オールド・ラング・サイン

 ずいぶん昔の記事で卒業式の定番ソング『蛍の光』について書きましたが、また卒業式など別れの季節が巡ってきました。私も『蛍の光』を歌って学校時代を終えてきましたし、大学の教員に就任してからは『蛍の光』を歌って教え子の学生たちを送り出してきました。やはり最近は老境に至ったせいか、毎年3月を迎える頃になると、学校時代の友人たちや、教員時代の学生たちと共に過ごした時代のことを懐かしく思い出して、胸が熱くなることが多くなりました。旧友や教え子のうちの何人かは1年に何回か実際に会って昔話に花を咲かせることがあり、そういう意味では特に寂しくはないのですが、やはり自分が日々を過ごしてきた人生の幾つものステージが愛おしいという感傷ですかね。

 美空ひばりさんが歌っていた『川の流れのように』の歌詞の意味がようやく理解できました。

♪知らず知らず歩いて来た 細く長いこの道
♪振り返れば遙か遠く 故郷が見える


 人生の幾つものステージを一緒に過ごしてきた人たちとの別れを象徴する『蛍の光』、原曲は『Auld Lang Syne』というスコットランド民謡で、「オールド・ラング・サイン」または「オールド・ラング・ザイン」と発音し、“古い遠い昔”という意味のスコットランド方言だということは古い遠い昔(笑)の記事に書きました。

 しかし原曲の歌詞は、日本語の卒業式ソングのような別れの歌ではなくて、旧友と再会して友情の杯を酌み交わす歌だということもそちらの記事に書いたとおりで、日本人の感性ではあのメロディーを聴くと何で別離を思い浮かべるのかと、あの記事以来ずっと不思議に思っていました。日本であの曲が卒業式に使われたのは、どうやら戦前の海軍兵学校が初めてのようで、旧海軍士官の方々の文章で曲名を「ラングサイン」と表記してあったものがありました。

 艦船の出港の見送りに際しては『蛍の光』が演奏されることが多く、海上自衛隊の南極観測船“しらせ”出港で海上自衛隊の音楽隊がこの曲を演奏している映像がSNSで見られます。一方船内では目的地の入港間近になると下船する船客たちを見送る意味で、やはりこの曲が流れます。私も新日本海フェリーの新潟〜小樽航路を乗った時、夜明け前に小樽到着直前のまだ暗い甲板上で聞いた『蛍の光』がとても印象に残っています。海面越しにチラチラと瞬いて見える“小樽の光”が…、あ、失礼しました(失笑)。

 日本では年末の大晦日になると紅白歌合戦などの後に、“行く年”との別れを惜しんで『蛍の光』が流れますが、欧米では新年のカウントダウンが終わると“来る年”との出会いを祝してか、『オールド・ラング・サイン』が歌われるという話は聞いています。だからこの同じスコットランド民謡のメロディーに、日本人と欧米人の感性は逆に働くのかと思っていたら、どうやらそうでもないらしいことを最近発見しました。

 これは『哀愁』という邦題で1940年公開の古い映画のDVDのカバーですが、原題は『Waterloo Bridge』、日本語ではワーテルロー橋と発音するのが分かりやすいかも知れません。ウエリントン将軍がナポレオン軍を破ったワーテルローの戦いを記念する命名のようです。時は第一次世界大戦の最中、ロンドンにドイツ軍飛行船の空襲警報が発令された夜、ロバート・テイラー扮するロイ・クローニン大尉がこの橋の上でヴィヴィアン・リー扮する踊り子のマイラ・レスターと出会って恋に落ちる、マイラは劇団の厳しい規則を破ってロイとレストランで密会、そのレストランの閉店間近、専属楽団の指揮者が本日最後の曲ですと言ってコールしたのが『Farewell Waltz(別れのワルツ)』、これが何と『蛍の光』を3拍子のワルツに編曲したものだったんですね。日本でもパチンコ店や商業施設の閉店時によく耳にする曲です。

 何しろお馴染みの『蛍の光』のメロディーを3拍子にした曲ですから、私は不明にして『蛍の光ワルツ』という曲名かと思っていましたが、『哀愁』制作のアメリカ人スタッフがレストラン閉店時の楽曲として編曲した『Farewell Waltz(別れのワルツ)』なんですね。『オールド・ラング・サイン』が原曲なのは明らかですから、このメロディーに日本人と同じ別れの感性を抱いたアメリカ人もいたということです。

 『哀愁(Waterloo Bridge)』は日本での公開は戦後になってからでしたが、やはり『Farewell Waltz』の原曲が『蛍の光』と同じなので、閉店時などに使いたいと思った日本人もいたのでしょう、このワルツの楽譜を求めますが原譜は逸失してしまっていた、それで古関裕而さんが映画のシーンを見ながら採譜したのが、現在日本のパチンコ店や商業施設の閉店時に流れる『別れのワルツ』だということです。

 ちなみに映画『哀愁』は、出会ってたちまち婚約までしたロイとマイラ、ロイはマイラから幸運のお守りとして貰った小さなビリケン人形のマスコットを持って前線に出征、不幸にも戦死したという誤報が流れ、それを信じたマイラは娼婦に身を落として生活するようになります。ところが思いも寄らずロイが戦場から生還、ロイの愛は変わりませんでしたが、マイラは罪の意識を拭うことができず、ロイとは結婚できないと悲観してトラックの前に身を投げて自殺してしまう、悲恋なわけです。時は過ぎて再びロイは第二次世界大戦に出征することになり、悲しい思い出の残るワーテルロー橋を訪れて、マイラの形見のビリケン人形を握りしめながらしばしの哀愁に浸るという物語でした。

 いわゆる『蛍の光』のワルツについては長年の疑問が解けましたが、もう一つ、『蛍の光』のマーチについてはまだ不明なことがあります。『蛍の光行進曲』としてネットを検索すると出てくるのは、アメリカのマーチ王J.P.スーザ作曲の『名誉の砲兵隊(Ancient and Honorable Artillery Company March)』しか出てこないんですね。スーザと言えば『星条旗よ永遠なれ』とか『雷神』とか『ワシントン・ポスト』といった誰でも小中学校の運動会などで何回も耳にしたことのあるマーチを100曲以上も作曲したアメリカ人ですが、この『名誉の砲兵隊』は中間部(トリオ)以降に『オールド・ラング・サイン』のメロディーが使われています。

 『名誉の砲兵隊』という題名から考えれば、スーザは『オールド・ラング・サイン』のメロディーに別れの感性は持っていなかったでしょうね。しかし『オールド・ラング・サイン』のメロディーを吹奏しているから、ネットではこれが『蛍の光行進曲』として引っ掛かってくるのですが、私の高校時代、音楽部のブラスバンド班にはもっと正統派の『蛍の光行進曲』の楽譜があって、最初から最後まで『オールド・ラング・サイン/蛍の光』のメロディーで貫かれていました。私たちはこの曲で先輩たちを送り出し、最後は自分たちも巣立って行ったのですが、残念ながら編曲者の名前を覚えていません。どなたかご存知でしたら教えて下さい。


現代医療の盲点

 今年(2024年)の元日に北陸地方を襲った大地震、交通網や生活インフラへのダメージもさることながら、医療機関の活動が一時的に停滞してしまったことは被災者の方々にとって大きな悩みだったに違いないとお見舞い申し上げます。テレビなどの報道で見ていると、地元の医療機関がなけなしの人材と物資を投入して患者さんたちに対応したり、あるいは被災地の外から救急・災害医療チームが応援に駆けつけたりして、懸命に被災地の医療を支えている様子が報道されていましたが、本当に頭の下がる思いです。

 ただ私のように昔々妊娠・分娩に携わった経験を持つ古い医者から見て、一つだけ心配なことがあります。これまでは私だけの杞憂かと思っていたら、先日浜松勤務医時代に同僚だった助産師さんたちに会って話を聞いたら、やはり同じ心配を抱いているとのこと、それはもし避難所で骨盤位の妊婦さんに突然陣痛がきたら誰か対応できるだろうかということです。これまで東日本大震災とか熊本地震などでそういう事例は無かったのでしょうか。

