歴史の巡り合わせ

 私も神風特別攻撃隊など研究していたことがありましたが、その時よく考えていたことがありました。特攻隊に限らず、また陸海空いずれの戦場かを問わず、実際に前線に動員されて生命を賭けた任務に従事したのは、大正年間から昭和初期に生まれた世代の方々でしたが、ではそれそれ以前に生まれた方々で、太平洋戦争の頃にはすでに陸海軍を除隊、もしくは予備役に回されてもう最前線勤務を命じられることもなくなっていた元軍人の人たちは、激化していく戦局を眺めながらいったい何を考えていたのだろうかということです。

 もう少し時期がずれていたら俺も前線に送られていただろう、ああ良かった、命拾いしたと安堵の胸を撫で下ろしていたか、あるいは特に一兵卒ではない陸海軍の将校だった人たちの場合、ああ俺ももっと働かなければいけなかったのにと切歯扼腕していたか、こればかりはそういう時代に巡り会った当事者自身でなければ本音の部分は分からないなと感じていました。しかし最近新型コロナのパンデミックの時代になって、私のように定年を迎えた医療関係者も状況は似ているかも知れないと思うようになりました。

 日本ではすでに昨年(2021年)までに新型コロナ感染の5つの波を迎え撃ち、秋口頃からしばらくは小康状態を保っているかと思ったら、年末からはさらに強烈な感染力を示す新種のオミクロン株が出現し、これまでになかったような急激な新規感染者数の増加に直面しています。そして新たな感染の波に襲われるたびに治療の最前線で苦闘するのは医師・看護師をはじめとする医療従事者であり、私自身もかつてはその端くれでありました。

 確かに私は現在でも介護施設や福祉施設、あるいは保育施設などの健診業務に就いていますが、それらは職場を定年退職した後のいわば予備役の仕事であり、コロナの患者さん、あるいはその疑いのある患者さんの診療や検体処理を求められれば遂行すべき立場にはありません。敵弾の飛んでくる前線に突撃するほどの身の危険を冒すわけではないにせよ、コロナの診療はやはり医療従事者としてそれなりの覚悟を決める必要がある。

 そういう現場に立たなくてもよい現在の自分の境遇をどう捉えるか、それはあの太平洋戦争の時代、すでに現役の年齢を過ぎて後方に身を置くことになっていた陸海軍の旧将校や士官の立場と相通じるものがあるように思います。それで私はコロナ禍の中、医療の後方にいて何を感じているか、正直なところホッとしているのは事実ですが、それで良かったという気持ちはまったく湧いてきません。最前線で戦っている年若い同僚、後輩、教え子たちに対して申し訳ないという思いを拭い去ることができないのです。

 戦時中も兵卒として召集された後に除隊していた一般の方々はともかく、退役した士官以上の方々の多くは同じように感じていらしたのではないかと思います。今さら敵陣に突撃する体力はない、艦隊勤務を遂行する判断力はない、新鋭の第一線軍用機を操縦する技量もない、自分が老骨に鞭打って戦場に赴いたところで足手纏いにしかならないのはよく分かっている。しかしそのことが後方に身を置いて安閑としている言い訳にはならない。それが戦闘のプロであり、医療のプロであるということをコロナ禍の時代に初めて実感しました。おそらく現役を退いた士官以上の方々は、報道される戦地の状況を聞きながら、もう自分が第一線に立てない以上、心の中ではどんな形でもいいから早く戦争が終わって欲しいと願っていたのではないでしょうか。

 新型コロナのパンデミックが私の定年退職後だったのは歴史の巡り合わせの偶然であり、もしも5年ほど時期がずれていれば私も否応なくコロナ患者さんの診療に直接間接に関わらざるを得なかったでしょう。しかし後方に退いたとは言っても、刻々報道される新型コロナの感染状況に医療現場のスタッフたちを案じない日はありません。

 昨年暮れまでは東京都の1日の新規感染者数がずっと2桁台で推移してきたところ、今年(2022年)1月7日にはあっと言う間に1日1000人に迫る勢い(922人)になってしまいました。全国でも6000人を越え、米軍基地を抱える沖縄では1000人を越えました。新種オミクロン株感染は従来株をはるかに凌ぐスピードで拡大して、新規陽性者数はわずか2日か3日程度で倍々に増えています。

 しかしネズミ講ではないのですから、この倍々ゲームがいつまでも無限に続くはずはなく、新規感染者数があまりにも急激に燃え広がっている分、従来株よりも速やかに終息に向かう可能性もありますし、何より欧米やアフリカの医療機関からの報告でオミクロン株は従来株よりも毒性が低そうだというのも対コロナウィルスの戦局としてはやや明るい見通しです。またウィルスの進化の原理から見れば、今後オミクロン株よりも感染力の強い新種が出現することはあっても、毒性の強い新種が出現する可能性は低い。オミクロン株が優性になったコロナ界では、これより毒性の強い株は感染の連鎖を広げられずに競争に敗れていくと考えられるからです。

 以上のことも考え合わせ、人間はワクチンの他に幾つかの経口治療薬も手にした、コロナも人間との共存(ウィズ・人間)に舵を切らなければ競争に勝てないということで、今回の第6波をしのぎきれれば以後の戦いは少しずつ楽になってくるのではないかと予想しています。それまで医療現場の最前線に残っている仲間たちに心からエールを捧げます。



数字のまやかし大本営発表

 昨年(2021年)の12月、国土交通省の基幹統計データのうち「建設工事受注動態統計」の数値が書き換えられていたことが明らかになった。建設事業者が公共機関や民間から受注した工事は月別に都道府県を通じて国土交通省に報告されるシステムになっているところ、報告提出が遅れた月についてはゼロとして提出された月に合算するよう書き換えを指示、しかも2013年度以降は受注額ゼロの月については推計受注額を記載する方式を導入したため、受注額が二重に計上されて統計上の数字が水増しされる結果になっていたという。

 つまり例えばある建設業者は1月に10億円、2月に10億円の受注があったが1月の報告が遅れた場合、国土交通省は都道府県に対して1月はゼロ、2月に20億円の受注があったと書き換えさせ、さらに過去の実績などに照らして1月は5億円の受注があったであろうという推計値を記載していた。ということはこの業者は2ヶ月合わせて実際には20億円を受注していたが統計上は25億円受注したようになっていたということらしい。

 問題を検証する委員会の報告によれば、政府には統計を故意に大きく見せようとする意図は認められなかったが、現場の担当者からは問題が指摘されていたのに上司の“事なかれ主義”が原因で適正な処理がなされなかったということだそうだ。しかしこの統計不正処理のせいで国内総生産(GDP)は水増しされて、経済政策の目玉だった“アベノミクス”に有利な数字になることから、国土交通省の官僚が当時の安倍首相に“忖度”した結果である可能性も指摘されている。

  国家の発表するこういう数字の水増し事件の最たるものが戦争中の大本営発表であろう。今や“大本営発表”といえば国家による嘘の発表の代名詞となったが、まかり間違えば今回の国土交通省の統計もその二の舞になる恐れがあったのではないか。戦時中の戦果水増し発表ならば国民生活にも切羽詰まった影響をもってくるから、今回の建設事業受注額の水増しとは重要度合いが違うというかも知れないが、大本営発表もまだ銃後の国民生活がそれほど緊迫していない時期から始まったのである。

 私の手元には、もう20年近くも昔に池袋西口の古本市で手に入れた大本営海軍報道部編纂の『大東亜戦争海軍戦記』という本がある。東京市麹町区内幸町にあった興亜日本社が出版した4冊セットの本で、第1輯は昭和17年5月12日に発行されている。

 第1輯は昭和16年12月8日のハワイ海戦(真珠湾攻撃)から昭和17年4月20日までの戦況が書かれていて、この巻の最後の最後にきてアメリカ陸軍のドーリットル中佐による帝都初空襲こそあったが、そこまではイギリス東洋艦隊の戦艦2隻を撃沈したマレー沖海戦や、香港、フィリピン、ジャワ、インド洋方面の勝ち戦が大々的に喧伝されている。

 しかし昭和17年11月22日に発行された第2輯あたりから話が怪しくなってくる。この年の6月5日に行われたミッドウェイ海戦は、今では誰でも知っているとおり、日本海軍は空母4隻と重巡洋艦1隻を失う大敗、だがさすがの大本営も最初から嘘八百を並べていたわけではなかった。今回の国土交通省同様、国民や政府を完全に欺こうとする悪気があったわけではないことが読み取れると私は思う。

 下の写真右側、6月5日のミッドウェー強襲の項、エンタープライズ型とホーネット型の空母2隻を撃沈とあるが、これは当時の判定された戦果を偽ってはいない。どちらもヨークタウン級空母だが、撃沈したのはヨークタウン1隻のみ、日本側は機動部隊の航空攻撃で撃沈と判断したが、実は大破しただけで何とか真珠湾の基地へ帰ろうとヨタヨタ航行していたところを潜水艦の魚雷攻撃で護衛中の駆逐艦もろとも止めを刺された。これで日本側は米空母2隻を屠ったと誤認したわけであるから、戦果についてはそれほど誇張があるわけではない。

 しかし空母を一挙に4隻も失ったと公表したくなかったのは当然だが、まさか無傷の大勝利と発表するわけにもいかない、そこでごく控え目に空母1隻喪失、同1隻大破と発表している。当時の別の新聞記事も見たことがあるが、ミッドウェイ海戦後の記事で、これは相手のある戦争だから味方の主力艦がやられることだってあるというドイツ駐在武官の慰めの談話が掲載されていた。

 太平洋戦争の分岐点となったとされるミッドウェイ海戦に関しては、大本営はまだそれほど嘘をつきまくろうとしていたわけではなかった。落とした財布には本当は4万円入っていたのに、無くしたのは1万5千円だと弁解したようなもの、まあ、想定外の大損害を蒙ったことを考えれば、当時の海軍指導部がちょっと嘘をつきたくなる気持ちも分からないではない。

 だがこの段階ですでに大本営海軍部は、今回の国土交通省と同じような戦果の二重計上を行なっている。『大東亜戦争海軍戦記』の各巻末にはこの写真のような戦局の経過表が載せられており、各海戦ごとの戦果が中段に、味方の損害が下段に示されているのだが、この同じ表の中に各期間ごとの戦果集計も同列に記載されている。

 どういうことかと言うと、
○月○日        ●●海戦 米空母A撃沈
△月△日        ▲▲海戦 米戦艦B撃沈
○月○日〜△月△日 この期間に撃沈せるもの 米空母1隻、米戦艦1隻

のように記載されていて、同じ経過表の中で空母Aは2回撃沈され、戦艦Bも2回撃沈されているのである。真珠湾で撃沈したとされる戦艦5隻や、マレー沖で撃沈したイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスなどは2度ならず3度も撃沈したと計上されているし、上の写真左側の空母ワスプ撃沈なども第2輯から3輯の巻末にかけて3度計上されている。

