サドンデスの予告

 サドンデス(sudden death)とは文字通り「突然死」、縁起でもない言葉ですが、ある種のスポーツ競技では同点のままでの延長戦で、一方が得点した瞬間に試合終了となることを指したりしますし、麻雀でまだ半荘が終わっていないのに、突然の事情で終わらなければいけなくなった時にも使います。私がまだ臨床医時代、せっかく4人揃って雀卓を囲んでいる時に、突然緊急コールのポケットベルが鳴ってゲームオーバーということもありましたね。患者さんを助けるために麻雀のゲームが突然死するわけです(笑)。

 ところで今回のサドンデスはそういうことではありません。私が使っているWindows 7のマシン、エクスプローラーが正常に作動しなくなって、そろそろWindows 10へのシステム交換をしなければいけない…などと書いていたのが2016年の6月頃でしたが、何と信じられないことにあれから3年以上、私はまだWindows 7で頑張ってきました。もちろん自動更新はオフにしておかないとまたエクスプローラーが動かなくなってしまうので、3年前のままのWindows 7です。マシンも私もよく頑張りました。

 後継機としてWindows 10搭載のマシンも買ってありましたが、もう1年半ほど放置したままです。だがついにWindows 7マシンにも寿命が迫ってきたようです。ウィルスソフトがスキャンしてくれないとか、データ通信がフリーズするとか、ちょっとよくない徴候が目につくようになりました。もはやこれまでか…、仕方なくWindowd 10搭載マシンの埃を払ってシステムの入れ替えに着手しました。

 しかしやっぱりWindows 10は嫌いです。大体余計な機能ばかり起ち上がってきて、作業の速度が遅すぎる。私のようにもう四半世紀近くもコンピュータに慣れ親しんできた人間は、キーボード操作が速いのです。Windows 10はその速さに十分ついて来れないのですね。マイクロソフト社のプログラマーも代替わりした若造ばかりで、10年前のWindows Vistaの教訓も忘れ去られてしまったのでしょう。

 Windows 10の使い勝手を簡単に例えるなら、お絵描きの時間に白い画用紙ではなく、すでに下絵の描かれた塗り絵の教材を渡されたようなもの。白い画用紙を用意してくれれば、風景画でも漫画でも抽象画でも、リンゴでも飛行機でもライオンでも人の顔でも、こちらの才覚次第で何でも好きなものを自由に描けるが、塗り絵の教材はそうは行かない。ミカンを描きたいですか、これをどうぞ、船を描きたいですか、これをどうぞ、え?、帆船を描きたいって?これで我慢して下さい、え?右向きじゃなくて左向きの船を描きたいの?

 とにかくいろんなアプリケーションを動かしてみても、確かにメニューは豊富にあるように見えますが、ユーザーの自由な裁量はかなり制限されているのを感じます。それでもインターネットへの接続とメールの送受信の設定だけは行なって、ウスノロながらも何とか役に立つようには調整しましたが、問題はホームページの更新です。私は「ホームページビルダー7」を使っていますが、これが15年の間に「ホームページビルダー21」にバージョンアップ、JUST社のソフトですが、これがまた余計な機能満載のうえ、“取り扱い説明書”の機能が不備で、既存のサイト内容をプロバイダへ送信しても、ファイルの名前の付け方の説明が不親切でうまく更新ができない。いじくっているうちにWindows 10でのサイト更新などする気がなくなりました。

 もう私はWindows 10とは最小限のお付き合いしかするつもりはありません。マイクロソフトやアップルやJUSTなどという会社の独り善がりな若造プログラマーの掌の上で踊らされるペットのようなユーザーで終わりたくはないのです。思い返してみれば、Windows 2000やWindows XPの時代が一番良かった、いかにも人間が使うマシンという感じがしましたね。しかしWindows Vistaの頃からだんだんユーザーは機械の奴隷、いや独り善がりで高慢なプログラマーの奴隷に成り下がってしまいました。

 私は必要最小限の機能以外はWindows 10を拒否することにします。人間は機械の奴隷ではないのです。そして『Dr.ブンブンの休憩室』のサイト更新ですが、Windows 7マシンを何とか騙し騙し起動させて細々と更新することにしました。したがってこれまでのように律儀に1ヶ月に4回ずつの更新はできないかも知れませんし、場合によってはWindows 7のクラッシュによって更新不能になることも予想されます。その時はサドンデスということで、もし2ヶ月以上更新が無かった場合は、古いマシンがクラッシュしたということでご了承下さい。まことに勝手な言い分ですが、永らくのご愛顧ありがとうございました。しかしまだ当分は今後も細々と続きますのでよろしくお願い致します。


それでもカーナビ任せっきりですか?