 骨盤位とはいわゆる逆子のこと、人間の赤ちゃんは普通は頭を下にして逆立ちした状態でお母さんの子宮の中にいます。胎児は頭が一番大きいので、頭から先に産道を通過するのが最も危険が少ないのですが、たまに頭を上にしてお尻とか爪先とか膝から先に産道に入ってしまう赤ちゃんがいる、これが骨盤位で、そうすると必然的に頭が最後まで産道の中に残るので、産道に頭が引っ掛かったまま分娩が停まってしまい、母子ともに非常な危険な状態になることが多いのです。

 妊娠の途中で逆子になっていても自然に回転して正常位(頭位)に戻ることが多いですが、それでも分娩時点でもまだ逆子(骨盤位)の場合が全体の2〜3%あります。逆子のお産を取るには熟練した技術と冷静な判断が必要です。骨盤位の中でも赤ちゃんのお尻が先に出て来るケースが一番多いのですが、お腹まで出て来たところでおもむろに臍帯(臍の緒)を手繰って緩めてやる、焦らずにゆっくり胸が出るまで待ち、さあ、ここからが分娩介助者の一大勝負、赤ちゃんの肩が産道に引っ掛からないように左右片方ずつ引き出してあげる、最後に一番大きな頭が出てくるわけですが、お母さんの最後の力を振り絞った陣痛と一緒に、顎を引かせたまま宙返りさせて赤ちゃんをお母さんのお腹の上に着地させてあげる。

 文字で書けばこんなものですが、実際の局面では母子の命がかかってますから真剣勝負ですね。大学の教員時代、学生さんたちに骨盤位分娩を教えるために、看護学科から借りてきた実物大の新生児人形で上記の手順を実演してみせたことがありましたが、当時を思い出して心臓はドキドキ、ほんの数十秒の短時間だったにもかかわらず汗ビッショリになりました。

 最近では骨盤位分娩は母子の安全のためにほとんど帝王切開することになっているようですが、そうなると心配なのが、実地で骨盤位分娩を介助した産科医や助産師さんたちはどれくらいいるかということです。この20〜30年の間に医学部卒業後の研修を受けて産科医になった若い医師で、実地に骨盤位分娩介助を何回か介助した経験のある人はどれくらいいるのか。私は妊娠・分娩に携わった数年間に10例以上経験しましたが、今ではたぶん1回でも経験した産科医は半分もいないんじゃないかと思います。

 もし災害などの避難所で逆子の妊婦さんが産気づいた場合、帝王切開のできる医療施設まで搬送するのが困難だったら母子ともにかなり危険です。平時には安全のために帝王切開が選択されるのは当然ですが、緊急時に上記のような熟練を要する医療手技が失われている、まさにそれこそが現代医療の盲点と言えるかと思います。

 事は災害医療の避難所などに限りませんし、分娩介助にも限りません。医療は日進月歩で発展を続けて、より安全な手技・技術、より精密な検査方法、より確実な治療法を開発してきました。現代の医療機関ではこういう最新の医術を駆使することによって、ほんの一昔前に比べても格段の成果を上げられるようになりましたが、医師や医療技術者たちはそれら最新の医術に依存しきっている状況にある。

 ひとたび災害などで最新医術を使えない状況になったら大変なことになると思うのですが、平時においてすら、一昔以上前の医術、すなわち私たちの世代の医師が学部教育や卒後研修などで学んできた手技・技術や検査方法などを使えない、あるいは使おうとしない医師も増えてきました。

 たとえば病気の診断とは、患者さんへの問診(病歴の聴取)に始まり、視診・聴診・触診など五感を駆使した診察によって病態を推測したうえで、最新の検査法や検査機器によって診断を決定するものであると医学部では教わってきました。しかし最近の医師は若手に限らず、この前段階をすっ飛ばしてすぐに検査に頼ろうとする。患者さんの顔色も診ず、肌にも触れず、胸に聴診器も当てず、直ちに血液を採取したり、放射線や超音波検査をオーダーする人が多いと聞きます。

 私が健康診断で受診者の心音を熱心に聴取していると、一緒に健診の採血を担当していた看護師さんが、自分が普段仕事に行っている病院の医者は聴診器なんか使わないよと言ってました。それは聴診しないんじゃなくて、聴診できないんですね。私が健診で異常な心雑音を指摘して病院にかかるよう指導した受診者の方が早速受診したら、実際に心臓弁膜症だったのですが、そこの医師は私の聴いた心雑音を聴けなかったという話さえあります。

 放射線検査や超音波検査をオーダーする、血液検査をオーダーする、そしてその結果を患者さんに伝えるだけという医師では、災害医療の避難所では役に立ちません。確かに現代の医療機関では最新の医術の利用が可能ではありますが、それらが無ければ診断も治療も何もできない医師では困ります。まさに現代医療の盲点と言うべきでしょう。


ついに腹を召す

 今年(2024年)4月14日は私のこれまでの生涯で最も危機的な日となりました。実は3日前あたりから何となく下腹部痛がありましたが、自分自身の身体症状についてはたぶん大丈夫だろうという正常性バイアスがかかるうえ、14年前の腹部激痛も結局は尿管結石であったという経験を都合良く解釈してしまい、医療機関を受診するのをつい引き延ばしてしまった、これが医師としては痛恨の極みとなりました。

 4月14日は日曜日でしたが、今行ったら当直のドクターに申し訳ないとなお躊躇する私も、カミさんに叱咤されてついに受診を決意、それでも救急車を頼むのは悪いからとタクシーを手配して当座の入院準備を整え、かつての職場であった帝京大学附属病院へ駆け込みました。腹部レントゲンやCTスキャンの結果、急性虫垂炎穿孔による腹膜炎の診断、ただちに緊急手術となったのです。すでに麻酔の前処置のせいで意識が朦朧としていた私には記憶がありませんが、付き添いのカミさんによると、その場にいた外科スタッフは「急げ、急げ」のスクランブル状態だったそうです。

 手術は3時間ほどで終了しましたが、腸管内容物が腹腔内に散乱して大変な状況だったらしい、7〜8リットルもの大量の生理食塩水で洗浄が行われ、抗生剤の腹腔内撒布も施行されたと思います。後から手術前後の血液検査所見を見せて貰いましたが、私の身体を防衛する白血球は絶望的な最後の抵抗を続けていたようです。もうこれ以上の動員はできないという最後の白血球部隊までが出動していて、あと数時間手術が遅れていたら絶対的防衛ラインを突破されて敗血症となり、その後はショックなども合併して私が生死の境をさまようことになったのは確実です。

 ここまでこじらせたわけですから、“通常の急性虫垂炎”なら術後せいぜい数日で退院できるはずのところ、私は腹腔内に遺残した膿瘍を完全に制圧するまで3週間の入院を要しました。この入院期間中に10日間の禁食も強いられましたし、尿通と便通が乱れて尿閉となり1週間の膀胱カテーテルも経験しました。いわゆる“ICU症候群”の幻覚も見ましたね。気持ち悪い生き物や恐い物ではなく、病室全体が巨大なスクリーン空間となって、そこにさまざまな迫力ある映像が映し出されるのです。大自然の光景が見えたかと思うと、青空と桜の対比が強調された映像に切り替わる、森林の中を列車が走ってくる、夕陽の海にヨットが浮かんでいる、驚いたのは大谷翔平選手がタッタッタと走ってくる、まあ、不快な幻覚でなくて良かったです。

 私の身体に取り付けられた医療機器も感慨深かったです。左の写真、点滴台に下がっている黄色い袋は“高カロリー輸液”の製剤です。私のように何日間も絶食を強いられると、通常の水分と塩分(電解質)だけの輸液ではガリガリに痩せてしまう、高カロリー輸液はいわば“血管から注入する食事”と言えるもので、炭水化物、アミノ酸、ビタミン類、必須金属成分などが必要最小限含まれている、製剤には黄色い遮光袋が被せられてますが、これは一部のビタミンは光が当たると変性してしまうからです。ちなみに昔ならこういう輸液製剤はすべてポリエチレンバッグではなくガラスのボトルに詰められていたものでしたが…。

