愛宕神社 出世の石段
東京都港区にある愛宕山は標高25.7メートルの高さを誇る自然の山としては東京23区内の最高峰です。赤坂、六本木、日比谷、霞ヶ関、虎ノ門、新橋、汐留といった錚々たる都内の名所に囲まれた場所に山があるなんて、ちょっと意外な気がしますね。東京タワーも東京スカイツリーも高層ビルもなかった江戸時代には、随一の見晴らしの名所だったということですが、さもありなん。
ちなみに旧日本海軍に“愛宕”という重巡洋艦、海上自衛隊にも“あたご”というイージス艦があり、どちらも山の名前から命名されていますが、残念ながらこの東京23区内最高峰の名前ではなく、京都市と亀岡市にまたがる標高924メートルの愛宕山が由来です。閑話休題。
ところで東京の愛宕山頂に愛宕神社があり、主祭神は火産霊命(ホムスビノミコト)、火の神様だそうで、女神イザナミがこの神様を産んだ時に火傷を負って亡くなったと神話は伝えています。この神社の正面の男坂は傾斜40度もある急峻な石段になっていて、段数は86段、そんなに驚くほど多いわけではありませんが、何と言っても40度の傾斜、こんな場所で転倒すれば、場合によっては生命にもかかわることになりかねない。
この石段は「出世の石段」と呼ばれており、出世を望んで御利益にあずかろうとする人々がたくさん参拝するそうですが、そのいわれは寛永11年(1634年)、三代将軍徳川家光が将軍家菩提寺の芝の増上寺からの帰り道、愛宕山の下を通りかかると石段の上は梅が満開、誰かあの梅の枝を馬で取って参れと命じたそうです。供の者たちは当然のことながら怖じ気づいた。源平合戦で源義経が「鹿も四つ足、馬も四つ足」と家来を叱咤して鵯越(ひよどりごえ)の急坂を逆落としに平家の陣に攻め掛かった故事は誰でも知っていたでしょうが、時は泰平の江戸時代、こんな所でわざわざ危険を冒して怪我でもしたら大変だ、まして死んだら元も子もないと思う気持ちは平成の我々も同じですね。
家来たちが逡巡していると、蹄の音も高らかにただ一騎、この急峻な石段を駆け上がって行く馬上の武者がいる、四国丸亀藩の家臣、曲垣平九郎(まがきへいくろう)です。この泰平の世に馬術の腕を磨いているとはまことに天晴れと、家光将軍の覚えもめでたく、一躍有名になった平九郎に因んで、愛宕神社のこの石段は“出世の石段”と呼ばれるようになったとのことです。
さて皆さんはこの故事をどう考えますか。曲垣平九郎といえども、日頃の鍛錬があったからこそ将軍家光の命令で急な石段を駆け上る気になった、時はもはや合戦など無縁な江戸時代のことですから、馬術や武術などいい加減にやっている武士が多かったでしょう。そんな時代に平九郎は日頃から武士たる者の本分を忘れなかった。急な坂道を馬で駆け上るなど朝飯前という自信があったからこそ、家光の求めに応じて馬を走らせることができたのです。
どこの分野でもたぶん同じでしょう、私も医師として、あるいは医学教育者としての道を歩んできましたが、同じ職場にいた者の中にはそれらの本分を忘れて、患者さんなど診たくない、診断などしたくない、学生など教えるのは面倒だという態度もあからさまに、管理者や経営者に媚びへつらい、事務方と小細工の策を弄し、部下に対しては飴(甘言)と鞭(恫喝)を使い分けて、保身と栄達に余念のない者をずいぶん見てきました。
江戸時代も平成時代も泰平というキーワードは同じ、そういう時代にあっては己の本分を尽くさず、要領よく立ち回る狡猾な人間の方が出世するのですね。私はこの愛宕神社の石段を見ていると、あの時代に本来出世するはずでなかったタイプの実直な人間が、本分を守っていたために却って出世したという逆説的な意味を感じてしまいます。
さて私も定年を過ぎて自分の人生を振り返った時、出世しようという野心を持たなかったことは大きな救いです。それでも最後は大学教授を務めさせて頂きましたから、それを出世というんだよと言われればそれまでですが、教授になりたい、○○長になりたいと血眼になって出世階段を駆け上ってきたわけではありません。
世の中には上に媚びまくり、下に威張りまくり、何とか偉くなりたいと小細工を弄しながら階段を登って行った人間も多いですが、定年を迎えた時に心の中でどんな風景を見るのでしょうか。運動会の徒競走でゴールした時くらいの達成感はあるのでしょうか。
社会的使命を終えて定年を迎え、自分の職業人生を振り返った時に見える景色はこんなものです(2枚目の写真)。石段のあのあたりで友人を裏切った、自分の信念を曲げた、ウソもついた、見栄も張った、下げたくない頭も下げた、そんなことまでして石段を登って来た者たちは、たぶん下を振り返っていろいろイヤなことも思い出すのではないかと思います。一生懸命に本分を守ってきた者にとっては、登ってきた石段の一段一段が無性に懐かしい。願わくは皆さんの歩む石段も懐かしく暖かいものでありますように。
人間出世するような馬鹿なまねはよせ。
父の遺言の最後にしたためてありました。どうやらそれだけは守れそうです。