 カー・ナビゲーターの問題点については以前このコーナーに書いたこともありますが、どうもカーナビに誘導されたとしか私には思えない大事故が起こってしまいました。2019年9月5日午前11時40分頃、横浜市内の京浜急行電鉄(京急線)の踏切で、大型トラックと下り列車が衝突した事故です。列車は8両編成のうち3両目までが脱線、特に先頭車両は45度近くも傾いて止まった写真が生々しい。13トン積みの大型トラックが線路上を80メートルも引きずられて炎上、ガソリンに引火して電車が爆発する大惨事も起こり得た事故でしたが、電車の乗客の方々が軽傷で済んだのは不幸中の幸い、ただトラックの運転手は亡くなってしまいました。

 事故の原因は9月7日現在、警察や専門家が調査中ですが、トラックは横浜の倉庫で柑橘類を積み込んで千葉県成田市へ向かう途中、国道を右折して首都高速に乗るのが大型車としては最も安全確実であるはずのところ、なぜか国道を左折して迷走したあげく、道を知っている大型トラック運転手なら絶対に通らないような細い道に入り込み、その出口から左折を試みて失敗、逆に右折しようとして踏切に突っ込み、曲がりきれずモタモタするうちに電車と衝突したとのことです。

 京急は私が横浜の大学を受験した頃から猛スピードで驀進するイメージが強く、沿線住宅地のカーブをジェットコースターのように走るので、この大学受かったら毎日こんな怖い電車で通うことになるのか…と不安に思った記憶がありますし、今でも京急沿線の踏切や急行通過駅などで目の前を横切る列車に恐怖を感じる瞬間もありますが、そんな運行をしながら京急には自動列車停止装置(ATS)が装備されておらず、非常時には運転士の手動ブレーキだけが頼りだということも報道されていました。京急側にも何らかの責任は免れませんね。

 しかし大型トラックの運転手も何でまたそんな細い道に入り込んだのでしょうか。横浜の道を知るトラック運転手なら絶対に通らない道だという証言もあるし、運送会社の同僚も何で教えた道とは違う道を選んだのかと疑問を投げかけています。この運転手にとっても今回の運送ルートは決して初めてではなく、何で魔に魅入られたように細い道から踏切への右折ルートを選んでしまったのかは謎のようです。

 そこで私がピンときたのは、この運転手はカーナビに誘導されたに違いないということです。今のところあまりカーナビと関連づける人はいないようですが、1件だけ今回の運転手は携帯電話のカーナビを使っていたという会社の同僚の証言を報じているニュースサイトがありました。

 幾つかのニュースサイトをまとめると、今回の運転手は倉庫を出発してから国道15号線(第一京浜)を右折して首都高速に乗れば良いところ、逆に左折してしまったのが発端のようです。最近ではたぶん運送会社も高速道路は自動的に課金されるシステムを利用しているはずですから、一般道を通って高速料金を浮かそうとしたとは考えにくい。何らかの錯誤で右折すべきところを左折してしまった、私が車を運転していた時は、方向を間違えたら常に左折〜左折を繰り返して元の方向へ戻ることをバカの一つ覚えでやりましたが、今回の運転手の場合、カーナビが余計なことを指示した可能性があると思います。つまり右折して国道1号線(第二京浜)に出てから首都高速に向かえと…。

 しかし普通の乗用車や中型トラックならそれでも良いが、そのルートだと高さ制限のあるJR線路のガード下を通らなければならす、背の高い大型トラックは通行不可能だった。地図で見る限り、こうなったら大型トラックでも今回の事故現場となった細い道を強行突破するしかなかったのではないでしょうか。私だったら右折と左折を間違えた段階で、もうカーナビなど信用せず、左折〜左折の繰り返しで元の道へ戻ることしか考えなかったと思います。

 もう運転を止めた人間が何を言うかと思われるかも知れませんが、私は愛車を手放した後も、最近では健診の車に乗せて貰って、いかにカーナビが信用できないかを実際に目の当たりにしているのです。例えば私の地元の練馬で仕事が一つ終わった後、次の仕事へ向かうための幹線道路へ出るには、右折して数百メートル直進するだけで良いのですが、何とカーナビは左折した後さらに右だ左だと住宅街の中を1キロ以上もクネクネ走るルートを指示したのです。GPS(全地球測位システム)で誘導され、各道路の交通規制も網羅しているはずのコンピューターが機能していながら、何でこんなことが起きるのか、私は唖然としたものです。

 これでもまだカーナビを全面的に信頼しますか?問題はカーナビだけではありません。私が常々疑問に思っていること、ローカルな例で申し訳ありませんが、最近では電車やバスの乗り換え案内もネットで検索できるようになりました。不思議なのは池袋〜新宿間をJRで行く場合、検索システムは必ず目白・高田馬場・新大久保を各駅停車で行く山手線を指示するのです。ノンストップで池袋〜新宿間を並行して走る埼京線や湘南新宿ラインを指示してきた試しがありません。乗車位置によっては、池袋でも新宿でも私鉄各線への乗り換えの便宜に極端な差が生じることもないのに、もしかして乗り換え検索システムのプログラムには山手線しか入ってないのでしょうか。

 ネットやコンピューターが教えてくれるから全面的に信頼できるという幻想は危険です。今回の京急踏切事故の運転手の場合、まだそうと決まったわけではありませんが、方向を間違えたら左折〜左折で元の方向へ戻る原則を忠実に守っていれば良かったものを、カーナビの指示を信用したばかりに魔の道へ入り込んでしまったのではないかと悔やまれてなりません。千葉県を本拠地にする運転手だそうですから、アウェイの地の横浜でもし第一京浜から第二京浜へ抜けようとしたのであれば、それはカーナビの指示だったと考えるのが妥当です。

 運転ルートや電車乗り継ぎの検索だけではありません。ネットやコンピューターへの全面的な依存は人類の存亡にも関わる可能性があります。先日ウィキペディア(Wikipedia)から寄付の依頼がありました。皆さんのところにもあったと思いますが、商業ベースでない情報検索システムの維持にはユーザーからの浄財が必須とのこと、私も時々利用させて貰っているし、何かネットで検索しようとすると必ずウィキペディアが上位に引っ掛かってくるので利用せざるを得ない面もあるので、一応寄付には応じましたが、こういう便利すぎる情報検索システムは両刃の剣だと思っています。