 この高カロリー輸液は私が研修医だった頃から少しずつ普及し始めましたが、何しろ各種栄養成分の濃度が濃いため、普通の末梢静脈から点滴すると浸透圧によって血管がすぐに痛んでしまう、だから心臓に近い大きな静脈(いわゆる中心静脈)にカテーテルを留置してそこから注入することになる。当時の小児科医が使用することはありませんでしたが、高カロリー輸液製剤を製造する製薬会社が発行している資料を貰って、通常輸液も含む各種輸液製剤の成分を勉強したことは、後に未熟児新生児の輸液を行なううえで大いに役に立ちました。

 高カロリー輸液製剤の下に“80”と表示されている四角い機械は自動輸液ポンプで、これも私が研修医の頃から普及し始めたものです。1時間に80ml(ミリリットル)を輸液したければ、この数字を“80”に設定するわけですね。そうすれば確実にその量だけ注入されることになります。

 しかし私が臨床医だった頃はまだ自動輸液ポンプは非常に高価で、各重症病棟に1台かせいぜい2台、最近のように各患者に1台ずつ使用するほどの数は備えられていませんでした。だから昔の看護師さんたちは皆ストップウォッチを首に掛けていて、患者さんの点滴ボトルからポタポタ落ちる水滴を数えていたものです。水1滴は約0.05ml、それがストップウォッチで計った15秒ないし30秒で何滴落ちるか、そうやって輸液速度を調整して、さらに30分後に規定通りの量が落ちたかどうかを見て再度微調整していました。ストップウォッチを押してから真剣な眼差しで点滴の滴数を数える看護師さんたちの姿は凛々しくも神々しくも見えたものです。

 私と一緒に働いた昔の看護師さんたちは、ベッドサイドを巡回する時は患者さんの情報を書き込んだB5版くらいのボードを抱えていましたが、最近の看護師さんたちは右の写真のような台車を押しながら回って来ます。台車の真ん中に載っているのは電子看護記録を作成するためのパソコン、看護師さんたちの装備も昔とはずいぶん変わったなあと感慨に耽った次第でした。

 さて私の入院生活は5月5日まで続きました。なまじ医療スタッフに手数をかけさせては申し訳ないと我慢し過ぎたのが完全に裏目に出て、却って余計な治療を余儀なくさせてしまった格好ですが、外来・手術・病棟と飛び回っていつ休んでいるんだろうと心配になるくらいの激務をこなす外科医の方々、その外科医の指示を病棟で確実に実行する専門技能を持ちながらも、入院患者に対しては昔ながらの優しい心遣いをして下さる看護師の方々に支えられながら、私はこれまでの人生で最大の試練を乗り越えることができました。改めて関わって下さったすべてのスタッフの方々に感謝申し上げるとともに、70歳過ぎて助けて頂いたこの命をこれからどう活かしていくか、よく考えていきたいと思います。


おもてなしの心

 猛威をふるったコロナ(COVID-19)感染症も落ち着いてきて、国内外の観光需要も以前のレベルを超すくらいにまで回復してきているようです。円安の影響もあって日本にも多数の外国人観光客が訪れており、コロナで大打撃を受けた各種サービス業も一息ついた感じなのは良かったですが、一方でオーバーツーリズムの弊害も顕在化しているとの報道があります。

 観光客が大勢来てくれてお金を落としていってくれるのはありがたいが、多くの観光名所ではバスやタクシーが満員・満車で地元住民の生活に影響が出ているらしいし、ちょっと眉をひそめたくなるのは、ゴミのポイ捨てや、京都での舞妓さんパパラッチ撮影・御茶屋私有地への無断立ち入りなど、観光客のモラル低下が原因の事象が増えてきていることです。まあ、ゴミのポイ捨てなどは外国人だけの問題ではないと思うが…。

 山梨県富士河口湖町では、SNSで全世界に知れ渡った“コンビニ富士”(コンビニの屋根越しに富士山が望める)の撮影スポットに多数の外国人を含む観光客が押し寄せ、車道不法横断・私有地無断立ち入り・ゴミのポイ捨てにより地元に迷惑が及ぶ事態になっていて、富士山の写真が撮れないように車道に黒幕を張ったというニュースが、日本国内だけでなく世界中を駆け巡ったそうです。

 富士河口湖町は私も仕事で何回か訪れましたが、いろいろな場所から大きな富士山が街路に覆い被さるように望める町で、せっかく日本に来たお客様にはぜひこの景観を楽しんで帰って頂きたいとも思いますが、やはり目隠しの黒幕は町にとっても苦渋の選択だったのでしょう。富士山を敢えて見えなくしてしまったことに対しては、訪日客ばかりでなく地元住民の方々の間からも賛否両論があるようです。

 この象徴的な“事件”ばかりでなく、幾つかの観光地でゴミ対策・交通整理などにかかる人件費を捻出するために、訪問客の人数を制限したり、“観光税”的な名目で料金を徴収したりする動きが出てきていますが、これらをもって日本人の“おもてなし”は変質した、かつて素晴らしかった日本の接客は「イヤなら来るな」に変わったと論じる海外サイトがあると、あるネット記事に書いてあったのを読んでいろいろ考えさせられましたね。

 “おもてなし”というのは必ずしも日本人の専売特許ではありません。よそからいらっしゃったお客様に心からくつろいで楽しんで頂くために、料理をふるまったり、快適な宿を提供したり、さまざまなサプライズを準備したりする、そういう心遣いは諸外国どこへ行ってもあります。日本の場合はそういう心遣いの作法が諸外国よりも厳格に規定されていて、訪日客にとっては常に最上級の“おもてなし”を受けたと感じることができるので、それが“日本のおもてなし”が特に強調される理由だと思います。

 つまり客人の身分や格付けに関係なく、外面に表れる接客の作法はほとんど変わらない、諸事情を知らない訪日外国人が嬉しく感じるのも無理はありません。しかし表面上はニコニコと満面の笑みを浮かべて三つ指ついてお辞儀しながら、心の中では「さっさと帰れ」と舌打ちしていることもあるなんてこと、特に有名観光地のK・・t・あたりでは、出された座布団の縁が玄関にかかっていたら客人はさっさと退散しなければいけないなんてこと、舞妓さんをパパラッチしている外国人は夢にも思ってないでしょうね。

 “おもてなし”とはホスト(主人)が提供するだけのものではない、ゲスト(客人)もまたお互いに心地よく楽しめるように努力するべきものなんですね。そこには人間本来の心遣いもあるし、国ごと地域ごとのルールもある、その相互の思いやり、“おもてなし”と“もてなされ”の融合こそが大事なんだと、インバウンド増加の時代に改めて気付かされました。

 京都の八坂神社の鈴が夜間は鳴らせなくなったというのも考えてみればひどい話です。外国人観光客が鈴の緒にぶら下がって乱暴に振り回す様子がSNSに上げられた問題に端を発し、鈴が落下する懸念もあるため、神社では夜間は鈴の緒を固定する処置を取ったそうですが、夜間に参拝したい日本人にとっては迷惑な話です。八百万の神々を信じる日本人にとっては、心を清めて参拝するために、「神さま、ちょっとこっち向いて私の願いを聞いて下さい」と鳴らす鈴ですが、一神教の連中にはそれが理解できないのですね。「おい、キリスト、俺の願いを聞け」と言って磔柱の根本を蹴り上げ、グラグラ揺らすのと同等な野蛮な行為だと教えてあげなければいけません。

 そう考えると日本人だって海外旅行で同じようなことをしでかしているのを知っています。敬虔な微笑みの国タイのバンコクの王宮には王様の謁見の間がありますが、王座の上にはさらに仏様の座がある、つまり私が訪問した頃までのタイ国民にとっては宗教的にも非常に神聖な場所であり、写真撮影禁止という貼り紙が何ヶ所もありました。しかし日本に帰ってからネットを見ていると、一般の日本人観光客がこの神聖な場所を撮影した画像が何枚もサイトに上げられており、現地の人から見れば日本人の中にも八坂神社の鈴の緒に乱暴にぶら下がるのと同等の行為をした者が何人もいたわけです。

