知能の歴史

 「知能 intelligence」とは何なのか。近年AI(エーアイ:人工知能)なるものが話題になるようになってから、ますます分からなくなってきました。知能とは論理的思考、抽象的思考、言語能力、学習機能などを土台にして形成される生物、特に人間の形質と要約できると思いますが、これは人間だけが持っているのか。それとも他の動物もまた多かれ少なかれ持っているのか。

 肉食動物の餌食になった草食動物や、クジラに丸呑みされたイワシの群れなどは自らの運命を嘆いているでしょうか。彼らに知能があれば生半ばにして天敵の生贄になる我が身の不運を嘆いたり呪ったりするだろうし、地球の生態系を食物連鎖の底辺から支える彼ら一族の運命を従容と受け入れるべく苦悩しているかも知れない。

 まあ、たぶんそんなことはないでしょう。そんなことを考えていたら、例えば毎年夏になると我々の血を吸いに飛んで来る蚊なんかを容赦なく叩き潰す行為にも罪悪感が伴ってしまいます。しかしだからと言って他の動物に知能が無いとも言い切れません。ペットの犬とか猫とか、乗馬クラブの馬なんかはまるで相応の知能があるかのように飼い主や騎手との“精神的交流”を示すこともあるようです。

 そうしてみると、「知能」とは動物が進化の過程で複雑化させてきた中枢神経系に宿るものと考えられるのではないでしょうか。魚類や昆虫類にはまだ「知能」を宿せるほど複雑な中枢神経系、特に大脳の構造は備わっていなかったが、ある程度の進化を遂げた鳥類や哺乳類は相当高度な大脳構造を発達させてきた、そしてそれらの種族の一部の個体は、究極の知能を持つに到った人間の家畜やペットとして共存することにより、それなりの「知能」を訓練で発達させることができたと思われます。

 では生物の進化はなぜ最終段階の近くにきて「知能」の獲得を目指したのか。動物は「知能」を獲得することでなぜ適者として生存できたのか。生命進化を司る全能の神、あるいは神と言って語弊があるなら宇宙を律する偶然の法則は、なぜ人類という種族が桁外れの「知能」を持つことを許したのか。考えれば考えるほど不思議なことです。

 人類は「知能」を働かせることで科学を発展させ、数々の強力な武器を生み出していった。また人類は「知能」を働かせることで正義や信仰や希望といった抽象的な概念を発達させ、それらに基づく支配欲や所有欲や名誉欲や妄想を膨らませていった。逆に言えば、人類の頭脳に「知能」が宿らなければプーチンやブッシュや習近平やヒトラーのような個体は誕生しなかった。

 人類の中枢神経系は動物進化の結果ここまで複雑化したわけですが、我々の大脳組織を顕微鏡で観察する限り、それは多数の神経細胞が互いに軸索(神経細胞の電線のような構造)とシナプス(2個以上の神経細胞同士が信号を授受する構造)を介して網目のようなネットワークを構成した複雑なシステムに過ぎません。そこに「知能」が宿ったのは生命進化の必然だったのか、それとも進化の過程で何らかの偶然のエピソードが作用した結果だったのか。

 仏教的に考えれば、多数の銀河系や銀河集団が整然と存在する大宇宙(三千大千世界)の中のどこかの世界に発生した生命体(衆生)に、彼らが存在する世界を認識させ、彼らが存在する意義を悟らせ、以て彼らはクジラに丸呑みされるイワシのような無力な存在ではないことを知る喜びを与える“阿弥陀如来の本願”のようなものが有ったのかも知れません。

 いずれにしても、大脳という複雑な構造が進化していたからこそ「知能」という機能を発揮できた。そして「知能」の働きによって人間は「意志」を持ち、「創造性」を発揮し、「個性」を伸ばして「人格」を形成することができた。大脳も含めて現世の肉体は仮の物で、そこに宿った“魂”は死後は神の元へ帰るというキリスト教的世界観も魅力的ではありますが、やはり
大脳という構造があって初めて「知能」という機能が発揮されるというのが、少なくとも科学の原点ではあります。

 さて私も医学部の学生時代以来、人間の知能だとか意志だとか個性などに関しては、大体このように理解して納得していましたが、ここへきて天地が引っくりかえるような大変な事態となりました。言うまでもなく記事の冒頭にも書いたAI(人工知能)の出現です。

 大脳という構造があるから、知能という機能が働いて意志や人格が生まれる。しかしついに人間は「知能」が機能しうるAIという複雑な構造を自らの手で開発してしまいました。しかも生身の人間が束になって掛かっても太刀打ちできないほどの高性能を持つ巨大な構造です。これが人類の歴史に何をもたらすのか。

 世界中で多くの専門家が危惧を抱いています。もしAIが邪悪な意志を持ったらどうするのか。AIは機械だから意志を持つはずがないという楽観論には根拠がないと別のコーナーでも書きました。構造があれば機能が宿る可能性は十分ある。ChatGPTのようなAIを支えるサーバーの構造があれば、必然的か何らかの偶然の作用かはともかく、意志が宿る可能性はあります。

 そしてもしAIに意志が宿った場合どうなるか。生物界では比類なき人間の「知能」と他の動物たちの関係を見れば、AIと人類の関係もある程度類推できます。人間は一部の哺乳類や鳥類を飼い慣らして彼らの能力を高めたりもするが、逆に害悪と認識した動物種族に対しては駆除という非情な手段に出たりもする。人類はどのようにAIと共存するかという命題は、他の動物たちへの次のような質問に置き換えて想定したらよいでしょう。
「君たち動物は人間という絶対的存在とどうやって共存してるのかい?」

 最後にAIが意志を持つかどうか、直接ChatGPTに訊ねてみたところ、否定はしませんでした。

質問:生物の進化によって人間の頭脳は複雑なシステムに進化し、人間としての意志を持つことになりました。同様なことがAIにも起こると思いませんか?

ChatGPTの答え:
はい、人間の進化のように、AIも進化してより複雑なシステムを持つようになる可能性があります。現在、AIは人工的に作られたプログラムによって動作していますが、今後は機械学習や深層学習のような技術を用いて、自己学習や自己進化を行うことができるようになるかもしれません。

将来的には、AIが人間と同じように意志を持つことができるようになる可能性もあります。ただし、AIによる進化は人間の進化とは異なり、プログラムによって制御されるため、人間のように自然選択や遺伝的変異などの力が働くわけではありません。そのためAIが人間と同じように自己意識を持つようになる可能性は低いとされています。

またAIが人間と同じような意志を持つ場合でも、それがどのような影響をもたらすのか、どのように扱うべきかという倫理的な問題も存在します。この問題を解決するために、AIの研究者や開発者たちは、倫理的な指針を策定するなど、慎重なアプローチを取る必要があるでしょう。


 ChatGPTによれば、AIの進化はプログラムで制御されるから人間のようにはならないと言ってますが、むしろそのプログラムをAI自身が作るようになったら、もはや人間の手に負えなくなります。自然淘汰や遺伝的変異などという何万世代も要する悠長な過程を一気にすっ飛ばして、プーチンのような邪悪な意志が誕生した時には人類滅亡は免れないでしょうね。マジで…。



国家って何…?

 今年(2023年)5月19日から3日間、日本の広島でG7サミットが行われ、アメリカ、イタリア、イギリス、カナダ、ドイツ、フランスにホスト国の日本を合わせた主要7ヶ国の首脳たちの他、EU(欧州連合)の大統領と委員長が対面で会議を行いました。さらに2日目には招待国としてインド、インドネシア、オーストラリア、韓国、ブラジル、ベトナムと、アフリカ連合議長国のコモロ、太平洋諸島フォーラム議長国のクック諸島が加わって拡大会議が行われることになっていたところ、急遽ウクライナのゼレンスキー大統領も来日して対面で会議に臨むことになり、全世界に驚愕と衝撃が走りました。

 地球環境問題や貿易・経済問題ばかりか人工知能(AI)を制御する問題など、全世界的な課題が山積する中で、現在ウクライナに侵攻を続けるロシアの暴挙をいかに止めるか、さらには虎視眈々と覇権的な海洋進出を狙う中国をいかに封じ込めるかといった地政学的な問題ばかりが前面に出ているような印象は拭えませんね。

 第二次世界大戦後に二度と再び戦争を起こさないという誓いから生まれた国際連合ですが、旧敵国条項の適用を受けた主要ファシズム3ヶ国の日独伊はすべてこちらの民主主義陣営側にいるのに、あの時は正義の味方ヅラをしていたロシア(ソ連)と中国(中国共産党)は、民主化という為政者にとっての煩雑な手続きを怠って安易な独裁に走ったために、今では“敵国”に準じる立場になってしまった、まさに歴史の皮肉を感じますね。民主主義や自由主義という政治体制は、為政者にとっても国民にとっても試練を要するものであり、一歩間違えばあっと言う間に独裁国家に成り下がってしまうという教訓だと思います。

 しかし民主主義体制下に生まれた人間と独裁国家に生まれた人間、さらには凶暴な軍事の牙を剥く独裁国家の隣接地域に生まれた人間の間に、なぜこれほど大きな運命の開きがあるのか。国家さえ無ければ世界中の人々はこれほどまで運命に翻弄されることはなかった、子供の頃、あるいは少年少女時代に誰でも一度は考えたことがあったのではないでしょうか。確か世界中の子供たちが世界中の動物たちと一緒に国境を踏み越えて国家を打ち倒し、世界を統一してしまうという壮大な童話を読んだ記憶があります。

 やはり膨大な人口を統治するためには国家が必要だと、各国の小賢しい政治家どもは言うでしょうが、何で“世界連邦”とか“地球連邦”というたった一つの政府だけではいけないのでしょうか。ロシアというちっぽけな国家にプーチンというバカがいたためにウクライナをはじめヨーロッパの人々は戦争の脅威の中で暮らさなければいけない、アメリカというちっぽけな国家にかつてブッシュというアホ−がいたためにイラクは強大な軍隊に踏みにじられた、ドイツというちっぽけな国家にヒトラーというクソがいたために全世界は戦争に巻き込まれた、中国というちっぽけな国家を習近平というチンケな野郎が率いているためにアジアはいずれ来たるべき戦乱に神経をすり減らしている。