 若い人たちが自分で物を調べなくなった、自分の頭で物を考えなくなった。何でもネットを検索すればそこそこの情報が得られるので、それが真実であると思い込むようになった、その方が手軽で面倒くさくないですからね。学生にレポートなんか書かせると、ウィキペディアに出ていたような画一的な内容が多かったです。人類が自分の頭脳を酷使しなくなったら、人類たるゆえんを自ら放棄するようなもの、ウィキペディアで何か情報を得たら、必ず一度はそれを疑ってみること、別の資料で裏付けを取ること、情報の出典を自分自身でも確認すること、そういう一見面倒な知的作業を億劫がっていると、とんでもない道へ連れ込まれてしまう危険性があります。

 もはや多くの人々が利用している(利用させられている)ウィキペディア、唯一の救いは商業ベースのスポンサーがついていないこと、もし政治団体や商業団体に牛耳られるようになってしまったら、人類全体がある特定の方向へ引きずられる危険も十分あります。それを防ぐためにとりあえず寄付してみました。


恐るべし彼岸花

 夏が来れば思い出すのは尾瀬の水芭蕉ですが、私にとって秋が来ると思い出すのは高麗郷の彼岸花(曼珠沙華)です。毎年9月のお彼岸が近づくと、ああ今頃は高麗郷の巾着田にも真っ赤な彼岸花(曼珠沙華)が咲き乱れてるだろうな、何とか時間を作って行きたいなと思いながらも、最後に行ってからもう6年も経ってしまいました。

 今年(2019年)は夏の暑さが長引いたせいか花の時期が例年よりずいぶん遅いみたいですが、定年退職して時間にも余裕が持てるようになったので、令和初の高麗郷訪問を思い立ちました。高麗郷の彼岸花は見るたびに毎回いろいろなことを考えさせてくれたり、思わぬことを勉強させてくれたりしたものですが、今年はとんでもないことを初めて知ることになったのです。お前、今までそんなことも知らなかったくせに、よく医者なんかやってたなというくらい恥ずかしいことでした。この花の色より鮮やかに赤面してしまいそう…(笑)。

 彼岸花に関しては、さまざまな人がネット上に正しいこと、たぶん正しいこと、きっと間違っていること、絶対間違っていること、いろいろな事を記事にされていますが、その中でこれだけは知っておかなきゃダメだよというのは、赤い彼岸花は三倍体であるということです。

 生物学に詳しくない方のためにちょっとだけ解説しておくと、私たちは父親からDNAを1セット。母親からもDNAを1セット受け取って、合計2セットのDNAを活用しながら生存しています。父親と母親からのDNA1セットずつは、それぞれ染色体23本に載っていますが、この染色体23本に載った1セットのDNAを持つ細胞を一倍体といいます。精子や卵子は一倍体です。

 ヒトの場合、23本ずつの染色体を持った精子と卵子が受精してDNAを2セット持つようになった受精卵は46本の染色体を持つ二倍体ですが、受精卵からスタートして私たちの身体を構成する細胞も二倍体ということになります。その細胞が精子や卵子を作る時は減数分裂という細胞分裂を行なって一倍体の細胞になる、そしてそれらが受精して再び二倍体の子供ができるということです。

 染色体の数は生物の種類によって異なることはご存知ですね。ヒトは46本、チンパンジーは48本、ネコは38本、ウマは64本、イヌは78本、金魚は104本、植物だとイネは24本、コムギは42本、等、等…、いずれも二倍体としての染色体数です。しかし彼岸花の染色体は33本、1セット11本の染色体が3セットあり、これを三倍体といいます。通常は2セットの二倍体が生物の基本形ですから、3セットある三倍体とか、4セットある四倍体などは倍数性の染色体異常と分類しています。

 私は小児科医時代にしばらく遺伝・染色体外来を担当していましたが、ヒトなど陸上の生物には倍数性の染色体異常は存在しないということで片付けていました。しかし一応まがりなりにも染色体異常の専門家を自認していた時期があった者としては、三倍体の植物が群生して咲き誇っている事実を少しも知らなかったなど、穴があったら入りたいほど恥ずかしい。しかし三倍体はヒトで言えば、染色体69本の種族が繁栄しているのと同じこと、動物の場合はこういう倍数性の染色体異常は流産胎芽にしか見られないのですから、まあ、多少の慰めにはなりますが…。

 ところで生物の基本形である二倍体の個体は、減数分裂によって一倍体の配偶子(精子、卵子、花粉など)を形成して、次の世代の個体で父親と母親の配偶子が受精して二倍体に戻るという生殖を行いますが、三倍体の個体はそういう正常な減数分裂ができませんから、植物ならば種子ができない。だから個体の一部から新しい個体の芽が生えてきて、それがやがて新しい個体となって成長していくという増殖形態を示します。いわゆる“むかご(零余子)”というヤツですね。もし先ほどの三倍体のヒトの種族が繁殖するとすれば、やはり“むかご”のように親の体の一部から子供の体の芽が生えてきてやがて分離するわけですから、これはもうホラー映画の世界です。