 “おもてなし”とは、ゲストが満足を得るためにホストに要求するだけのものではない、ゲストもまたホストに対して心地よい客でなければいけない。最近これまたマスコミを賑わわせている“カスハラ”も同じ問題です。ハラスメントもセクハラ・パワハラ・アカハラ・モラハラと幾つも出てきましたが、カスハラっていったい何だ?カスが行うハラスメントかと思ったら“カスタマーハラスメント”の略なんだそうですね。つまり消費者(カスタマー=客)のサービス提供者に対する暴言・威嚇・暴力行為を総称するものらしい。

 日本人・外国人関係ありません。飲食店、旅館やホテル、鉄道やバスやタクシー、行政や公共機関の窓口など、そういった場所でサービスを受けたゲストが、サービス内容を不満として通常の苦情やクレームではなく、度を越えたイチャモンや難癖をつけて相手を責めるわけですね。カスハラを受けた人の中には心を病んだり、退職に追い込まれたりするケースも少なくないそうです。

 カスハラ報道の中には、誰でも知らず知らず気がつかないうちにカスハラの加害者になってしまう危険があると注意を喚起するものもありました。「お客様は神様です」ではない、ゲストもホストも互いに相手へのリスペクトを忘れないことが大切だと言っていましたが、自分の受けたサービスに多少でも不満を感じた時は、日本は“おもてなし”の国だとまだ多くの外国人が思ってくれているらしいことを胆に銘じていろいろ自戒しましょうね。


物作りの衰退

 先日ネットで『田中の田中による田中のための本』という面白そうな書籍を見つけたので上下巻を購入して読んでみました。半田隆夫監修・宇野秀史著・松本康史漫画により梓書院から令和5年(2023年)に出版された本で、佐藤や鈴木と並んでおよそ平凡な“田中”を名乗る一族について歴史的に考察しております。私も子供の頃から、何とつまらない姓に生まれついたものか、綾小路とか長宗我部とまではいかなくても、せめて△△とか◆◆とかもっと別の姓に生まれてきたかったと溜め息をついたものでした。

 しかしこの本を読むと、田中の氏姓は遠く古事記にも登場しており、単なる「田んぼの中のお百姓さん」という意味合いよりも、むしろ米に象徴される富を所有する者が由来ではないかとも書かれています。家康から与えられた筑後国を土木工事で発展させた初代国主の田中吉政とか、信長 秀吉 家康に仕えて財政を支えた田中清六正長とか、会津藩を発展させた名家老の田中正玄・玄宰などが紹介されており、中でも驚いたのは茶の湯の祖である千利休はその名も田中与四郎というのだそうです。

 他にも何人かの歴史的な田中さんが漫画と文章で紹介されていましたが、からくり儀右衛門として知られた田中久重は(1799〜1881)は近世日本の代表的な発明家だったそうで、久留米絣
(くるめがすり)の新しい織り方を発明したり、数々のからくり人形ばかりでなく、携帯用の燭台とか、従来の行灯(あんどん)よりも明るく手間のかからない無尽灯とか、西洋時計にも和時計にも対応する万年時計などを発明して、現在の東芝の礎を築いたそうです。

 田中一族の中には他にも日本の製鉄業の基礎を作った田中長兵衛などもいたそうで、田中一族は何も“田んぼの農業”に特化したわけではなく、日本の物作りの発展に寄与した人もいたということです。ところでその“日本の物作り”ですが、江戸時代の茶坊主のからくり人形に代表される物作りは今でも日本のお家芸なんでしょうか。日本人は手先が器用だから物作りに向いている、そんなふうに漠然と考えていたところ、先日のNHKのある番組で冷水を浴びせられたような思いをしました。

 NHK総合で毎月1回放送されている『魔改造の夜』という番組、日常生活の中の玩具や家電製品を改造してとんでもない性能を発揮させ、毎回企業のエンジニアや、工科系の学生などの3チームが競うというもの、トラの玩具からウサギの玩具にバトンを渡して50メートルいかに速く走るかとか、トースターで焼いた食パンをいかに空中高く放り投げるかとか、洗濯物干しに洗濯物を吊したまま25メートルのロープをいかに速く渡りきるかとか、電動マッサージ器で25メートルをいかに速く走るかとか、くだらないと言えばくだらない、製品化する価値もないエゲツナイ改造を施して奇想天外な性能を競うバトルなんですが、いろんな一流企業の物作りエンジニアや、エンジニアを目指す工科学生たちが真剣になって取り組む姿が実に素晴らしい。ヤラセの入る余地もなさそうな企画ですから、見ていて本当に感動しますね。

 こんな番組が密かな人気を得ているわけですから、日本の物作りもまだまだ大丈夫…、と思っていたところ、今年(2024年)6月分の放送で学生チームのメンバーから思いがけない一言が…!
 ワニの形の水鉄砲で7.5メートル離れた蝋燭の火を100ccの水で消すという課題に挑んだ豊橋技術科学大学チーム(番組ではいかにもNHKらしく橋技術科学大となっている)のメンバーがこんなことを語ったのです。

 この学校はロボットコンクールの強豪校で、2023年にプノンペンで開催されたアジア太平洋放送連合(ABU)主催の国際コンクールで見事優勝したのですね。番組の司会者から何か優勝祝賀イベントがあったかと問われて、何もなかった、インドではゾウに乗って優勝パレードなんかもあるのに、日本ではそんな晴れがましいことは何もない、オリンピックなどのアスリートは優勝すれば大騒ぎになるのに…とのこと。私もこれにはハッと気付かされましたね。

 確かに日本国民は学生たちがロボットコンクールの国際大会で優勝しても冷淡なもの。今年のコンクールはどんな課題だったかなんて気にも留めていません。今月(2024年7月)パリで開催されるオリンピックで誰かが金メダルでも獲得しようものなら、マスコミもネットも国を挙げての大騒ぎになるでしょうに…。ちなみに2023年のロボコンの課題はウサギ型ロボットとゾウ型ロボットが協同して8本のポールにリングを投げ入れる輪投げゲームだったみたいです。申し訳ないけど私も存じませんでした。

 技術的なことは私には分かりませんが、ポールの位置を認識して、相手チームのロボットの動きに先回りしながら味方のリングを投入していく、こういうロボットを手作りで製作して競技に参加し、躍進著しいベトナムや香港チームを破って優勝したわけですね。彼らの言うとおり、日本国民はもっと祝福して大騒ぎしても良いと思います。私も反省…。

 どうせ若い連中の高級玩具作り合戦だろ…くらいに思っていたのかも知れませんが、そんなことを言うなら昨年のWBC大会で大谷やダルビッシュを擁する日本チーム(侍ジャパン)が優勝したのだって、どうせ子供のボール遊びの進化形なわけです。せめてあの半分くらいの熱量で応援してあげても良かったのではないか。

 今や日本はかつての“物作り大国”から“スポーツ大国”へと変貌を遂げました。アメリカの野球の大リーグやバスケットボールリーグ、ヨーロッパのサッカーやバレーボールなど世界中の強豪スポーツリーグに数々の有力な選手を送り込んでいます。20世紀の頃なら考えられなかったような状況です。

 それと引き換えというわけでもないでしょうが、新幹線やトランジスタラジオや低燃費の自動車などで世界を驚かせた日本の物作りにはかつての勢いは感じられません。アスリートとエンジニアの立場が逆転したかのような現状の裏には、やはり国民の関心が物作りから離れてしまったことも影響しているかも知れません。

 世界から買って貰えるような製品を開発できなくなった、それが巡り巡って日本の通貨の地位が上がらない円安にもつながっているんだと思います。日本製品を買って貰えなければ日本円も強くならない、いくら大谷翔平選手が1000億円の契約金を貰ったって円は高くならない(笑)。やはり我々日本人は、海外の各種スポーツリーグやらオリンピックやワールドカップなどの日本人選手を応援する半分、いや1割でもいいから、相応の熱量をもって物作りに挑戦する日本のエンジニアに声援を送らなければいけませんね。いつまでもグローバリゼーションの甘い夢を追いかけて、他国の“いいとこ取り”だけ狙っているようでは先行き不安になります。

