唱歌『鎌倉』
昨年秋に鎌倉の由比ヶ浜の方で仕事があった時、近くに稲村ヶ崎があるというので仕事の後にちょっと歩いてみました。小学校5年生の鎌倉遠足の前に、音楽の授業で『鎌倉』という唱歌を歌いましたが、その冒頭に“稲村ヶ崎”という地名が出ていたのです。作詞は芳賀矢一さんという方だが作曲者は不詳、その歌い出しの一番の歌詞は何年経っても印象に残っていたのですね。
最近は大船とか久里浜とか三浦半島方面での仕事も多く、また鎌倉には大学時代の友人も住んでいるので、かつての唱歌の記憶も甦ったことだし、この際ちょっと仕事の折に訪れた鎌倉のスポットを幾つかご紹介してみようと思います。
先ず『鎌倉』の冒頭の歌い出しは、
七里ヶ浜の磯伝い
稲村ヶ崎 名将の
剣(つるぎ)投ぜし古戦場
名将とは新田義貞、吉川英治さんの『太平記』でも読みましたが、1333年の鎌倉攻めの際、上野国から挙兵した義貞は南から鎌倉に攻め入ろうとした、これは北条氏の鎌倉幕府滅亡の時のことですが、私の年号暗記術では
一味さんざん北条幕府
で1333年と覚えます。歴史の年号なんかどうでもいいと思うかも知れないけれど、やはりこういう場所をたまたま通りかかった時に、ああ、新田義貞がここを通って鎌倉に攻め込んだのは680年以上前のことだったかと感慨が湧く。感慨が湧かなくても別に何か損するわけでもないが、やはり何かしらの感慨が湧いた方が人生は楽しい。
それで義貞は兵を率いて稲村ヶ崎を通過しようとしたが、切り立った崖の下を大軍が通るのは不可能だったので、海の神様に自分の剣を差し上げた、要するに刀剣を荒海に投げ込んだわけですね。すると不思議や不思議、たちまち潮が引いて遠浅の砂州が現れたので、義貞はそこを通って鎌倉に攻め込んだ…というのが稲村ヶ崎の伝説です。
ところで別の記事にも書いたように、古代の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東国遠征では観音崎の走水の海を渡って対岸の上総に渡ろうとした時に、后の弟橘媛(オトタチバナヒメ)が自ら生贄となって激しい暴風雨を鎮めた、あの時に比べれば人身御供の代わりに刀剣で取り引きした海の神様もずいぶん人道的になったものですが(笑)、日本武尊にせよ、新田義貞にせよ、せいぜい関東地方のこの辺を進軍するのに何も無理して海を渡らなくても、少し陸の方を回り道すれば良いじゃないかと後世の我々は思いますけどね。ところが新田義貞の鎌倉攻めの場合、そういうわけにも行かなかったのです。
極楽寺坂 越え行けば
長谷観音の堂近く
露座(ろざ)の大仏おわします
七里ヶ浜から少し内部へ奥まった場所、現在の江ノ島電鉄(通称江ノ電)が通って鎌倉駅に向かうあたりは、険しい切り通しの中に線路が敷設されています。特に切り通しの坂道を登っていった江ノ電“極楽寺”の駅は、左側の写真のように切り立った崖の狭間に窮屈そうに駅舎が建っています。これは橋の上から江ノ島方面に向かって電車を撮影したものですが、鎌倉行きの電車は橋の下をくぐるとすぐトンネルに入り、鎌倉へ向かいます。極楽寺というお寺はこの写真右手にあります。
つまり主要街道を通らずに鎌倉に入ろうと思えば、必ずこういう坂道あり、切り通しありの険しい場所を通らなければいけません。鎌倉は守るに易く攻めるに難い、天然の要害なのですね。崖の迫る隘路を攻め進む時に、切り通しの上で敵に待ち伏せされたら、どんな精鋭の大軍でも莫大な損害を蒙ってしまいます。だから新田義貞は大事な刀剣を海神に捧げてでも、稲村ヶ崎の砂州を進撃したかったわけですね。
さて稲村ヶ崎から極楽寺坂の隘路を抜けて市街地に出ると、右手に長谷観音、左手に鎌倉大仏があります。鎌倉のアジサイ寺としても有名な長谷観音の長谷寺はまたの機会にして、今回は高徳院の鎌倉大仏をご紹介します。これは高さ11.3メートルの阿弥陀如来像ですが、『吾妻鏡』や『太平記』の他にはめぼしい歴史的資料に乏しく、これだけ立派な仏様にしては由来や沿革がイマイチ曖昧な部分があるようです。