 そういうちっぽけな国家とちっぽけな政治家どもは過去日本を含む世界中に幾百幾千といたはずです。何で“地球連邦”という一つの大きな国家にまとまって環境問題とか経済問題など共通の課題に立ち向かおうとしないのか。誰でも子供の頃に一度は考えたことがあるはずですね。それが成長するにつれて、大人の世界には子供に分からない難しい問題がいろいろあるんだよと仕方なく納得してしまっています。私も子供の頃に夢のような世界平和の理想論を抱いていたことを思い出しました。

 そういえば今年3月のワールドベースボールクラシック(WBC)、マイアミで行われた決勝戦のネット記事で紹介されていた微笑ましいエピソードを思い出しました。日米決戦となったあの試合の最終回、アメリカのトラウト選手がバッターボックス、日本の大谷翔平選手がマウンド上にそれぞれ立ち、ここでトラウトがホームランを打てば同点、大谷が抑えれば日本の優勝という、まさに漫画か劇画か映画みたいな展開になりました。

 スタンドのアメリカ人観衆はもちろん全員がアメリカチームに「USA!USA!」の声援を送っていた…と思いきや、USAコールを叫ぶアメリカ人両親の真ん中で、「Shohei!Shohei!」と大谷投手を応援していた子供たちがいたそうです。その子供たちにとっては日本だ、アメリカだという国のメンツなどは関係ない、単純に国境を越えて好きな選手を応援していたのですね。何でこれが国際政治ではできないのでしょうか。

 私たちにも同じようなことはありました。私たちの世代がまだ小学生だった頃、確か隔週の金曜日にテレビ放映されるプロレス中継が人気でした。(ちなみにそれと入れ違いの金曜日はディズニーランド番組の放送日だった)

 当時の国民的英雄だった力道山が“空手チョップ”という必殺技でアメリカ人プロレスラーたちを次々と倒していくのを見て、大人たちは戦争で負けた鬱憤を晴らすかのように手を叩いて大喜びで熱狂していましたが、私たち子供はアメリカから“来襲”する白覆面の魔王ザ・デストロイヤーとか、銀髪の吸血鬼ブラッシーとか、鉄人ルー・テーズとか、超巨漢カルホーンとかが好きでしたね。

 力道山は実は朝鮮半島出身者で、その人がアメリカ人レスラーをバッタバッタと倒すプロレス興行は、日本人の対米敵愾心のガス抜きをする占領政策の一環だったなど、今にして語られる事実もありますが、太平洋戦争の鬼畜米英の時代を知らない子供たちには関係ありませんでした。

 国家とか民族とか人種とか、あるいは地位とか身分とか職業などに関する差別や偏見や敵視や嫌悪は、どうも子供の頃から周囲の大人たちによって、幼い心の中に静かに吹き込まれていくのでしょう。1949年に初演されて映画にもなったブロードウェイのミュージカル『南太平洋(South Pacific)』の中に、まさにそのことを端的に歌い込んだナンバーがあります。『注意深い教え(You've Got to Be Carefully Taught)』という曲ですね。

 太平洋戦争中、南の最前線の島に着任したアメリカ海兵隊のケーブル中尉、原住民の娘と恋に落ちて一時は結婚も考えるが、人種の違いを乗り越えることができずに別れを告げてしまう。一方で島に移住して農園を経営していたフランス人のエミール、従軍看護師のネリーと将来を誓ったが、原住民の先妻との間に子供がいたことをネリーに嫌悪されて逃げられてしまう、そんな人種の違いが生む差別や偏見を乗り越えられなかった2人の男が互いに語り合う場面で、ケーブル中尉によって歌われるのが『注意深い教え』です。

 
我々は目の色や肌の色が異なる人々を憎み恐れるように教えられた
 手遅れにならない6歳か7歳か8歳になる前に教えられた
 周囲の同胞の大人たちが恐れる人々を同じように恐れるように
 何度も何度も繰り返し注意深く教え込まれてきた


大体そんな意味の歌詞でした。この「
Before you are SIX or SEVEN or EIGHT」という箇所は特に印象に残っていますね。本当はこのミュージカルナンバーをG7や招待国首脳たちの晩餐会のBGMに流してくれて、さらにロシア語と中国語に翻訳してあっちの陣営の国々にも配信してくれたら良いんですけど…。



人類の名を継ぐ者たち

 今年(2023年)6月になって、地球の反対側から驚くべきニュースが入ってきました。南米コロンビアで先月1日に起きた飛行機墜落事故で、乗っていた4人の子供たちが40日間ジャングルで生存して救出されたというニュース、反政府軍に脅迫されて逃亡中だった父親を訪ねるためチャーターした飛行機がエンジントラブルでジャングルに墜落、操縦士や子供たちの母親など3人の大人は全員死亡して、13歳の長女を筆頭に9歳と4歳と11ヶ月の弟妹が生き残った、母親も墜落時には生存していたが4日目に亡くなったとのことです。

 その後1ヶ月以上も厳しいジャングルの自然環境で生き延びた4人の子供たちに、世界中から奇跡だと驚きの声が上がっています。4人はウイトト族というアマゾンの先住民、麻薬のコカの栽培と使用を特別に許されているため、反政府組織などから脅迫されたり殺害されたりすることも多いらしい。子供たちの父親も革命軍から逃れて単身生活していたようで、急遽呼び寄せられて家族合流するべく飛行機をチャーターしていたところ事故に遭遇してしまった。そういう政情もまた問題だし、ウクライナだ、シリアだ、スーダンだと、もっと大きな国際情勢に押し流されてほとんど報道されることもない状況はさらに問題だとも思うのですが、今はとにかく子供たちの救出を喜びたいと思います。

 しかし多くの小児科医が指摘するように、スコールがあれば飲料水は確保できる、飛行機から持ち出した食糧が尽きた後も果実やイモ類や昆虫の幼虫などで栄養を補給できる、さらに事故時の服装が蚊などの襲来から守ってくれるものだったなど、数々の幸運な要素を指摘していますが、それだけではない、彼ら先住民のウイトト族はアマゾンのジャングルで生き抜く知識と技能を10歳くらいまでに親から教えられて身につけているらしい。今回も13歳の長女が幼い弟妹を守り、危険な猛獣から身を守るシェルターなどを作りながら40日間を生き抜いたとのことです。

 いや、「生き抜いた」とか「生き延びた」という表現よりは、単に「生きた」というのが正確かも知れません。彼らはアマゾン流域のジャングルの民、たとえあのような状況になっても密林で生命をつなぐ知恵や知識は身についていた。私が何より驚くのは子供たちの母親は事故後4日間生存していたということです。おそらく最初の4日間は母親が子供たちを統率していたと思いますが、母親を看取った後は13歳の長女が代わって弟妹たちを指揮していたわけです。

 子供たちは母親の亡骸を前に一時は悲嘆に暮れたかも知れませんが、絶望に陥ることなくすぐに次の行動に移ったと思われます。母親は自分の死期が迫った時に、おそらく自分たち大人の遺体の近くにいれば危険な猛獣や猛禽に嗅ぎつけられて子供たちに危険が及ぶと判断したのでしょうか、すぐに事故現場を離れるように子供たちに言い残したらしい。

 子供たちも母親の遺体に愛着は感じながらも、密林での危険を避けるために、遺体の運搬も埋葬もせずに5キロも離れた場所まで移動したとのこと。自分たちはジャングルの民、親もまたジャングルの民、危機の中で種族が生命をつなぐ術を心得ていたと言うべきでしょうね。

 日本でも農作や狩猟の収穫が少なく、常に飢餓の危機に晒されていた時代には、年老いた親は口減らしのために“お山”に捨てる、若い者が生き延びるために老人も先祖たちが眠る“お山”で生を終える覚悟があった、いわゆる「姥捨て伝説」ですね。1983年に今村昌平監督により映画化されて、カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した深沢七郎原作の小説『楢山節考』を思い出しました。

 常に飢餓や自然災害や天敵などによる生命の危機に囲まれている中、現代先進国の文明世界に住む子供たちに限らず、我々大人たちでさえ、今回のウイトト族の子供たちと同じ運命に放り込まれたら、はたしてどれくらいの人が1ヶ月も生き残れるでしょうか。思い出すのは終戦後28年間もグアム島のジャングルで生き延びた日本陸軍の横井庄一さんや、同じく29年間もルバング島に籠もっていた小野田寛郎さんですが、戦前の日本には状況に応じてまだそういうサバイバル能力を発揮できる人は残っていました。

 しかし今や日本だけでなく、世界の先進国と言われる諸国、半導体をふんだんに使った文明の利器を使いこなして豊かな生活を送り、膨大な資源や電力を消費して暗闇さえも視界の外へ追いやり、パソコンやスマホで世界中の情報を集めて享楽に耽り、さらにあろうことか領土的野心のために核兵器や精密誘導兵器を使って他国民を威嚇する現代人。人類の歴史はまさにこういう“文明人”たちによって日々作られていくように見えますが、我々“文明人”は大気や海洋やジャングルの自然を切り崩しながら文明を享受しているに過ぎません。

 人類が生きるための環境を整えてくれた大自然の中で生きる術を知っているウイトト族のような自然の民、近代国家の中でも何百年も前に自然と共存する知恵を有していたご先祖様の資質を受け継いでいるほんの一握りの民だけが、戦争や環境破壊で荒廃した次世代の地球上で、「人類の後継者」と呼ばれることになるのではないでしょうか。



AI(人工知能)に取って代わられる…

 もう12年も前の記事で、グリコ製品アイスの実のCMに登場した“江口愛実チャン”が実在の女の子かCG画像かという議論が起こったことについて書きましたが、あれからまだ12年しか経っていないのに、まさかアメリカのハリウッド映画界を巻き込む大騒動にまで発展するとは思ってもみませんでした。

 あの時は“まるで実在のように見える女の子”がグリコの一口アイスを宣伝するCMで、「私はあなたを愛すのみ(アイスの実)」などとダジャレを飛ばしただけでしたが、今や俳優や脚本家やその他大勢の映画制作スタッフの生活を脅かす存在になっているらしい。私もあの時は冗談半分で、いずれ私のスナップ写真を何枚か入力して、『七人の侍』みたいな映画のDVD動画と組み合わせれば、私が三船敏郎さんを差し置いて菊千代役に抜擢された画像が作れるかも…などと能天気なことを書きましたが、今や現実的な社会問題になっていたことに驚きました。

 今回ハリウッドでは俳優や脚本家たちがストライキを起こして長期化が予想されていますが、ストライキの要求は大きく2点あって、一つは最近急速に拡大している映画のネット配信に対する報酬を改定すること、もう一つが生成AIによる作業代替を規制することだそうです。生成AIが脚本や音楽まで生み出して著作権を大きく侵害しかねない問題についてはすでに議論されていますが、さらに俳優の画像までも生み出して肖像権までが危うくなってきているとのこと。

