オールド・ラング・サイン

 ずいぶん昔の記事で卒業式の定番ソング『蛍の光』について書きましたが、また卒業式など別れの季節が巡ってきました。私も『蛍の光』を歌って学校時代を終えてきましたし、大学の教員に就任してからは『蛍の光』を歌って教え子の学生たちを送り出してきました。やはり最近は老境に至ったせいか、毎年3月を迎える頃になると、学校時代の友人たちや、教員時代の学生たちと共に過ごした時代のことを懐かしく思い出して、胸が熱くなることが多くなりました。旧友や教え子のうちの何人かは1年に何回か実際に会って昔話に花を咲かせることがあり、そういう意味では特に寂しくはないのですが、やはり自分が日々を過ごしてきた人生の幾つものステージが愛おしいという感傷ですかね。

 美空ひばりさんが歌っていた『川の流れのように』の歌詞の意味がようやく理解できました。

♪知らず知らず歩いて来た 細く長いこの道
♪振り返れば遙か遠く 故郷が見える


 人生の幾つものステージを一緒に過ごしてきた人たちとの別れを象徴する『蛍の光』、原曲は『Auld Lang Syne』というスコットランド民謡で、「オールド・ラング・サイン」または「オールド・ラング・ザイン」と発音し、“古い遠い昔”という意味のスコットランド方言だということは古い遠い昔(笑)の記事に書きました。

 しかし原曲の歌詞は、日本語の卒業式ソングのような別れの歌ではなくて、旧友と再会して友情の杯を酌み交わす歌だということもそちらの記事に書いたとおりで、日本人の感性ではあのメロディーを聴くと何で別離を思い浮かべるのかと、あの記事以来ずっと不思議に思っていました。日本であの曲が卒業式に使われたのは、どうやら戦前の海軍兵学校が初めてのようで、旧海軍士官の方々の文章で曲名を「ラングサイン」と表記してあったものがありました。

 艦船の出港の見送りに際しては『蛍の光』が演奏されることが多く、海上自衛隊の南極観測船“しらせ”出港で海上自衛隊の音楽隊がこの曲を演奏している映像がSNSで見られます。一方船内では目的地の入港間近になると下船する船客たちを見送る意味で、やはりこの曲が流れます。私も新日本海フェリーの新潟〜小樽航路を乗った時、夜明け前に小樽到着直前のまだ暗い甲板上で聞いた『蛍の光』がとても印象に残っています。海面越しにチラチラと瞬いて見える“小樽の光”が…、あ、失礼しました(失笑)。

 日本では年末の大晦日になると紅白歌合戦などの後に、“行く年”との別れを惜しんで『蛍の光』が流れますが、欧米では新年のカウントダウンが終わると“来る年”との出会いを祝してか、『オールド・ラング・サイン』が歌われるという話は聞いています。だからこの同じスコットランド民謡のメロディーに、日本人と欧米人の感性は逆に働くのかと思っていたら、どうやらそうでもないらしいことを最近発見しました。

 これは『哀愁』という邦題で1940年公開の古い映画のDVDのカバーですが、原題は『Waterloo Bridge』、日本語ではワーテルロー橋と発音するのが分かりやすいかも知れません。ウエリントン将軍がナポレオン軍を破ったワーテルローの戦いを記念する命名のようです。時は第一次世界大戦の最中、ロンドンにドイツ軍飛行船の空襲警報が発令された夜、ロバート・テイラー扮するロイ・クローニン大尉がこの橋の上でヴィヴィアン・リー扮する踊り子のマイラ・レスターと出会って恋に落ちる、マイラは劇団の厳しい規則を破ってロイとレストランで密会、そのレストランの閉店間近、専属楽団の指揮者が本日最後の曲ですと言ってコールしたのが『Farewell Waltz(別れのワルツ)』、これが何と『蛍の光』を3拍子のワルツに編曲したものだったんですね。日本でもパチンコ店や商業施設の閉店時によく耳にする曲です。

