蕎麦喰い地蔵

 以前葛飾区東水元の南蔵院にあるしばられ地蔵をご案内した時に、お地蔵様は現世にあって我々衆生を見守って下さる存在だから、笠地蔵といい、しばられ地蔵といい、現在に残る伝説も何かほのぼのと暖かいというような話をしましたが、私の自宅近くの練馬にもちょっと面白いお地蔵様がいらっしゃるのですね。今回も新型コロナウィルスの流行であまり遠出ができないこともあり、前回の愛染院に引き続き<近場で旅気分シリーズ>第2弾です。

 私の家からゆっくり歩いても15分程度の距離に,、豊島園という由緒ある大きな古い遊園地があります。私が子供の頃からありました。豊島区は練馬区の隣なのに、なぜ豊島園が練馬区にあるのか、鎌倉時代後期から室町時代にかけて武将豊島氏がいた練馬城の城趾を利用したからで、開園当時この一帯の地名は東京府北豊島郡上練馬村だったそうです。ちょっとややこしいですが、プレ戦国時代にこの地を治めた豊島一族の名前に由来するということで納得しておきましょう。

 この豊島園が2020年以降段階的に東京都に売却されて都立公園になり、敷地の一部に映画『ハリー・ポッター』のテーマパークもできるそうで、いよいよ2020年8月で豊島園はその長い歴史に終止符を打つようです。それより私が豊島園と聞いてまず思い出すのは、同時通訳の米原万里さんが著書『ガセネッタ&シモネッタ』の中に書かれた爆笑モノのエピソード、渡辺淳一さんの小説『失楽園』が日本経済新聞に連載され、それが単行本になり映画化までされた時代に、広告業界の国際会議で同時通訳を務めた時の苦労談を語っておられます。

 渡辺淳一の『失楽園』といえば日本における“男女不倫文化”の先駆けとなった小説ですが、キリスト教文化圏の外国人にとっては当然のことながら旧約聖書をテーマとしたジョン・ミルトンの叙事詩を思い浮かべる。最初のうちは演者もそういう文化圏の違いを意識してスピーチしていたらしいのですが、日本人聴衆が盛り上がってくると調子に乗ってしまい、ついこんなことまで喋ってしまった、渡辺淳一の『失楽園』のお陰で普段は映画など観ない中年男性も映画館に足を運ぶようになったというので、ちょっとマーケティング・リサーチで覗いてみたら、中年男性が多いなんてガセネタ、どの映画館も
40歳代から60歳代の女性ばかり、失楽園じゃなくて豊島園だった…と、ここで日本人聴衆はもちろんバカウケだったが、外国人聴衆は意味が分からず、怪訝な顔で一斉に同時通訳席を振り返り、何と説明してよいか大変な苦労をしたとのことです。

 意味が分からない人は別に深く考えなくていいです、次いきましょう(笑)。ちなみに米原万里さんの著書の書名のうち、シモネッタと同名の夫人については私のサイトにも登場して貰ってますが、今回はそれとは関係なく、お蕎麦を召し上がっているお地蔵様の話です。お参りすると、お地蔵様と差し向かいで頂けるようにザル蕎麦がお供えされている…。

 さて年増園…じゃなくて豊島園の近所に田島山十一ヶ寺という場所があります。豊島園通りというバス道路に面した横丁一つがまるまる浄土宗のお寺の長屋みたいになっているんですね。快楽院、宗周院、仮宿院、受用院、称名院、林宗院、仁寿院、迎接院、本性院、得生院、九品院の計11個のお寺が集合しているわけですが、しばられ地蔵の南蔵院が関東大震災の折に浅草吾妻橋から葛飾の東水元に移転したのと同じく、これらのお寺も関東大震災でこの練馬の地に引っ越してきたのです。

 その中の九品院にいらっしゃるのがお蕎麦大好きなお地蔵様で、元は浅草田島町にあった誓願寺にあったものです。その頃に浅草広小路に暖簾を構えていた尾張屋という蕎麦屋に、ある夜更け端麗で徳の高そうな僧侶が訪れたので、信心深い店主は蕎麦をふるまった。僧は美味しそうに蕎麦を食べた後、厚く礼を述べて帰って行ったが、それからは夜な夜な来店しては蕎麦を食べて行くようになった。そんなことが続くうちに、店の者たちは次第に怪しむようになり、あれは狐か狸か妖怪変化の類が僧に化けているに違いない、引っ捕らえて化けの皮をはがしてやると息巻いたが、それでも信心の深い店主はもし本物のお坊様だったら失礼に当たると店の者たちをなだめ、自分がこっそり跡をつけてみることにした。