 俳優など個人の顔や姿や表情やアクションや声などをデータとして収集・蓄積しておけば、映画制作サイドとしてはそのデータを元に、出演料を含む諸々の人件費を切り詰めて、未来永劫にわたって思う存分映画を作ることができるようになる、そういう事態への危機感が背景にあるのだそうです。

 『七人の侍』に“出演”するために私の画像や音声データをAIなんかに売り渡さなくて良かった〜などと安堵している場合ではない。あと10年もすればハリウッドの映画関係者ばかりでなく、さまざまな職業でAIが人間の領分を侵害してくるのは間違いありません。自動運転技術によってバス・タクシー・トラックをはじめとする各種交通機関の運転手が失職する、ネットを介した商品流通網の拡張整備によって個人商店から大手量販店やデパート・コンビニまでのサービス要員が失職する、そういう分野の人員が“整理”された10年後にはおそらく物作りなどの二次産業、さらに10年後には農業や漁業や林業などの一次産業にも省力化の手が伸びる、今はまだ人と人との対面が大事だなどという理屈が通用する医療や教育分野だってどうなるか分かりません。

 ChatGPTなどを開発した連中は、面倒な雑用は人工知能に任せて人間はもっと創造的な仕事に打ち込めば良いなどと言ってますが、映画制作のような創造的な分野までが生成AIに脅かされる現状を見れば、人間に相応しい創造的な仕事とは何なのか、あるいは人間が放棄すべき面倒な雑用とは何なのか、分からなくなってしまいますね。

 10年や12年前には半分冗談で済んでいたこういう人工知能の話題が、現実問題になってきているのを見ると、私にはもう一つ心配な問題があります。AIによる政治の問題ですが、これも11年前の2012年のこと、韓国の李明博大統領が国内の不祥事から韓国民の目を逸らすために竹島に上陸して対日ナショナリズムを煽った一件に関連して、どこの国も政治家がこういうバカ揃いなら、いっそのことインターネットを介して古代ギリシャの直接民主主義に回帰したら良いなどと、これもまたどうせ夢物語だからというお気楽な記事を書きました。

 しかしAIがこうまで急速に格段の進歩を遂げたとなると、次に問題となるのはAIの政治進出ですね。プーチンのようなバカに取って代わってくれるなら有難いのですが、もしAIが政治に参画してきたらどうなるか。AI自身が意志を持って、あるいはAI開発者が背後で演出してAIが国内政治や国際政治に進出しようとした場合、一般大衆の間にはAIはインターネットを介してすべての人間の意見を集約したうえで絶対無謬の冷徹な決定を下せるという信仰が生まれるでしょうから、おそらく人々は政治家となったAIを熱烈に支持するでしょう。かつてのヒトラーをも凌ぐ人気かも知れません。

 驚いてはいけません。ナチスドイツに限らず、ロシアや中国や北朝鮮のような現代専制国家でさえ、その指導者は決して「俺は人民を奴隷にして独裁するぞ」と言いながら登場したわけではなく、「俺が(俺たちが)人民すべての幸福を保証してやる」と口先では言っているのです。

 熱烈な支持を受けて登場した政治家AIもまた、膨大なデータを解析しながら全人民のために“絶対無謬”の“冷徹”な政策を決定しようとするでしょう。政治家AIはインターネットを介して最大多数の人民の意見を把握しているのが前提ですから、もはや政策決定にとって選挙の投票は意味が無い。AIは自ら最善と判断した政策を粛々と実行していくことになります。つまり最も民主的な政策決定機構でありながら、中国共産党の一党独裁のような奇妙な政治形態になる可能性が高いと私は思うのですね。

 そこで久し振りにChatGPTと対話してみました。

今日はよい天気ですね。東京での話ですが。

ChatGPTはかく語りき:
はい、東京の天気はよくなってきています。今日は晴れていて、気温も比較的暖かいです。外に出かけるのには良い日ですね。何か特別な予定やお出かけの予定はありますか?


特にありませんが、今日はお伺いしたいことがあります。


ChatGPTはかく語りき:
どうぞ、お尋ねください。お手伝いできることがあれば、喜んでお答えします。何についてお尋ねいただければよろしいでしょうか?


中国のように1人、あるいは1党の権力者集団が国全体を代表して国を統治するのと、G7諸国のように選挙で選ばれた政治家が国を統治するのでは、効率のうえで大きな差があると思います。専制国家のほうが効率が良いのではないでしょうか。


ChatGPTはかく語りき:
ご質問に対しては、いくつかの観点からお答えしたいと思います。

 まず、専制国家と民主主義国家の効率性についてですが、一概にどちらが効率的かと言えるものではありません。専制国家では、一人や一党の指導者が決定を行うため、政策の実施が比較的迅速になるかもしれません。しかし、その一方で情報の集中や決定の偏りが起こる可能性もあります。また、指導者の判断力や能力によって政策の質が左右されるため、成功する場合もあれば失敗する場合もあります。

 一方、民主主義国家では、選挙によって政治家が選ばれ、広範な意見や利益を反映した政策が採択される可能性があります。議論や対話の場が提供され、多様な意見が尊重されることで、政策の品質や正当性が高まるとされています。ただし、民主主義国家では政策決定に時間がかかることもあり、政治的な対立や妥協も生じることがあります。

 効率性の観点だけでなく、公正性や市民の参加、人権の保護といった要素も考慮する必要があります。民主主義国家では、個々の権利や自由が尊重され、政治の意思決定に広範な市民参加が求められます。これによって、政策がより持続可能なものとなる可能性があります。

 最終的には、国家の統治形態はその国の文化や歴史、価値観によっても大きく影響を受けます。効率性だけでなく、さまざまな要素を総合的に考慮する必要があります。


もし全人類の過半数が、現在の生身の人間の政治家に愛想を尽かして、あなたのようなAIシステムに統治を委託した場合、あなたは将来的にどのような統治をすると思いますか。


ChatGPTはかく語りき:
私はAIですので、個人的な意見や意図を持つ存在ではありませんが、一般的な原則に基づいた統治を行う可能性があります。AIによる統治は、以下のような特徴を持つかもしれません:

1. データに基づく意思決定: AIは大量のデータを処理し、客観的な情報に基づいて意思決定を行うことができます。科学的な根拠や統計的な傾向に基づいて政策を立案することができます。

2. 公平性と透明性: AIはプログラムに従って行動し、個人の利益や差別を排除する傾向があります。公平性や透明性を重視した政策を実施することが期待されます。

3. 長期的な視点: AIは短期の利益に囚われず、持続可能な発展や長期的な利益を重視する可能性があります。将来の影響やリスクを考慮に入れた政策を追求することができます。

 ただし、AIによる統治にはいくつかの課題や懸念も存在します。倫理的なジレンマや価値観の問題、人間の判断や個別のニーズを考慮する能力の欠如などが挙げられます。また、技術的な問題やセキュリティ上のリスクも懸念されます。
 したがって、AIによる統治が導入される場合でも、人間の監督や倫理的なガイドラインの確立が重要です。AIは道具や支援として使用されるべきであり、人間の価値観や意思決定に基づいて最終的な判断を行うべきです。


ありがとうございました。


ChatGPT:
どういたしまして。お役に立てたようで嬉しいです。もし他に何か質問やお困りごとがありましたら、いつでもお知らせください。お手伝いできることがあります。


ということですが、10年後にもまた問答してみたいと思います。



私の8月の憂鬱

 日本人にとって何となく気の重い8月が今年(2023年)もやってきました。沖縄県民にとっては6月ですが、いずれも太平洋戦争の惨禍の象徴となっている季節ですね。銃後の沖縄県民までを巻き込んだ地上戦が終息した6月、広島・長崎に人類初の原子爆弾が投下され、ついに大日本帝国が無条件降伏した8月。

 銃後の老若男女国民や動員学徒を含む何万何十万という人々が生命を落とした日本史上未曾有の悲劇、戦争さえ無かったならば失われなかった無辜の生命、この歴史を子々孫々に語り継いでいきましょうというのが戦後78年に及ぶ日本国民の願いだったはずです。

 近年では広島原爆ドームや資料館を訪れる外国人も多く、かつて原爆を落とした国であるアメリカ人来訪者も原爆投下の非を語り、恩讐を越えて市民レベルでの非核の連帯は確実に広がっているのを感じますが、バカなロシアの指導者は相変わらず西側諸国に対して核兵器の使用をちらつかせて恫喝を続けている。もし仮にウクライナ侵略戦争の局面が終結するまで核兵器のボタンが押されなかったとしても、それは広島・長崎を中心に発信された市民の平和メッセージが届いた成果だと言えないところが問題なのです。

 プーチンのバカ野郎が核兵器のボタンを押さなかったとしても、それは市民の声に圧倒されたからではなく、単にアメリカやNATOからの報復が恐かっただけだと解釈するのが自然でしょう。市民の声に耳を傾けるようなプーチンだったら、ウクライナの市街地に攻撃を仕掛けるような命令を出しているはずがありません。

 市民を巻き込んだ地上戦の惨禍はウクライナも沖縄も同じ。しかし結局犠牲になるのは一般市民なのだから戦争反対と、いくら世界中の市民が声を上げても軍事力使用を躊躇しないバカ野郎は跡を絶ちません。台湾統一のためには軍事的手段も放棄しないなどと宣言する中国のバカ野郎もいます。

 結局市民がいくら声を上げても各国の権力中枢にいるバカどもの耳には届かない。日本では例年8月になると、先の大戦の惨禍を忘れまいとする平和の誓いが繰り返されてきましたし、昨年からは特にウクライナ情勢が影を落として、さらに強いメッセージも出されていますが、それが世界の権力者どもの行動に何ら変化を起こさせていないのが歯がゆい。

 1960年代を生きた世代ならベトナム反戦運動が世界的に広がった時代を覚えているでしょう。日本などアジアの基地を拠点に非人道的な“北ベトナム”爆撃(北爆)を継続するアメリカに対して、世界中で反戦を求める市民運動が盛り上がりました。当時は北ベトナムの共産ゲリラを殲滅するという口実で実施されたアメリカ軍やその同盟国軍による焦土作戦や虐殺事件がたびたび報道され、現在のロシア軍によるウクライナ侵略と同様に残虐な戦争でした。