 何しろお馴染みの『蛍の光』のメロディーを3拍子にした曲ですから、私は不明にして『蛍の光ワルツ』という曲名かと思っていましたが、『哀愁』制作のアメリカ人スタッフがレストラン閉店時の楽曲として編曲した『Farewell Waltz(別れのワルツ)』なんですね。『オールド・ラング・サイン』が原曲なのは明らかですから、このメロディーに日本人と同じ別れの感性を抱いたアメリカ人もいたということです。

 『哀愁(Waterloo Bridge)』は日本での公開は戦後になってからでしたが、やはり『Farewell Waltz』の原曲が『蛍の光』と同じなので、閉店時などに使いたいと思った日本人もいたのでしょう、このワルツの楽譜を求めますが原譜は逸失してしまっていた、それで古関裕而さんが映画のシーンを見ながら採譜したのが、現在日本のパチンコ店や商業施設の閉店時に流れる『別れのワルツ』だということです。

 ちなみに映画『哀愁』は、出会ってたちまち婚約までしたロイとマイラ、ロイはマイラから幸運のお守りとして貰った小さなビリケン人形のマスコットを持って前線に出征、不幸にも戦死したという誤報が流れ、それを信じたマイラは娼婦に身を落として生活するようになります。ところが思いも寄らずロイが戦場から生還、ロイの愛は変わりませんでしたが、マイラは罪の意識を拭うことができず、ロイとは結婚できないと悲観してトラックの前に身を投げて自殺してしまう、悲恋なわけです。時は過ぎて再びロイは第二次世界大戦に出征することになり、悲しい思い出の残るワーテルロー橋を訪れて、マイラの形見のビリケン人形を握りしめながらしばしの哀愁に浸るという物語でした。

 いわゆる『蛍の光』のワルツについては長年の疑問が解けましたが、もう一つ、『蛍の光』のマーチについてはまだ不明なことがあります。『蛍の光行進曲』としてネットを検索すると出てくるのは、アメリカのマーチ王J.P.スーザ作曲の『名誉の砲兵隊(Ancient and Honorable Artillery Company March)』しか出てこないんですね。スーザと言えば『星条旗よ永遠なれ』とか『雷神』とか『ワシントン・ポスト』といった誰でも小中学校の運動会などで何回も耳にしたことのあるマーチを100曲以上も作曲したアメリカ人ですが、この『名誉の砲兵隊』は中間部(トリオ)以降に『オールド・ラング・サイン』のメロディーが使われています。

 『名誉の砲兵隊』という題名から考えれば、スーザは『オールド・ラング・サイン』のメロディーに別れの感性は持っていなかったでしょうね。しかし『オールド・ラング・サイン』のメロディーを吹奏しているから、ネットではこれが『蛍の光行進曲』として引っ掛かってくるのですが、私の高校時代、音楽部のブラスバンド班にはもっと正統派の『蛍の光行進曲』の楽譜があって、最初から最後まで『オールド・ラング・サイン/蛍の光』のメロディーで貫かれていました。私たちはこの曲で先輩たちを送り出し、最後は自分たちも巣立って行ったのですが、残念ながら編曲者の名前を覚えていません。どなたかご存知でしたら教えて下さい。


現代医療の盲点

 今年(2024年)の元日に北陸地方を襲った大地震、交通網や生活インフラへのダメージもさることながら、医療機関の活動が一時的に停滞してしまったことは被災者の方々にとって大きな悩みだったに違いないとお見舞い申し上げます。テレビなどの報道で見ていると、地元の医療機関がなけなしの人材と物資を投入して患者さんたちに対応したり、あるいは被災地の外から救急・災害医療チームが応援に駆けつけたりして、懸命に被災地の医療を支えている様子が報道されていましたが、本当に頭の下がる思いです。