 三倍体でも繁殖できる植物恐るべし…ですね。三倍体は彼岸花だけでなく、現在我々が食べているバナナもそうです。だから種がない。原種の二倍体のバナナは種がグチャグチャ入っているらしいですが、ある時点で減数分裂に失敗して二倍体のままの配偶子ができてしまい、それが正常な一倍体の配偶子と受精したことで2+1=3の三倍体になり、現在も繁殖しているとのことです。

 彼岸花も原種は二倍体の赤い花だったと考えられているそうですが、これが黄色い鍾馗水仙(ショウキズイセン)という植物と交配して白い彼岸花が生まれたというのが植物界の通説らしいです。俗に黄色い彼岸花と誤解されているのが鍾馗水仙であると、いろいろなサイトに書いてあり、サイトによって記載が一致しない点もありますが、特に農学部系の植物遺伝学の専門家が記載しているサイトを中心にまとめてみると、そういうことだそうです。

 私も今回の高麗郷行きで黄色い彼岸花のような花を見つけましたが、これが鍾馗水仙でしょうか。私がまだ彼岸花は二倍体であると信じていた頃にこのサイトに上げた記事の中で、赤い彼岸花百万株に対して白い彼岸花が1株くらいあるから、遺伝学のある法則を当てはめてみると、500株に1株くらいの彼岸花が白い花の遺伝子を持っているなどと書きましたが、これはウソです(恥ずかしい)。その法則は、実はHardy-Weinbergの法則というのですが、これは二倍体の生物についてのみ当てはまります。

 この法則の基礎には有名なメンデル(Mendel)の法則がありますが、逆に考えると、もしメンデルが交配実験の材料にした植物が二倍体のエンドウマメでなく三倍体の彼岸花だったら、遺伝学の中でも特に基本中の基本、あのメンデルの法則の発見は、さらに後の時代に持ち越されていたでしょう。

 あるサイトに書いてあった植物遺伝学の専門家のコメントでは、三倍体の植物では突然変異で劣性遺伝子が発生しても、その形質が発現する機会はほとんどないとのことでした。だから昔々朝鮮半島を通って中国から持ち込まれた真っ赤な彼岸花だけが現在も日本列島で咲き誇っている、たまに白い花があるのは鍾馗水仙との雑種だというのを通説として信じているのが無難なのですが、私はそうとばかりも言えないんじゃないかと思います。

 私が今回高麗郷で初めて見つけたのはピンクの彼岸花、この記事の最初に載せた2枚の写真のうち右側、赤や白の彼岸花に混じってピンクの花が咲いているではありませんか(画面の左寄り)。3セットある染色体のうちの1セットに白花の劣性遺伝子が発生すると花は少しピンクになる、さらに2セットに白花の劣性遺伝子が含まれるようになるとさらに淡いピンクになる、そういう仮説も考えられると思うんですけどね。ピンクの彼岸花はあり得ないと断言するサイトもありますが、私はもう少し観察を続けたいと思います。

 さてオオマツヨイグサでは突然変異の四倍体も知られ、またトマトやキャベツでは人為的な四倍体も存在するなど、植物は染色体のセット数が2倍体でなくとも生きていける、その遺伝的な逞しさは驚くばかりですが、実は動物でも倍数性の染色体異常を示す個体がいるらしいというから、さらなる驚きです。魚の受精卵のきわめて初期にある温度変化を刺激として与えると三倍体の個体が発生するそうですが、この三倍体は精子や卵子を作らず産卵しないので、いつまでも成熟せずに体だけがどんどん大きくなる、しかも味が落ちないということで、水産資源として価値のある魚類には盛んに研究・応用されているとのことです。

 この三倍体の魚、自然界でも何らかの偶然の作用によって生まれることがあるらしく、池や沼の主
(ぬし)として語り伝えられるような巨大魚には三倍体がいるらしい。昔『釣りキチ三平』という矢口高雄さんの漫画が週刊少年マガジンに連載されてましたが、あの作品に出てくる巨大な魚たちはたぶん三倍体だったと思います。生物の巨大化は染色体の倍数性変化によってもたらされるというのは真実のようです。先ほどの四倍体のトマトやキャベツもビタミンの含有量が多いんだそうです。ゴジラも放射能による“突然変異”で巨大化したのではなく、染色体が五倍体にでもなったんじゃないか(笑)。

 実は太古の時代に魚類の倍数性変化が起こったおかげで現在の我々があるとも言えるそうです。生命が地球上の陸地に進出するに当たり、魚類の染色体が倍数性変化を起こした、ということはさまざまな遺伝情報を書き込むDNAの量が一挙に増加したということです。つまり今までUSBメモリを1個しか持っていなかった人が、もう1個新しいUSBメモリを手に入れたようなもの、最初は古いメモリと同じことしか書いてなかったが、それらを順次突然変異で手直ししながら、陸上生活に必要な肺や筋肉や骨格の遺伝情報に書き換えていった、そしてその先に陸上動物の繁栄があり、人類の誕生もあった。

 そう考えてくると、すでに基本的には二倍体でなければ繁殖できなくなった陸上動物よりも、三倍体で繁殖する種族も珍しくない植物の方が、遺伝情報を書き込む容量を一挙に増加できるので、遺伝学的に進化する可能性がはるかに大きいように思えます。何十万年も後の地球上にはいったいどんな植物が栄え、どんな動物がそれと共存しているのか。想像するだけでもワクワクしますね。


