増えていますが、それでも観音様のお姿が見えないということはない。まして昭和30年代頃は遮る物も少なかった観音様ですから、いくら子供の目でもはっきり見えたはずだと思います。それでも私は見えなかった。
在ると思って見なければ何も見えない、私は今ではそう解釈しています。両親などの大人は1960年に完成した大船観音の新聞記事など読んでいたから、ああ、あれがそうかと、大きな観音様の姿を認識できた。しかし横須賀で圧倒的な戦艦三笠を見てきたばかりの子供が、いきなりあそこに大きな観音様が…と言われても、網膜に映った観音像を脳が認識して受け入れることはできなかったのです。
私は定年退職の前までは病理診断を仕事にしていました。病理診断とは検体や標本を見ることに特化した分野だと昔の記事で書いたことがあります。例えば患者さんから採取された顕微鏡標本に癌細胞があったとします。そこに癌細胞があれば、顕微鏡で観察した時に誰でもそれを“見る”ことができるかと言えば、そうは問屋が卸さない。
もちろん簡単に診断がつくことの方が多いのですが、中には初心者には見分けられないほど微妙な癌細胞もある、標本に含まれる癌細胞が非常に少なくて不注意な診断医だと見落とすこともある、さらに恐いのは「この患者さんは若いからまだ癌になるはずないよね」と油断してスルーしてしまうこともある。
「いつでも癌が在ると思って見なければダメだ」
と先輩病理医からは徹底的に指導されたものです。とにかく怖い仕事でしたが、在ると思って見なければあの大きな観音様でさえ見えないことがある、病理医に限らずすべての人に教訓として伝えたいことです。