【補遺】日本は物作り大国からスポーツ大国に変貌したと書いたこの記事をアップしてから3週間もしないうちに、このことを如実に象徴することが起きました。2024年7月26日(日本時間27日払暁)パリオリンピックの開会式が挙行され、日本にも午前2時半前後から式典の映像が届き始めました。選手団がセーヌ川を船で下るという史上初めての試みの後、パリの街をアクロバット的な演出で巡ってきた聖火がいよいよ聖火台に点火されるというクライマックス、選手団や関係者が集合しているトロカデロ広場には聖火台はない。気球型の聖火台が設置されているルーブル美術館の近くまで総勢24名ともいわれるオリンピアンとパラリンピアンの手でリレーされましたが、途中雨脚の強まるセーヌ川を高速船で運ばれるシーンがあったのです。

 私はこの中継映像をNHKのテレビで見ていましたが、翌日から始まる各競技と同じくらいハラハラドキドキ興奮していました。なぜならリレー走者が船の甲板上で掲げている聖火のトーチは日本製だったからです。おそらくセーヌ川の川面から吹きつける強い風雨を想定していたフランスのオリンピック組織委員会は、前回東京大会の聖火の実績を見込んで、愛知県豊橋市の新富士バーナーというメーカーに依頼したことは知っていました。風速17メートル、1時間50ミリの雨量でも絶対に火が消えないトーチ、パリ五輪の関係者は日本のメーカーを絶対的に信頼したわけです。甲板上でトーチを掲げた走者たちも雨風を気にする様子もなく、毅然と聖火を掲げ続けた、まさに金メダルにも匹敵する物作り大国日本の面目躍如ではなかったでしょうか。

 ところがNHKの五輪中継スタッフも、東京の放送スタジオスタッフも、誰一人この快挙に触れることはなかったし、翌朝の民放各局が編集したダイジェスト映像でも、セーヌの川風にも消えなかった聖火の映像をカットしてしまったものさえ多かった。あれこそ日本の物作りメーカーの誇りであるという情報は入っていなかったんでしょうかね。メダルが期待される競技については嬉々として放送しているのに、日本の物作りへの賞賛はなかった。

 NHKなんかは後になって『新プロジェクトX』か何かで「絶対に聖火が消えないトーチを作れ」とか何とか特集するかも知れませんが、実際のリアルタイムの中継映像で、何度もセーヌ川の雨風に吹き消されそうになる炎が再び燃え上がる映像をバックに日本の聖火トーチの性能に一言解説を加えるだけで、物作りに携わる人々に対しては45分番組1本分以上のエールになったことくらい分からないのかしら。


踏切内の人命救助

 今年(2024年)になってからだけでも、テレビやネットを見ていると踏切内での人命救助で感謝状というニュースが意外に多いのに気付きました。3月に愛知県で宅急便配達の女性が自転車で踏切内に閉じ込められた高齢女性を救出した、4月に三重県で踏切内にうずくまった女性を女子高校生や専門学校生や会社員など5人の連携で救出した、5月には奈良県でシニアカー(電動車椅子)が踏切内で立ち往生した高齢女性を乗用車の女性が救出した、さらに同じく5月、石川県でやはり自転車で踏切から出られなくなった高齢男性を女子高校生と会社員が協力して助け出した…。

 昨年以前も同じような事故と救出劇のニュースが幾つも見られますが、まかり間違えば助けようとした人までが巻き添えを食って死亡する危険も大きい行為です。踏切ではないが2001年1月には東京山手線の新大久保駅でホームから転落した酔っ払いを救出しようとした日本人カメラマンと韓国人留学生が死亡するという痛ましい結果になっていますが、今年報道されている踏切内人命救助者も同じことになったかも知れないのです。

 では皆さんならどうしますか。踏切内に閉じ込められた人(特に高齢者や幼児)に気付いたら、とっさにどういう行動を取りますか。こんなことはそうなってからでないと分からないとは思いますが、大部分の方は、自分の身が危ないからやらないよと今は密かに考えていても、実際にその場に居合わせる羽目になったら必ず飛び出して助けようとするはずです。助けてあげようという高尚で英雄的な気持ちからではなく、強いて言えば目の前で人が死傷するのを見たくないという気持ちからです。

 お前、自分が何を言っているか分かっているのかと憤慨する方もいらっしゃるでしょうが、実は私も1回だけ、そういう状況に遭遇してしまった経験を思い出して申し上げているのです。

 もうかれこれ10年近くも昔になりますが、板橋の帝京大学に勤務していた私は、天気が良くて時間がある時など、加賀(埼京線の十条駅近く)にある職場と池袋の間を歩いたものでした。その日はたぶん休日出勤だったと思いますが、池袋から30分ほど歩いて東武東上線の下板橋駅に隣接する踏切に差しかかろうという時のこと、数十メートル先を歩行の不自由な高齢男性が踏切に向かって歩いている、しばらく警報機が鳴らず遮断機も開いていたので、そろそろ電車が来るタイミングだな、あの爺さんが踏切に入る前に遮断機が下りてくれれば良いのになと思いながら歩いていると、間が悪い時は悪いもので、爺さんが踏切に入って1/3ほど渡ったところで警報機が鳴り出した、爺さんは両大腿を挙上する神経が麻痺しているようで身体を左右に揺らしながらピョコピョコ歩いている感じ、これはとても電車が来るまで間に合わないと判断した私は、下りてくる遮断機をかいくぐって爺さんを背後から追いかけました。

 「危ないですよ、早く、早く!」みたいな声を掛けて爺さんの手を引こうとした瞬間、爺さんは何を血迷ったか、「余計なお節介をするな!」と怒鳴って私の手を振りほどいた、電車が接近するこの危険な状況を分かっているのかと私は呆れましたが、「じゃあ勝手にしろ」というわけにも行かない。爺さんの手をさらに強く引こうとしたら爺さんは不自由な身体で暴れ出し、弾みで線路の上に倒れ込んでしまった、仕方ないから背後から羽交い締めにして有無を言わさず踏切の外へ引きずり出しました。

 私にもこんな経験があったのです。踏切の向こう側で遮断機の棒を持ち上げてくれた女性もいたし、下板橋の駅から駅員さんも慌てて出てきましたが、私もその時になってやっと自分の身も危険だったことに気付きました。こっちも事故に巻き込まれる危険がありながら助けたのに、余計なことするなと怒鳴られ、メチャクチャに悪態をつきながら暴れられて、私も頭に血が上って興奮してましたから、「この爺さん、暴れやがって」とか何とか言いながら駅員さんに引き渡し、腹の虫も収まらないまま、さっさとその場を後にしたわけです。

 爺さんが駅員さんに向かって「ありがとうございます」とボソボソした声で述べているのが背後で聞こえましたが、私は振り返りませんでした。あの場に踏み止まって駅員さんに状況を説明していたら、もしかしたら感謝状とか貰えたかも知れませんが、そんな問題ではないんですね。あの爺さんが目の前で死傷しなくて本当に良かった、夢中になってやったことでしたが、別に嬉しいとか誇らしいとか、そんな気持ちはまったくありません。ニュースで伝えられる各地の人命救助者たちも同じだったに違いないと、私は確信をもって断言できます。

 おそらくこの文章を読んでいらっしゃる9割以上の方は、閉まった踏切に高齢者や幼児が入っていたら理屈抜きに行動に移ると思います。ただ人が踏切内に取り残されるタイミングは、警報機が鳴って遮断機が下りた直後、通常はまだ列車が差しかかるまでに30秒ほどの余裕があるので、私の場合も含めて間一髪で救助に成功することの方が多い。