恐るべし魚類

 前回の記事で、三倍体の彼岸花のように倍数性の染色体異常があっても繁殖するタフな植物について書いた折に、魚類でも染色体の倍数性の異常は起こり得る、それどころかそれが生命の陸上への進出を実現した可能性もあると書いたところ、そんな魚類のタフネスを裏付けるようなニュースがありました。恐竜はメスだけにしてあるから復元した恐竜が勝手に繁殖するはずがないと断言した映画『ジュラシック・パーク』の科学者たちの無知を彷彿とさせるニュース…。

 魚津水族館で10年間にわたってメスしかいなかったドチザメの水槽に次々に子供が生まれたというニュース、DNAを検査したところ単為生殖(処女生殖)の可能性が高いとのことです。一倍体の卵子が受精によらないで、自分自身をそっくりそのままコピーして二倍体になる生殖を指しますが、実際その水槽で生まれた子供のドチザメのDNAを調べても、オスの精子から受け継いだと考えられる遺伝子が見つからなかったわけですね。

 人間がメス…失礼(笑)、女性だけで単為生殖しようと思ったらクローン技術に頼るしかありませんが、生物進化の下位にいる動物ほどその生殖方法は多様性を示します。自然界の群れの中でオス/メスの比率が大幅に狂うことは種の絶滅を意味する重大事ですから、脊椎動物の中でも底辺に属する魚類は実に巧妙な方法でこの危機を回避しているらしい。今回の魚津水族館で観察された単為生殖も、群れにオスがいなくなった時の緊急避難的な方策だったとする意見もありますし、他にもサメの仲間では同じような事例が観察されているようです。

 生物は遺伝的に厳密なオスとメスがいて初めて繁殖するというのは幻想です。また生物学的な男女(オス/メス)は遺伝によって決まっているという先入観は、哺乳類などの高等な脊椎動物に限って通用する話ですが、一応性染色体が遺伝的に性別を決定しているということは中学や高校の生物学で習いましたね。人間など哺乳類は性染色体がXY型、つまり同じもの(X)が2つ揃ったXXがメス(♀)で、違う組み合わせXYがオス(♂)ですが、鳥類はZW型、同じもの(Z)が2つ揃ったZZがオス(♂)、違う組み合わせZWがメス(♀)になるそうです。

 医者は人間しか知りませんから、広い生物界の性決定機構にはまったく無知です。だから性染色体によって性別は絶対的に決まるなどという幻想に取り憑かれていますが、自然界では集団中の適正な性別比を保つために、生物は必死の試行錯誤を繰り返して進化してきました。爬虫類などは環境の温度によって性転換するらしいし、さらに魚類の中には周囲にオスがいなくなると集団中の最も大きなメスがオスに性転換するのもいるらしい。

 人間でこんなことが起こったら大変ですね。いつもは背広で通勤する男性が「今年の夏は暑いから女性になってミニスカートを穿く」と言って実際に女性に変身したり、女子大とか女子高とか若い女性ばかりがいる空間で一番体格が大きくて威勢の良いお嬢さんが、「そんなら私が男になってみんなを相手してあげるわ」とか何とか言って、体内のホルモン環境を変化させ、身体の構造まで男性になってしまうようなものです。しかし実際に一部の魚では、自分より大きなメスがいないと視覚的に認識したメスは、ホルモン環境を変化させてオスになってしまうとのこと。

 上皇陛下(平成天皇)がご専門にしておられるハゼの仲間では、メスばかりの集団の中で自分より大きいのがいないと見て取ったメスハゼはオスハゼに性転換するが、さらに自分より大きな個体が出現したのを見ると再びメスハゼに戻ってしまうという器用なのもいます。

 人間のような高等哺乳類でも魚類などが持っていたこういう能力の痕跡が残っているかも知れません。最近よく話題になるLGBTですが、これは人類にもまだ遺伝的に決定された性別を超越できる潜在的能力が残っていることを示していると思います。そういう人々の中のトランスジェンダー(自分の遺伝的な性別と、自分が望む性別が一致しない人)を“性同一視
障害”と呼ぶこともありますが、これは障害でも何でもありません。人類の中の多様性を示す事例ですから、決して異常ではないわけです。WHOの疾病分類でも、トランスジェンダーは精神疾患の分類から外されました。

 魚類は地球上の生命の先輩である植物のように倍数性の染色体
異常でも生存している個体がいる、だから三倍体とか四倍体とかは生命全体で言えば“異常”ではない。むしろ魚類は倍数性を武器に陸上への進出を果たしたとも言えるのですから、彼岸花の三倍体に驚いていた自分の無知を恥じます。魚津水族館でドチザメのメスが処女生殖を行なって子供を産んだのも、魚類はまだ染色体を倍加させても生存・繁殖できる能力が強かったせいでしょう。

 人間ではもう処女生殖(単為生殖)まではできません。人間で処女生殖が起きると、奇形腫という腫瘍になってしまいます。皮膚だとか髪の毛だとか歯だとかいろんな組織がグチャグチャ雑然と袋詰めになったような腫瘍です。ただ2000年くらい昔には、自分は聖なる母親から処女生殖で生まれたなどと真っ赤なウソをつく新興宗教のペテン師がいたそうですが、まさか科学万能の現代でそんなイカサマ宗教に惑わされる人はいないんじゃないかな。
(註1:万々々々に一つ聖母の処女生殖で子供が生まれたら、性染色体はXXの女児になります。)
(註2:万々々々々々々に一つ、精霊なる存在が身ごもらせたとしたら、その宗教は夫のいる女性への姦淫を奨励するとんでもない宗教です。)