 今回の国土交通省の統計不正処理で、報告遅れのあった月の分は翌月に繰り越して記載し、さらにこれでゼロになった月の項には推計受注額を記載するといったカラクリ、これは単純ミスであって、担当者が故意に水増しする意図は無かったとする検証委員会の報告は、私は甘いと思う。発表された数字をよくよく検討すれば真実の実態などすぐに見破れるものであるが、サーッと軽く読み飛ばしてしまうような大多数の読者の目に成果が少しでも大きく映るように小細工しておこうというのは、作戦や政策の担当者の意図として決してあり得ないことではない。

 今回の国土交通省の統計不正疑惑、単純ミスと事なかれ主義だけのせいにして安心していては、今後コロナのパンデミックで大きな試練が予想される世界経済に立ち向かう途上で、とんでもない事態を招くかも知れない。上の写真左側で10月26日の南太平洋海戦で空母4隻を撃沈したことになっているが、この段階までに『大東亜戦争海軍戦記』の中で撃沈したことになっている米空母の数は、当時太平洋に在った米空母の総数を上回っているのである。この事実に対して冷静な検討もせず、サーッと軽く読み飛ばす読者向けに景気の良い戦果の数字を示したのは海軍指導部の“出来心”だったかも知れないが、それを許したことが後々大変な禍をもたらすことになる。

 『大東亜戦争海軍戦記』は昭和19年6月6日発行の第4輯までが私の手元にあるが、昭和18年12月7日までの戦況が水増し戦果と共に掲載されており、この後ガダルカナル島撤退、マリアナ沖海戦、フィリピン方面の諸海戦を経て終戦に向かう時期については、おそらく大本営海軍部もこのような本の編纂を断念したと思われる。そしてフィリピン方面の作戦に先立つ昭和19年10月の台湾沖航空戦では来襲した米空母11隻撃沈 8隻撃破、米戦艦2隻撃沈 2隻撃破、さらに遁走する残敵を掃討中と、最大級の誇張戦果が発表されたが、ここまでくれば“出来心”では済まされない。海軍の発表を信じた陸軍ではフィリピン方面の作戦を変更して大損害を招いている。

 すべてが…とは言わないが、最初はミッドウェイ海戦の敗北を少しでも軽く見せたいという“出来心”から発したこと、嘘を重ねるごとに次第に心理的な抵抗もなくなっていき、ついには敵空母を11隻も討ち取ったという幻の戦果に酔う舞台をお膳立てしてしまった。銃後の国民も“大戦果”を祝う提灯行列に興じたという。

 さすがの海軍指導部も「これはいかん」と国民の戦意引き締めの必要を感じたのであろう。しかし「これまでの我々の発表は大袈裟でした、申し訳ありませんでした」と真実を認めて謝罪したわけではない。今度は昭和19年12月7日公開の聖戦3周年記念映画『雷撃隊出動』(東宝)の中で、太平洋方面の戦局はきわめて憂うべきものであることを訴えたのである。雷撃の神様と言われる3人の雷撃機乗りが主人公、前線では戦闘機が不足しており、連日のようにアメリカ空軍の空襲に切歯扼腕する中、ついに出現した敵機動部隊に向けて決死の出撃、ほとんどの隊員が大戦果と引き換えに体当たりを敢行して未帰還になるという物語であった。

 当時のこのような映画は必ず海軍の検閲が入っているはずであるから、映画公開時にはすでに始まっていた神風特攻隊、その無謀な作戦に向けて国民の戦意を駆り立てる内容になっていたのは当然である。最初はちょっと戦果に色を付けようという“出来心”が次第にエスカレート、そして最後は若い兵士や国民が指導者の尻拭いをさせられるというお決まりの結末だったわけだ。数字のゴマカシをする指導者に油断してはいけない。



時代錯誤の侵略戦争

 21世紀も間もなく1/4近くが過ぎようという2022年になって、まさかこういう“侵略戦争”が起きるとは思っていませんでした。2022年2月24日、軍事演習の名目でベラルーシに大部隊を動員していたロシアが、突然隣国ウクライナに大規模侵攻を開始したのです。ロシアのプーチン大統領もいろいろ理屈をこねていますが、ウクライナで民主的に選ばれたゼレンスキー大統領がNATO北大西洋条約機構加盟を目指しているのが気に食わないわけでしょうね。

 もともとウクライナとロシアは同じ民族の兄弟同士というのがプーチン自身の民族観、それが何でロシアの勢力圏を嫌ってわざわざ西側民主主義陣営に入ろうとするのか、プーチンは怒り心頭のようです。確かに冷戦終結後、かつてはソ連を中心に結束していた東欧諸国が雪崩を打ってNATOに加盟、そのせいでアメリカを中心とした西側諸国の最前線が大きくロシア側に接近してきたという国家としての危機感は理解できます。しかし核兵器も手にした人類がそんなことでいちいち軍隊を動かしていては人類の命脈が幾つあっても足りない、だから核武装している大国は、最終戦争に至らないように国連を介在させてお互いに自重してきた、それが20世紀後半から21世紀にかけて世界の安全保障体制の大原則だったわけです。

 それを国連安全保障理事会の常任理事国たる大国ロシアが禁を破って大軍を動かし、理不尽なイチャモンをつけて隣国ウクライナを攻撃した。しかもNATOや西側諸国やウクライナが言うことを聞かなければ核兵器の使用も辞さないという恫喝まで行なって…。まさに今時あるまじき戦争が起こった。おそらくハリウッド戦争映画の悪役にヒトラーと並んでプーチンが登場する日も遠くないでしょう。

 ロシアはウクライナから手を引け。海外ばかりでなくロシア国内でも反戦運動が起こっているようです。ニュース映像も流れていますが、専制社会主義国家のロシアで開戦当初からあんな激しい反戦運動が起きようとは私も信じられませんでした。またネット上の全世界的な電子署名サイトにも、ロシアも含む世界各国からたちまち100万200万という反戦の署名が集まっています。

 プーチンが戦争に踏み切ったメチャクチャな論理を考えれば当然のことなのですが、しかし国連を無視して大軍を動かしたのはプーチンが最初ではなかった。私はこの自分のサイトを開設したばかりの頃に書いたある記事を読み直していて愕然としました。今から19年ほど前の2003年3月20日、アメリカはイラク侵攻を開始しましたが、当時のブッシュ大統領はイラクは大量破壊兵器を保有していると言いがかりをつけたのです。プーチンもウクライナは核兵器を密かに開発していると言っているようですが…。

 中露はもちろん英仏など西欧諸国もアメリカを止めることはできませんでした。国連などあっても何ら戦争抑止にならない、アメリカが「No」と言えば“No”になる世界、民主主義を国是とする国々がいくらあっても国際社会は民主主義原理で動かない、今後ますます独裁的になるであろうアメリカの制御を考えておかなければいけない、私はそんな所感を書いていますが、皮肉にも今回、舞台を中東から東欧に移し、ヒール(悪役)をブッシュからプーチンに代えただけの三文芝居を見せつけられる羽目になってしまいました。

 要するにこの20年ばかりの間に、世界は核大国の思惑で動かされているだけという現実が明らかになったのです。そして泣きを見るのは常に一般国民…。避難壕でロシア軍の攻撃に怯えるウクライナの幼い女の子の映像が日本のメディアで何回も流れました。「爆撃の音で目が覚めた、戦争だって分かってる、まだ死にたくない」、そう言って泣く女の子の姿は、10歳の頃の私の姿に重なりました。1962年はソ連がキューバにミサイル基地を建設しようとして米ソが一触即発になったキューバ危機があり、いつ世界全面核戦争が起きるかも知れないという恐怖が現実のものでした。「まだ死にたくない」と泣きたい気持ちで毎晩寝床に入ったものです。

 何でプーチンの独り善がりな民族観に付き合ってウクライナの一般市民が泣かなければいけないのか。しかも今度だっていつロシア軍が暴発して世界中に核ミサイルが発射されないとも限らないのです。核の恫喝を正当化するプーチンは、自我が成熟してきたばかりの全世界のティーンエイジャーたちがどれほどの恐怖を感じているか知るがいい。

 子供たちばかりではない。もう何十年も前に見た“Newsweek”か何か海外雑誌の表紙に載ったロシア人老婆の悲しげな表情が忘れられません。何の事件の関連だったかは忘れましたがロシア国内の貧困の話題、品薄の食糧市場で食べ物を探す老婆が手にしたバスケットの中には形の悪いジャガイモが2〜3個入っているだけ、ロシア(まだソ連だったかも)政府は、これまで何十年も慎ましく真面目に生きてきたであろう自国民に、当たり前の食事というささやかな幸福さえ与えられないのかと腹立たしく思ったものでした。今回もウクライナ侵攻に対して各国から経済制裁が次々と発動されれば、それで泣くのはプーチンではない、中流以下の一般ロシア国民です。それが分からないなら地獄へ墜ちろ。



国を護るということ

 2022年2月24日にロシア軍のウクライナ侵攻が始まってから12日が経った3月8日現在、まだウクライナは戦い続けています。圧倒的な戦力比を考えれば、いずれ首都キーウ(キエフ)をはじめウクライナの主要都市は陥落してロシア軍に制圧されることは時間の問題と世界の軍事専門家は見ていますが、最初のうちウクライナ軍は数日も持ちこたえることはできないだろうという予測が大半でした。まさに善戦しています。

 そもそもロシア軍自体、雪解けが始まらないうちに機械化部隊を使って大規模な作戦を展開、北京冬季オリンピック閉会後まだパラリンピックが始まるまでの間に事を済ませてしまおうと企図していたに違いないのですが、パラリンピックが開幕する3月4日になってもまだグズグズと戦闘を続けていたため国際世論の反発を招き、ロシアパラリンピック委員会(RPC)の選手たちは同盟国ベラルーシの選手団と共に大会参加を拒否されてしまいました。

 制空権下で大戦車部隊を動員したロシアの大軍をもってしても、プーチン大統領が当初目論んだであろう1週間のうちに片を付けられなかった理由、まずロシア軍の現地部隊の行動は恐ろしく素人であり、現地部隊指揮官は士官養成学校などで戦争の勝ち方を教わったんだろうか。私が疑問に思ったことは2つほどありました。1つはキーウ(キエフ)近郊の飛行場にウクライナが所有する世界最大のアントノフ225輸送機を破壊したと伝えられたこと、普通なら接収して赤い星のマークに塗り替え、自軍の作戦輸送に利用すべきでしょう。敵の物なら何でもかんでも壊したれとばかりに狼藉者のごとく手当たり次第に破壊するようでは、正規軍としての思慮が足りないと思いました。