 しかし2001年の新大久保駅のようにホームから人が転落した、あるいは夏場の水難事故のように誰かが水中で溺れたなどの場合は、踏切のような救出のタイミングを見出すことは難しい。それでも人は見ず知らずの他人であっても、誰かが窮地にあればとっさに助けようと行動してしまうところが問題です。専門の訓練を積んで十分な機材を持った消防や警察の救難隊員でさえ、時として人を助けるのは非常に困難であることを日頃から胆に銘じて、いたずらに人間本来の善性に駆られて自分までが事故の犠牲者にならぬよう心がけることも必要かなと、相次ぐ踏切内人命救助のニュースを見ながら考えた次第です。


オリンピックの雑魚の歌

 今年(2024年)7月26日(日本時間27日)からフランスのパリでオリンピック大会が開かれていますが、例によってまた審判の疑惑の判定だとか、個々の選手の挙動などが物議を醸すことが多いようですね。昔のオリンピックだっていろいろ問題はありました。

 たとえば20世紀中期くらいも日本のお家芸だった男子体操競技、あの頃の日本チームの最大のライバルは中国ではなくてソ連(現ロシア)でした。あの国はドーピングでも信じられないような騒動を起こす国ですが、当時も勝つためなら何でもしそうな雰囲気がプンプンする国でした。ソ連人審判による体操競技の採点があまりに露骨に自国選手に有利、しかも同じ共産圏諸国の審判員も買収されているとしか思えないようなひどい採点もあったように記憶しています。

 しかし20世紀はまだインターネットもSNSも無い時代、大人たちはテレビ中継(リアルタイムの衛星中継は1964年の東京大会からだった)を見ながら、「ソ連の審判ひどい」とか「あの選手は何て図々しいの」とか盛んに憤慨してましたが、そういう罵詈雑言が家庭のお茶の間から世間に拡散されることはありませんでした。テレビ中継のアナウンサーや解説者が「今の判定はおかしいですね」などとコメントしてくれるのを聞いて少しだけ溜飲を下げていただけ…。

 ところが今やSNSを介して国民一丸で総コメンテーターという感じ。選手の一挙手一投足から審判員の判定に至るまで、少しでも納得いかないことがあると、直ちにスマホやパソコンを起動し、時には激情に駆られた激しい言葉まで交えて、心に思いつくままに一介の解説者ぶってコメントを垂れ流す。その剣の刃のような言葉がもしかしたら直接相手に届いてしまうかも知れない、これまでもそういう暴力的な言葉によって自ら命を絶ったアスリートやアイドルやタレントがいることも知っているのに…。

 おそらく自国の選手やチームが思うような競技成績を残せなかったことに欲求不満を募らせ、審判のせい、あるいは選手個人の努力不足のせいと決め込んで、叱咤激励や不正糾弾という一見正当な口実の下に鬱憤を晴らそうと思うのでしょう。私はこういう状況を見ると宮本武蔵、それも吉川英治の長編小説『宮本武蔵』の最後の一文を思い出してしまいます。

 波騒は世の常である。
 波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を、水のふかさを。


 巌流島で佐々木小次郎との決闘を終えた武蔵が早々に立ち去る様子を見た野次馬たちが、武蔵の日頃のたゆまぬ鍛錬や、小次郎への並々ならぬリスペクトなども知らずに、「逃げ足が速い」だの何だの、無責任な評論を囁きあう様子を皮肉った文章です。オリンピックの選手団や審判団への心ないSNS投稿と同じ構図ですね。

 日本にとって最初の物議を醸した柔道初日の男子60キロ級の準々決勝、永山竜樹選手がスペインのガリゴス選手と対戦しましたが、審判の「待て」が入って試合を中断させなければいけない場面で、相手選手が絞め技を解かずにさらに6秒間永山選手の首を絞め続けた、このため「待て」で力を抜いた永山選手は失神して敗れてしまいましたが、審判はガリゴス選手の反則行為を認定しなかったのかとか、ガリゴス選手はスポーツマンシップがないのかとか、特に日本のSNSを中心にゴウゴウの非難が巻き起こりました。

 まるで審判がわざと日本選手団に不利な判定をしようとした、あるいはガリゴス選手が「待て」にも知らんぷりをしてわざと永山選手を痛めつけようとしたなどと、性悪説に基づいた被害妄想的なコメントが飛び交ったことは残念です。審判や相手選手が性悪か性善かなんて周囲が勝手に決めつけるものではない、もし仮に百歩譲って性悪の所作だったとしても、それは本人がパリ五輪を思い出すたびに良心の咎めを感じるだけのこと。

 確かに2000年のシドニー五輪の時も“世紀の大誤審”と言われた男子柔道の誤審事件がありました。大リーグの大谷翔平選手のようなプロならばクソボール球をストライクと判定されて三振に倒れても、長いシーズンと野球人生の中で莫大な年俸や契約金は貰えてアスリートとしての名誉も保てるが、オリンピックに参加するアマチュア選手は生涯に一度のチャンスに賭けて大変な努力をして臨んでくるのに、たった1回の誤審ですべてが水泡に帰すことだってある、それを考えれば審判の方々にはもっと勉強して修練を積んで頂きたいと願う気持ちは山々ですが…。

 しかしそういうことも水に流して互いを称え合うのもまたスポーツマンシップなのでしょう。永山選手も翌日のSNSにガリゴス選手の謝罪を受けたことを報告し、自分たちは何があっても“柔道ファミリー”なのだ、相手選手や審判を責めないで欲しいとコメントしたことこそ本件の救いです。

 ただ今回の“審判疑惑劇”から選手だけでなく、我々一般人も学ばなければいけないのは、日本古来の武道で言われる“残心”ということ。試合や果たし合いで相手を倒したとしても、なお静かに相手に備える心を保つことだそうです。有頂天に喜びを爆発させるなどは倒した敵に対するリスペクトを欠く、また敵が息を吹き返して態勢を立て直したりしてきた場合の反撃に備える、そのための心構えが残心です。永山選手は惜しくも「待て」の合図ですべての警戒を解いてしまい、残心を忘れていたと言えるでしょう。コロナウィルス感染症も5類になったからとマスクもせずに人混みに出て行くなども、残心を忘れた行為だと思います。

 もう一つ、永山選手の試合の翌日に行われた女子52キロ級で阿部詩選手がまさかの2回戦一本負けを喫した試合後のこと。前回の東京大会で兄の阿部一二三選手と共に兄妹同時優勝したことから、今回のパリでも兄妹の2連覇と期待されていましたが、妹の方は望みが叶わなかったわけです。試合後、阿部詩選手が大声で号泣したことから、日本のSNSを中心に賛否の議論が巻き起こり、何人もの著名人がマスコミで私見を述べていました。

 負けても武道家らしく潔く振る舞えとか、試合の進行を妨害してまで泣くなんて恥ずかしいとか、詩選手の号泣を批判するものと、パリ大会へ向けての詩選手の血の滲むような努力も知らず、思わぬ不覚を取ったことを責めてはいけないと擁護するもの、ほぼ半々のような印象です。私は後者を支持しますが、何を思ったとしても、そういう私見をストレートにSNSに上げたり、著名人が公式の場でわざわざ発言するのはやはり雑魚の思い上がりだと思うんですね。阿部詩選手のことは彼女自身にしか分からない、我々外野の雑魚はそれを静かに見守ってあげなければいけない。

 阿部詩選手の試合を見て、私は三国志時代の関羽将軍が亡霊になった逸話を思い出しました。これも吉川英治が『宮本武蔵』とほぼ同時期に執筆していた長編小説『三国志』の中に逸話として書きとめていたことだと思いますが、ちょっと記憶が曖昧です。

 関羽の亡霊というと、呉の呂蒙を呪い殺した怨霊の話が有名ですが、私が覚えているのはもっと簡単な話、蜀の名将関羽は呉の呂蒙の策略によって敗北して討ち取られましたが、死んだ後にある高僧が夜空を見上げると、月が関羽の顔になって無念の形相を浮かべている。今年の朝のフジテレビ情報番組『めざましテレビ』の主題歌はDISHが歌う『朝、月面も笑っている』ですが、月が髭面の関羽の顔になって憤怒していたら怖いですね(笑)。