学校ではイジメも教えます

 まったくこの国は昼時のワイドショーネタに事欠きませんね。私のこのサイトのネタにも事欠かないわけですが(笑)、女子高校生を自宅マンションに呼んで狼藉を働いた芸能人とか、相手チームの選手に怪我をさせろと指示したアメフト部の監督とか、アクセルとブレーキを踏み間違えて歩行者を殺傷した高齢の元エリート官僚とか、大麻常習の人気歌手とか、国有地売却で甘い汁を吸った政治家のようなもっと大きな悪人どもが、自分たちに矛先が向かないように仕組んでいるのではないかと思えるほど、次から次へと視聴者受けする悪役(ヒール)が登場してマスコミを賑わわせています。

 今年(2019年)秋口の旬の悪役(ヒール)は、何と言っても神戸市の某公立小学校の教師たちでしょう。報道によれば、40歳代の女性教師1人と30歳代の男性教師3人が徒党を組んで20歳代の後輩教師をいじめたということ、イジメは子供たちの問題とばかり認識されていた現代日本社会にとってきわめてショッキングなニュースでした。大人が大人をいじめる、それも子供たちに「イジメはいけないよ」と教えるべき小学校の先生が同じ学校の先生をいじめた、まあ、前代未聞と言っていいニュースではありました。

 そのイジメの手口も子供さながら、いや、子供たち以上に陰湿とさえ言える。辛い食物が苦手な後輩男性教師を学校の家庭科教室で押さえ込んで激辛カレーを無理やり食べさせる、そのカレーを顔面に塗りつける、そして苦しむ様子を動画に撮影する、児童の前で笑い物にする、その標的教師の携帯電話を隠す、勝手にロックを掛けて使えないようにする、標的教師がまだ残業中なのに自家用車で送らせる、その車内でわざと飲み物をこぼす、またその自家用車の屋根に登って踏みつける、標的教師が授業で使う児童用のプリントに水を掛けて汚してしまう、こうやって報道内容を列挙するだけで情けない思いになりますが、さらにある週刊誌によれば、後輩の男女教師に性行為を強要してその動画を別の教師に送付させる、これはもう犯罪ですね。標的にされた後輩教師は1人ではなく、20歳代の複数の男女教師が被害者だそうです。

 学校の教師がそんなイジメをするなんて…と世間は驚愕しましたが、考えてみれば教師が鬼畜のようなイジメをしたのではなくて、どこの世界にも鬼畜のイジメっ子はいるということです。今回の神戸のイジメ教師どもをマスコミやネットの前で土下座の懺悔をさせたって、日本の現代社会に深く根付いたイジメの土壌を払拭することはできないと考えるべきです。学校でのイジメについて以前の記事にも書いたように、いじめるのは弱い人間だから、徒党を組んで自分よりさらに弱い人間を攻撃することによって必死に自己を防衛しようとしている、というのが私のイジメ全般に関する見解です。子供たちのイジメも教師たちのイジメも、社会のあらゆる場所のイジメと基本構造は変わりません。

 旧日本陸海軍も制裁という名目のイジメが横行する温床だったそうですが、駆逐艦“雷
(いかづち)”の工藤俊作艦長の話は印象的です。惠隆之介氏の『敵兵を救助せよ!』(草思社)という本を読むと、工藤さんは雷の乗組員に鉄拳制裁を禁じ、工藤さんの艦長時代には艦内で上官によるイジメが無かったと書いてありますが、そんなことができたのも工藤さんが“強い”人間だったからだと私は思います。

 駆逐艦雷は1942年(昭和17年)3月2日、前日のスラバヤ沖海戦で撃沈したイギリス重巡洋艦エンカウンターの漂流者を発見、敵潜水艦の脅威がある海域で艦を停止させて422名もの英国海軍将兵を救助し、翌日オランダの病院船に引き渡しました。この話が“武士道の美談”として日本でも報道されたのは戦後になってから、それも救助された元英国海軍士官がこの話を論文として公表した1987年(昭和62年)からさらに10年以上も経過してからのことでした。

 助けてしまえば後日味方に仇をなすかも知れぬ敵兵を救助して連合国側の病院船に引き渡すという行為、今でこそ人道的と言って賞賛されるかも知れないが、そんな戦後日本ですら当事者が長いこと口にするのも憚られていた事実です。戦時中の大日本帝国でそれを敢然と実行した工藤艦長は強い人間だったと思うし、敵潜水艦から返り討ちを食らうかも知れぬ海域で部下の乗組員たちがその統率に服したのも工藤艦長が強い人間だったからではないでしょうか。乗組員たちは工藤艦長に心から敬服していたといいます。

 鬼畜米英のスローガンの下、工藤艦長のような強いリーダーを持てなかった日本海軍艦艇の中には、捕虜の敵兵や女子どもを含む抑留者の民間人までを殺害して海中に投棄、戦後戦犯に問われる事件の舞台になったものも何隻かあります。弱者はいたわらなければいけない、弱者をいじめてはいけない、そんな平時の高尚なヒューマニズムなど戦争になれば微塵に吹き飛んでしまうのです。そんなデリケートなヒューマニズムを憎悪の嵐の中で守れるのはよほど強い心の持ち主だけというわけですね。

