終着駅 (東急東横線渋谷駅)
今年(2013年)3月16日、私の住む練馬から元町・中華街まで地下鉄メトロを通じて電車1本でつながりましたが、それに伴って東急東横線の渋谷ターミナルが85年の歴史に幕を下ろしました。東急東横線は渋谷地上ターミナルから横浜方面へ旅客を運ぶ鉄道でしたが、東京メトロ副都心線と相互乗り入れが始まったので、東横線渋谷駅は地下に移転して、新宿・池袋方面からの電車も入って来るようになったわけです。
私も学生時代から横浜港にクイーンエリザベスU世号(QE2)など外国の大型豪華客船が入港すると、よく船の写真を撮りに行ったものでしたが、その頃はJR線(1987年までは国鉄)を使うことが多かった。大型客船が接岸する大桟橋がよく望める山下公園へはJR(国鉄)石川町で降りるのが一番近かったのですが、当時は東横線はまだ桜木町までしか行っていませんでした。JR(国鉄)桜木町駅の隣に東横線の桜木町ターミナルが寄り添って建っていたものです。新規開業したみなとみらい線に東横線が乗り入れて山下公園や中華街方面まで伸びたのは2004年のことでした。
もっとも私も朝早く起きて横浜へ出かけ、船の写真を撮り終えた後は、横浜の街を桜木町までブラブラ歩き、東横線で渋谷まで帰ったこともあります。何しろ当時も今もJR(国鉄)と比べたら、私鉄の同じ区間の運賃はべらぼうに安かったですから…。そんなわけで、特に日常よく使う路線ではありませんでしたが、東急東横線の地上ターミナル廃止はちょっと感慨深いものがあります。
上の写真は東急東横線渋谷地上ターミナル廃止後、しばらくの間だけ旧東急渋谷駅が“公園”として開放された期間に撮影したものです。もう二度と使われない列車止めが何となく侘びしい佇まいでした。
どこでも終着駅には独特の風情と哀愁があります。たぶんこれより先へはもう列車で旅することができないという空間の区切りだからだと思いますが、この時の旧東急渋谷駅は時間的にも最後の区切りだったわけです。
もうこれ以上は旅を続けることのない終着駅、人は誰でもいつか必ず人生の終着駅にたどり着きます。何年か何十年かの旅路の途中で成し遂げたこと、成し遂げなかったこと…身の回りに起こったこと、起こらなかったこと…、自分の心が望んだこと、望まなかったこと…、そういう事の一つ一つの積み重ねが、人をどこかの終着駅に導いていきます。
そこがどんな駅なのか。賑やかな人の往来がある楽しい場所なのか、誰からも見向きもされない荒涼とした場所なのか、それを考えると恐いですね。『クリスマス・キャロル』(ディケンズ)のスクルージ老人のように、未来の精霊から自分自身の惨めな死に様を見せつけられる前に、まだ元気な若いうちから人生の終着駅のことを心のどこかに意識しておいた方が良いと思います。
ところで旧東急渋谷駅が開放された時、富沢さんというご夫妻が製作された1964年当時の渋谷の街のジオラマも公開されていました。
1964年(昭和39年)といえば東京オリンピックの年、この年に東急渋谷駅が、写真中央に見えるカマボコ屋根に改装されたのだそうです。私はまだ中学1年生でした。
あの頃は渋谷駅だけでなく、新宿でも池袋でも駅前には都電の路面電車が群れをなしていたっけなあと懐かしくなるジオラマでした。
あと東急百貨店屋上の遊園地もジオラマの中に見えますが、これも今回の渋谷駅改変に伴って営業を終了したそうです。私の子供時代の渋谷の面影は、これでほぼすべて消えることになりますが、これも歴史の流れでしょうか。
JR中央線北側の山の手に住む私のような“北方系”の東京人にとっては、池袋の方が渋谷よりも馴染み深いのですが、大学の教養学部に通った2年間だけは毎日渋谷で電車を乗り換えたものでした。東急電鉄ではなく、京王井の頭線でしたが…。
渋谷は飲食でも買い物でもあまりにも若者にターゲットを絞り過ぎたために、熟年層から見放されて街作りに失敗したと酷評された時期もありましたが、若者だったあの頃の私たちにとっては、そんなに通いにくい街ではありませんでした。学生コンパや部活動の集まりなども時々やったことがあります。私が酒を覚えた街でもありました。
20年ほど前に時々渋谷で飲み会をやったり、最近もたびたび食事をする機会があって、私の人生の中でまた渋谷が再び脚光を浴びるようになりそうでしたが、東京メトロ副都心線開通や、東横線の渋谷地下ターミナル開業に伴って、今後はこの思い出の街をモグラのようにただ地面の下を通り抜けるだけのことも多くなるかと思うと、ちょっと淋しい気もします。
まだ終点じゃないですよ(笑)