 ただ私のように昔々妊娠・分娩に携わった経験を持つ古い医者から見て、一つだけ心配なことがあります。これまでは私だけの杞憂かと思っていたら、先日浜松勤務医時代に同僚だった助産師さんたちに会って話を聞いたら、やはり同じ心配を抱いているとのこと、それはもし避難所で骨盤位の妊婦さんに突然陣痛がきたら誰か対応できるだろうかということです。これまで東日本大震災とか熊本地震などでそういう事例は無かったのでしょうか。

 骨盤位とはいわゆる逆子のこと、人間の赤ちゃんは普通は頭を下にして逆立ちした状態でお母さんの子宮の中にいます。胎児は頭が一番大きいので、頭から先に産道を通過するのが最も危険が少ないのですが、たまに頭を上にしてお尻とか爪先とか膝から先に産道に入ってしまう赤ちゃんがいる、これが骨盤位で、そうすると必然的に頭が最後まで産道の中に残るので、産道に頭が引っ掛かったまま分娩が停まってしまい、母子ともに非常な危険な状態になることが多いのです。

 妊娠の途中で逆子になっていても自然に回転して正常位(頭位)に戻ることが多いですが、それでも分娩時点でもまだ逆子(骨盤位)の場合が全体の2〜3%あります。逆子のお産を取るには熟練した技術と冷静な判断が必要です。骨盤位の中でも赤ちゃんのお尻が先に出て来るケースが一番多いのですが、お腹まで出て来たところでおもむろに臍帯(臍の緒)を手繰って緩めてやる、焦らずにゆっくり胸が出るまで待ち、さあ、ここからが分娩介助者の一大勝負、赤ちゃんの肩が産道に引っ掛からないように左右片方ずつ引き出してあげる、最後に一番大きな頭が出てくるわけですが、お母さんの最後の力を振り絞った陣痛と一緒に、顎を引かせたまま宙返りさせて赤ちゃんをお母さんのお腹の上に着地させてあげる。

 文字で書けばこんなものですが、実際の局面では母子の命がかかってますから真剣勝負ですね。大学の教員時代、学生さんたちに骨盤位分娩を教えるために、看護学科から借りてきた実物大の新生児人形で上記の手順を実演してみせたことがありましたが、当時を思い出して心臓はドキドキ、ほんの数十秒の短時間だったにもかかわらず汗ビッショリになりました。

 最近では骨盤位分娩は母子の安全のためにほとんど帝王切開することになっているようですが、そうなると心配なのが、実地で骨盤位分娩を介助した産科医や助産師さんたちはどれくらいいるかということです。この20〜30年の間に医学部卒業後の研修を受けて産科医になった若い医師で、実地に骨盤位分娩介助を何回か介助した経験のある人はどれくらいいるのか。私は妊娠・分娩に携わった数年間に10例以上経験しましたが、今ではたぶん1回でも経験した産科医は半分もいないんじゃないかと思います。

 もし災害などの避難所で逆子の妊婦さんが産気づいた場合、帝王切開のできる医療施設まで搬送するのが困難だったら母子ともにかなり危険です。平時には安全のために帝王切開が選択されるのは当然ですが、緊急時に上記のような熟練を要する医療手技が失われている、まさにそれこそが現代医療の盲点と言えるかと思います。

 事は災害医療の避難所などに限りませんし、分娩介助にも限りません。医療は日進月歩で発展を続けて、より安全な手技・技術、より精密な検査方法、より確実な治療法を開発してきました。現代の医療機関ではこういう最新の医術を駆使することによって、ほんの一昔前に比べても格段の成果を上げられるようになりましたが、医師や医療技術者たちはそれら最新の医術に依存しきっている状況にある。

 ひとたび災害などで最新医術を使えない状況になったら大変なことになると思うのですが、平時においてすら、一昔以上前の医術、すなわち私たちの世代の医師が学部教育や卒後研修などで学んできた手技・技術や検査方法などを使えない、あるいは使おうとしない医師も増えてきました。