 ではなぜ平和な現代日本の学校でイジメが頻発するのか?しかも教師までが率先してイジメの加害者になっていたのは、単に神戸の小学校に鬼畜の教師が4人も集まってしまったという偶然だけが原因なのか?私は日本の教育の荒廃を感じますね。現在マスコミやネットの“標的”になっているイジメ教師だけに原因があるのではありません。「事態を重く受け止めて厳正に対処し、再発防止に努めます」などと一応神妙な顔で雁首を並べ、他人事のようなコメントを垂れ流している文部科学省や教育委員会のお偉方どもこそ粛正されるべきです。

 現代日本の教育界に身を置く者は教師だけに限らず、教育を受ける側の児童・生徒・学生まで含めて、戦争の憎悪にも匹敵する厳しいストレスに晒されているからイジメが無くならないのではないでしょうか。子どもたちは所定のレベルまで得点能力を高めなければ試験で判定され、ふるい分けられ、上級学校への進学から将来の就職までも制限されてしまう、こういうストレスから子ども同士がイジメに走る構図は何となく理解できると思いますが、それは教師も同じこと、担当の児童・生徒・学生の得点能力を高める教育能力を判定され、教師としての能力をランク付けされ、将来自分の教育者としての道まで限定されてしまう、工藤艦長のような強いリーダーがいない小学校で教師たち同士が陰湿なイジメを繰り広げたのは当然の結果です。

 聞くところによれば、学校の先生方に対する文部科学省や教育委員会からの締め付けの管理はきわめて強化されているそうです。教育内容、教育方法、課外活動分担、児童生徒の管理方法など、教育者としてのあらゆることが上意下達で細々と規定され、実行できたかどうかを仔細まで評価され、上司や上部組織からまるで奴隷のように管理される、その中で教師も生徒も自分よりさらに弱い者を標的にして攻撃を爆発させるのは当たり前、今さら驚くに値しません。

 小中学校や高校のことはよく知りませんが、最も教育の自由が残されているはずの大学でついこの前まで教職にあった私に言わせれば、大学の現場もひどかったから、初等・中等教育の現場は推して知るべし。大学教育でもルーブリックだのポートフォリオだの洒落た名前の付いた机上の空論に過ぎない教育理論が横行し始めていることは別の記事でもちょっと触れましたが、そういう愚にもつかない教育方法を実践している大学を内容も知らずに評価する監督官庁、そしてお役人様に良い顔をしたい学校経営者や学校管理者に尻尾を振るしか能の無いバカ教員、かつて最高学府と呼ばれ学問の自治を最大限に尊重された大学ですらその有様だから、小中学校や高校の惨状は想像するに余りあります。

 私はルーブリックもポートフォリオも足蹴にして板書とプリントだけで病理学や生化学を講義してきましたが、退職後3年目になっても「先生のノートは今でも役に立ってます」と何人もの教え子たちから感謝されています。それが私の教員としての誇りですが、そういう誇りを持てない弱い人たちは、もっと弱い人たちを奴隷のように管理しなければ自分の存在意義すら見失ってしまうのでしょう。それがちょっと行き過ぎれば鬼畜のイジメになる。監督官庁の役人も、学校経営者や学校管理者も、現場の教員も自分の職業に自信と誇りを持てない弱い人間ばかり、人の上に立つ日本人は今こそ伝説の宮本武蔵のように自分を磨いて強く向上する努力が求められています。


後手後手の近視眼行政

 私がもし近眼でなかったら、今頃はキャプテンブンブンの航海記なんていうサイトを起ち上げていたかも知れないなんて書いたこともありましたが、私は高校時代から近眼で視力が足りなかったため、憧れの護衛艦長にもなれませんでしたし、商船大学にも進学できませんでした。その後もずっと近眼が改善することもなく、当然のことながら自動車の運転免許も眼鏡使用の条件付きでした。

 ところが2016年(平成28年)のこと、還暦を過ぎて初めての運転免許更新では眼鏡なしに視力検査をパス、近眼が治っていることに驚いたのです。近眼は学童期から思春期にかけてどんどん悪くなる、眼球の成長が止まって一定の大きさで落ち着く20歳代後半くらいまでは近眼は進行するものだと、10年以上も昔に強度の近眼に悩んでいた教え子の眼科受診に付き添った時に、知り合いの眼科の先生が言っていました。ついでに近眼は年を取ると自然に良くなるものですよとも言っていましたが、確かに私にとってはその通りになりましたね。しかし今さら海上自衛隊を志願するわけにもいかないし、商船大学は不人気なので大学自体が無くなっちゃったし…(笑)。それに近眼は治っても老眼はひどくなるしね。

 海に憧れて船乗りを目指す若者とか、顕微鏡を一生の仕事にしたいと思う学生にとっては人生を左右する重大な悩みですが、近眼とはせいぜいその程度の問題、つまりちょっと鼻が高いとか低いとか、ちょっと足が長いとか短いとか、そういった類の個人差とばかり思っていたところ、最近の研究によると実はもっと大変な病気だということが分かってきたらしいのです。NHKの報道番組で放送されてました。

 人間は目から入る外界の情報が圧倒的に多いので、物がはっきり見えない近眼だと認知症がひどくなる傾向があるというのは理屈として分かるとしても、もっと大変な状況、日本の将来を担う子供たちが高度の近眼による失明の危機に晒されているという報道はショッキングでした。船乗りどころではないのです。近眼が重症になると将来的に眼圧が上昇して緑内障になったり、網膜に過度の歪みが加わって剥離したりして、最終的に失明に至る危険が大きいという警告がなされているとのこと。