唱歌の歌詞で“露座の大仏”というところ、小学校の音楽の先生が、奈良の大仏様のような建物の屋根がなく、空の下に雨ざらしで座っていらっしゃるのを“露座”というんだよと教えて下さった、まだ奈良へも鎌倉へも行ったことのなかった児童の身でしたが、何となくこの言葉は覚えてしまいました。ただ鎌倉の大仏様も最初から“家なき子”だったわけではなく、限られた史料によれば、1252年頃に建立された当初は大仏殿があったが、その後地震や津波で破壊された後は、少なくとも室町時代後期にはすでに“露座”でおわしたそうです。
昭和40年代、「大きいことはいいことだ」という山本直純さんが出演するCMがありましたが、仏様もこれだけ大きければ人々の目には非常に頼もしく映ったことでしょう。奈良の大仏(盧舎那仏)は鎌倉大仏よりさらに古い752年、聖武天皇の御世に開眼供養が行われたと記録がありますが、どちらの大仏もおそらく疫病や天災や飢饉などに苦しんだ時代が背景にあったと思います。人智を越えたものをただ恐れるしかなかった時代には、その前に立ちふさがって下さる仏様は、やはり大きいことはいいことだったのでしょう。令和の時代も我々は新型コロナウィルスという疫病に苦しんでいるわけですが、ワクチンが急ピッチで実用化されました。たぶん昔の人々にとって大仏様は、我々にとってのワクチン以上に頼りがいのある存在だったかも知れません。
ちなみにこの時は大仏様の周囲にほとんど観光客がいませんが、別にコロナ禍というわけではありません。これは2018年9月末に台風24号が首都圏を直撃して横須賀線が不通になった日、JRの車内情報がいい加減で大船駅に着くまでそれに気付かず、結局久里浜での仕事がキャンセルになり、それならばと湘南モノレールで40余年ぶりに大仏様にご挨拶に行きました。台風一過だったのと、まだお昼前だったので境内はかなり空いていたわけです。
さて切り通しを抜ければ鎌倉中心部はもう目の前です。そして雪の下という所に鎌倉武士の守護神、鶴岡八幡宮が建っています。これもちなみにガラガラの境内ですが、特にコロナ禍というわけでなく、仕事で朝の7時半頃に鎌倉駅に着いたからです。
由比が浜辺を右に見て
雪の下村 過ぎ行けば
八幡宮の御社(おんやしろ)
この写真は石段を登った本殿から下を見下ろした風景です。唱歌では石段の左に大銀杏があると歌ってますが、この写真では逆、右側の注連縄の張ってあるあたりにかつては樹齢1000年とも言われる大銀杏が聳えていたものでした。八幡宮の別当公暁がこの樹木に隠れて3代将軍 源実朝を暗殺したという伝説がある樹でしたが、2010年(平成22年)の春の嵐で倒れてしまいました。唱歌でもこの樹に世々の跡を聞いてみたいと歌ってますが、私も別の記事であの銀杏の樹が我々に何を遺言したか聞いてみたいと書いたことがあります。動物とは桁違いの植物の寿命に接すると、誰でも同じような感想を持つものなんでしょうね。なお倒れた大銀杏の根本からは代替わりした若木がスクスクと成長していました。
上るや石の階(きざはし)の
左に高き大銀杏(おおいちょう)
問わばや遠き世々の跡
若宮堂の舞の袖
しずのおだまきくりかえし
かえせし人をしのびつつ
さて八幡宮の石段の上から見下ろした写真中央にあるのが舞殿(まいでん)です。石段上の本殿に対して下拝殿とも呼ばれます。かつてはここに若宮の廻廊があり、1191年に火災で焼失した際に源頼朝が再建、さらに1923年の関東大震災で倒壊したものを1933年(昭和8年)に再建されて現在に至ります。
舞殿では鶴岡八幡宮の多くの行事が行われ、その名のとおり舞や雅楽が奉納されることがありますが、奉納される舞の中には『静の舞』もあります。これは当代随一の舞の名手、京の白拍子で源義経の愛妾だった静御前の舞ですね。頼朝に追われて奥州へ逃げる途中、雪の吉野山中で義経と別れた静御前は捕らえられて鎌倉へ送られます。
静御前が捕らえられたのは1186年のこと、鎌倉に留置されていた間に、まだ焼失前だった若宮で白拍子の舞を舞うように頼朝から命じられました。舞殿は若宮の跡に再建されたものですから、捕らわれの身だった静御前が源頼朝や北条政子の前で舞ったのは、現在この舞殿が建っているあたりと思われます。