 2つ目もこれと同じですが、キーウ(キエフ)で石油貯蔵庫を攻撃して大量のディーゼル燃料を焼失させたこと。敵国領土内で戦車の大軍を動かすのに必要なのは燃料です。当然後方の味方兵站基地からも輸送するでしょうが、侵攻先に無傷の燃料があればそれを頂戴しない手は無い。ロシア軍は長期戦に勝てる軍隊ではありません。日本海軍が真珠湾の燃料タンクを討ち洩らしてアメリカ海軍に燃料の重油を無傷でお返ししたのとは逆の意味で同様の愚かな過ちですね。

 しかしいくら戦争の勝ち方を知らない軍隊といっても、短期決戦を狙って一気呵成に攻め掛かってきた大軍を10日間以上も足止めした要因は、やはりウクライナ国民の燃え上がる愛国心と勇気だったと思います。ウクライナのゼレンスキー大統領は国民総動員令に署名して18歳から60歳までの男子の出国を制限、しかしそんなことをしなくても、すでに国外にいた多くのウクライナ人もロシア軍と戦うために続々と故国に帰ってきているというし、妻子や高齢者を国外脱出させた後に自分はウクライナに残って祖国防衛の任に当たる男性も多い。

 しかもニュース映像などで見る限り、脱出する婦人や子供にも国内に留まる夫や父親にも、日本の戦争ドラマにあるような、「ああ、召集令状が来ちゃったよ。お前たちを置いて入隊しなくちゃいけないのか」というような諦めや嘆きの感情が見られないんですね。早く平和が戻って再び一緒に暮らせる日々を願いながら、双方とも決然と別れていく、そんな国民的覚悟が窺えるようです。

 そういう報道に対して、当然のことながら国際世論の一部からはさまざまな反対意見が巻き起こっています。強大なロシア軍に対して徹底抗戦を呼び掛けるゼレンスキー大統領は行き過ぎだ、国民の生命を守るためにここはプーチン大統領といったん妥協して停戦、もしくは降伏すべきだという論調です。欧米など諸外国からのそういう論調の一部はロシア寄りの謀略宣伝の可能性がありますが、日本国内から上がっている早期降伏論には日本人ならではの歴史的トラウマを感じる面もありますね。

 思えば77年前の1945年(昭和20年)、大日本帝国の軍部は「本土決戦、一億玉砕」を呼号して、到底勝ち目のない連合軍に対する徹底抗戦を国民に呼び掛けていました。しかし8月の無条件降伏受諾で国民も玉砕を免れて今日を迎えている、日本国内から起こる早期降伏論では、当時の大日本帝国軍部と今回のゼレンスキー大統領が同一視されているように思います。また報道番組のコメンテーターの中には、第二次世界大戦当時のヨーロッパ情勢などもしたり顔で付け加えて、ベルギーやフランスなどもナチスドイツの電撃戦の前に一度は屈服したが結局は解放されて平和を取り戻したじゃないかなどとコメントする人もいます。どこまで能天気なんだか…。

 まずナチスドイツに屈服したヨーロッパ諸国ですが、連合軍はただちにドイツと交戦状態に入り、後にどこぞの軽率な国が米国参戦の口実まで作ってくれたために最終的に平和を取り戻せたが、今回のウクライナにとってそういうシナリオは期待できません。NATO軍も参戦しない、唯一ロシアと対等以上の戦力を有するアメリカ軍も参戦しない、もし参戦すれば世界核戦争の危険があるからです。国連などの国際平和維持機関も何らなす術がない。つまり今回ウクライナがロシアに無条件降伏すれば、再び今のような平和と独立を取り戻す機会は永遠に失われる可能性が非常に大きいのです。それでもウクライナに徹底抗戦は止めなさいよと言えるのか。

 しかもナチスドイツにいったん降伏したヨーロッパ諸国でもずっと地下のレジスタンス運動は続いていたわけです。ナチスに徹底抗戦する人々が命がけで戦い続けていたわけですね。フランス解放を描いた映画『パリは燃えているか』(1966年)の中にレジスタンス運動の隠れ家がドイツ軍に急襲されて学生など若者たちが皆殺しにされる凄惨なシーンもありました。

 まして昭和20年当時の大日本帝国政府が連合軍に無条件降伏して良かったから、ウクライナもそうしなさいよなどというのは世迷い言でしかありません。当時の日本国民の生命を“特攻隊”だ、“一億玉砕”だと鴻毛の軽きに例えて無為に失わせたのは軍部や帝国政府、むしろそういう中央集権的な大日本帝国から国民を解放してくれたのが連合軍とさえ言ってもよい。今回のウクライナとロシアの関係とは真逆なのです。

 ウクライナ国民に徹底抗戦など止めて“無益な”流血は避けなさいとは私には言えません。日本の戦争ドラマに見る徴兵の召集令状では、国防は国民の過酷で理不尽でさえある義務という面ばかりが非常に強調されていますが、今回のウクライナを見ていると国防は国民の権利という意識が高いようです。父祖が代々護ってきた祖国の地で、自分たちが望むように生きていくのは国民の権利だ、そして父祖から受け継いだ地を次の世代に託すことこそが国民の義務であると、家族が離別してでも祖国防衛に当たるウクライナの国民の姿からひしひしと伝わってきます。

 人間の生命が一番大事なんだからどんな無理難題を突き付けられても白旗を上げちゃおうというのは、おそらく現代の日本人にとっては模範解答なのでしょう。鴻毛(鳥の羽毛)の軽きに例えて国民の生命を使い捨てにした自国の政府から解放され、生命の大切さを謳歌できる世に生きられる幸運を手に入れた、それは外国に降伏することで手に入れた幸運なのですが、今のウクライナがロシアに降伏してもそんな幸運は手に入りません。

 私たち日本人がウクライナ国民に、早く白旗上げて降参しちゃえよなどと軽々しく忠告すべきではありません。もし私たちの国土が近い将来、ロシア軍や中国軍の侵攻を受けても同じことが言えますか。まあ、ロシアや中国の艦船から揚陸された戦車部隊が日本の都市に進撃してきても、国民に向けて降伏を呼び掛ける一般の日本人は少なくないでしょうね。しかしいつかはアメリカ軍が助けてくれる…なんて期待は幻想に過ぎないことが判明しました。国連も国際世論も当てになりません。ロシアや中国に降伏すれば、彼らの指導者を讃えるようになるまで収容所で洗脳教育を施されて、心にもないスローガンを叫ばなければ出して貰えなくなる。

 ウクライナはもとより、かつてのソ連圏を脱した東欧諸国はそんなこと痛いほど分かっている。だから先を争ってNATOに加盟しようとしたわけです。私は敢えて“平和ボケ”とは言いませんが、今の私たち日本人の自由な生活がいかなる歴史の経過をたどって成立したものかを改めて考えなければいけないと思います。もしその自由が外敵によって脅かされる事態が発生した場合、私たちは何をなすべきか、簡単に白旗を上げて命を永らえるか、それとも自分や子孫たちのために徹底抗戦も辞さない覚悟を決めるか、この命題に向き合う勇気はありますか。

 ところで話はガラリと変わりますが、ウクライナ政府が海外からの義勇兵を募集しているそうで、確か日本からも応募された方がいらっしゃると聞きました。ウクライナの自由を守るために自分も武器を取ってロシア軍と戦おうという気概は尊いと思いますが、私はちょっと不安なものを感じます。ロシアと戦った後で無事に帰国できればよし、名誉の戦死を遂げるもまだよし、私が不安なのは戦闘の中でロシアの捕虜になることです。ロシア軍が捕虜に対して寛大という保証はありません。まして何の関係もないのに参戦して銃を向けてきた個人に対して寛大なはずはありません。もしモスクワに連行されて、他の国籍を持つ義勇兵捕虜たちと並べられ、各国政府による経済制裁の足並みを乱すための人質カードに利用されたらどうするのか。くれぐれも国際社会の対ロシア制裁に齟齬をきたすような振る舞いだけは気を付けて下さい。



地名や人名の読み方

 現在日本の介護福祉施設で働いてくれている外国人は多いです。言葉や生活習慣の違いまで考えれば非常に厳しい労働条件と思うのに、人手の不足しがちな介護の現場で、特にベトナムやタイやインドネシアなど東南アジアの若者たちが働いてくれている姿には何度も頭が下がりました。

 私は時々そういう介護福祉施設の職員さんの定期健康診断をすることがありますが、彼らの名前は長いものが多いですね。日本人の実在する苗字で一番長いのは、姓氏研究家の森岡浩さんによると、漢字で5文字、『左衛門三郎(さえもんさぶろう)』さんと、『勘解由小路(かでのこうじ)』さんの2つだけだそうです。下の名前まで含めると、『野田 江川富士一二三四五左衛門助太郎(のだ えがわふじひふみしござえもんのすけたろう)』さんという方もいらしたそうですが、落語の“寿限無(じゅげむ)”を思い出させるようなそんな長〜いお名前の方は滅多にいらっしゃるものではございまぜん。

 だから健診カルテの氏名欄は、コンピューター処理のための文字数制限がせいぜい苗字と名前それぞれ8文字から10文字前後、長くても12文字くらいまでですが、そうするとタイやベトナムなどからいらしている職員さんのお名前が氏名欄に入りきらないことがある。そうすると彼らの中には「これ足りな〜い、ワタシの名前じゃな〜い」と苦笑いする人もいて、「日本人用の氏名欄に書ききれなくてごめんなさいね」などと、それなりに話題が弾むこともあります。

 人名、地名、国名などは長短だけでなく、他の国の人々が発音すると母国語とかなり違ってくるものがあり、それはそれでお互いの文化の違いを認め合ったり、歴史的な由緒に思いを馳せたりできて有意義ではありますが、最近ちょっと深刻な事例がありました。他でもありません、21世紀にあるまじきロシア軍の野蛮な侵略を受け、凄惨な戦争犯罪の犠牲にまでなったウクライナの地名の読み方変更です。

 ウクライナの首都“キエフ”、これはロシア語読みなので今後はウクライナ語読みで“キーウ”になります。何でもかんでも地名や人名は母国語読みにしなければいけないというのではなくて、今回のロシアの侵略という暴挙を前にして、ロシアへの抗議とウクライナへの連帯を示す意味で、ウクライナのゼレンスキー大統領の要請に応じたものと理解しています。ムソルグスキーの組曲『展覧会の絵』の中の“キエフの大門”も今後は“キーウの大門”と標記されることになるのでしょうか。