 それはともかく、月面で怒っている関羽の亡霊に向かってその高僧が投げつけた言葉が私の印象に残っているのです。関羽よ、討ち取られたのは無念だろうが、これまでお前が進んで来た道の途中でお前が討ち果たした多くの敵もまた、同じ無念の涙を飲んで死んでいったのだ、お前にも同じ順番が巡ってきただけのこと、それを思っておとなしく成仏せい。

 あまりに強烈な場面だからたぶん私の記憶に誤りはないと思いますが、阿部詩選手も関羽と同じこと、彼女が国内外の試合で打ち負かした多くの選手たちも同じような涙を飲んで競技の舞台から去って行ったのです。前日に行われた女子48キロ級で金メダル獲得した角田夏美選手、31歳という遅咲きの優勝でしたが、国内予選大会では阿部詩選手に阻まれて日本代表になれず、大変な減量の努力の末に階級を一つ落として掴んだ成果だったそうです。しかし角田選手のように立ち直れた相手選手はおそらくほんのわずか、大部分は晴れ舞台に立つ姿さえ見せずに消えていったわけです。

 三国志のような戦乱の時代とは違いますが、やはりオリンピックを頂点としたアマチュアスポーツ競技の世界もまた非情であることを見せつけられた阿部詩選手の敗戦でした。ちなみに阿部詩選手を破った相手はウズベキスタンのディヨラ・ケルディヨロワ選手、決勝戦まで勝ち進み優勝しましたが、この2回戦では淡々と試合場を後にした、レジェンドとして目標にしてきた阿部詩選手を破ったが、大喜びするのは相手に対して失礼だから静かに立ち去ったのだそうです。これこそスポーツマンシップであり、残心です。

(補遺)
 9月になって行った健診の施設の書架に懐かしい吉川英治の『三国志』の文庫本があったので、この記事に書いた関羽が月面で亡霊になっている話を確認してみました。以下要点のみ記しておきます。
 荊州の玉泉山に生前から関羽の心の友であった普静
(ふじょう)という老僧がいた。関羽が討たれてしばらく経った頃、月の明るい晩に庵で独り座っていると、「普静、普静」と空から自分の名を呼ぶ声がする。さらに「還我頭来(我が首を還し来たれ)、還我頭来」と二度までも明らかに聞こえたので、空を仰ぎ見ると、雲間に腹心の家来を従えた関羽の顔がありありと現れた。
「雲長(関羽のあざな)、今どこにいるのか」と普静和尚が問うと、空中の声はさも無念そうに、
「呂蒙の奸計に陥ちて呉に殺された。和尚、我が首を求めて、我が霊を震わしめよ」
和尚は庭に出て言った。
「(関羽)将軍、何で迷っている愚かさが分からないのか。将軍が今日まで歩んできた山野の跡には、将軍と同じ恨みを持った白骨が累々とあるではないか。桃園の事(主君劉備玄徳との義兄弟の契り)はすでに終わったのだ。今は瞑目してあの世で安んずるべきである。喝!」
と叫んで払子(仏具の一種)で月面を打つと、関羽の影は消えてしまった。
ということですが、阿部詩選手を初めとするアスリートたちは安易に瞑目せずに、たとえ一度や二度の敗戦にまみれても、力の限りリベンジに立ち上がる勇気を応援したいと思います。


巨大地震の確率の話

 今年(2024年)の8月8日午後4時43分、日向灘を震源とするマグニチュード7.1、最大震度6弱の地震が発生し、気象庁から巨大地震注意とする南海トラフ地震臨時情報が発表されたことから、お盆休みを控えた日本列島はパニックに近い状況になりました。フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に潜り込んでいく南海トラフを震源とする巨大地震がひとたび発生すれば、東日本から西日本・南日本にかけて壊滅的な被害が想定されており、いつかは必ず起きると言われていながら、まだ具体的な兆候として警告されたことはこれまで1回もなかったのに、今回は南海トラフの西端が崩れたことによる地震、いわゆる“部分割れ”で、巨大地震の前兆ともなり得ることから、日本中がパニックになったのは分からぬでもありません。

 しかし地震学の専門家たちが当を得た分かりやすいコメントを出さないばかりに、国民のパニックを必要以上に煽ってしまっていることは否めません。そりゃ地震の専門家としてあまり的外れで場当たり的なことは言えない。「巨大地震が近々来る」と危機感を煽っておいて地震が来なければまさに“狼少年”、国民の信頼を失うだけでなく、日本の経済活動に大きなダメージを与えることになるし、「巨大地震は当分大丈夫」などと断言しておいて明日にでも大地が揺れれば、国家の予算を注ぎ込んでおいて何の役にも立たないじゃないかと無能呼ばわりされてメンツを失うことになる。

 どちらに転んでも難しい立場に追い込まれる専門家の苦悩は十分理解できます。コロナ感染症の見通しを尋ねられた医学の専門家も同じだった、そもそも世の中に起こるさまざまな事象を専門的に正しくコメントするなど、全能の神以外には無理なのです。人間の行動に伴う日本株式市場の乱高下でさえ、大暴落の翌日に史上最大の上げ幅で値を戻したことを正確に予知した経済の専門家がいたでしょうか。

 いかに賢い人間でも地震やウィルスや株式市場やその他さまざまな事象を予知することは不可能という視点が現在の日本には欠けています。だから今回の地震専門家たちも「確率的にはそんなに大きくない」とか、「必要なだけ正しく恐れることが大事だ」とか、ムニャムニャと訳の分からんコメントでお茶を濁している。ご自身の専門家としてのメンツが大切なんでしょうが、この『確率』という表現が曲者ですね。

 今回の南海トラフの部分割れで、巨大地震の確率が0.1%から0.5%くらいに上がっただけ?せいぜい数百回に1回の確率だ?

 まあ、一般国民に無用なパニックを起こすまいという気遣いもあるでしょうし、仮に明日巨大地震が起きても自分のメンツを守ろうとする意図も含まれていると思います。しかしこの確率の概念はなかなか一般国民には伝わりにくいものです。専門家が舌足らずに確率の概念を振り回すものだから、政府も企業も国民も誤った理解に振り回されて、せっかくの夏休みに海水浴場は閉鎖されるし、鉄道は徐行を余儀なくされるし、観光地にはキャンセルが相次いでいるらしい。専門家がボソボソ述べる“確率”の概念に振り回されるだけでは、いつまで巨大地震注意の警戒を続ければいいのか分かりません。強いていえば、本当に南海トラフ地震が起こって日本の半分が壊滅するその日まで警戒が必要です。

 もともと地震国の日本ではいつどこに巨大地震が襲ってきてもおかしくない。関東大震災だって20世紀の頃は68年ないし69年周期説というのがあって、私も子供の頃は毎日ビクビクしながら暮らしていたものです。今では200年くらいの周期と言われるようになったみたいですが、それだって首都圏直下型地震も含めて明日は絶対安全だと言えるものではない。

 地震国日本に暮らす以上、私たちは毎日毎日ロシアン・ルーレットの引き金を引いているようなものだと思った方が良い。弾倉が1000個もある途方もない拳銃を毎日1回、自分が住んでいる大地に向かって引き金を引くわけです。

 今回の専門家の説明を南海トラフ地震に分かりやすく当てはめれば、1000個の弾倉の1つに実弾が装填されていた、ところが先日の部分割れの日向灘地震が起こったために、弾倉にはさらに実弾が追加されて5発になってしまった。これで日本列島に壊滅的打撃を与える巨大地震を引き起こす確率は0.1%から0.5%に上昇した、実弾が込められている確率は200回に1回程度(数百回に1回と言ってもよい)だ。

 専門家がボソボソと言い訳がましく解説する事象を、最も理解しやすく言い換えたモデルです。これまでは1000回撃って999回は無事だったが、これからは1000回撃って無事なのは995回に減る、そしてすでに南海トラフの部分割れが実際に起こった以上、この確率は1週間経とうが1年経とうが100年経とうが、本物の巨大地震が来る日まで元に戻ることはない。いずれ来る巨大地震に対しては、これまでどおり警戒を怠らない心構えこそが大事だということです。