しづやしづ しづのをだまき くり返し
昔を今に なすよしもがな
糸玉から糸が何度も繰り出されるように、世の中も同じ道を巡り巡って、また昔の時代が戻って来ないかしら…という切ない女心を歌ったものに続いてもう一首、
吉野山 峰の白雪 踏みわけて
入りにし人の 跡ぞ恋しき
逃避行の途中でお別れして雪の峰に入って行かれた義経様が恋しい…という意味ですから、何で俺の前で義経を恋しがる舞を舞うかと頼朝は激怒、器量の小さな男ですね、しかし北条政子が頼朝を諫めます。あれが女心というもの、もしも私が敵に捕まって同じ境遇になったら、私もあなたを慕う歌を詠みますわとか何とか言ったんでしょう。
政子の取りなしもあって事無きを得た静御前、妊娠していた義経の子は男子だったので取り上げられて殺されましたが、あとは放免となりました。以後の静御前の足跡は諸説ありますが、埼玉県の栗橋には静御前の墓と伝えられる墓石がありました。
鎌倉宮にもうでては
尽きせぬ親王(みこ)のみうらみに
悲憤の涙わきぬべし
歴史は長き七百年
興亡すべて夢に似て
英雄墓はこけ蒸しぬ
この尽きせぬ親王の恨みとは後醍醐天皇の第三皇子の護良親王(もりよししんのう)通称大塔宮で、建武の新政で征夷大将軍に任じられていたが、後に足利尊氏と対立、尊氏討伐の令旨を勝手に発したため父・後醍醐天皇に捕らえられて尊氏に引き渡され、東光寺の土牢に幽閉されていたところ、旧鎌倉幕府の北条高時の遺児が乱を起こし、足利方が劣勢となったため、北条方に利用されないよう足利直義(尊氏の弟)の命令で殺害された。護良親王が殺害された土牢跡は小学校の遠足の時に見学しましたが、政権が源氏から北条に移り、建武の新政でいったん皇室が再興したしたものの、南北朝に分裂していた流れの中で再び足利の世になっていく、要するに護良親王はそんな権力闘争の動乱の中で無念の思いを抱きながら28歳の若さで殺されたわけですが、小学生にはそこまで歴史を洞察することはできませんでした。しかし格子で閉ざされた土牢の不気味さだけは何となく覚えていますね。
さて鎌倉時代から700年近い年月が流れ、令和の御世となっています。写真左は建長寺の鐘楼、右は円覚寺の門前を横切る横須賀線の踏切です。建長寺は鎌倉五山のうち寺格第一位、円覚寺は第二位でした。
建長 円覚 古寺の
山門高き松風に
昔の音やこもるらん
ところで建長寺の重厚な鐘楼のわきに建っていた小さな説明板に実に驚愕の記載を見つけました。
「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」
おいおい、何だよ、これは…?「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」のパロディかよ(笑)。
ところが説明板にはさらに驚きの解説が続きます。
この俳句は明治28年(1895)9月、夏目漱石によって作られました。親友の正岡子規は、この句を参考に「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を作りました。
これは初耳だった。あまり言われることもないですよね。念のためにwikipediaをすぐに引いてみたら、「柿くへば…」の句の成立を述べた記述の末尾に次の一文があったので引用しておきます。
『海南新聞』の同年9月6日号には、漱石による「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」という、形のよく似た句が掲載されていた。坪内稔典は、子規が「柿くへば」の句を作った際、漱石のこの句が頭のどこかにあったのではないかと推測している。
唱歌では、鎌倉の古寺山門に吹き抜ける松風の音だけは700年の昔も変わらないだろうと結んでいますが、円覚寺の山門に立つと、門前の庭先みたいなところを通過する横須賀線列車の音と踏切の警報機の鐘が、そんな昔への思いを遮ってしまう。それがまた歴史の流れを気付かせてくれる現世の風情なのかも…。