 中でも困ったのは、1986年4月26日に大事故を起こしたチェルノブイリ原子力発電所、これも地名をウクライナ語読みにすると“チョルノービリ”になりますが、日本人にとっては30年以上もの間、「チェルノブイリ」という地名と結び付いて脳裏に刻まれた史上最悪の原子力災害の恐怖が風化するのではないかという危惧があります。私もキエフをキーウに読みかえるのは比較的抵抗がありませんでしたが、チェルノブイリは依然として頭の中ではチェルノブイリのままです。“チョルノービリ”と原子力発電所事故の記憶はまだ結び付きません。

 地名や国名をなるべく母国の人たちと同じように呼んで差し上げる努力をすることはとても大切だと思いますが、歴史的にもうどうしようもなくなっている事例があるのは事実です。例えば『イギリス』という国名、これはあくまで日本語の通称であって、イギリス人は“I come from
Igiris.”とは絶対に言わない。戦国時代に来日したポルトガル人がイングランドのことを“イングレス”と形容していたのが語源、また江戸時代にオランダ人が“エンゲレス”と形容していたのが語源などとWikipediaには書いてありました。そう言えば幕末を描いた大河ドラマや歴史ドラマでは当時の知識人たちがよく“エゲレス”とか呼んでいますね。もしイギリスがポルトガルやオランダの不法な侵略を受けたら、我々はイングランドに連帯してイギリス標記を改めなければなりません。

 そうでなくても日本人が自発的に呼称を改めた地名がオランダのScheveningen、これは従来の日本語呼称では『スケベニンゲン』だったものが、これは日本語として発音されると“スケベな人間”としか聞こえないので、現地の人々の発音に近づけて『スヘフェニンゲン』にしたと聞いたことがあります。涙ぐましいですね。なおこの地名はドイツ人は『シェベニンゲン』のように発音してしまうので、第二次世界大戦中はオランダに潜入しているドイツ人スパイを見つけ出すためにこの町の名前を発音させたそうです。

 あとドイツ人は語頭のアルファベットの“S”に濁点がついて“Z”のように発音しますね。私がザルツブルグ(Salzburg)へ向かう列車のコンパートメントで、アメリカ人にいくら「
ザルツブルグ」と発音しても聞き取って貰えず、仕方なく地図で場所を指し示したら「オー、サルツバーグ!」とやっと理解してくれた。そんなことも思い出しました。また1972年のミュンヘンオリンピックで日本の加藤澤男選手が体操の男子個人総合と男子平行棒で金メダルを獲得した時、表彰式で場内アナウンスが「ザワオ・カトー」とコールしたのも今も耳に残っています。

 “ザワオ”さんになってしまった加藤選手もたぶんご愛敬と苦笑していたと思いますが、ご愛敬で済まないちょっと失礼な事例だと私が思うのが、医学的な手指消毒法を世界最初に提唱したハンガリーの医師センメルワイス、彼がウィーン大学に勤めていた19世紀中期、当時猖獗を極めていた産褥熱によって若い妊産婦が生まれたばかりの我が子を残して次々と若い生命を落としていました。センメルワイスは産褥熱が分娩介助者の手指に付着した毒物(当時はまだ細菌という概念は無かった)が原因と見抜き、分娩介助前に手指消毒を行うことによって産褥熱を予防、外科的・産科的処置前の手指消毒を提唱しましたが、ドイツを中心としたヨーロッパ医学界が彼を罵倒し、冷笑し、無視し続けたために産褥熱で生命を失う若い母親は跡を絶たなかった。

 私が専門としていた近代病理学の祖と言われるドイツのウィルヒョー(Virchow)もセンメルワイスを貶めた1人、しかし
センメルワイスはつい最近までドイツ語読みで“ゼンメルワイス”と呼ばれていました。国によって地名や人名の読み方に違いがあるのは今まで見てきたとおりですが、何も彼の業績を中心となってこき下ろしてきたドイツの読み方を日本でこれまで墨守してくる必要はなかったのではないかと思いますね。



巡洋艦モスクワ撃沈

 2022年2月24日に始まったロシア軍によるウクライナ侵攻、当初はきわめて短期間にロシアのプーチン大統領の野望が成就してしまうだろうと世界中ほとんどの人たちが危惧していたのに、4月半ばを過ぎてもまだウクライナ軍はロシアの大軍に激しい抵抗を続けており、首都キーウ(キエフ)周辺など北部戦線ではロシア軍を押し戻して撤退に追い込みました。平和ボケした一部の日本の評論家たちがドヤ顔でコメントしていたように、生命の保全を第一にロシア軍に降伏して国防の戦いを放棄していたら、ウクライナ全土は今頃ロシアの勢力圏に組み込まれて世界中から忘れ去られようとしていたことでしょう。祖国防衛に生命を捧げた兵士たち、突然理不尽に平和な生活を奪われ、銃殺、拷問、強姦など鬼畜の戦争犯罪に晒された多くの市民たちの犠牲がなければ国の独立を守れなかったと考えると胸が痛むばかりですが…。

 1904〜1905年(明治37〜38年)の日露戦争も欧米の外野席から見れば同じことだったんじゃないかと別のコーナーにも書きました。私の学校時代の日本史の教科書には当時のこんな国際風刺漫画の挿絵がありました。左端のロシアが焼いている火中の栗を取ってくるようにと、アメリカとイギリスが日本をそそのかしている情景です。栗を焼いているロシア人をプーチンの似顔絵に替え、中央の日本兵をゼレンスキー大統領に替え、背後のアメリカ人とイギリス人をそれぞれバイデン大統領とジョンソン首相に替えれば、何となく現在の世界情勢を風刺するように見えなくもない。

 日露戦争ではアメリカ合衆国も同盟関係にあったイギリスも、情報提供や戦費調達の面で可能な限りの援助をしてくれましたが、直接参戦して共に戦ってはくれなかった。それでも日本軍はよく勝利を収めたというか、むしろロシア軍の稚拙な戦い方に助けられた面もあったと、司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』には書いてあります。今回ウクライナに侵攻したロシア軍も司令官や参謀の連携が悪いのか、ずいぶん勝てる戦闘も失っているようです。ニュース報道映像に映し出されるロシア軍戦車や軍用車両の残骸の中で、悪しき国の指導者の因果が巡って生命を落とした若いロシア軍人もまた哀れか…。

 そんな中で私のような艦船マニアには驚くようなニュースがありました。ロシア黒海艦隊旗艦のミサイル巡洋艦モスクワが、ウクライナ軍の発射した地対艦ミサイルのネプチューンで撃沈されたとのこと。私はびっくりしましたね。巡洋艦は現代では駆逐艦との区別が曖昧になってきているが、かつては戦艦や空母に次ぐ準主力艦の地位を占め、今でも基本的には駆逐艦と称される艦よりも船体が大きく、まさに“大艦”と呼ぶにふさわしい艦
(ふね)です。

 そんな大艦が戦闘中に撃沈されたのは、私の知っている限りでは1982年のフォークランド紛争(マルビナス戦争)でイギリスの原子力潜水艦によって撃沈されたアルゼンチン海軍の巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノ以来ですね。この紛争ではイギリス海軍の駆逐艦やフリゲート艦が何隻か撃沈されていますが、巡洋艦と名の付く大艦の喪失はヘネラル・ベルグラーノただ1隻。

 それより前というと1967年にシナイ半島沖で撃沈されたイスラエルの駆逐艦エイラートなどあるが、巡洋艦と名乗る大艦が戦闘中に失われた事例としては、1945年に日本の伊号58潜水艦に撃沈されたアメリカの巡洋艦インディアナポリスにまで遡るのではないかと私は思います。これ以前の第二次大戦中は日独米英などの海軍がお互いに相手の戦艦や巡洋艦を沈めまくっていましたからカウントはしませんが、今回の巡洋艦モスクワは1945年7月以来戦闘で沈められた3隻目の大艦かと思うと艦船マニアとしては関心が湧くわけです。

 巡洋艦モスクワは1983年に就役した古参の艦で、当初の艦名はスラヴァと言いましたが1995年の改装時にモスクワに変更されました。当時のソ連海軍には他にもキンダ級とかカーラ級というミサイル巡洋艦があり、スラヴァ級も含めてソ連の巡洋艦は甲板上にミサイル発射機を林立させていて、見た目はいかめしくて強そうなんですね。報道されているモスクワ(旧スラヴァ)の艦影を見ると、連装ミサイル発射機が片舷4基ずつ斜め前方を睨むようにズラリと配置されています。アメリカ海軍や海上自衛隊の巡洋艦(大型護衛艦)はロシア艦に比べると貧弱に見えますが、実は目標探知だとか射撃管制なども含めた総合能力で決して劣るものではありません。

 さてスラヴァ級巡洋艦は姉妹艦3隻、そのうちのモスクワが撃沈されても残り2隻が生き残っているから、ロシアとしては他方面から姉妹艦またはそれに代わる大艦を派遣して補充すればいいと思えるかも知れませんが、なかなかそうは簡単に問屋が卸さないようです。問題はトルコのボスポラス海峡、他の海域から黒海に代替の巡洋艦を派遣しようとしても、この国際海峡を通過しなければ黒海には入れない。しかしトルコ政府は1936年のモントルー条約で軍艦の海峡通過に制限を設けていますから、現状況下で戦争当事国であるロシア艦艇の通過を許可するとは思えません。

 そういうわけで黒海にいた唯一の大艦モスクワ沈没はロシアにとって大きな痛手であり、今後予想されていた南西部のオデーサ上陸作戦なども不可能になると多くの軍事専門家が指摘しているわけです。ロシアは大国だからたかが巡洋艦1隻くらい簡単に補充できるというわけでもないようですね。

 さて巡洋艦モスクワの沈没による影響はそういう実戦的な意味合いばかりではありません。首都の名前を冠した軍艦が敵によって沈められたということは首都の陥落、つまり国の敗北を連想させ、全軍の士気低下につながりかねない非常に不吉なイメージです。ウクライナ軍は早くから対艦ミサイルネプチューンによって巡洋艦モスクワに深刻なダメージを与えたと宣伝していましたが、ロシアの方は弾薬庫で火災が発生した後に嵐の海で沈没したと、ウクライナ軍の手で撃沈されたわけではないと躍起になって否定していました。

 旗艦まで勤めた巡洋艦が戦闘中に火災を起こすなど艦内規律の緩みを示すわけで、世界中どこの海軍にとっても大変な不祥事であるのに、敢えてそれで誤魔化そうとしている、それほどロシア軍はモスクワがウクライナ軍によって沈められたことによる象徴的な意味を恐れているとも言えます。太平洋戦争末期、日本海軍も国の古称を冠した戦艦大和が撃沈され、さらに護衛していた駆逐艦のうち雪風、冬月、初霜と寒い冬の名前を持った3隻だけが無傷に近い状態で帰還、その4ヶ月後に大日本帝国は降伏した、そんなこともありましたから、モスクワの沈没は迷信深い船乗りに限らず、やはりロシア人にとって縁起の悪い出来事なのです。