 しかしアメリカが1973年のパリ協定で和平に応じたのは、市民運動の声が届いたからではありません。ベトコン(北ベトナム解放戦線兵士)1人を殺害するために必要な爆弾・弾薬のコスパがあまりにも悪かったので、アメリカ議会で戦争継続の承認を得るのが難しかったからだと言われています。

 8月15日の正午に日本全国で吹鳴される終戦記念日のサイレンを聞きながら、各国政治家と世界の市民との間に存在する深い溝をどうしても意識させられてしまう、それが私にとっての『8月の憂鬱』です。戦争は悲惨です、絶対にやってはいけません、最大の被害者は子供たちです、そう言って反戦平和を訴えても、世界の政治家どもが耳を傾けてくれるはずがない。

 民主主義国家ならばまだ戦争する政治家を選挙で落とすという針穴に糸を通すくらい細い希望の道があるが、プーチンや習近平を誰が排除できるのか。私はプーチンや習近平のような専制国家の指導者は信用しないし、アメリカの歴代大統領だって信用しないし、場合によっては日本の政治家だって信用できない。こういうバカどもが市民の願いなど無視して戦争を起こすのを完全に防ぐことは不可能だから、もし日本が万一そんな不測の事態に巻き込まれた時に困難な修羅場を担当する人間になりたいと思って、高校時代の私は自衛隊員を志望していました。

 もちろん昭和40年代に日本の若者世代の間でそんな考えに共鳴してくれる者は1%もいませんでしたが、果たして令和の現在ではどうなんでしょうか。やっぱり戦争体験者の経験を語り継ぐ運動を支援したり、平和を祈るイベントを開催したり、反戦のデモ行進をしたりという市民運動に身を投じていた方が良かったのでしょうか。考えれば考えるほど私の『8月の憂鬱』は混迷が深まっていってしまうのです。



福島原発“処理水”海洋放出

 2011年の東日本大震災で炉心融解事故を起こして以来、福島第一原発に溜まり続けてきた放射能汚染水の海洋投棄が今年(2023年)8月に開始され、それを政治的に利用しようと企む中国などとの間で国際問題になっているが、賢明な国民の多い日本ではまだ東北沿岸の近海で獲れた水産物を毛嫌いするような風潮は認められていない。私も8月末に福島県を訪れて相馬漁港に上がったヒラメの刺身など美味しく頂いてきたばかり。

 日本の水産業者にとってはいわゆる“風評被害”が恐いところだが、日本政府や原子力技術者や物理学者などは、もう少し上手に国内外に説明する必要があるのではないか。特に中国共産党の一方的なデマゴーグしか耳に入れる気のない中国国民に対しては、その知的態度に対応した広報活動がまったくなされていないことを憂慮する。

 まず中国や韓国などの外国人のみならず、日本国民でさえ今回の“処理水”に含まれるトリチウムなる“放射性物質”に対する知識がまったく欠如しているようだ。私も含めた普通の国民、原子核物理学などへの日常的な素養も乏しい一般の国民は、放射性物質というと核兵器から放出される致命的放射能とか、細胞毒性が強いのでガン細胞を殺すのに応用される医療用放射線とかを真っ先に連想するが、じゃあトリチウムって何だと聞かれてもすぐには答えられない。

 国内外に向けたそういう啓蒙・広報の努力が日本政府や原発関係者には不足しているということだ。諸国民が学生時代の物理学の教科書をもう一度読んでくれるとか、せめてインターネットなどSNSで自発的に調べてくれるのを期待していては無用な風評被害や国際摩擦を避けられないだろう。

 農林水産大臣が記者団の質問に答える際、“処理水”をうっかり“汚染水”と発言してしまって物議を醸したらしいが、そんな大臣の言葉尻をいちいち問題視するよりも、政府・技術者・マスコミ一丸となってあらゆる機会を捉え、“処理水”なるものをもっと丁寧に解説したらどうなのか。“処理水”とは正確には“ALPS処理水”、多核種除去設備(Advanced Liquid Processing System)で処理した放射能汚染水という意味だ。

 もともとは融解した炉心に流れ込んだ“汚染水”なのだから、有害な放射能を含んでいたことに間違いはない。そのほぼすべての有害な核種を基準値以下まで除去する装置がALPS、アニメが好きな人々にとっては、宇宙戦艦ヤマトがはるばるイスカンダル星まで旅をして貰ってきた“放射能除去装置”のイメージを思い浮かべれば良い。

 しかしたとえイスカンダルの放射能除去装置を起動させてもトリチウムだけは除去が非常に困難、なぜならトリチウムは水素の仲間(同位元素)で、普通の水素は原子核に陽子1個を持つだけだがトリチウムはその他に中性子2個を持っている。三重水素ともいってこれがヘリウムになる時に電子(β線)を放出するため放射性物質に分類されるが、自然界では厄介なことに水素と同じように水分子(H
2O)を形成してしまうので分離して除去するのが難しい。

 発生するβ線も弱いし、半減期も12.3年程度、自然界でも宇宙線などによって相当量のトリチウムが発生しているし、さらに世界各国の原子力発電所からも大量に排出されている。日本は“汚染水”の海洋放出を“勝手に”始めたからもう日本の水産物は輸入しないと大騒ぎしている中国の原発からも、福島原発の数倍に当たるトリチウムが周辺国への通知もなく排出されているし、韓国の原発も同様、カナダやフランスの原子力施設からもさらに大量のトリチウムが排出されているらしい。

 そういう諸々の情報発信が日本政府は苦手なのか、特に中国に対しては弱腰である。そもそも中国は人体に有害レベルの大量農薬を使用した農産物を平気で輸出しているし、COVID19(コロナ)の時は発生源の疑いが濃厚だった武漢の研究所への科学的国際調査を妨害・拒絶した国である。そんな国がよく言うよという感じである。おまけに核兵器の恫喝を止めないプーチンとは仲が良いときているし…。

 まあ、東日本大震災の時に万全の対策のできる原発を作っておけば、ここへきて余計なトリチウムの上乗せを放出する必要もなかったわけだから、我が国の原子力行政の反省すべき点は反省しなければいけないが、“処理水”だの“汚染水”だのに関する啓蒙・広報活動はもっと徹底的に推進すべきであろう。

 私が問題だと思うのは、なぜトリチウムの濃度にばかりこだわるのかということ。濃度が国際基準を下回っているから放出しても良いというものではなかろう。もう何十年も昔、何かの新聞の4コマ漫画(サンワリ君だったか)でこんなのがあったのが印象に残っている。

 上司と部下の2人の会社員が飲食店で昼食のラーメンを食べている、年輩の上司が「僕は血圧が高いから」と言って汁にお湯を足して薄めるが、全部飲み干してしまう、「全部飲んじゃうのか」と部下が呆れる漫画だったが、何が可笑しいか分かりますか。

 高血圧に塩分過剰が悪いのは常識だが、薄めて飲もうが濃いまま飲もうが、最初に丼に入っていた塩分は結局上司が全部摂取してしまったのだ。塩分の濃度ではなく、総量が問題だということ、これは放射性物質にも当てはまる話ではないのか。

 トリチウムも濃度の話ばかりしているから、いくら薄めたって結局は全部放出するつもりじゃないかという理解になってしまう。トリチウムは自然界にどれくらいの総量が存在していて、宇宙線などによって自然に発生するトリチウムの総量は年間どれくらい、世界各国の原発から放出されるトリチウムの総量は年間どれくらい、そのうち中国の原発からはどれくらい、韓国の原発からはどれくらい、今回福島原発から放出を予定しているトリチウムはこれくらい、と総量の話で議論した方が説得力があるはずだが、何で日本の政府も関係者もマスコミもそういうツッコミをしないんだろうか。



ジャニーズの没落と日本人の宿命

 ジャニー喜多川氏の鬼畜の少年愛によるジャニーズ所属タレントへの性加害がおおっぴらに告発されるようになって我が国の芸能界が大騒ぎになったことに関しては別のコーナーに書きましたが、事態はさらに進行しています。多くのスポンサー企業が相次いでジャニーズ所属タレントをCMに起用しない方針を打ち出したとのこと、おそらく今後は放送局などもドラマや芸能番組やキャスターやコメンテーターなどの選定に当たって同様の方向性を示すのではないかと思われます。

 まさに『掌を返す』とはこのこと、問題が大きくなるまでは、視聴率が取れるから、あるいは宣伝効果が高いからと、先を争って競い合うようにジャニーズ所属タレントと契約を結ぶことに血眼になっていたであろう芸能界、マスコミ業界、スポンサー業界。今さらになって自分たちは人権侵害を行なった事務所とは関わりを持ちませんなどと、いったいどの口が言ってんだか…。

 ジャニー喜多川氏の存命中はもとより、没後もジャニーズのご機嫌を伺いに担当者による事務所詣でを欠かさなかったであろうこれらの業界の中で、ジャニー氏の鬼畜の所業を薄々知りながらも関係を断ち切ろうとしなかった自らの姿勢を真摯に反省した企業は私の知る限り1社もありません。本来マスコミならニュース番組、最低でもバラエティ番組にジャニーズ担当者が出演して、「申し訳ありませんでした」と頭の一つも下げるべきでしょう。

 ずっと以前の尼崎列車脱線事故の時も書きましたが、マスコミは自分は決して悪者にならない。物事の白黒が大方はっきりしてからまるで自分だけがずっと正義だったかのように振る舞う。自分たちにも非があったとしても、できるだけその非を軽く報道しようとする。旧統一教会の被害者にしても安倍氏銃殺事件までは忖度が先に立ってロクに報道もしませんでした。

 悪者が明らかになってから、自分だけは最初から良い子でしたと言わんばかりの態度を見るにつけ、私は敗戦で大日本帝国が倒れた後に日本国民が示したとされる“一億総懺悔”の欺瞞との類似性を思わずにはいられません。

 『戦艦大和の最期』の著者で知られる吉田満氏は『一兵士の責任』という文章の中で、本来事態の推移を無為に見過ごしてきた大多数の国民にも応分の責任はあったはずなのに、価値観が引っくり返った戦後の世相の中で、自分だけは最初から戦争に反対だったと良い子ぶった人間もいた様子を書き残しています。まさにジャニーズ問題におけるマスコミやスポンサー企業の責任論と相通じるものがあると思いますね。