カンペあれこれ

 最近ではカンペ、つまりカンニング・ペーパーを縮めた言葉である“カンペ”は以前に比べてあまり使われなくなった印象が強いです。もともとは学生や生徒が英単語や漢字熟語を小さな紙に書き込んで試験場に持ち込む不正行為のことですが、私に言わせれば、カンペを作った段階ですでにそれらの大半は頭に入っているはずなので、そんな物に頼るのは試験監督者に発見されるリスクに到底見合うものではありませんから、正々堂々と試験勉強して受験しなさい。

 テレビなどの撮影現場では出演者に演出進行を知らせる別の意味でのカンペがあるそうですが、私にとってのいわゆる“カンペ”とは、講義や講演など人前で話をする時に、その話の内容のメモ書きをあらかじめ準備しておくことでした。たとえば学生相手に90分の講義をする場合、私はA4版の紙を四等分した大きさのメモ紙数枚に、その日の講義内容の項目立てと、要点になる単語、重要な数値などを簡略な箇条書きにしたものを教室に持って行ったわけです。A4版の紙は会議後や事務伝達後に不要になった書類が山のように有り余っていて、ただシュレッダーで粉砕して捨てるのも勿体ないから、それらの裏紙を講義のメモ用に利用したわけですね。

 最近こういう意味での“カンペ”が使われなくなった理由としては、パソコンによるパワーポイントなどプレゼンテーション用のソフトが普及したことが挙げられます。私が退職するずっと以前から、どこの大学でもほとんどの教員がパワーポイントを講義で使用していました。投影画面には各種ソフトで作成した画像や図表や文字列が含まれており、教員はそれらをスクリーンに投影して文字を読み上げながら画像や図表に解説を加えれば、大過なく講義が終了するわけです。しかも一度そういう講義ファイルを作ってしまえば、基本的には翌年以降の講義にも利用できる。

 私はパワーポイントなどパソコン頼りの講義には反感を持っていました。たぶん聴いている学生は、教員の話を聞いている実感はなく、投影されたパワーポイントの画面を読まされていると感じていると思います。どうせ先生だってこんな細かいこと覚えてないよな、先生はパワポ(パワーポイント)に必要事項を入れておいて俺らの前で読んでいるだけだよな、そう思っているかも知れませんし、私自身がパワポの講義や講演を聴かされればそう思いますね。

 私の講義用台本は、最初の講義の時(帝京大学の臨床検査学科なら1期生の講義時)にかなり詳細に作り込んでおいた内容を、毎年毎年の講義時にA4版四等分のメモ紙に新たに箇条書き内容を書き写して教室に持って行った。もちろんそんな物をただ読み上げれば1分で終わってしまいますが、私の頭の中には解剖学・病理学・生化学・生理学など膨大な講義用台本の内容が入っていて、しかも毎年の講義を準備する時に記憶が強化されていっていますから、それらをほぼ暗記の上で、学生たちに直接語りかけるように講義しました。

 だから卒業生たちには私の講義が強い印象に残っている子も多いみたいだし、同じ学科に入学してくる弟妹や後輩に「凄い先生がいるよ」と語っていた子もいたようです。私の“カンペ”の講義はパワポ全盛の大学講義に勝っていたと密かに自負していたところでしたが、やはり自慢話めいた後味の悪さを感じる方々も多いだろうから、あまり他人に話したこともないし、このサイトに得々と書くこともしませんでした。

 しかし今年(2024年)になってから世界中で注視されているアメリカの大統領選挙を見ていて、ふと“カンペ”のことを思い出しました。トランプとバイデンの一騎打ちかと思っていたら現職のバイデンが高齢を理由に選挙戦を撤退、代わって現在副大統領のカマラ・ハリスが女性候補として名乗りを上げ、アメリカ国民以外の地球人には投票権が無いにもかかわらず、アメリカ大統領選挙は俄然ボルテージが上がってきました。

 そのトランプ対ハリスの初対決となるテレビ討論会が9月10日に行われましたが、私にはそのルールの一つがとても興味深かった。トランプもハリスも討論会場にはメモの持ち込みは一切禁止だそうです。もちろんパワポ使用などもってのほかでしょう(笑)。

 私の講義に例えるなら、カンペはA4版の四等分だろうが八等分だろうが十六等分だろうが持ち込み禁止、すべて頭の中に入っている講義用台本だけで話さなければいけない、どなたか私と講義対決しませんか(笑)。私は一応“カンペ”を持ち込んではいましたが、講義内容の順番を間違えたり、難しい単語や正確な数値を忘れたりしないように、本当に“命綱”的な究極のメモとして携帯していただけなので、いざとなれば身一つで講義できますよ。

 それはともかく(笑)、アメリカの大統領選挙の討論会はさすがと言わざるを得ません。トランプとハリスという生身の人間としての対決を演出するわけですからね。それに引き換え、日本の自民党総裁選挙とか立憲民主党の代表選挙とか、どうなってるんでしょうか。カンペやパワポファイルを作りたくなるほど深い政策論争など無さそうだし、何となくムードだけで国民や党員などに訴えかけるような口先だけの言葉をチャラチャラと発しているだけのようにしか見えません。

 総裁選挙や代表選挙に限りません。言葉で訴えるプロであるはずの政治家が官僚の作成した文書(カンペ)をダラダラ棒読みで答弁する姿は見苦しいの一言に尽きますし、言葉で国民に伝えるプロであるはずのマスコミ関係者、その花形であるアナウンサーやコメンテーターが、いちいち手元のメモに目を伏せ続けたまま喋る姿も頂けません。どの報道番組のどのコメンテーターとは申しませんが、ニュース内容についての発言を求められた途端、いきなり手元に目を伏せてそのまま喋り続ける方が何人かいらっしゃる、いくら立派な発言をなされても、前夜にあらかじめ知らされた放送内容に応じて準備したメモ原稿を読んでいるだけかと失望します。放送のコメンテーターはトランプ対ハリスのように生身の人間として発言できる人材でなければいけませんね。

 政治家であれ、マスコミであれ、教員であれ何であれ、言葉で他人に何かを伝えるプロならば、カンペやメモやパワポに頼ることなく、生身の人間として言葉を操る能力があってこそ、聴く相手の心に訴えかけることができるのだと思います。

【補遺1】
 自民党総裁選挙の候補者9名が9月13日に共同記者会見を開いて、一応“政策論争”的なことをしましたが、やはり候補者たちのほとんど(すべて)は喋っている途中でチラチラと視線が下方の手元へ泳ぐ。メモを見ているのでしょうが、そんなにメモに頼らなければいけないほどの内容には思えませんでした。アメリカ大統領選挙のテレビ討論会でトランプとハリスが視線を下へ泳がせることなく、テレビの前の視聴者も含めて差しで勝負しているように見える迫力とはえらい違いでした。

【補遺2】
 テレビのニュース・報道番組を見ていてテレビ朝日の林美沙希アナには特に感心しています。報道原稿はすべて頭に入っていると思われ、視線をまっすぐテレビカメラに向けたまま淀みなく喋るのです。テレビ画面を見ていても、こちらが思わず視線を外したくなるほどのド迫力ですね。たぶん中継映像などに切り替わるたびに次に喋る内容をチェックしているのでしょうが、アナウンサーならこのくらいの技能は見せて貰いたいものです。ただこの方はプロの女流雀士でもあるので、相手の捨て牌とか局面の展開とか全体の流れを把握する能力が活かされているものと思われます。ネットのニュース映像でたった一度だけ、この方が手元に目を向ける希少場面を見たことはありますが…(笑)。

【補遺3】
 私がまだ帝京大学の1期生に卒業前の補講をしていた時、国家試験対策用に幾つかの事項について講義しましたが、90分の時間が過ぎてしまって予定していた公衆衛生関係の内容を話せなくなってしまった。だから準備していたメモ書きもゴミ箱に捨てて教室を後にしましたが、そのメモ書きをゴミ箱から拾った学生がいて、「この話も補講して下さい」とおねだりされた。私も学生から頼りにされていると感じて嬉しかったから翌日に追加の補講をしましたが、あの時の学生も今では二児の母であり、立派な臨床検査技師でもあります。


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