 私は仮に事故とすれば日本海軍の戦艦陸奥爆沈、真偽のほどは今ひとつ明確ではないにせよ、つまり水兵による火薬庫放火の可能性も今のロシア海軍ならあり得るかなとは思っていました。しかしウクライナ軍もネプチューンを撃ったと宣伝しているし、アメリカ軍関係者の分析でもウクライナ軍のミサイル命中の可能性が高いとのことですから、やはりそうなのでしょう。巡洋艦モスクワは今回のロシア軍侵攻初期に、黒海のズミイヌイ島のウクライナ軍守備隊に降伏を勧告したが、「ロシア軍艦くたばれ」と拒否されたいわく付きの軍艦、その罵声のとおりウクライナ軍の手にかかってくたばってしまった。ロシア側は乗員は救助されたと言っているが、戦闘中にミサイル攻撃を浴びれば各配置に付いていた乗員の一部は戦死したと思いますし、モスクワが母港にしていたクリミア半島の親ロシア派住民たちが追討式典を行なったとも報道されていますから、陸上の戦車内で死んだロシア兵と同様、悪しき国の指導者の因果で生命を落とした水兵たちもまた哀れというべきか。



ウクライナ軍事侵攻と日本国憲法

 今年(2022年)もまた5月3日の憲法記念日が過ぎました。私の年号記憶術では「幾度も読む新憲法(
イクどもヨム新憲法)」で1946年(昭和21年)11月3日に公布され、翌年5月3日に施行された日本国憲法、今世紀に入る頃から極右化してきた政権によって改憲議論もヒートアップしてきていますが、今年は特にロシアによる非道なウクライナ軍事侵攻が起こった直後だけに、第9条改正を中心に改憲へ向けて加速していくのではないかと思います。

 何が起こっても第9条を一言一句変えてはならぬという私の意見は17年前の記事以来まったく変わっていません。世界情勢が変わったから我が国も軍隊保持を明文化せよとか、NATO諸国は軍事費がGDPの2%以上なのだから我が国も相応に増額すべきだという意見は一見もっともに聞こえますが、要するに国際社会で“世間並み”になりたいということですね。しかし極右勢力による改憲論議は軍事防衛の分野でばかり加熱するから問題なのです。あの時の記事でも触れたように、国政選挙で問題となる“一票の格差”は憲法14条第1項に謳われる国民平等に違反しているのに、為政者どもは状況改善の熱意に乏しいし、また憲法以外でどなたかテレビのコメンテーターも仰ってましたが、欧米ではGDPの10%が教育費に使われる国も多いのに我が国は増額する気もなさそう・・・。なぜ日本の政治家たちは改憲というと第9条しか頭にないのかを考えなければいけないと思います。

 日本国憲法では、前文にあるとおり、
日本国民は恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意したうえで、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ったわけですね。

 しかし国際社会は我々が信頼するに足る国民ばかりではなかった。アメリカのブッシュ元大統領ロシアのプーチン大統領も自国の正義ばかり振りかざして他国を大軍で蹂躙しましたし、中国の習近平国家主席も軍事力を背景に勢力圏の拡張を画策しています。そんな信義に欠けた隣人ばかりの国際社会で憲法第9条はいかにも頼りない、それは分かります。

 では我々は日本国憲法の理念までを否定し、プーチンや習近平に率いられた国家と同じレベルにまで成り下がろうとするのか。それが
改憲論議で問われる日本国民の政治哲学だと思います。日本国民は憲法前文の末尾で、国家の名誉にかけ、全力を上げてこの崇高な理想と目的を達成することを誓った。崇高な理想とは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはいけないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であるということ。憲法9条を変えるとは、我々がこの理想を諦めること、さらにプーチンや習近平のような人間は、専制国家ばかりでなく、未来の我が国にさえ普遍的に存在しうることを認めるということ。為政者や私たちの後に続く世代の日本人は、その内容の重みを十分に感じて欲しいと思います。

 さてそうは言っても、日本国憲法の第9条下にあって陸海空自衛隊が誕生し、世界で五指にも数えられる有数の“軍隊”にまで成長してきたことは事実ですし、四面を海に囲まれた地理的な環境と相俟って、そう易々と敵国の侵攻を許さぬ護りを誇っています。私も若い頃は海上自衛隊に憧れ、防衛大学校の受験準備も頭にありました。1.5以上の視力さえあればきっと受験したでしょう。私はその辺の安易な護憲派リベラルとは違います。

 では現下の国際情勢と憲法第9条とをどのように折り合いをつけるべきか。自衛隊はすでに第9条の解釈を変更する形で生まれ、着実に成長してきた。だから今後も同じように成長していけばよい。それは憲法条文をごまかすズルいやり方かも知れませんが、法令などの条文の似たような読み換えや拡大解釈は他の分野でも行われている“必要悪”です。敢えて素知らぬ顔で粛々と現下の国際情勢に対応できる軍備を整えていけばよい。

 それに第9条を変えるということは、国際社会は信頼するに足りぬものだと突き放す暴挙、まるで卓袱台返しです。第9条を維持するのは、我が国はまだ国際社会が、アメリカもロシアも中国も、日本と一緒に崇高な政治理念を守ろうとしていることを信じていますよという意志表示でもあります。その意志表示の下に存在する自衛隊は国際正義を希求するいわば『降魔の軍』という象徴的意義を体現することにもなるのですね。

 まあ、“正義の軍隊”が不正をなすのが古今東西の戦史ですから、象徴的意義ばかり保っても仕方ないわけですが、憲法条文を変える変えないにかかわらず、今回のロシアのウクライナ侵攻を見て、日本国民も本当に“武力”というものを考え直さなければいけない曲がり角の時期がきたと感じます。戦争と平和に関して戦後教育を受けてきた多くの日本国民にはまだ武器に対するアレルギーがあります。戦争は人殺し、武器は殺人の道具、だから
NOという論理しか展開できないのですね。そのためにかつて大きな国家的トラウマを負ったことがありました。

 それは1990年8月にイラクのクウェート侵攻により始まった湾岸戦争で、日本は多額の資金を拠出したにもかかわらず、多国籍軍への人的貢献(軍事参加)が無かったばかりに、戦後クウェートがワシントンポスト紙上に掲載した感謝広告に国名を入れて貰えなかったという一件です。そして今回のウクライナ軍事侵攻でも、あの時に匹敵するトラウマになりかねない一件がありました。

 今回も諸外国の支援に感謝するためにウクライナ外務省が投稿した動画に日本の名前がありませんでした。考えてみれば当然なんですね。いきなり戦車や戦闘機やヘリコプターやミサイルで重武装したロシア軍に踏み込まれて国土を蹂躙され、多数の無辜の市民が拷問され、強姦され、虐殺された、そんな理不尽な状況下でウクライナ国民に何が最も必要かという想像力も失ってしまったのが戦後日本人。ウクライナ政府の感謝動画は当座の武器を支援してくれた諸外国への感謝であることも理解できず、せっかく応援しているのにウクライナは怪しからんなどと不満を述べる日本人も出る始末…。

 今回は日本国民100人中99人近くがロシアの暴虐を非難するでしょう。何とかしてウクライナ国民を支援したいと募金などに協力する人も多いはずです。しかし一部はこの募金がウクライナで武器に転用されるかも…と心配しているかも知れません。国際結婚している知人の話を聞きましたが、募金が武器に使われないで欲しいと言ったら外国人の配偶者から「何を甘いことを言っているんだ」と反論されたそうです。

 まだ年が明けたばかりの時期、ロシアのプーチン大統領が軍事侵攻をほのめかしていましたが、アメリカのバイデン大統領は軍事不介入を早々と公表しており、これがロシアの軍事侵攻を促したとするアメリカ弱腰論が今もくすぶっています。ではアメリカが強硬に軍事介入の姿勢を見せつければ良かったのか。武器支援はちょっと…と躊躇している日本人はどう考えますか。

 軍事力で威嚇してくる敵国には軍事力で対抗するしかない、それは今ではほとんどの日本人も理解しているのではないかと思います。しかし鉄砲を撃つのはアメリカさんやNATOさん、自分の手は汚したくない、そういう狡猾な本音が見え隠れするから、クウェートもウクライナも日本には感謝しないのです。別に感謝して貰えなくても両国の国民が平和に暮らせればそれで構わないのですが…。

 しかし明らかに暴虐な軍事侵攻に対して軍事支援も堂々とできない国家になってしまったのは第9条の罪ではありません。第9条を隠れ蓑にして自らの勢力の政治的プロパガンダを展開してきた一部の“護憲政党”のせいです。戦争反対・自衛隊反対と唱え続ければ一定の有権者が投票してくれる、そんな薄汚い党利党略に第9条を利用しようとした政治勢力のせいです。

 我々はこれから本格的に改憲議論に臨むことになり、さらにその中でも第9条改正の是非が特に問われることになるでしょうが、そういう薄汚い党利党略とは訣別し、かつてのクウェート侵攻や今回のウクライナ侵攻の事例も考慮して、世界共通の理念を謳った第9条の本質を論議しなければいけません。



リモコン大戦争

 2022年2月24日に始まったロシア軍のウクライナ軍事侵攻は3ヶ月経っても続いているばかりか、いつの間にか停戦協議すら立ち消えになってしまいました。最初はウクライナ側が懸命に停戦を求めているような印象でしたが、西側諸国の軍事援助を受けて一部の戦線でロシア軍を押し戻す勢いが見られるようになると、一転して2014年に併合されたクリミア半島まで含む全領土からロシアを駆逐するまで徹底抗戦するという強気の姿勢を示すようになりました。

 1904〜1905年の日露戦争では、奉天会戦と日本海海戦を機に、負けるつもりのなかった強気のロシア帝国をアメリカが日本との講和交渉に引きずり込みましたが、今回もそのような仲裁の働きかけが必要かと思います。さもないとウクライナは国力が疲弊しきるまで戦い続けることになるし、ロシアの若者たちも世界中の憎悪を浴びながら大義のない戦場に何千何万と屍を晒すことになる。

 5月18日にテキサス州ダラスで行われたブッシュ(ジュニア)元大統領の演説の言い間違いがちょっとした物議を醸しています。ブッシュはロシアの政治体制を批判する演説の中で、「1人の男(プーチン)の決定のせいで
残忍で不当なウクライナ侵攻が始まった」と言いたいところ、「残忍で不当なイラク侵攻が始まった」と言い間違えたらしい。イラク侵攻はイラクが大量破壊兵器を保持していると言いがかりをつけてブッシュ本人が引き起こした戦争。アメリカの一部のマスコミなどは、1人の男のウソのせいで何十万人もが生命を落としたと報じているようです。(ブッシュ演説原文:The decision of one man to launch a wholly unjustified and brutal invasion of Iraq. I mean of Ukraine.)