 そうして翌晩のこと、同じように蕎麦を食べて帰る僧をこっそり追跡してみると、その僧は誓願寺の地蔵堂の前で忽然と姿を消した。たまげたのは蕎麦屋の店主、ああ、あのお坊様は狐狸妖怪などではなくお地蔵様の化身であったか、多少なりとも疑って申し訳なかった、畏れ多いことだったと大変な悔やみよう、するとその晩、店主の夢にお地蔵様が現れて言うことには、(現代語で)これまで毎晩美味しいお蕎麦をご馳走様でした、お礼に御一家の皆様の健康をお守りし、悪疫から護って差し上げましょう…とのこと。蕎麦屋の店主はそれから毎日誓願寺のお地蔵様に蕎麦を供えることを忘れなかったが、その後江戸に悪疫が流行した年にも一家は誰も罹患せず、以後このお地蔵様は蕎麦喰い地蔵として人々の信仰を集めるようになったとのことです。

 この時の江戸の悪疫は天保年間のことであったと言われ、天保3年(1832年)冬の琉球風(おそらくインフルエンザ)または天保6年(1835年)の風疹の流行と思われますが、江戸時代よりずっと以前から人類は天然痘、麻疹、風疹、インフルエンザ、コレラ、ペストなどさまざまな感染症に見舞われてきたわけですね。別に新型コロナウィルスが初めてというわけではありません。

 パスツールやコッホによって病原微生物の概念が確立される以前、つまり19世紀中期以前の一般民衆にとって、感染症の流行は得体の知れない恐怖だったはずです。ある地域に摩訶不思議な力が作用して人々が病に罹患していく、しかし病を免れる人もいれば、症状が軽く済む人もいる。理性で説明できなければ、当然人々は悪霊の仕業や神罰といった超自然的な力を信じるしかなく、それに対抗するために神仏に縋ることもあったでしょう。ペストは患者の視線によってうつると信じられた時代もあったようです。恐っ!

 その後、結核菌、コレラ菌、ペスト菌、赤痢菌、チフス菌などの病原細菌が次々と発見されて、恐ろしい流行病は肉眼で見えない病原微生物が原因であることが知られるようになり、さらに20世紀中期以降、ウィルスなどというさらに厄介な病原体が発見されました。人類はいよいよ科学の力でこういう病原体に立ち向かうことになったのですが、それでもやはり目に見えない敵は恐ろしいですから、昔の人々のように神仏に祈る気持ちも分かります。天保年間の江戸時代の人々も、蕎麦屋の一家を流行病から護ったお地蔵様をさぞ頼ったことでしょう。

 心の平安を保つために信心も大切ですが、もうちょっと実効性のあるおまじないは手洗いです。私も何度かこのサイトの記事に書いてますし、最近はマスコミもさかんに呼びかけてますが、とにかく外出して何かを触った手で自分の顔に触れないことが大事です。目が痒い、鼻クソがたまった、歯に食べかすがはさまった、という時でも必ず手をよく洗ってから触って下さい。

 このイラストは新型コロナウィルスの流行が本格的になってきた頃にGoogle検索ページのロゴになったものですが、この人物はハンガリーの産科医センメルワイス(Googleのページでは“センメルヴェイス”になっていた)、世界で最初に感染症の予防には手洗いが大事であることを提唱した人です。

 私もセンメルワイスの故郷ブダペストを訪れた時の記事で紹介しましたが、19世紀中期のヨーロッパ、当時猖獗を極めていた産褥熱で生命を落とす若い母親は数知れず、まだ病原微生物の概念はなかったにもかかわらず、センメルワイスは分娩介助の手技を始める前に石鹸とさらし粉を使い、入念にブラシで手を洗うことにより、産褥熱を予防できることを実証しました。しかし1847年にこの成果が初めて学会に報告された時、世界の医学会は非常に冷淡な態度をとって、センメルワイスの業績を認めようとしませんでした。産褥熱は産科医や助産師の手指に存在する病原細菌が妊婦の体内に侵入することによる感染症ですが、当時の医学者たちがせめて神と同じくらいセンメルワイスの言に耳を傾けていてくれたら、何万人もの若い母親が我が子の顔も知らずに亡くなることもなかったでしょうに…。

 基本的に人間の手は偉大な発明や芸術を創造する器官ですが、一方で病原体を体内に引き込む危険なルートにもなります。その手を目・鼻・口など身体の入口に持っていく時は、事前に十分に洗浄することが大事です。さて私も今夜は手を洗ってから蕎麦を喰おうかな…(笑)。


         帰らなくっちゃ