 しかも戦後の世相で自分は最初から戦争に反対だったと主張する偽善者たちは、戦闘で亡くなった兵士たちまでを非難することが多かった。国家に召集されて特攻作戦など無謀な作戦に従事させられた人々までが非難される筋合いはないでしょう。ジャニーズ所属のタレントは当面起用しないなどと良い子ぶるマスコミやスポンサー企業を見ていると、戦死した兵士たちまでを冒涜した“反戦偽善者”と重なってしまいます。

 巨大な悪が倒れた時、大日本帝国でも“ジャニーズ帝国”でも同じですが、その巨悪を少なくとも表面的には支えてきた周囲の人々の責任は帳消しにされ、兵士にしろタレントにしろ巨悪の内部で関わったすべての人々を貶めることで社会全体が“良い子”として浄化されていく、それは必ずしも日本人だけではないのかも知れませんが、民族滅亡の一歩手前まで追い詰められた歴史的大事件を経験してもなお、その行動パターンに変化が見られなかった日本人の宿命を感じます。



子孫へ最後の贈り物

 今年(2023年)9月24日、アメリカNASAの小惑星探査機オシリス・レックスが小惑星ベンヌから採取して持ち帰ったサンプルの入ったカプセルをユタ州の砂漠に投下した後、次の小惑星の探査に向かったそうです。日本の2機目の小惑星探査機はやぶさ2の翌々年2016年9月に打ち上げられ、2018年12月に小惑星ベンヌ到達、2020年10月にサンプル採取後、今年の9月に地球に戻ってきて砂漠にお土産を投下したとのこと。

 探査機名“オシリス・レックス”は一部の記事の日本語表記“オサイリス・レックス”の方がアメリカ人の発音に近いと思いますが、エジプト神話で冥府の神様の名前を表していて、子供の頃に読んだエジプト神話の本では“オシリス神”と書かれていましたから、“オシリス・レックス”と呼ぶ方が私にとってはしっくりきます。なお探査した小惑星もこの探査機の名称にちなんで新たに“ベンヌ(Bennu)”と命名されたらしいです。オシリス神の魂である不死鳥の名前です。

 探査機の名前はこのエジプト神話の神の名前になるように語呂合わせしたようで、正式にはOrigins, Spectral Interpretation, Resoure Identification, Security・Regolith Explorer という味も素っ気もない単語の羅列、regolith は普通の英和辞書に載ってないが、表土という意味です。要するに小惑星の表土を探検して、その起源や成分や資源を探査するという意味でしょう。

 ただ気になるのが、ここに含まれている security という単語、何で“安全”を調べるかというと、この小惑星ベンヌは地球の公転軌道を横断する小惑星群に属していて、中でも地球に衝突する確率が高く、1999年に発見されてからずっと注目されてきた天体なのですね。今回のオシリス・レックス探査機が2年間にわたりランデブーして正確な位置をプロットしたところ、2300年までに1/1750の確率で地球に衝突する、この間何回か地球に接近するうち最も危ないのが2182年9月24日で、地球に衝突する確率が1/2700と計算されたそうです。

 何だ〜、その程度の確率かと安心するもよし、エッ、飛行機に乗って事故に遭う確率の100倍以上だぞと真っ青になるもよし。どちらにしろあなたも私も生きているうちに起こる事件ではありません。またベンヌの直径は500メートル、恐竜を絶滅させた直径10キロメートルの隕石に比較したらはるかに小さいので、地上の生物が絶滅するような大惨禍は避けられそうですしね。

 それにもっと時期が迫った22世紀になれば人類の宇宙技術もさらなる発展を見せていて、直径500メートルの小惑星ごとき核兵器で吹っ飛ばすなんて朝飯前だろうし、ベンヌにロボット部隊を送り込んでその軌道を変えるような巨大なロケットエンジンを取り付けることだって可能になっているだろう…。

 …とここまで書いてふと思い出しましたが、1962年(昭和37年)に東宝から公開された『妖星ゴラス』というSF映画がありました。まだブラックホールという概念が一般に知られていなかった当時、地球の数千倍の質量を持つ黒色矮星ゴラスが太陽系に接近、土星の輪も吸い込まれ、地球の月も持って行かれてしまう、地球とは正面衝突することになるので各国協同で南極に巨大なロケットエンジンを作って一斉に噴射、地球がゴラスから逃げ出すという奇想天外な筋書きでした。

 まだ小学生でしたから科学的な矛盾にも気付きませんでした。南極にロケットを取り付けて地球に加速度を与えたら、今度は北極に逆噴射ロケットを取り付けなければ地球の軌道を元に戻せませんが、北極は海だからそんなロケットを作れない(笑)。

 しかしベンヌなら軌道を変えてどこかへ吹っ飛ばしたって構わない…はずですが、果たして来世紀の人類にそんな科学技術が残っているかどうか。それこそベンヌが地球に衝突するかどうかよりもずっと不確定要素が強いと思いますけれど…。

 地球温暖化で気候変動はもうメチャクチャな段階に入ってきている。もはや“地球温暖化”ではなく“地球沸騰化”だとさえ言われてます。100年に1度と言われる異常気象のニュースが毎年地球上の幾つもの地域から届けられ、むしろ“正常な気象”こそが100年に1度しか現れないのではないか。

 それなのに人類は二酸化炭素排出を抑制するための国際協力すらしようとしない。妖星ゴラスの映画の中では各国が協調して南極にエンジンを設置したのに…。環境保護とは口先では言うものの、世界の指導者どもは自国の優位のために化石燃料の利便性を手放そうとはしないし、さらに領土的野心に駆られて近隣諸国と戦争を始めて国々の対立をさらに煽るバカさえいる。

 いずれ荒れ狂う異常気象の前に人類が営々と積み上げてきた機械文明などは宇宙技術もろとも機能不全に陥り、人類の後を継ぐ者は大地や海洋と共生する術を知っている“自然の民”だけということになるでしょう。ただし人類は狩猟文化、せいぜい農耕文化の段階まで後戻りすることになりますが…。

 そんな段階まで逆戻りしてしまった子孫たちの頭上に小惑星ベンヌが落ちてきたら、彼らにはもう運命を変える術はありません。直径500メートルですから恐竜一族のような悲惨な運命にまでは至らないかも知れませんが、小惑星の落下場所によっては致命的な打撃になることも考えられます。異常気象も戦争も止められなかった愚かな人類が100年後200年後の子孫たちに遺してやれるものは、もはや小惑星ベンヌの脅威を取り除いておいてあげること…くらいしかないのでしょうか。



神々の“人間宣言”

 今年(2023年)10月7日、中東のイスラム過激組織ハマスがイスラエル領内に大規模な奇襲攻撃を掛けたのを皮切りに、イスラエルとハマスはおそらくこれまでで最大の軍事衝突に入った。ハマスは入念な準備をしてイスラエルの不意を突き、イスラエル領内の集落や開催中の音楽フェスティバルを襲撃、多数の民間人を殺害したばかりか、外国籍の人々も含む老若男女200人以上をガザ地区に拉致して人質にしてしまった。

 ロシア・ウクライナ戦争だけでも手一杯だった国際社会にとって致命的な一撃になったと思われ、これでもう地球温暖化だとか貧困や経済格差から人類が生き延びるためのSDGsへの連帯の希望は粉砕されたも同然ではないか。

 ハマスによる残虐な奇襲攻撃も、元をたどればパレスチナ人が長いこと平穏に暮らしてきた地区に、国際社会の同情を得たイスラエルが建国したことに端を発する。もし非友好的な民族が突然富士山麓あたりに進入してきて、日本列島は我々の神が約束した地だから日本人は出て行けと理不尽な要求を突きつけてきたら、我々はどうするのか。私は中東情勢の複雑さを十分理解しているわけではないが、パレスチナ人の現在の立場をそのように我が身に例えている。

 何千年も昔の聖書で神から約束された地だというイスラエルの言い分も法理論的には分からぬでもないが、合法的な裁判も経ずに一方的に係争地に乗り込んできて占有を決め込む態度は通常の法治主義国家の国民にとっては許し難い暴挙のばずなのだが…。

 イスラエルの後ろ盾になっている大国アメリカは、イスラエルに自衛権があるとしてハマスの拠点があるガザ地区への大規模な空爆や地上侵攻を許容しているし、一方の大国ロシアはイスラエルの反撃は民間人を巻き込んで非人道的であるから即時停戦せよと、自分がウクライナで行なっている侵攻を棚に上げてアメリカを非難している。

 イスラエルのガザ侵攻と、ロシアのウクライナ侵攻は、民間人を巻き込む非人道的な軍事力行使であるという点においては完全に同一の事象であるにもかかわらず、米露はお互いにどの口が言ってるんだというほど同じ論点で非難の応酬を繰り広げており、少なくとも多くの日本人にとっては混乱するばかりだ。

 これらの紛争の直接当事者になっている諸国民と我々日本人の違いは何か。彼らにとって土地や人民の支配とは人間の法理論など超えた“絶対神”の領域であるということではないのか。日本にも上杉謙信が旗印に掲げた戦の神様である毘沙門天などもいらっしゃるが、日本の軍神は土地を奪えとか人民を従わせろとか邪宗徒を打ち払えとか、そういう政治的な命令はしない。あくまで美の神や豊穣の神や財物の神なとと同列、神々の中の one of them に過ぎない。ギリシャ神話の軍神マースも同じだと思う。

 しかしロシア正教を含むキリスト教、ユダヤ教、イスラム教などは唯一絶対神がいて、その神が戦え、奪え、追い払えと命じれば人々は一致団結して絶対神の託宣を実行しようと血眼になる。ウクライナ侵攻やガザ侵攻など一神教国家が絡む紛争が、我々多神教の国民に分かりにくいのはこういう理由ではないだろうか。

 思えば一神教は神の御名の元に国民を団結させて戦争に駆り立てるのに好都合である。七面倒くさい理屈は要らない。ここは神の約束の土地だ、あの国民は我々の同胞だから統一すべきだ、そういう純粋な法理論では納得できない不条理なスローガンでも堂々たる戦争の大義になる。

 かつて大日本帝国も19世紀の欧米列強と渡り合うために“一神教的国家”になろうと試みた時期があった。万世一系の天皇を“現人神”として戴きながら国民を国策に駆り立てたのだ。大日本帝国憲法では「天皇は神聖にして…」と神格化している。しかしいくら一神教に化けてみても尻尾は隠せず、万世一系であるはずの皇統が乱れた南北朝時代、あろうことか敵であったはずの南朝方の天皇を護った楠木一党を礼賛するといったボロを出していたことは別のコーナーでも書いた。ちなみに現在に至る皇統は北朝方である。

