長瀞

 ここは埼玉県の荒川上流にあたる長瀞、この水がさらに下って東京の板橋区あたりを通って、東京スカイツリーを望む東京下町まで続いているかと思うと何だか不思議ですが、特に最近のように地球温暖化に伴う異常気象で50年に一度、100年に一度という大雨が毎年のように降るのが当たり前になると(つまり何十年何百年に一度という比喩はもはや死語)、下流の住民も川の流れは十分に把握しておかなければ大変なことになります。埼玉県北西部の荒川上流域に2日連続して500ミリの大雨が降ると、荒川堤防が決壊して東京都心の広範囲が水没する危険もあるそうです。

 さてこの長瀞渓谷の石畳の部分ですが、よく埼玉県の観光地ニュース映像で全国的にも放送される場所ですね。岩壁が張り出して複雑な川筋になっている割には流れが比較的緩やかで、それが“長瀞”という地名の由来になっているそうです。

 私も確か小学校の遠足で連れて行って貰ったと思うのですが、“ながとろ”って何か変な地名と思った記憶があります。“とろ”は“水
(さんずい)が静か”と書きます。水がトロトロ流れるということでしょうか。人間もおとなしくて動作が緩慢な人を「トロい」と言ってバカにする人がいますが、そんなことを笑ってはいけません。動作が遅くてゆったりした人がいるから、人間社会はちょうどいいスピードで回っている、もしセカセカ動く人ばかりだったら効率は良いかも知れないが、思わぬ事故に足を取られてばかりいる社会になってしまいます。

 長瀞の近くには古代に日本最初の銅が採掘された和銅黒谷もありますが、もっと近世においてはセメント原料の産地として日本の近代化に貢献しました。隣の秩父には東京からも遙かに望める武甲山があり、石灰岩でできたあの大きな山肌が人工的に段々に削られているのを見ると何だか悲しい。遙か遙か太古の昔に死滅した海洋生物の死骸が海底に堆積、さらに長い長い年月をかけて陸上に隆起したのが武甲山ですが、その悠久に近い山の歴史とは比べ物にならない日本近代化の一閃時で山肌は削り取られてしまった。

 その武甲山の石灰岩を今も昔もセメント工場まで運ぶ重要なルートになっているのが秩父鉄道です。2024年に新10000円札の顔になった渋沢栄一翁はセメント事業は良い投資の対象になると判断、資金援助と経営指導を行なって、秩父セメントと共にその原料を輸送する秩父鉄道の発展に寄与したらしい。何しろこの人は数えきれないくらいの会社や企業の設立に関与しているから、いちいち調べるのも大変です(笑)。

 その秩父鉄道の撮り鉄ポイントの絶景の一つが荒川橋梁です。秩父鉄道を武甲山麓まで延伸するに当たって、地盤が軟弱な左岸から右岸に線路を渡すために1914年に架けられた全長167メートル、高さ20メートルの鉄道橋で、秩父鉄道の駅としては長瀞(石畳の最寄り)の隣、上長瀞になります。

 私も定年退職後は熊谷方面で健診に従事することが年に数回あり、仕事に出かける時は池袋から湘南新宿ラインの池袋からJR高崎線経由で熊谷に向かいますが、仕事が半日で終わった時は熊谷から秩父鉄道で御花畑へ、さらに西武線に乗り換えて都心まで帰ってきます。長瀞で降りて石畳、上長瀞で降りて荒川橋梁というのが熊谷での半日仕事帰りの途中下車パターンですが、ある日一念発起してわざわざ撮り鉄の旅に出かけたわけです。

 平日の仕事帰りに荒川橋梁を見上げていたって通るのは旅客電車か、せいぜい石灰岩を運搬する貨車を牽引する電気機関車ばかり、ところが秩父鉄道は日曜祭日などの休日に蒸気機関車(SL)が牽引するパレオエクスプレスという観光列車を走らせることがあるんですね。都内や近郊のあちこちで静態保存されて動かない蒸気機関車を見ることはできますが、実際に煙と湯気を吐きながら走る蒸気機関車を見る機会はほとんどありません。

 思い立ったが吉日で、ある日曜日に西武線と秩父鉄道を乗り継いで上長瀞までやってきました。懐かしい蒸気機関車に再会するために…。動いているヤツに会うのは本当に40年振りくらいか!
ブオオオオオッ
と橋梁上で腹に染みわたるような汽笛一声、黒い鉄の塊が橋梁を走り抜けるまで20秒足らずでしたが、これは鉄道ファン、SLファンなら歓喜きわまる一瞬ですよ。撮影後に橋梁下の河原を通って駅に戻ろうとしたら、石炭を燃やした香りがまだ漂ってました。幼少期に嗅いだ旅の匂いでした。


         帰らなくちゃ