 ブッシュやプーチンのような1人の政治家、あるいはそれを取り巻く一部の政治グループや政治体制のせいで何万何十万という若い兵士や無辜の市民が殺される、それこそが古今東西の戦争の不条理であることは今さら言うまでもありません。日本国憲法の第9条はまさにこの不条理を全世界から駆逐しようという大理想を謳ったものですから、今さら一言一句変えてはならないという私の意見は最近の記事に書いたとおり。

 しかし戦争とは国家間の対立や紛争の最終的解決手段であるという冷厳な定義があります。戦後日本における護憲派リベラルは、この事実を無視したまま第9条を信奉し続けてきたために、今になって中国の覇権主義的行動や北朝鮮の核兵器保有誇示、そしてロシアのウクライナ侵攻などを目の当たりにして混乱してしまった。

 では現実的に兵士も市民も誰も死なないで済むような国家間紛争の最終的解決手段は他にあるのか。そんなウソみたいな夢物語なんて、私もあるはずないと思っていました。ただ今回ロシアのウクライナ侵攻の報道を見ていて、私は高校時代に構想した素人小説の題材を思い出したのです。タイトルは『リモコン大戦争』、もしかしたら次の世界大戦では人的損失はきわめて少なくなるかも知れない、そういう内容でした。

 今回ウクライナ軍は無人機やドローンでロシア軍の艦艇や戦車部隊を攻撃してかなりの戦果を挙げています。無人機やドローンはかつてのイラク戦争でも使われたし、イスラム国要人の暗殺に使われたこともある、しかしこれまではアメリカ側が一方的に使用しただけなので、無人機やドローンの操縦者は後方の安全地帯から、あるいは場合によってはアメリカ本土の自宅からバーチャル感覚で戦場上空を飛び、まるでゲームのように敵を倒すということで、その無機質な非人間性のみが強調されていました。実際にニューヨークの自宅から無人機を操縦してイラクの民間人を殺害したアメリカ人の中には、罪の意識から精神を病んだ人もいると聞いています。

 しかしこれが21世紀の戦争だったわけですね。20世紀の戦術でウクライナ領土に進軍したロシア軍の頭上に待ち受けていたのは、21世紀のハイテク技術で武装したウクライナ軍のドローン部隊だったのです。奇しくも日露戦争で世紀を跨ぐ戦術の差で完敗したのもロシアのバルチック艦隊でした。艦首に突き出した衝角で敵艦の横っ腹に体当たりするのが常套だった19世紀の戦法しか知らないロシアの大艦隊を、統一された艦隊運動と射撃管制で日本艦隊が迎え撃ったのが日本海海戦だった、私はウクライナのロシア軍とバルチック艦隊の共通の運命を見る思いです。

 今回までは無人機やドローンはほぼ一方的に敵を叩きましたが、今後はおそらく近未来の戦場で対戦する両軍とも新しい戦術に切り替えると思います。プーチンやブッシュやヒトラーみたいな政治家は将来もいるでしょうから、そういう奴らが外国に侵攻しようと決断する、出撃していくのは安全な後方基地から“リモコン”で操作されている無人機や無人艦艇や無人戦車、そしてそれを迎え撃つ防衛軍も無人機や無人艦艇や無人戦車で応戦する。どちらが勝っても負けても兵員はほとんど傷つかない、私はそういう小説の舞台を高校時代に考えたのでした。

 もちろんそういう戦争になれば、無人兵器の操縦センターがある後方基地や、民間人がいる商工業地帯や都市部を攻撃する作戦が実施されるだろうが、攻めてくる敵の無人兵器を味方の無人兵器で迎撃する、そして隙を見て逆に敵の後方基地や都市部に攻め込もうとする、いずれどちらかの無人兵器が尽きて相手方の弾丸やミサイルが領土内に着弾したところで、おそらくそれ以上の戦争継続は不可能になるから、国家間の紛争も最終的に解決する、将棋の投了みたいなものです。それが近未来の戦争ではないでしょうか。

 もちろん1つ1つの無人兵器は恐ろしく高価な物になるでしょうが、一人前の熟練した将兵を養成する費用や手間に比べたら安いと思いますね。それに人が死ぬのが戦争最大の不条理なのですから、それを回避するためには全世界が紛争の最終解決手段としてリモコン戦争を採用すればよい。ここにさらに究極の防御兵器である光線兵器が開発されれば完璧です。ロシア軍がウクライナにレーザー兵器を動員したとか報じられていましたが、現段階ではウクライナ軍のドローンを撃墜できるほどのものではないでしょう。

 まあ、今は夢物語の『リモコン大戦争』ですが、さらにもう一つの戦争の進化形態が現在進行中です。人も死なず目に見える物も壊れない戦争ですが、こちらはもう裏舞台でバチバチ火花を散らしていますね。サイバー空間における戦争です。相手方の国家機関、軍、企業に対するサイバー攻撃は今後さらに強力なものになって、有人無人の兵器さえも戦わずして敵国の機能を破壊してしまう、場合によっては核兵器と同等の脅威になり得ます。

 日本も国家安全保障戦略などと称して軍備増強を叫ぶ極右グループがいますが、かつて日本はバルチック艦隊を撃破して有頂天になり、半世紀も立ち遅れた戦術で連合軍に立ち向かい完敗した前科のある国家です。リモコン戦争(ドローン部隊)やサイバー戦争への有事の備えはあるのでしょうか。さらに軍事戦略を支える食糧やエネルギーの自給自足や備蓄戦略は万全なのでしょうか。



ウクライナの鏡に映った日本

 先日の記事で、ウクライナ政府が各国の“軍事支援”に感謝する動画を投稿した際、日本の国名を入れてくれなかったと言って憤慨した日本人がいた話は書きましたが、実はもう一つ、日本政府内の一部の勢力がかなりオフィシャルな立場でウクライナ政府に強硬に抗議を申し入れた一件がありました。それはウクライナ政府が公式ツイッター上に投稿した動画の中で、ファシズムは1945年に打倒されたと歴史認識を示すに当たって、主要ファシズム諸国(日独伊の3国)の指導者の顔写真を並べて掲載した、そこには何とドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニと並んで日本の昭和天皇の写真があったということで、日本政府の一部ばかりでなく多くの日本国民の憤激を買ったのです。

 日本政府内の極右勢力が憤慨したのは分かるとしても、日本国民の中にも同調する者が多かった、私はこれは問題だと思うのですね。中にはもうウクライナなんか応援してあげる気持ちも無くなった…などと暴言を吐く日本人までネット上に現れる始末、じゃあ、あなたはロシア軍の横暴を見て見ぬふりをするのかと言いたい。

 私は皇室を敬愛することにかけて人後に落ちるものではない。民の竈
(かまど)に煙が立つようになるまで宮中の華美を慎み質素倹約を励行された仁徳天皇の故事といい、江戸時代の天明の飢饉では後桜町上皇(女帝)が飢えた民衆に皇室のリンゴを分け与えた慈悲といい、近くは震災や水害で被災地の国民に膝を屈して慰問された平成天皇や今上天皇の報道といい、日本の皇室は常に国民に寄り添ってこられたものと理解しています。

 昭和天皇だって太平洋戦争の終結に当たっては、国民の窮地を救うために暴走する軍部を押さえてポツダム宣言受諾を決断、国民の生命を救うために自身は死刑も覚悟の上で占領軍司令部に嘆願に出かけられたのです。これこそまさしく上に立つ者が示すべき高貴なる義務(noblesse oblige)、ヒトラーやムッソリーニとは違います。だから私も昭和天皇がヒトラーやムッソリーニと並べられたことに深い悲しみを覚えます。

 しかし私はウクライナ政府の動画は昭和天皇に対して失礼だと憤激する日本人に問いたい。ウクライナ政府ばかりでなく、おそらく世界の人々から昭和天皇がそのように見られるように仕向けてしまったのは誰なのか、それを考えたことはありますか。

 第一次世界大戦後しばらく経ったあたりから、ドイツを中心にヒトラーに率いられてファシズムが台頭してきた、これは世界史の事実として認めますね。

 次にナチスドイツの総統だったアドルフ・ヒトラーは現代の視点からは到底容認できない軍事侵攻を引き起こして世界平和を乱した、この歴史観も認めますね。

 さらに大日本帝国はナチスドイツと同盟して独伊と共にファシズムの一員として世界の民主主義国家・共産主義国家と戦った、これも世界史の事実として認めますね。

 そして主要なファシズム国家の指導者はドイツはヒトラー、イタリアはムッソリーニ、では日本は誰でしたか?

 当時の大日本帝国憲法では、
「第一条
大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す
「第三条
天皇は神聖にして侵すべからず
「第十一条
天皇は陸海軍を統帥す
「第十二条
天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む
第十三条 天皇は戦を宣し和を講じ諸般の条約を締結す
等、等、何もかも天皇がやることになっていました。

 ドイツ・イタリアと三国軍事同盟を結んだのも天皇、アメリカ・イギリスに宣戦布告したのも天皇、法治国家の国民として当時の大日本帝国憲法を読む限り、ファシズムの一員として世界戦争に突入した責任は昭和天皇にあるとしか言えません。ウクライナ政府のファシズムに関する歴史認識動画は冷徹にこの事実を淡々と述べているだけです。

 それとも何ですか、当時の日本は実体のない幽霊がファシズムのダンスを踊っていただけだ、とでも…?ウクライナ政府に抗議して昭和天皇に責任はないと主張するのであれば、ヒトラーと組んで世界戦争に突入した真の責任者は誰だというのですか?ただ昭和天皇に失礼だといきり立つだけでは、世界中の法治主義国家が認めてくれるはずがありません。

 私はこのサイトで何度も書いてきたように、日本の皇室は時の為政者どもが自分の責任を押しつけて政治利用するための道具として存在させられてきたと考えています。特に武家政治が始まって以来、源氏も北条氏も足利氏も戦国大名も徳川家もそうだった、明治薩長政府も自らの政治責任を天皇になすりつけられるように大日本帝国憲法の条文を制定した、このことを理解せずにウクライナ政府に抗議することはできません。

 日本列島の統治者どもは源平時代よりもっと昔から、自分で政治責任を取らず、天皇や皇族に責任を押しつけてきたという我が国特有の歴史事情を諸外国に説明し、ファシズムと組んで第二次世界大戦に参戦したのも実は明治薩長政府の流れを汲む一派が最終決断を下したことだと理解して貰ってはじめて、ウクライナ政府の動画から昭和天皇の肖像写真を削除して欲しいと要求することができるのです。