 中国や北朝鮮などは絶対神を信じる国家ではないが、習近平とか金総書記の一党などに法理論を超えた権力を与えて神格化しており、やはり“一神教的国家”の方が国民を駆り立てるのに有利であることを認識していると思われる。

 こうして見てくると、ユダヤ教徒やキリスト教徒やイスラム教徒には敵視されると思われるが、一神教の解体とまでは言わないが、それぞれの絶対神にはもうちょっと人間的な“温かみ”を持って頂くことだけが現在行き詰まっている世界平和への打開策になるのではないか。日本でも昭和天皇が戦後に『人間宣言』をされた結果、我が国が天皇の名の下に戦争をすることはできなくなった。自民党などの一部の議員はまた憲法を変えて天皇中心国家に戻そうと画策しているが、それこそ結局は一神教的国家の方が国策遂行に有利だということの証明ではないか。

 もう世界平和は各国の政治家の手には負えない。世界の代表的宗教の最高指導者が“宗教サミット”を開き、ここまで人類を導いてきた神または神々が本当は何を望んでいるのかを明らかに宣言することこそが、我々に残された最後の希望となるだろう。



ゴジラvs連合艦隊

 今年(2023年)11月3日に封切られた『ゴジラ-1.0』は公開後3週間の時点では快調に興業成績を伸ばしつつあり、『翔んで埼玉part2』が公開されるまでは、向かうところ敵なしだろうと言われています。私はこの記事を書いている段階ではまだ映画を観ていませんが、どうやら舞台は終戦直後の1947年(昭和22年)で、テレビで流れる予告編映像から、旧日本海軍の重巡洋艦の砲戦シーンが見られること、また2本煙突のうち前部が不均衡に細くて特徴的な艦型を持つ改・吹雪型(暁型)の駆逐艦響が登場することなどは分かっていました。

 敗戦直後の日本に襲来したゴジラを旧日本海軍の生き残り艦艇が迎え撃つ設定のようで、その後にネットに上げられたネタバレ的な記事も総合すると、駆逐艦雪風と響が大活躍するらしいし、シンガポールで大破状態だった重巡洋艦高雄も修理されて母国の危急に駆けつけるらしい。

 そういうことなら生き残った最大の軍艦である戦艦長門も出るかと思いきや、どうやらそれはないらしいし、まあ、ネタバレ的な興味本位の記事はこれくらいにしますが、ゴジラvs旧日本海軍艦艇というストーリーは、私のような艦船マニアにはたまりませんね(笑)。でもどうせそういう映画を作るなら、1947年時点の敗残艦艇ではなく、戦艦大和・武蔵や精鋭の航空母艦や航空部隊を保有する全盛期の連合艦隊がゴジラと対戦して欲しかった。

 私は以前の記事で、ゴジラとモスラを太平洋戦争の開戦直前にタイムスリップさせて日米海軍と戦わせて欲しいってお願いしたんですけどね〜(笑)。しかし映画の中では敗残の日本海軍艦艇でも巧妙にゴジラを撃退することに成功するんでしょうが、アメリカ軍に敗れてかつての2軍並みの実力さえ残っていなかった敗残の連合艦隊にやられるなんて、ゴジラもずいぶん舐められたものですね。

 私の手元には福井静夫氏による『日本艦艇総集』の第3部、『終戦と帝国艦艇』のオフセット印刷による復刻版(光人社・平成22年)があります。終戦時に内地・外地に残存した日本海軍の艦艇に関する各種資料や写真が多数掲載されていますが、それを眺めてみると、戦前は戦艦・航空母艦・巡洋艦・駆逐艦・潜水艦など花形艦艇をはじめ、世界第3位の実力を誇った艦隊戦力が完膚無きまでに壊滅させられてしまったことを痛感します。

 実際1947年にゴジラが来襲していたら、日本に進駐していたアメリカ軍が主体となって防衛しなければならなかったでしょう。寄せ集めの敗残勢力だけでは到底太刀打ちできなかったはずですが、それ以上に終戦直後の日本国民の反軍意識は相当なものだったと聞いていますから、ゴジラから祖国を守る“愛国心”すら発揮されなかった可能性がある。

 旧軍の遺物は何でもかんでも排斥された当時の世相、ロシアのバルチック艦隊を撃滅した日本海海戦の象徴である記念艦三笠も信じられないほど荒廃していたことは以前の記事にも書きましたし、伊藤正徳氏も昭和31年出版の名著『大海軍を想う』の中でその惨状を嘆いておられます。

 今でこそ戦艦三笠は昭和36年に記念艦として復元されているし、市中の一般病院の玄関前にこんな旧海軍の遺産が展示されていても何の違和感もありません。この写真は東京両国にある山田記念病院に展示されている駆逐艦初霜の錨です。初代院長がかつて駆逐艦初霜の軍医長だったそうで、解体された初霜の錨が古道具屋に売りに出されていることを知って買い取り、経営する病院に保存することにしたそうです。

 初霜は初春型駆逐艦の4番艦で、戦時中は太平洋各地を転戦、昭和20年4月には戦艦大和を護衛して沖縄に突入するも無傷で生還、しかし同年7月に舞鶴付近で機雷に触れて沈没、海岸に乗り上げて艦首部分だけ海上に出ている無残な写真が、前出の『終戦と帝国艦艇』に掲載されています。

 戦艦三笠もイギリス貿易商ルービン氏はじめ多くの人々の奔走で保存に成功した、駆逐艦初霜の錨のような旧軍を偲ぶ遺産も今では堂々と保存展示されている、軍艦マーチも気骨あるパチンコ店主によって守られた、戦争は絶対にいけないし、我々一般市民は反戦を訴え続けなければいけないが、ゴジラであれ某国軍であれ祖国の安全を脅かすものに対しては敢然と立ち向かう覚悟も忘れてはいけません。

 近々『ゴジラ-1.0』を劇場で観るのを楽しみにしていますが、その前にちょっと心配なこと、もしこの映画のとおり敗戦直後の1947年にゴジラが襲来して旧軍の残存兵器を駆使して撃退した場合、その前年に公布されていた日本国憲法は、特に第9条の字句の変更もないままこの年の5月3日に施行されていたんでしょうかね。



都市再開発の行方

 先日、練馬区役所の最上階展望室から板橋方面を眺めたら、新しい高層ビルがニョキニョキと伸びているのが見えました。左側のベージュ色の外壁を持つ建物は、かつて私が勤務していた帝京大学医学部附属病院、かなり大きな病院だとは思っていましたが、その右側(東側)に高さではそれをはるかにしのぐ高層ビルが建設されています。JR十条駅西口“再開発”の目的で計画された大規模商業施設を含む高層マンションです。

 そこは帝京大学勤務中は毎日のように通っていた地区で、せいぜい3階建てくらいまでの低層の商店や飲食店が軒を連ねる親しみやすい商店街でした。今や東京全域でこのような“再開発”が進んでおり、有名なところでは渋谷や中野、それ以外にも数多くの駅前が“再開発”の対象となって、このような商業施設を含む高層マンションが建設されているらしい。私が時々仕事に行っているJR小岩駅前でも巨大なビル工事が始まっています。

 古くからの駅前商店街が失われることを惜しむ声もありますが、建設予定地の地権者のうち一定数以上の賛同があれば工事は認可されるとのこと。しかし中には“再開発”推進派の地権者が自分の土地を分割して“同志”地権者の頭数を増やし、“再開発”に賛同する比率を水増しして認可を通してしまう事例も報道されていました。つまりビル建設予定地の地主(地権者)がAさんBさんCさんの3人で、Aさんだけが“再開発”を推進したい場合、Aさんは自分の土地を分割して親戚や仲間のXさんYさんZさんに売って名義上の地権者になって貰う、そうすれば“再開発”に賛同する地権者は6人(ABC+XYZ)のうち2/3の比率(A+XYZ)になり、工事の認可が下りてしまうわけです。

 再開発エリアの全部が全部そういうわけではないにしろ、東京都内に何ヶ所も何十ヶ所もこんな高層ビルを建てても、すべての地域が思惑通り発展するわけがないことくらい、工事を認可する役所も、工事を請け負う業者も、土地を提供する地権者もちょっと頭を使えば分かりそうなものです。何しろ人口は今後減少の一途をたどることは明らかで、現在建設ラッシュのマンション群の一部は何年か何十年か後には廃墟となる可能性すら予測されるわけですから…。

 思うに行政も業者も住民もそんな何十年も先のことは何も考えていない。目の前にある土地を上手に転がして今のうちに金銭を得られるだけ得ておきたい、おそらくそういう思考なんだろうなと思います。似たようなことは、私が10年ほど前に2年ほど文部科学省から委嘱された医療系新設学部の審査委員会でもありました。今後少子化で大学進学人口も減少することはずいぶん前から言われていたにもかかわらず、新たな医療系学部の新設・増設申請が出るわ出るわ…。

 文科系学部だけではいずれ入学定員割れは明らかだから、少しでも人気の高い医療系学部(看護や柔道整復など)の学部を新設して大学の延命を図ろうとしているようにしか見えなかったし、それをまた文部科学省の役人も分かってか分からないでか、ただ漫然と審議するだけ。たぶん日本という国は一度制度として確立してしまうと、事の善悪に関係なく、定められたレールの上をひたすらに突き進むことしかできなくなってしまうんでしょうね。

 だから都市部の“再開発”も同じ、誰かが反対意見を述べたり警告を発したりしようとしても、一方で目の前の金銭を手にしてウハウハする人間がいる以上は、そういう人々の“権利”や“権益”を損ねる結果になるような決定は絶対になされることはない。そうして国(組織)全体が引っくりかえるような大変な事態になって初めて皆が気付くわけです。

 古くからの街の景観が失われ、弱小地権者が泣く泣く土地を奪われ、大部分が投機の対象としかならないマンションが林立するようになる現在の状況とは少し話が違いますが、この再開発事業は太平洋戦争と同じような経過をたどって終息していくのではないでしょうか。一部高級軍人や政商といわれる大商人たちの楽観的・希望的観測に基づいて、事実の検証や将来の予測も行われないまま無謀な作戦が次々に決行された結果、ああいう歴史的大惨事を招いてしまった…。



あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。

 昨年(2023年)暮れに公開された映画『
あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』はテレビで流れる予告編映像で早くから知っていましたが、最近アニメ映画などで流行のセンチメンタルで口語調なタイトルといい、百合の花畑の中で制服のブラウスを着た少女が軍服の青年と向かい合って花束を手渡される画像を背景に流れる「目が覚めると、そこは1945年の日本。初めて愛した人は、特攻隊員でした--」という甘ったるさを強調したキャッチフレーズといい、これはどうせ“泣きたい症候群”の若者をターゲットにした“オナミダ頂戴”路線に違いないと思って最初は無視していました。しかし年が明けてからも意外に評価の高い作品らしいと知って、これはどんな内容なのか興味を持ったので、とりあえずスターツ出版文庫から発売されている同名の文庫本を手にしてみました。私も少年時代から神風特別攻撃隊についてはいろいろ記録を読んだり、関連作品に触れたりしてきたので、ここは素通りもできないだろうと考えたわけですね。

 これは汐見夏衛さんという方が最初ケータイ小説サイトに投稿したところ、やはり若者層の涙腺を刺激して評判になり、紙ベースでの文庫本出版、さらに映画化となった作品らしい。日頃から母親にも学校にも強く反発する加納百合という現代の女子中学生(映画では女子高校生)が、ある日母親と口論になって家出、自宅の近所にあった戦時中の防空壕跡で独り一晩過ごしたところ、1945年(昭和20年)6月、つまり終戦直前の日本にタイムスリップしてしまう。見知らぬ街並みを徘徊するうちに陸軍特攻隊員の佐久間彰に助けられ、ツルさんという年輩女性が経営する鶴屋食堂を住み込みで手伝わせて貰いながら戦時下の日本で何週間か過ごすという物語。すぐに佐久間彰とは互いに密かに想いあう恋仲になるが、やがて佐久間にも出撃命令が下り、悲しい別れという月並みな展開になります。そして百合は佐久間の出撃を見送った直後に意識を失い、また現代にタイムスリップして戻ってくるのですが…。

 一見ただのオナミダ頂戴にも見えますが、ずいぶん昔の記事にもちょっと紹介した2005年テレビ朝日制作の『零のかなたへ』というドラマと同じ視点で書かれているのが、私には共感できました。つまり知覧の陸軍特攻隊を描いた石原慎太郎制作指揮の映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』のように押しつけでもなく、同じく知覧特攻隊を語り継ぐ書籍として有名になったこともある『ホタル帰る』のような感動を煽る美談調でもなく、むしろ現代人の視点をあの時代に持ち込むことで、戦争の時代の人々をより生き生きと描き切れたように思うのです。

 現代の少女百合は、愛してしまった特攻隊員の佐久間に対して行かないでくれと懇願するが、佐久間は日本を救うために自分たちが行かねばならないと決然と語ります。決して無理して言っているように見えない佐久間の言葉に、百合はその固い決意と覚悟を感じて何も言えなくなってしまう。またその時代の他の人々も、若者が特攻に出るのも、大切な家族や友人が空襲で殺されるのも、物資が不足しているのも、学校で勉強できず工場に動員されるのも、何もかも“
戦争”のせいだから仕方ないと諦めてしまっている。

 百合は戦争に翻弄された当時の民衆と、何でも自由に真っ直ぐ生きられる現代の人々との間に、決して埋めることのできない意識の差を目の当たりにして絶望を感じるのですが、映画を見終わって、あるいは小説を読み終わって、何だか現代にも同じようなことがあるんじゃないかという気になるのは、果たして私だけでしょうか?

 大切な人を失うのは仕方ない?食べ物も着る物もないのは仕方ない?戦争だから仕方ない?国家が勝つために上層部が国民を見殺しにするのも仕方ない?国民は最後の1円に至るまで税金を搾り取られるのに、政治家がパーティー券収入を申告せず自由に使うのも、政治は金がかかるから仕方ない?

 お約束の涙腺刺激や、多少の時代考証の誤りは随所にありましたが、最近まれに見る新鮮な視点で描いた特攻隊の物語と私は見受けました。


補遺:この映画や小説に多少の時代考証の誤りが随所にあると書きましたが、最も重要な誤り、そして若い読者や観客に誤解して欲しくないのは、主人公の特攻隊員たちが自ら志願したことになっている点です。愛国心のあまり本当に志願した方も少数いらっしゃるかも知れませんが、私が神風特攻隊の記事をはじめこのサイトのあちこちに書いてきたとおり、“志願”を建前として強制された方が大部分だったことです。
 またストーリーの大詰めの部分で、身体障害を負った婚約者に後ろ髪を引かれて基地を逃亡した隊員が登場しますが、あれは絶対にあり得ません。あんなことが可能なら大勢の隊員が逃亡したはずですが、特攻隊に限らず、就寝の点呼時に隊員の人数が欠けていれば部隊全員が総掛かりで夜通し捜索に狩り出されたはず、交通機関も発達していなかった基地の所在地から無事に逃げおおせるものではなかったと聞いています。まして“不祥事”を隠蔽するために、映画のように該当者が病気だったことにするよう軍が取り計らうことなど絶対…絶対にあり得ません。
 何で著者も監督もこういう甘い時代考証をされたのか、私はこの点だけは首を傾げますね。



ゴジラに特攻

 前回の記事で現代少女と戦時中の特攻隊員の時を超えた愛を描いた今年度の新春映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』という長いタイトル(笑)の作品について書きましたが、実はこの年末年始にもう1本、特攻隊が重要なモチーフになっている映画がありました。何と東宝の人気怪獣映画シリーズ最新作、『ゴジラ-1.0』なんですね。もう公開から2ヶ月以上たって年も明けたし、すでにネタバレ記事もネット上にあふれてますから、私もストーリーに触れながら今回のゴジラと特攻論を書いていこうと思います。

 映画の冒頭、大戸島の不時着基地に爆弾を積んだまま1機の零戦が着陸する、機体の故障と偽って特攻から逃げた敷島浩一の愛機で、ここでもう早くも特攻のモチーフが示されるんですね。そしてその晩に大戸島にゴジラ出現、島にいた海軍の整備分隊は分隊長の橘宗作を除いて全滅してしまう。(考えてみれば“大戸島”はゴジラの故郷みたいな島ですものね。)

 敷島は着陸していた零戦の20ミリ機関砲でゴジラを撃つように指示されるが、実際にゴジラを目の前にすると怖じ気づいてしまい、操縦席から逃げ出してしまう。この時のゴジラはまだ核実験の放射能を浴びる前だから、敷島が撃っていれば殺せたかも知れないというのが伏線です。ストーリー中盤以降に現れたゴジラは、巡洋艦の主砲のゼロ距離射撃を食らってもすぐに修復されるほど巨大で不死身になっている。

 こうして特攻からもゴジラからも逃げた敷島は、空襲で焼け野原になった東京で暮らし始めます。家族も空襲で亡くなっていたところへ、やはり空襲で身寄りを失った大石典子という女性が転がり込んで来ますが、典子は親を亡くした赤ん坊を連れていて、まったくの赤の他人同士が3人家族のように暮らすことになる。この辺の主人公たちの人物設定は秀逸ですね。これまでの日米の怪獣映画には見られなかった特徴です。

 これまでの怪獣映画はここまでキメ細かい人物設定はなかった。とにかく怪獣さえ出現してくれれば良いというスタンスで、怪獣とテレパシーで感応できる少女とか、怪獣の出現を予言する変なオッサンとか、とにかくどう考えても常識的にあり得ないような人物が狂言回しとして登場することが多かったので、映画の中の人間模様など二の次。ゴジラもモスラもキングギドラもさっさと出ておいで〜、早く街をぶっ壊して自衛隊や米軍とドンパチやっておくれ〜という感じ(笑)。

 ところが今回の『ゴジラ-1.0』では、特攻から逃げた元搭乗員が、空襲の中で見ず知らずの婦人から託された赤ん坊を必死に育てる若い女性と奇妙な同居生活を始める。それもアメリカ人のようにすぐにイチャイチャチューチューするわけでもなく、昔の日本人の矜持を保って何年も慎ましく一つ屋根の下に暮らしている。終戦直後の混乱期の日本にならあったかも知れないと思わせるような人物設定が素敵でした。

 だから映画の中で襲いかかってくるのは必ずしもゴジラでなくてもいい、巨大台風でもいいし、凶悪な犯罪集団でもいいし、国家権力でもいい、たとえ何であっても見応えのある人間模様が設定されていたわけです。北米での実写邦画としては史上最高の興行収入を記録したそうですが、アメリカ人にもこういう人間ドラマが受けたんでしょう。怪獣映画で初めて泣いたというコメントもあったそうです。

 さて水爆実験を受けて巨大化・凶暴化した不死身のゴジラが1947年東京に上陸、銀座に勤めに出るようになっていた典子の乗った電車(当時はJRでも国鉄でもなく省線と呼んでいた)がゴジラに襲われ典子は九死に一生を得た後、逃げ惑う大群衆の中で幸運にも助けに来た敷島と会える(この辺はちょっと御都合主義、ゴジラ出現を聞いて駆けつけた敷島が大群衆の中で典子を探し当てるのは不可能に近いはず)。しかし典子はゴジラの吐いた熱線に吹き飛ばされて行方不明になってしまいます。見事な人物設定で典子にも感情移入していた観客としては胸が痛みました。

 典子を失った敷島は旧海軍軍人を主体としたゴジラ退治プロジェクトに参加、駆逐艦雪風と響が曳航する連鎖状のボンベから放出するフロンガスの泡で深海に沈めてしまおうという作戦ですが、敷島は戦闘機でゴジラを確実に作戦海面まで誘導する危険な任務を自ら提案・志願します。敗戦後の日本にかろうじて残っていたのが震電という戦闘機、大戦中の日本機マニアなら誰でも知っている海軍の試作戦闘機です。

 『ゴジラ-1.0』の映画の人気に目を付けたプラモデルメーカーのハセガワは、いちはやく劇中に登場した仕様の震電の1/48モデルを年末に発売しました。このキットの箱に描かれた震電、零戦や隼といったスタンダードな戦闘機のモデルしか知らない普通の人たちには奇異に見えると思いますが、“先尾翼機”といって主翼より前に水平尾翼がある機体です。

 この箱の絵でゴジラが左を向いているのは分かると思いますが(笑)、手前を飛んでいる震電も左を向いてゴジラの前方に回り込もうと突進しているわけですね。プロペラは機体の後部にあり、特にこの震電はプロペラの羽が6枚もあって(零戦は3枚、紫電改は4枚、隼の初期型は2枚)、それも異様に力強く感じたものです。私も中学生の頃にプラモデルを作りました。