 たとえば病気の診断とは、患者さんへの問診(病歴の聴取)に始まり、視診・聴診・触診など五感を駆使した診察によって病態を推測したうえで、最新の検査法や検査機器によって診断を決定するものであると医学部では教わってきました。しかし最近の医師は若手に限らず、この前段階をすっ飛ばしてすぐに検査に頼ろうとする。患者さんの顔色も診ず、肌にも触れず、胸に聴診器も当てず、直ちに血液を採取したり、放射線や超音波検査をオーダーする人が多いと聞きます。

 私が健康診断で受診者の心音を熱心に聴取していると、一緒に健診の採血を担当していた看護師さんが、自分が普段仕事に行っている病院の医者は聴診器なんか使わないよと言ってました。それは聴診しないんじゃなくて、聴診できないんですね。私が健診で異常な心雑音を指摘して病院にかかるよう指導した受診者の方が早速受診したら、実際に心臓弁膜症だったのですが、そこの医師は私の聴いた心雑音を聴けなかったという話さえあります。

 放射線検査や超音波検査をオーダーする、血液検査をオーダーする、そしてその結果を患者さんに伝えるだけという医師では、災害医療の避難所では役に立ちません。確かに現代の医療機関では最新の医術の利用が可能ではありますが、それらが無ければ診断も治療も何もできない医師では困ります。まさに現代医療の盲点と言うべきでしょう。


ついに腹を召す

 今年(2024年)4月14日は私のこれまでの生涯で最も危機的な日となりました。実は3日前あたりから何となく下腹部痛がありましたが、自分自身の身体症状についてはたぶん大丈夫だろうという正常性バイアスがかかるうえ、14年前の腹部激痛も結局は尿管結石であったという経験を都合良く解釈してしまい、医療機関を受診するのをつい引き延ばしてしまった、これが医師としては痛恨の極みとなりました。

 4月14日は日曜日でしたが、今行ったら当直のドクターに申し訳ないとなおも躊躇する私も、カミさんに叱咤されてついに受診を決意、それでも救急車を頼むのは悪いからとタクシーを手配して当座の入院準備を整え、かつての職場であった帝京大学附属病院へ駆け込みました。腹部レントゲンやCTスキャンの結果、急性虫垂炎穿孔による腹膜炎の診断、ただちに緊急手術となったのです。すでに麻酔の前処置のせいで意識が朦朧としていた私には記憶がありませんが、付き添いのカミさんによると、その場にいた外科スタッフは「急げ、急げ」のスクランブル状態だったそうです。

 手術は3時間ほどで終了しましたが、腸管内容物が腹腔内に散乱して大変な状況だったらしい、7〜8リットルもの大量の生理食塩水で洗浄が行われ、抗生剤の腹腔内撒布も施行されたと思います。後から手術前後の血液検査所見を見せて貰いましたが、私の身体を防衛する白血球は絶望的な最後の抵抗を続けていたようです。もうこれ以上の動員はできないという最後の白血球部隊までが出動していて、あと数時間手術が遅れていたら絶対的防衛ラインを突破されて敗血症となり、その後はショックなども合併して私が生死の境をさまようことになったのは確実です。

 ここまでこじらせたわけですから、“通常の急性虫垂炎”なら術後せいぜい数日で退院できるはずのところ、私は腹腔内に遺残した膿瘍を完全に制圧するまで3週間の入院を要しました。この入院期間中に10日間の禁食も強いられましたし、尿通と便通が乱れて尿閉となり1週間の膀胱カテーテルも経験しました。いわゆる“ICU症候群”の幻覚も見ましたね。気持ち悪い生き物や恐い物ではなく、病室全体が巨大なスクリーン空間となって、そこにさまざまな迫力ある映像が映し出されるのです。大自然の光景が見えたかと思うと、青空と桜の対比が強調された映像に切り替わる、驚いたのは大谷翔平選手がタッタッタと走ってくる、まあ、不快な幻覚でなくて良かったです。

