秩父はるかなり柳島
今年(2022年)の年始は池袋西口のホテルメトロポリタンで過ごさせていただきました。幸運にも西側に視界の広がる高層階に宿泊することができましたので、初日の出は拝めませんでしたが、朝陽を浴びる東京の西方の山々の姿を楽しむことができました。富士山から目を北方に転じると、北関東の山並みの向こうに雪化粧した浅間山も見えて軽井沢を思い出しましたが、今回ちょっと気になったのはこの秩父の山々…。
近景の高層住宅は光が丘、画面の右側に最近新しくなった光が丘清掃工場の高い煙突が見えます。光が丘越しに見えるのが秩父の山々で、画面中央より左側にある三角形の山が武甲山ですが、その右手の方角、清掃工場の煙突の左側にある二つの山頂をもった山を見つけた時、私は少し前にたぶんNHKの番組で断片的に聞いた話をふと思い出しました。番組を見ていた時にはそれほど興味も湧かなかったし、この双子の山もこれまで何度かホテルメトロポリタンの高層宴会場や客室から西方の山々を眺めても目に止まらなかった、しかし今この2つが私の頭の中で1つになりました。
何の番組だったか忘れましたが、“浮世絵”の中で“筑波山”と思われていた山は実は“武甲山”ではないか、私が思い出したのはこの3つのキーワードでした。筑波山といえば山頂が2つある美しい山、しかし武甲山はこの写真のように三角に見える円錐形の山、まあ、普通に考えれば筑波山と武甲山を見間違えることはないよねと、番組を見た時には軽くスルーしていたわけですが、実際に西の山並みを眺めてみると、確かに武甲山の近くに筑波山のような山が…!
それでネットなど検索してみたら、浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」というサイトが見つかりました。喜千也さんは歌川広重(1797〜1858年)の浮世絵作品『名所江戸百景』に描かれた場所の現在の風景を同じ方向からカメラで撮影して重ね合わせ、いろいろ地理的・歴史的な考察を紹介しながら魅力的なサイトを作られている写真家の方です。その第64回目が『柳しま』、“柳島”という住居表示は今はありませんが、かつては現在の墨田区業平・横川・太平・錦糸と江東区亀戸あたりを指す地名だったそうです。
『名所江戸百景』の“柳しま”の構図は、画面中央をやや右下がりに貫く河川が北十間川、そこから画面左下に向かって分かれるのが横十間川、いずれも天然の河川ではなく、江戸時代に水運のために掘削された運河です。この浮世絵に使われる青い染料はヨーロッパから中国を経て輸入されたものだそうですが、木版画だとより鮮やかな色彩になるのと、広重のこの青色の使い方が大胆で、当時のヨーロッパ美術界に大きな影響を与えたことからジャパンブルーとかヒロシゲブルーとか呼ばれました。日本では“ベロ藍”と呼ばれていたらしく、ヨーロッパでの呼び名ベルリンブルーがなまったものですが、この“ベルリンブルー”には私もお世話になりました。別に私は絵を描くわけではありませんが(笑)、生体組織の顕微鏡標本を作製する時に染色液として使用したのですね。人体組織中に鉄が沈着していると、ちょうどこの絵の水面のようにきれいな深い藍色に染まって見えました。
さて北十間川から横十間川が分かれるところに架かっているのが柳島橋、浮世絵画面中央の大きな建物は当時人気の料亭だそうですが、その手前の朱塗りの塀で囲まれた場所が法性寺(ほっしょうじ)、現在もモダンな鉄筋の建物として残っています。そして問題なのが画面上方の左側に描かれた山ですが、山頂が2つに割れた特徴的な山容から、多くの浮世絵研究家や愛好家はこれは筑波山であるとして、広重は本来見えないはずの方角にランドマークとしての筑波山を描いたと解釈してきたのだそうです。
確かに筑波山はこの方角ではない。喜千也さんも現場を撮影するまでは“筑波山説”を信じておられたそうですが、よくよく検証してみると、この方角に見えるのは筑波山ではなくて秩父連山ではないかと気付き、この仮説をご自分のサイトに紹介されました。私が見たテレビ番組でお話しになっていたのが喜千也さんだったかどうかは今となっては分からなくて申し訳ありません。
しかし喜千也さんのサイトに導かれてここまできましたが、いつまでも喜千也さんに頼っているわけにはいきません。私も亀戸方面で仕事があった帰り、自分の足で横十間川沿いに北へ歩いてみました。横十間川はJR錦糸町駅の東側で線路と交差してほぼ南北に流れる川(運河)ですが、ちょうど北十間川に突き当たる直前に水管橋を伴った柳島橋が架かっており、橋のたもとには鉄筋造りになった法勝寺がある。
つまりこの写真はほぼ広重の構図と同じで、流路の方向の右側が真北になります。筑波山のある方角はこの画面の右側になりますから、広重の浮世絵に描かれている2つの山頂を持つ山は筑波山ではない。広重がいくら筑波山を愛していても、自分の作品のランドマークとして余計な方向に描き加えることはあり得ません。別の記事にも書きましたけれど、江戸時代の浮世絵作家は当時の医学者以上に事物を正確に観察しています。筑波山を江戸の北西方向に描くことは絶対にないと言えます。
喜千也さんはいろいろ調べられていて、天保年間に長谷川雪旦の筆で刊行された『江戸名所図会』に描かれた“柳嶋妙見堂”の鳥瞰図で、二峰の山がちちぶ山として北西方向に描かれていることを紹介されています。やはり江戸時代の画家はいい加減な位置に山を描いたりしないのですね。なお妙見堂は柳島橋のたもとの法勝寺にあります。
