鉄道起点0哩

 JR新橋駅から汐留方向に徒歩数分ばかりの距離に、今では近代的な高層ビル群に囲まれて目立たなくなっていますが、私のような旅行好き、乗り物好きの人間にとって忘れてはいけない場所があります。

 今年(2022年)は日本の鉄道開業150周年、明治5年(1872年)10月14日(旧暦では9月12日)にここ新橋の停車場から横浜桜木町に向けて日本初の鉄道の営業運転が始まったわけです。それに先立つ明治3年(1870年)、ここに鉄道建設の第一杭が打たれ、その後明治11年(1878年)にこの0哩標識(写真右)が建てられました。現在ではこの周囲に開業当時を偲ばせるプラットホームやレールの一部が復元されています。

 開国間もない日本でしたから、もちろん自前の鉄道技術があるはずもない、イギリス人技師エドモンド・モレル(Edmund Morel)を招聘して鉄道建設に取りかかりました。0哩は0マイルです、一里塚の“里”でもないし、キロメートルでもありません。モレルは日本の鉄道の軌道を幅1067mmの狭軌に定めたり、枕木を日本産の木材にすることを提案するなど、幾つも重要な基礎を作りましたが、鉄道開業前年の1871年、横浜で30歳の若さで肺結核により亡くなっています。25歳の愛妻ハリエット夫人も半日後にやはり呼吸器系の疾患で後を追うように亡くなったとのことですから、おそらく結核菌の家庭内濃厚感染でしょう。ただし当時はコッホが結核菌を発見するより11年も前のことでした。“原因不明の恐ろしい疫病”により異国の地で命を落としたモレル夫妻の無念は察するに余りあります。

 この新橋の停車場を発車した蒸気機関車もまたイギリスからの輸入物でした。10両輸入された機関車のうち最初に到着した150型は1号機関車と呼ばれ、現在は大宮の鉄道博物館(通称テッパク)に保存されています。またその後追加輸入された12号機関車や、明治後期にアメリカから輸入された9号機関車は、現在も岐阜県の明治村で大変な保守点検作業を受けながら動態保存(今でもレールの上を走行できるということ)されているのは驚嘆に値しますね。私は9号の方は村内で乗車体験しました。

 この写真は鉄道博物館に保存されている1号機関車ですが、型式が150型で、今年が鉄道150年、奇しくも数字が一致する鉄道記念日となりました。日本の鉄道の黎明期を走った他の型式の機関車たちが、明治村以外でも多くのものが日本各地で保存されているようです。

 さて明治時代初期に多くの先人たちが作り上げた日本の鉄道、現在では私たちの日常生活に不可欠な社会のインフラになっていますが、新橋〜横浜間の最初の区間を開通させるに当たってもさまざまな人たちの知恵と努力が必要だったようです。イギリス人技師エドモンド・モレルが国産の木材を枕木として使用することを提案したことは書きましたが、もしイギリスのように枕木として鋼鉄を使ったとすると、鋼材輸入のために貴重な外貨がたちまち底をつき、その後の軍需・民需の産業に大きな影響を及ぼしたでしょう。彼は母国イギリスの鉄鋼産業よりも日本の鉄道を優先してくれたのですね。

 熱帯病が猖獗を極めるパナマ運河の工事現場に身を投じながら、第二次世界大戦では日本海軍のパナマ運河攻撃作戦への協力を拒んだ日本人技師青山士さんのことは別の記事にちょっとだけ書きましたが、技術者はどこの国でも同じような使命感を持つ人が多いようです。

 また鉄道敷設の重要性を誰よりも強く感じていた大隈重信は、鉄道よりも軍備を重んじる西郷隆盛の縄張りでもある兵部省の軍用地が新橋〜品川間に立ちはだかっていたため、東京湾の海上に土盛りして高輪築堤を建造し、その上に線路を通すという奇想天外な大英断を下しましたが、こんな大工事が可能だったのもお台場の砲台を短期間に建設できるだけの土木技術を江戸幕府以来の先人たちがすでに持っていたからです。

 仕事に行くにも遊びに行くにも欠かすことのできない鉄道、家の周囲を散歩するだけの日であっても日常品や食糧品が手元に届くまでには必ずと言ってよいほど鉄道輸送が関わっている、生まれた時から当たり前のように身近にある鉄道を最初に造った人々に思いを馳せる良い機会になった150年目の鉄道記念日でした。


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