 現行の日本国憲法ですら、第7条には天皇の国事行為として、国会の召集、憲法改正の公布、法律・政令・条約の公布、衆議院の解散、総選挙施行の公示などけっこう重要な政治的行為が定められています。天皇がいなくては何もできないのではない、何でもかんでも都合が悪くなれば天皇の責任にしてしまおうという度しがたい国民性が表れていると思いますね。

 もし憲法改正するのであれば、内政・外交あらゆる政治的責任は内閣総理大臣が負うと明記すべきであり、天皇は国民統合の象徴として儀式や式典への出席とか国賓などの接待以外の義務は負わないようにすべきです。しかし政府内の極右勢力の中には再び天皇を国家元首と位置づけたい者もいるようで、どこまで無責任体質なんだか…。

 しかも万世一系の神話と関連させて国家神道の拠り所となし、国民には愛国心を強要する、そういうビジョンがしばらく前から見え見えなのが気になります。ロシア正教という国家宗教をバックに、国の方針に反対する者を裏切り者呼ばわりして国民の忠誠と愛国心を強要しながら、ウクライナ軍事侵攻を強行したプーチンとかいう男と、どこか共通点を感じる政治家がしばらく前に日本にもいたなあと、しみじみ思い出す今日この頃です。世界の鏡は自分の国のことも映してくれますね。鏡に映った自分の姿を見る勇気があるかどうか。



日本経済SOS

 長引くコロナ禍、愚かな国のせいで突発したウクライナ危機、急速に進行する円安、この三重苦により日本経済は今まさに手の打ちようのない泥沼に落ち込んでいます。今週末(2022年7月10日)に投票が行われる第26回参議院議員選挙に向けて、各党および各候補者とも日本経済の再浮上、特に庶民経済の救済を目標にさまざまな選挙公約を訴えていますが、果たしてどの党のどの候補者が言うことが正しいのか、経済学に暗い私にはあまりピンと来ませんね。

 消費税の廃止または減税、一律もしくは生活困窮者に向けての補助金支給、教育費の無償化、等、等…、これこそ起死回生の特効薬と言わんばかりの公約が並んでいますが、まず財源はどうするのか、またその政策は現在の日本経済のどこに作用してどんな効果を発揮するのか、そういう具体的かつ理知的な分析の裏付けも示さず、感情的に有権者のお得感を煽るだけのバラ色の公約の安売りは止めて欲しいですね。

 私は今も言ったように経済はド素人ですが、もう13年も昔に書いた経済崩壊の記事のことは気になっています。多額の資本を持った大型量販店のような業者が、金に物を言わせて商品やサービスを買い叩き、それを薄利多売で売りまくる、そういう価格破壊の安売り合戦を許したことが日本経済へのボディーブローとなって、当時の不況の一因となっているのではないかと書きました。

 生産者やサービス提供者の“商品”を徹底的に安く買い叩き、それを破格の安値で販売する、確かに一時は消費者も物が安く買えたと喜びますが、買い叩かれた人たちは収益が不当に下がって購買力を失う。物を安く買えて喜んだ消費者も経済の別の場面では生産者であり、サービス提供者でもあるわけだから、そうやって社会全体の購買力が減っていけば、今度は自分たちの商品やサービスも買って貰えなくなり、結局は日本全体が地盤沈下していくのではないか、そんな論点でした。

 現在の八方塞がりの日本経済の中で、専門家や時事解説者たちが言うことには、我が国は諸外国と違って物価が上がっても給与が増えないから、金融引き締めをしようにも、インフレ・デフレ対策をしようにも、もうどうにも手の打ちようがないとのことです。つまり他人の作った商品や他人の提供するサービスを買い取る段階で相手の“給与”を保護せず、無慈悲なまでに安く買い叩いたから、庶民経済は物価の上昇に耐えきれなくなった、そういうことではないのですか。

 実はあの記事を書いた直後、まるで私のサイトを読んでくれたのかと思うような意見が何かの投書欄に載りました。投書の主は経済を専門とする先生だったので、別に私の記事を読んでくれたわけではないと思いますが、大手量販店などによる根こそぎの価格破壊が日本経済の根幹を揺るがしているという、まるで私の意見を代弁してくれるような内容でした。

 するとしばらくしてその投書に対する反論が載りました。私と同意見のこの投書主はグローバリゼーションをまったく理解していない、今や経済は全世界的な連携の中で動いているのであって、その中で物を流通させていけば価格は自然に安くなるのだというような理屈でしたが、私は何か違和感というか反感を感じたまま13年間過ごしてきたわけです。生産者もサービス提供者も、百貨店も個人商店も共存共栄できるように、お互いに正当な価格で商品やサービスを流通させることがそんなに時代遅れなのかと…。

 その後、世界的なコロナ感染症の中で各国はグローバリゼーションなどかなぐり捨てて、自国の権益保護に走ったためにマスクなど一部の商品が品薄になったことは記憶に新しい、ウクライナ危機では食糧品やエネルギー資源にも同じことが起きるのは時間の問題です。

 またグローバリゼーションの甘い掛け声のもと、さまざまな農産物や基礎工業製品など不採算部門は次々と海外に下請けに出して、自らはできるだけ楽をすることに血眼になったため、国内産業基盤は著しく脆弱になった、さらに要領よく稼ぐことが金科玉条となったので、もはや日本は世界をリードできるような産業が壊滅的な状況だと、これも最近の経済・経営専門家たちのコメントでよく述べられることです。

 私は経済の専門家ではありませんから、以上のことは的外れかも知れません。しかし私は現在の日本経済が危機を脱するためには、量販店や大手スーパーやコンビニの潰し合いのような“価格破壊”を止めさせる荒療治以外に手はないと思いますね。そもそも経済の原義は経世済民、つまり世を経め民を救う
(よをおさめ たみをすくう)ことだと聞いています。競争相手を打ち負かして一人勝ちを狙うために相手の作った商品や提供するサービスを値切って値切って買い叩くようなことを続けていけば、10年後20年後に日本経済は本当に泥沼に沈むことになるのではないでしょうか。



安倍晋三氏暗殺事件

 まったく今年(2022年)は驚天動地の事件の当たり年なのか、7月8日には奈良県の近鉄大和西大寺駅前で参院選の応援演説をしていた自民党の安倍晋三
首相が銃撃によって暗殺されるという予想もしなかった大事件が起こった。私は個人的に決して安倍氏には与しない。戦後日本の自由と民主主義を保障した日本国憲法の下、古今東西の歴史を通じて最も自由を謳歌できた時代の甘い汁だけはたっぷり吸ってヌクヌクと育ってきておきながら、その時代を“戦後レジーム”などと気取った横文字を使って否定した政治家、私は安倍氏が悲運の死を遂げた今でもその生き方を絶対に容認するわけにはいかない。

 しかし死亡が報道された直後から、事件現場や自宅前や自民党関連施設の前に捧げられた多くの花束や、御遺体を運ぶ車の葬列に別れを惜しむ群衆の姿は、日本国民にとって安倍晋三氏の存在がいかに大きかったかを示すものであり、近くでほんのちょっと接したり声を聞いたり姿を見ただけの人の心をも掴むほど、おそらく私人としての人間的魅力が備わっていたのだろう。

 安倍晋三氏ほど好悪の感情の分かれる政治家も少ないのではないか。私も数年前にひょんな記事投稿からある人とfacebookの友だちになったが、その人はとにかく徹頭徹尾アンチ安倍、安倍晋三氏を蔑称のつもりかわざと“アベシ”と標記して連日のように罵詈雑言を書きまくる、そんなただの感情的な毛嫌いでは何の意味もないので私は半年ほどでブロックさせて頂いたが…。

 アンチ安倍も極端な場合この体たらくであるように、安倍シンパもおそらく同様であろう。好きも嫌いも極端になりやすい人間的特質を安倍晋三氏は持っていたと思われる。そんな影響力の大きな政治家が凶弾に倒れた。自民党は秋に吉田茂元首相以来の国葬を計画しているようだが、私人としての魅力と公人としての評価をゴチャ混ぜにするような葬儀は国を誤る原因となる。

 確かに安倍氏の死に対しては世界各国の首脳や要人から続々と弔意が届けられており、日本の地位を向上させた功績は大きいものの、歯止めない金融緩和で現在の円安脱却を困難にさせているかも知れぬアベノミクスへの評価はいまだ定まっておらず、さらに長期政権の驕りが招いたとも言える加計学園認可問題、森友学園国有地売却問題、桜を見る会の選挙違反問題など、まだまだ疑獄として追求しなければいけない事件は山積していたはず、これらも“偉大な政治家”の死に免じてうやむやにしてしまうのか。森友学園国有地売却問題に関しては財務省近畿財務局の職員が自ら命を絶っているのである。

 これだけ良くも悪くも影響力の大きかった政治家の最期が病死でも自然死でもなく、また事故死や自死ですらない暗殺という衝撃的なものだったことが事態をさらに複雑にしている。自民党の特に極右寄りの勢力から見て、暗殺が安倍氏の国家主義的な思想や言論に対する政治テロであったならば、おそらくこれ幸いとばかり、“自由と民主主義への挑戦”を許すなという大々的なキャンペーンを繰り広げて、自らの施策に有利に運ぼうとしたに違いないが、犯人が安倍氏殺害に向かった動機は何と世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への怨恨だった。

 統一教会といえば、私の学生時代にすでに『原理研究会』として学生信者獲得のために大学構内にも巣くっていて、その後も献金や霊感商法で信者から桁外れの金額を巻き上げるなど、反社会的な行動も目立ったカルト教団である。犯人の母親がこの統一教会に洗脳されて、何と1億円もの金を献金させられて破産し、家庭をメチャクチャにされた犯人が最終的に恨みを晴らす相手として狙ったのが安倍晋三氏だったという。

 祖父の岸信介から安倍晋三氏へと続く政治的系譜と統一教会との癒着は陰ではとやかく言われていたが、献金させられて破産に至った経緯は、教団によるいかに悪辣な洗脳過程があったにせよ、最終的には信者であり続けた母親の自己責任に帰すべきものであり、安倍氏を殺害して解決するものではない。

 しかし自民党はなぜか安倍晋三と統一教会という2つのキーワードが世間で結びつくのを恐れていた。主要な報道メディアが犯人の動機について、“統一教会”というべきところ、“特定の宗教団体”としか報道しなかったのだ。明らかに自民党から規制がかかったか、あるいは報道側が自主的に忖度したかである。すでに“統一教会”の名前が明らかにされた後ですら、“安倍晋三氏”の名前と同じ文脈で報道する時は、ほぼ必ず“特定の宗教団体”としている。これは今回の事件における大きな謎であろう。

 最後に今回の安倍氏の応援演説現場における要人警護の問題も取り沙汰されている。360度の全方位から無防備になる駅前ロータリーで、銃を持った犯人がやすやすと安倍氏の背後に接近し、かなり余裕をもって2回も銃撃するのを許してしまったこと、まさに警察の失態であり、今後来日する海外の要人警護に際しても大きな威信失墜になることは間違いない。