 私の身体に取り付けられた医療機器も感慨深かったです。左の写真、点滴台に下がっている黄色い袋は“高カロリー輸液”の製剤です。私のように何日間も絶食を強いられると、通常の水分と塩分(電解質)だけの輸液ではガリガリに痩せてしまう、高カロリー輸液はいわば“血管から注入する食事”と言えるもので、炭水化物、アミノ酸、ビタミン類、必須金属成分などが必要最小限含まれている、製剤には黄色い遮光袋が被せられてますが、これは一部のビタミンは光が当たると変性してしまうからです。ちなみに昔ならこういう輸液製剤はすべてポリエチレンバッグではなくガラスのボトルに詰められていたものでしたが…。

 この高カロリー輸液は私が研修医だった頃から少しずつ普及し始めましたが、何しろ各種栄養成分の濃度が濃いため、普通の末梢静脈から点滴すると浸透圧によって血管がすぐに痛んでしまう、だから心臓に近い大きな静脈(いわゆる中心静脈)にカテーテルを留置してそこから注入することになる。当時の小児科医が使用することはありませんでしたが、高カロリー輸液製剤を製造する製薬会社が発行している資料を貰って、通常輸液も含む各種輸液製剤の成分を勉強したことは、後に未熟児新生児の輸液を行なううえで大いに役に立ちました。

 高カロリー輸液製剤の下に“80”と表示されている四角い機械は自動輸液ポンプで、これも私が研修医の頃から普及し始めたものです。1時間に80ml(ミリリットル)を輸液したければ、この数字を“80”に設定するわけですね。そうすれば確実にその量だけ注入されることになります。

 しかし私が臨床医だった頃はまだ自動輸液ポンプは非常に高価で、各重症病棟に1台かせいぜい2台、最近のように各患者に1台ずつ使用するほどの数は備えられていませんでした。だから昔の看護師さんたちは皆ストップウォッチを首に掛けていて、患者さんの点滴ボトルからポタポタ落ちる水滴を数えていたものです。水1滴は約0.05ml、それがストップウォッチで計った15秒ないし30秒で何滴落ちるか、そうやって輸液速度を調整して、さらに30分後に規定通りの量が落ちたかどうかを見て再度微調整していました。ストップウォッチを押してから真剣な眼差しで点滴の滴数を数える看護師さんたちの姿は凛々しくも神々しくも見えたものです。

 私と一緒に働いた昔の看護師さんたちは、ベッドサイドを巡回する時は患者さんの情報を書き込んだB5版くらいのボードを抱えていましたが、最近の看護師さんたちは右の写真のような台車を押しながら回って来ます。台車の真ん中に載っているのは電子看護記録を作成するためのパソコン、看護師さんたちの装備も昔とはずいぶん変わったなあと感慨に耽った次第でした。

 さて私の入院生活は5月5日まで続きました。なまじ医療スタッフに手数をかけさせては申し訳ないと我慢し過ぎたのが完全に裏目に出て、却って余計な治療を余儀なくさせてしまった格好ですが、外来・手術・病棟と飛び回っていつ休んでいるんだろうと心配になるくらいの激務をこなす外科医の方々、その外科医の指示を病棟で確実に実行する専門技能を持ちながらも、入院患者に対しては昔ながらの優しい心遣いをして下さる看護師の方々に支えられながら、私はこれまでの人生で最大の試練を乗り越えることができました。改めて関わって下さったすべてのスタッフの方々に感謝申し上げるとともに、70歳過ぎて助けて頂いたこの命をこれからどう活かしていくか、よく考えていきたいと思います。


ここは病理医の独り言の第22巻です。      第21巻へ戻る           
トップページへ戻る           病理医の独り言の目次へ戻る