富嶽ルート三十六景 part2

 最近の記事で、広島から空路の帰り道で雲を突き抜ける富士山の勇姿を望めたと書きましたが、こうなると葛飾北斎の亜流を自称する浮世写真師の“練馬亜北斎”としては以前の記事の続編に挑戦してみたくなったわけであります。しばしお付き合い下さい(笑)。

相模湾洋上富士 黒富士
川音川の橋梁と富士 後ろ鏡富士
ゼミ富士 銀富士を行く少女

 まず上段左の『相模湾洋上富士』、伊豆大島の健診に行った時に、元町港から相模湾越しに眺めた富士山です。初夏の日差しに青く映える穏やかな海の向こうに伊豆の山々が、さらにその奥に富士山が遙かに霞んで見える。
 こういう風景を見ると、亡き小児科時代の恩師である小林登先生が事あるごとに書かれていた思い出話の情景が浮かびます。海軍兵学校在学中に終戦を迎え、戦後は第一高等学校から東大医学部を経て小児科医になった小林先生は、戦後アメリカでのインターンを終えてサンフランシスコから客船プレジデント・ウィルソン号で5年ぶりに帰国されたそうです。その時、大島付近で富士山が見えるとの船内アナウンスに甲板に出て眺めたのが、季節は違うが、ちょうどこんな富士山の姿だったんでしょう。ジーンとくるものがあったと書いておられます。
 ちなみに小林先生が戦争中在学し、私も世が世なら憧れたであろう江田島の海軍兵学校校歌『江田島健児の歌』の2番の歌詞はまさにこの情景、

 
玲瓏聳ゆる東海の (れいろうそびゆるとうかいの)
 芙蓉の嶺を仰ぎては 
(ふようのみねをあおぎては)
 神州男児の熱血に 
(しんしゅうだんじのねっけつに)
 我が胸さらに躍るかな 
(わがむねさらにおどるかな)
 嗚呼光栄の国柱 
(ああこうえいのくにばしら)
 護らで止まじ身を捨てて 
(まもらでやまじみをすてて)

 たぶん小林先生はその時この歌を心の中で、あるいは小さな声で歌っていたに違いありません。私も『江田島健児の歌』は4番まで歌詞を暗誦していて(5・6番は戦後の時勢の中で削除される内容だった)、浜松勤務中に東名高速道路を独りで運転する時にはよく歌ったもので、特に富士山を見ながら運転しているとこの2番はやはりジーンとくるものがありましたね。

 上段右の『黒富士』、実は以前の記事でも使った写真です。東京でも冬晴れの夕刻になると、赤い夕焼けを背景に富士山のシルエットが黒々と浮かび上がります。普段は美しく、時として感動的な富士山ですが、黒いシルエットになった富士山には言い知れぬ不気味さを感じることがある、それは古来何度も大噴火を繰り返してきた活火山に対する恐怖が関東地方に住む人々の心に刻まれているせいなのかも知れないと書きました。
 近年また南海トラフ地震とか首都圏直下地震などとの複合災害として富士山噴火への対策が呼びかけられるようになりました。今年(2023年12月)はアイスランドで大噴火が起き、同じ火山国である日本にとっても他人事ではないことを思い知らされましたが、皆さんは災害対策は大丈夫でしょうか。まあ、いくら普段からマスコミや自治体の指示に従って対策をしていても、いつ、どこで災害にあうかによっては臨機応変の対処が必要になります。気候変動も同じですが、大自然に対しては人間の力など圧倒的に無力な場合もあるという謙虚な気持ちで日々を過ごすことが大事です。私は富士山の漆黒のシルエットを見るたびに大自然への畏怖を感じますね。

 中段左の『川音川の橋梁と富士』、川音川
(かわおとがわ・かわとがわ)は酒匂川に注ぐ支流の一つですが、松田のあたりに架かるJR御殿場線の鉄橋あたりは私の密かな撮り鉄ポイントであると同時に富士山撮影ポイントなわけです。健診の仕事で小田急線新松田駅での待ち合わせも多く、少し早く着いた時は、徒歩で15分ほどの場所ですから川音川越しの富士山を見に行きます。
 そもそもこの御殿場線は、1934年に丹那トンネルが開通するまでは東海道線の列車が箱根の北側を迂回して関東と関西を結ぶ大動脈だった、現在の東海道本線が開通してからは国府津と沼津間の支線の扱いになりましたが、この松田から御殿場を経て沼津に向かう区間は富士山が車窓にドーンと聳えて、まさにパノラマ区間ですね。
 2012年までは小田急ロマンスカーが線路を乗り換えてJR松田駅へ入り、そのまま沼津まで運行されていて(現在も御殿場までは運行されている)、その頃に一度だけ両親と新宿−沼津間を乗車したことがありますが、父が車窓の富士山を眺めながらポツリと言ったこと、戦時中に兵営に召集される直前に友人たちと御殿場線を旅したらしく、これが富士山の見納めかと切なかったそうです。

 中段右の『後ろ鏡富士』、山梨県富士吉田の方へ健診に行った時、コンビニの駐車場に停まった健診車のバックミラーにちょうど収まっていた雪帽子の富士山をスマホで撮影。富士五湖の湖面に上下逆転して写った富士山を“逆さ富士”と言いますが、鏡に左右逆転して写った富士山は何とお呼びしたら良いんでしょうか。“裏返し富士”もありかと思いますが、静岡県から見た富士山を「表富士」、山梨県から見た富士山を「裏富士」と言うそうですから、山梨県でバックミラーに写った富士山は裏富士の裏返しで表富士か(笑)。

 下段左の『ゼミ富士』、新宿の某ホテル最上階から見えた富士山で、手前に昔から受験界の大手だった代々木ゼミナールの看板がある、ただそれだけの何の変哲もない写真ですが、私も高校時代は何度か夏季講習や冬季講習のお世話になりました。学校受験って今考えると、山登りみたいなものだったんだな。登っている最中は先が見えない、少しでも高い山に登らなければいけないという焦りもあるし、クラスメートたちは今頃どの辺を登っているのかと気にもなる。
 しかし受験を終え、人生の山も越えてみると、あの受験時代に登った山の高さにはあまり意味ないんですね。人生の山はもっと後にくるもの、そしてその人生の山頂からどんな景色が見えたかが結局一番大事です。受験時代に富士山みたいな最高峰に登らなくても、人生の山の頂でもっと良い景色に出会えた人こそ最高の果報者。でも初めはそれが分からないからこそ人生は面白い。だから受験生諸君、今登っている山が富士山やエベレストだと思ってチャレンジして下さいね。

 下段右の『銀富士を行く少女』、これも先ほどの川音川に架かる県道の橋ですが、御殿場線を撮影した後に新松田方向に戻る途中で何気なく白銀の富士山を撮影、後から拡大してみたら橋を渡って登校を急ぐ中学の女子生徒さんが写っていました。その部分だけ切り取って大きく伸ばしたら、何だか未来に思いを馳せたくなる、私にとってはお気に入りの1葉になりました。
 この記事で触れた恩師の小林先生も私の父も戦争の時代を生きました。私たちの世代は戦争を身近に体験することなく老いることができました。願わくばこの生徒さんたちの世代もまた、戦争ばかりでなく大災害も経験せずに人生を送っていけますように。富士山もあとしばらくは(1万年くらい・笑)噴火も我慢して日本という国を見守って欲しいですね。


         帰らなくちゃ