 おそらく日本は銃規制も世界トップクラスだし、せいぜい刃物を持った奴が何か喚き散らしながら闇雲に突進してくるくらいが関の山という油断があったのは確かであろう。まさか何十年来の恨みを募らせた男が精巧で殺傷力の強い銃を製作して、抜かりなく周囲の下見もしたうえで襲いかかってくることなど“まず無い”だろうと多寡を括っていたとしか思えない。

 私がこのサイトのあちこちに何度も書いているミッドウェイ海戦の歴史的教訓が生かされていなかったと言う以外にないが、私は高校時代に読んだ『六機の護衛戦闘機』(高城肇著:講談社:昭和43年)という本を思い出した。昭和18年4月18日にソロモン諸島上空で撃墜された山本五十六連合艦隊司令長官を護衛した6機の零式戦闘機のパイロットの物語だが、山本五十六にせよ安倍晋三にせよ、万が一にも死なせてはならない要人の護衛に失敗したという共通点がある。

 飛行コースは米軍機の航続距離ギリギリであり、まさか途中で米軍機に遭遇することはないだろうという油断、連日の出撃で疲れ切っているパイロットたちに負担をかけまいと出撃機数も大幅に減らして6機にした、さらにそこまでして前線基地で苦労している将兵を慰労してやりたいという山本長官の温情。何となく今回の安倍晋三暗殺事件と共通しているような気がしたわけだが、現場で護衛に当たっていた警察官たちの今後を考えると暗澹たる気持ちにもなる。

 護衛機のパイロットたちは特に叱責も受けず、懲罰的な仕打ちも受けなかったが、やはりあの時長官を護りきれなかったという負い目を感じながら戦い続け、結局6人中5人が戦死、1人も重傷を負ったということである。まして現在は安倍シンパからのネット上の誹謗中傷なども考えられるので、あの日奈良の現場を担当していたということが生涯の負い目になるかも知れないと思うと、深い同情を禁じ得ない。



朝日川柳の功罪

 2022年7月8日の安倍元首相殺害事件と、さらに自民党が国葬を決定したことなどを受けて、7月15日と16日の連日にわたって朝日新聞が朝日川柳のコーナーに事件を揶揄するような句を何句も掲載したことが物議を招いた。私自身は安倍氏の政治姿勢を擁護する気も容認する気もないことは前の記事にもちょっとだけ書いたが、安倍氏ほど国民的に好悪の感情が分かれる政治家は少ないとも書いた。ということは安倍氏を個人的に敬愛し、その死を惜しむ国民もかなりの数に上るわけで、そういう影響力の大きな政治家の死を揶揄するなど、人の道に外れるとは言わないまでも、社会の公器たる大新聞社として心得違いも甚だしいと思う。

 ウクライナ侵略で日本からも経済制裁を受けているロシアのプーチン大統領も弔意を表したし、フランクリン・ルーズベルト大統領が1945年4月12日に現職で死去した時には、すでに沖縄にまで追い詰められていた大日本帝国政府でさえ弔意を表したのである。それが政治家の死に対する普通の礼儀であろう。しかしヒトラーやスターリンの死に対して同様な弔意が示されたかどうかは知らないが…。

 具体的にどんな川柳が掲載されたのか、それを確認せずに論議することはできないので…。
まず15日に掲載されたうちの6句、
 
還らない命・幸せ無限大
☆高裁も最高裁もなかりせば
 銃声で浮かぶ蜜月政と宗
 銃弾が全て闇へと葬るか
 去る人の濁りは言わず口閉ざす
 これでまたヤジの警備も強化され

次に16日に掲載された7句すべてが事件関連。
 
疑惑あった人が国葬そんな国
 利用され迷惑してる「民主主義」
 死してなお税金使う野辺送り
☆忖度はどこまで続くあの世まで
 国葬って国がお仕舞いっていうことか
 動機聞きゃテロじゃ無かったらしいです
 ああ怖いこうして歴史は作られる


 こうして書き連ねているだけで、ああ、品が無いなあと思ってしまう。選者の西木空人という人物はよほど安倍晋三氏が嫌いなんだろうけれど、こうまで品の無い句を選んで掲載するとは、自分と意見や立場を異にする人々が存在することへの想像力が欠如している、つまり自分の考えだけが正しいと頑なに思い込んでいる、こんな人が自分こそ民主主義を理解する人間の一人だと思っているとしたらチャンチャラ可笑しい。

 これに対して日頃から朝日新聞を「アカ」呼ばわりして、さっさと廃刊しろとか、日本から出て行けとか、中国へ行ってしまえなどと口汚く罵る“ネトウヨ”的な人たちも、品の無さや教養の欠如という意味では同罪だ。こういう人たちに支持される政治家が政権を取ったら日本には言論の自由など無くなって、ロシアや中国や北朝鮮や軍事政権下のミャンマーのような国になってしまうだろう。

 今回の朝日川柳に関しては、脳科学者の茂木健一郎さんの意見に全面的に同意である。茂木さんによれば、川柳で政治批判するのは表現の自由で構わないが、今回の朝日川柳は視点が庶民的でなく、権威的な知識人の目線で国家権力に対峙しているので粋
(イキ)ではない、むしろ野暮(やぼ)であるとのこと。江戸の文化である川柳は柔らかなユーモアのセンスを感じられるようなイキなものでなければいけないとのこと。

 特に15日の1句目は最初見た時からどうかしてると私は思った。「還らない命・幸せ無限大」って、安倍氏が死んで幸せだという意味か?後に朝日新聞社が弁解したところによれば、この川柳は安倍氏殺害事件を詠んだものではなく、福島県の原子力発電所事故で津波被害対策を怠ったとして、元東電会長ら4人に対して東京地裁が13兆円を越える史上最高額の賠償を命じたことを詠んだ句であるとのこと。

 確かに“還らない命と幸せ”は無限大だから十兆円規模の賠償金は当然だというようにも読めるが、日本語というものは視覚に訴える要素も大きい。中点「“・”
(なかてん)」で“還らない命”と“無限大の幸せ”が視覚的に対比されてしまいそうな川柳を、安倍氏が殺害されたこういう時期にそのままの形で選句した西木空人氏の国語的教養を疑ってしまう。

 それらはともかく、こういうイキでも何でもない下品な川柳によって浮かび上がったものは、我が国の救いようもない政治とマスコミの現状であった。15日の3句目、
 
銃声で浮かぶ蜜月 政と宗
言うまでもなく、安倍氏を殺害した容疑者の動機は、母親が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に入信して1億円以上を上納させられて家庭を崩壊させられた恨みだったことが露見した句だ。安倍氏がこの宗教関連団体の集会に祝福メッセージを送ったりしていたことから容疑者は安倍氏と旧統一教会の“蜜月”を疑ったとのことだが、第三次安倍内閣時代に教団の名称変更が認可されて、霊感商法や集団結婚式など“統一教会”時代の旧悪を隠して布教できるようになったことも当然認識していただろう。

 また安倍氏亡き後、実弟の岸信夫防衛大臣はじめ何人もの自民党の政治家が旧統一教会との接点を持っていたことを公表せざるを得ない状況に追い込まれたし、伊達忠一前参院議長からは参院選で安倍氏に旧統一教会の票の取りまとめを依頼したなどと爆弾発言が飛び出す始末。さらに東大阪市の公明党の市議も旧統一教会のイベントに出席していたというし、日本維新の会の国会議員13人も同様らしい。おそらくまだまだ氷山の一角だろう。

 つまり自民党をはじめとする一部の政党と旧統一教会はズブズブの関係であったことが、安倍氏銃撃事件で浮かび上がった。まさに朝日川柳のとおりである。しかし問題はそこではない。旧統一教会は私たちの世代の人間ならば大学キャンパスなどに巣くっていた“原理研究会”の記憶と共に、霊感商法や高額献金問題や集団結婚式などの反社会的な活動実態を生々しく覚えている。最近では久しく名前を聞かなくなったなあと思っていたら、何と安倍氏殺害事件に関連して旧統一教会がクローズアップされたので実は驚いている。第三次安倍内閣時代の教団名称変更が統一教会を世間の目から隠していたわけである。

 名称を変えた統一教会による被害はその後も続いていたことは今回初めて知った。統一教会による被害者救済活動は何人もの弁護士やジャーナリストらによって続いていたが、オウム真理教事件終結後は統一教会がマスコミの記事に登場する機会は完全に消滅していたのである。これについてオウムや統一教会による被害者救済に詳しいジャーナリストの有田芳生氏が先日テレビ報道番組のコメンテーターとして驚くべきコメントをしていた。

 実は10年ほど前、警察はオウム真理教の次は統一教会の取り締まりに乗り出す予定であり、有田氏は警察関係者に依頼されて“目つきの鋭い男たち(刑事?)”を前に講義したという。しかしその後いっこうに事態が進まず怪訝に思っていたところ、最近になって当時の関係者から告げられた真相は、統一教会への捜査は“政治の力”で潰されたとのこと。

 何のことはない、それが本当なら統一教会への警察の捜査に政権中枢が待ったを掛けなければ、安倍氏銃撃犯の母親も教団から奪還できたかも知れず、安倍氏も大和西大寺駅前で命を奪われることもなかったかも知れない。統一教会の被害者救済に当たっている弁護士やジャーナリストのグループは何度も政府に統一教会の解散を要求してきたらしいが、聞き入れられたことはまったく無かったという。

 最大の問題は、7月31日放映の『サンデージャポン』という番組で、司会を務める爆笑問題の太田光さんが珍しくマジメな口調で指摘していたこと、本来ならこういう宗教団体による被害者問題などは、マスコミが言論で取り上げ、それを政治が解決していくというプロセスが取られなければいけないのに、今回の問題が明るみに出たのは銃撃というテロ行為によってだった。こんなことを許していたら、今後の日本では世間や政治から無視されて取り残された人々は、ああ、もう実力行使しか道は無いんだなと思ってしまう。

 マスコミは政治家に忖度して彼らが嫌がるような記事は書かない、政治家も支持基盤が強固であればあるほど強権的で傲慢になり、小泉・安倍・菅と続いた政権のように、ろくに説明せず、責任も取らず、自分たちに都合のいいようにやりたい放題、都合の悪いことは聞く耳を持たない、そんな閉塞状況を解決できるのが銃弾だけだとしたら、この国の将来はいったいどうなってしまうのだろうか。私も太田光さんがおっしゃる通りだと思う。朝日川柳の第3句目は決して安倍氏の死を揶揄したとばかりは言えない。下品で野暮ではあるが、こういう日本の閉塞状況を浮かび上がらせたとも言えるのではないか。


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