さてそうなると次に問題になるのは、この2つの山頂を持つ山は何なのかということになります。実際に池袋からこれらの絵に相当する二峰の山を目の当たりにした私にとっては避けて通れない疑問です。
ざっと地図を眺めてみると、こういう2つの山頂を持つ山の呼び名に相応しい山が武甲山の北側にいくつか見つかりました。一つが「両神山」で、いかにも2人の神様が並んでいらっしゃるという名前ですが、これは都心方面から見て武甲山よりかなり奥にある山で、山歩きの好きな人々のサイトに掲載されている写真とは山容が異なります。また一番上の写真の時刻は日の出直後で、武甲山とほぼ同時に朝の光が当たり始めているので、そんなに武甲山と距離が離れているとは思えません。
Facebookの友達にも協力して探して貰ったところ、武甲山の北に見える二つの山頂を持つ山の候補として「二子山」をgoogle mapで見つけてくれました。しかしこれも都心からの距離は両神山とほぼ同じですし、登山のサイトなどに見られる写真によれば、ロッククライミングの訓練に最適な絶壁を持つ奇観が有名らしいので、ちょっと違うかなとは思っていたわけです。
その後、1973年に実業之日本社から刊行された『オールガイド東京付近の山』という登山ガイドブックの中に、まさしく「これだ」と思える山を見つけました。学生時代に友人たちと山歩きを楽しんでいた頃の愛読書で、本棚の奥に眠っていた本です。ブルー・ガイドブックス編集部による渾身の集大成といってもよい山岳ガイドブックで、“東京付近”とはいうものの、標高2000〜3000メートル級の富士山(3776m)、木曽御岳(3063m)、八ヶ岳(2899m)、浅間山(2542m)といった山々から、高尾山(600m)、天覧山(195m)など小学生の遠足コースの山々までほぼ網羅されています…と書こうと思ったけれど、実は網羅されていない山もあったのですね(笑)。
もちろん武甲山(1336m)や両神山(1724m)も出ていますが、このガイドブックに掲載されていたのが「二子山」(883m)、と言っても上に書いた両神山近くの二子山(1166m)ではない。「エッ、二子山って2つあるの?」と驚いたら、さらに驚きの事実、箱根にも二子山(1099m)がある、逗子にも低い二子山(208m)があるらしい。もっと全国各地を調べれば2つの山頂を持って“二子山”と呼ばれている山は他にもあるんじゃないでしょうか。しかしこのガイドブックには標高883メートルの二子山しか紹介されていませんでした。
この地図は国土地理院のサイトから拝借した埼玉県付近のマップで、上の地図の赤い矢印3が武甲山、左奥にある赤い矢印2が標高1166メートルの二子山、このやや南に両神山があります。実際の場所は埼玉県小鹿野町藤倉ですが、赤い矢印1の埼玉県横瀬町芦ヶ久保にあるのが標高883メートルの二子山、もう少し広域の地図を下に示します。
横瀬町芦ヶ久保の二子山@(883m)も、小鹿野町藤倉の二子山A(1166m)も、偶然にも都心池袋方面から眺めるとほぼ同じ方向にあり、武甲山のやや北側に見えることになりますが、いくつかのサイトに紹介されている山容の写真が池袋から武甲山の北に見える山に酷似しているのは芦ヶ久保の二子山@、さらに朝陽が初めて当たる時刻が武甲山と同じであること、また武甲山との標高差(1336mと883m)も妥当であることを考慮すれば、歌川広重が名所江戸百景の柳しまに描いたのは…(ジャジャーン)…芦ヶ久保の二子山であると結論できます。
山岳に詳しい方ならば、「ああ、そんなの二子山に決まってるじゃん」と、もっと簡単に解決できたのかも知れませんが、以前に見たテレビ番組で小耳にはさんだ「浮世絵」「筑波山」「武甲山」の3つのキーワードに導かれて、思わぬ小旅行を経験することになりました。
まあ、二子山が関東地方に1つではないことが分かったことも大きかった。池袋から二峰の山を見つけて、その山の名前を調べようと「二子山」でサイトを検索すると、非常に紛らわしいんですね。特に今回取り上げた二子山@と二子山Aはどちらも埼玉県にあって、山岳エリアとしては@は奥武蔵、Aは奥秩父に分類されるんですが、よほど首都圏の山々に精通して踏破しまくったハイカーでなければ、なかなかすぐにピンとこないかも知れません。山歩きのネット記事でもこの2つをきちんと区別して書いてあるものは少なかったし、そもそも50年前の旅行専門書のプロ、ブルーガイドブックスが編集した『オールガイド東京付近の山』にも@しか載っていませんでした。
ほぼ似たような標高の山頂が2つ寄り添うように並んでいると、見た目はとても印象的ですね。冬の星座でもカストルとポルックスという似たような一等星が2つ並んだふたご座は、きらびやかなオリオン座の近くにあるにもかかわらず、かなり目立っていて見つけやすいのと同じかも知れません。今も角界の相撲部屋に名を残す二子山、その3代目くらいまでは明治維新前の江戸時代に活躍した力士で、初代はどういう人だったか不明とのことですが、たぶん山頂を2つ持った山を日夜親しく仰ぎながら育った力持ちだったんでしょうね。
補遺:
後日、仕事の帰りに秩父へ立ち寄った時、武甲山と二子山@の位置関係を裏側から確認しました。二子山は市内の丘などに遮られて死角になる場所が多いのですが、西武秩父線終着駅の西武秩父駅跨線橋上からガラス越しに撮影したのが下の写真です。ちょうど西武線の横瀬駅から芦ヶ久保駅の方角に当たります。