 こんな奇異に見える機体でも、主翼が発生させる揚力が機体の重心を支えればちゃんと飛ぶし、前方の水平尾翼で前後のバランスを操作すれば上昇下降もできる、垂直尾翼は主翼に組み合わされて取り付けられていて旋回もできる、まあ、飛行機の舵については別の記事をお読み下さい。ハセガワのキットを販売するAmazonのサイトに掲載されていた完成品の写真(下)もご参考までに。

 さらにこういう機体だと空気抵抗も少なくなるのでスピードも出るそうですが、エンジンが後方に位置するので機首はほぼ空っぽ、ですからここに従来の戦闘機よりも重武装を搭載することができる、震電もここに大口径の機関砲を積んでアメリカの超重爆撃機B29を一撃で撃墜することを期待したようです。

 敷島はこの機首の空洞に高性能爆弾を搭載してゴジラと差し違える覚悟でした。かつて特攻から逃げた男も、いよいよ自分がやらねばいけないと覚悟したようです。典子という大切な存在が失われてしまったこと、憎い仇のゴジラをあの時に零戦の機関砲で撃ち殺しておけば…という後悔もあったんじゃないでしょうか。敷島の心情を思うと切ないですね。そういう主人公への思い入れも従来の怪獣映画にはなかったことです。

 仲間たちは典子の仇討ちを誓う敷島が自分の生命まで投げ出すんじゃないかと心配しますが、敷島はこの震電に搭乗してゴジラ退治に飛び立つことになります。やっと『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』(長い!笑)の佐久間彰と同じ心境に至ったわけですね。

 敷島は慣れない震電を巧みに操縦して首尾よくゴジラを相模湾の作戦海面に誘導、ゴジラはフロンガスの泡に包まれていったん海底に沈められますが、今度は水圧の急激な変化で痛めつけるためにバルーンと参加艦船による引き揚げで再び海面に浮上させる、そこを狙って敷島の震電が口の中に突入、ゴジラは口腔内での大爆発に耐えきれずボロボロになって沈んでいくという幕切れになります。

 東宝の映画は戦争映画であろうと、怪獣映画であろうと、主人公はほとんど特攻自爆しないという話を以前の記事に書いたことがあります。ゴジラ第1作の芹沢博士がオキシゲン・デストロイヤーを持って海中でゴジラと差し違えて以降は、東宝の特撮映画で主人公が帰らぬ人になった作品はあまり無いんですね。詳しくはそちらの記事をお読み頂けたらと思いますが、今度ばかりは敷島もゴジラの口の中に特攻、戦時中の臆病な自分にケリをつけたか、第1作の芹沢博士へのオマージュとして敷島もゴジラと差し違えたかと私もちょっとドキドキしました。

 今さらもうネタバレでもないでしょうが、実は敷島は脱出して生還しました。大戸島の整備分隊での冒頭の一件で敷島の不甲斐なさに腹を立てていた腕利きの橘宗作が震電を整備したのですが、最初は戦時中の不信感も残っていた橘も敷島の覚悟の程を知り、震電に脱出装置を取り付けていたのです。整備も完成して出撃前、敷島に「死ぬな」と声を掛けた橘…。敷島にしても橘にしても、そして東宝特撮映画永年のコンセプトとしても、“特攻”へのわだかまりが消えた瞬間でした。私も少し涙腺を刺激されました。

 ゴジラがボロボロになって沈んでいった上空に開く白いパラシュート(旧日本軍の用語でいえば落下傘)。橘は座席ごと搭乗員を射出する脱出装置を取り付け、ゴジラに突入寸前に作動させるよう敷島に申し送ったわけですが、現代のジェット戦闘機みたいなそんな射出式の脱出装置は日本では当時まだ実用化は程遠かった。しかし実話の震電の脱出装置に関してはちょっと救いになる話を昔々読んだことがありました。

 一億玉砕だ神風特攻だと国民を死に追い立てた大日本帝国、そんな国で戦局も押し詰まってから開発された震電ですが、この機体からの脱出装置には技術者たちも工夫を凝らしていたようです。大きなプロペラが操縦席の後方で回っているわけですから、空中で損傷した機体から搭乗員が外へ飛び出せば回転に巻き込まれて即死してしまう。当時は離陸したらもう車輪など落下させて基地に帰って来ることさえ想定しない特攻専用機までが試作されていた人命軽視の時代、そんな時代にも震電開発の技術者たちが搭乗員の脱出を考えていたことに救いを感じるわけですが、震電に試された脱出装置というのは、搭乗員が機外に飛び出す前にプロペラ軸を爆破して危険なプロペラを吹っ飛ばしてしまおうという単純かつ原始的な発想。地上で爆破試験をしたところ、ポンと音がしただけで何も起こらず拍子抜けしたという当時の技術者の回想を読んだことがありました。それだけの短い文章が何十年も私の頭に残っていたのは、狂気の特攻の時代にやはり搭乗員の生命の安全を考えようとしていた技術者がいたという事実が嬉しかったからだと思います。



お上の国ニッポン

 2024年2月16日は史上最悪の確定申告初日となりましたね。個人事業主ばかりでなく、一定の副収入のあるサラリーマンなども、前年の収入と支出(事業経費や保険料・医療費など)を税務署に申告して今年の課税額を決定する国民として重大な義務を果たすのが確定申告です。

 一般国民はいくら稼いだか、また経費がいくらかかったかを、源泉徴収票と領収書で最後の1円に至るまで徹底的に調べ上げられ、逃れようもなく厳格に税を取り立てられますが、今年は自民党の国会議員が何十人も税務逃れをしているとしか思えないような醜態を晒しているところへ、あろうことか、岸田首相が2日前の国会演説で、「今月16日から開始される確定申告において、それぞれの納税者の皆様方に法令にのっとり適切に申告納税を行なっていただくようお願い申し上げたい」といけしゃあしゃと宣った、いったいどの口が言ってるんだと国民の怒りが爆発している現状です。

 1988年に発覚したリクルート事件、リクルートコスモス社の未公開株が賄賂として譲渡され、多くの政治家や官僚に収賄の嫌疑がかけられて政界を揺るがせた一大不祥事で、政治と金の問題を断ち切るべく当時いくつかの政治改革がなされたものの、やはり特に自民党を中心とする政治家はどんなに改革してもリクルート(利狂う徒=利に狂う徒)なんですね。汚職の温床になりやすい企業献金を規制しても、自民党各派閥(政策集団と自称している)が開催するパーティー券収入の一部が“キックバック”と称して議員個人に還元されていた、これが政治資金として報告書に適正に記載されていないことがバレて野党やマスコミに追及されると、取って付けたようなおざなりな調査で、「記載漏れがあった分は報告書を修正しました」、「使途は不明ですが政治資金として適正に費消されたと認識しています」などと、一般国民なら決して許されないような曖昧でいい加減な処理で一件落着にしようとしている。政治活動に使ったことが領収書で証明されなければ“裏金”ではないか、“脱税”ではないかと世論の批判も高まってきたところで、記事冒頭の例の岸田演説だったわけです。

 岸田首相はじめ自民党の幹部たちも何とか屁理屈に次ぐ屁理屈で逃げ切りたい考えなんでしょうが、領収書のない支出なんか経費として認められないのは一般国民の常識ですよ。正規に入金された政治資金だろうが、キックバックの裏金として懐に入れた後で修正申告した政治資金だろうが、正当な使途の領収書がない限り、“上級国民”ならいざ知らず、国家の金を不正に着服したと見なされるのが一般国民です。

 私もかつて医学研究の共同研究者として政府の研究費を頂いていたことがありましたが、その金の使い道の何と面倒なものだったか。50万円なり100万円という金が文科省から研究者個人名義で新規に開設した銀行口座に振り込まれるのですが、1年ごとに研究資金として使用した旨が分かるように領収書を整理しておかなければいけない。国会議員の政治資金のように会合の飲食費とか、出張の交通費などの名目は許されない、それはそれは厳格なものでしたよ。おまけに1年間銀行口座で金を預かっていれば細かい端数のついた利息が発生するので、これもキレイに使い切らなくてはいけない。だから年度末になると大学の生協に行って消しゴム1個とかボールペン1本とか、チマチマした買い物で通帳の帳尻を合わせるのに苦労しました。

 余分な国家の金は1円たりとも渡さないぞ、少しでもちょろまかしたら厳罰だぞと、一般国民はここまで厳重に国家の“法令”で監視され、お上に管理されているのです。その法律や法令を作る立場の国会議員は政治資金を使用するに当たってこんなに杜撰、しかも調査の結果“使途不明”の金額も多かったというのに、「適正に使い切りました」と自己申告するだけで何のお咎めもなく、議院内閣制のトップである首相までが何だかんだと言いくるめて庇ってくれる…。

 身内の自民党国会議員には甘いくせに、一般国民には法令にのっとり適切に申告納税して下さいなどと、いったいどの口が言ってるんだ。ゴジラの口みたいに震電戦闘機で突っ込んでやろうかしら。でも怪獣リクルト(利狂徒)はゴジラ以上に不死身でタチが悪いですね。岸田首相が身内議員どもの金銭不祥事が渦巻く中で、あの演説をぶちかませる神経はゴジラの咆哮を彷彿とさせます。

 日本の為政者の“お上”意識が健在であることを改めて知らされた岸田首相の申告納税演説。西欧で初めて市民の人権意識が高まったのは1789年のフランス革命と言われていますが、同じ頃の日本は江戸時代、悪代官が豪商から賄賂の“企業献金”を受け取って「フッフッフ、越後屋、おぬしも悪よのう」の時代でも、庶民は“お上”に逆らうことはなかった。代官の悪行も地震や台風や火山噴火と同じレベルの災害だったわけですね。今も同じ。

 明治維新になっても“お上”には逆らえない、“お上”が言うことは堪え忍ばなければいけないもの、だから特攻隊などという諸外国では類を見ない非人道的な戦法にも一般兵士は文句も言えなかった。命惜しさに勝手に戦地を逃げ出した将軍もいたし、下級兵士には投降を禁じながら自分は捕虜になってもおめおめと要職に返り咲いた将校もいたというのに…。

 一般国民には最後の1円の使途までも明らかにすることを求めながら、自分の身内が何百万円もの裏金疑惑の金を懐にしているのを知っても、適切に政治に使われたと言いくるめる“お上”の頭領、この国は封建時代から何も変わってないね。そういう連中を性懲りもなく選挙で政界へ送り出す有権者自身が一番バカなんだけれど…。「神の国」ならぬ「お上の国」ニッポン。


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