 眼球はレンズから入った外界の景色がちょうど網膜に像を結ぶから物がはっきり見える、ところが眼球が大きすぎたり変形して歪んでいたりすると網膜より手前に像を結ぶから物がぼやけてしまう。最近の子供たちは眼球の歪みが大きくなってきているというのが最近の研究で分かってきたことらしいのですが、この歪みは1日2時間1000ルクス以上の光を浴びることで予防できるそうで、日本と韓国以外の先進国では子供たちの近眼予防対策が具体的に進んでいると報道されていました、

 ところが1000ルクス以上の光は室内では得られません。教室の窓際でさえ700〜800ルクス程度しかないから、結局は子供たちを屋外で2時間以上生活させなければいけません。今のままでは将来失明に至る高度の近眼にまで進行する子供たちの比率が高くなっているのが現状のようですが、網膜に1000ルクス以上の光を2時間以上当てるだけで、眼球の歪みが是正され、子供たちを近眼による失明から守ることができる。

 特別な手術も、薬剤も、眼鏡などの補助器具も使わずに子供たちの近眼を予防できる、そんな簡単なことで済むなら良かった、良かった…、と思ったら、本当に対策を講じなければいけないのは度しがたい日本の大人社会の方でした。NHKの番組では、子供たちの近眼予防に取り組んでいるオーストラリアの眼科医が日本のある学校を視察した映像も放送していました。1日2時間以上子供たちを屋外で生活させなければ将来失明の恐れがあると告げられた校長が何と言ったか、放送をご覧になっていなかった皆さんはどう思われますか?

 「休み時間を全部合わせても50分程度だから、登下校の時間を加えても1日2時間は難しい」
子供たちの失明の危険という警告を聞かされた上でのインタビューでしたが、校長は平然とそう答えたたけ、それは大変だという危機感の共有は感じられませんでした。厄介な問題を持ち込まないでくれという困惑ありありでしたね。
「ではお弁当の時間を屋外にしたらどうですか」というオーストラリアの眼科医の提案に対しても、
「それは厳しい」とただ一言。

 これはたぶん取材を受けた学校の校長だけの態度ではないでしょう。全国ほとんどの学校の校長や担当教員どもが子供たちの屋外活動を増やす対策など真剣に考えることはないと思いますし、NHKはさらに厚生労働省の担当者にもインタビューしましたが、これも「現在実態調査中です」とのそつない役人答弁だけ。これが日本の大人社会の実態なんですね。いったいあなたは誰を護るのかっていう感じです。

 国民の健康に関わる諸外国からの警告に、初動が遅れた事例は今回が初めてではありません。1950年代から1960年代にかけて睡眠剤として販売されたサリドマイド、妊婦にも安全という触れ込みでしたが、西ドイツのレンツ博士から無肢症という奇形を発生させるとの警告がなされ、ヨーロッパ諸国がただちに販売を中止した後も、日本の厚生省だけは科学的根拠なしという独り善がりで楽観的な発想によって販売を継続した結果、行政の不作為で被害をさらに拡大させてしまいました。

 日本最初の薬害事件と言われてますが、日本の場合は薬だけに限らないんですね。今回は児童の屋外活動を増やさなければならないという面倒な作業に、文部行政も保健衛生行政も誰も真剣に取り組みそうもない。子供が失明するかも知れないという危機さえも、自分が面倒な作業を何とか免れたいという目先の欲求の前に見て見ぬ振りをする、遠くの未来を予測しない、まさに近視眼的行政と言ってよいですね。行政だけに限らない、また学校保健だけに限らない、危険なブロック塀を放置して地震で児童を死亡させた大阪の小学校然り、台風の前に新幹線車両を漫然と放置して水没させたJR然り、セキュリティー対策も不備なままに顧客に損害を与えた電子マネー取り扱い業者また然り…。日本の大人社会は自分さえ楽できりゃいい、自分にさえ面倒なことが回って来なけりゃいい、そうやって皆でたらい回しをやっているうちに突然破局がやってくる。

 学童期のお子さんをお持ちの方々はもう行政を信頼しきっていてはいけません。お子さんの目を失明から守ってくれる人は他に誰もいません。サリドマイド事件の時はこういう警告はなかなか一般市民に届きにくい時代でしたが、現在は屋外活動の不足が子供の近眼を進行させるという情報もテレビの報道などで流れています。少しは学校を欠席させても早退させても、お子さんに1日2時間の屋外活動を実施させ、少なくとも室内でゲーム三昧などという生活習慣だけは止めさせるのが保護者としての責任だと思います。


無知の懺悔

 さて私のこのサイトもいつサドンデスするか分からない状況となっておりますので、ちょっとこの年齢になって判明した自分の無知を懺悔して訂正しておきたいと思います。こんなサイトに偉そうに書いている人間は物知りに違いないと信じてはいけない、誰かから何かを聞いたり、本やサイトを読んだりして得た知識をそのまま鵜呑みにしてはいけない、必ず自分で一度は疑ってみなさいと常々書いていることではありますが…。

 彼岸花は三倍体であると最近書いた時に、以前高麗郷の彼岸花を紹介した記事の中で白い花の遺伝子は500株に1株の彼岸花が持っていると誤った説明をしてしまったことはすでにご紹介しました。Hardy-Weinbergの法則という遺伝学の法則を当てはめるとそうなるのですが、この法則は二倍体の生物にしか当てはまらないのですね。いかにも物知りそうに威張っている人間の言うことなど、その程度のこともあることは知っておいて下さい。

 次にこの絵は何でしょうか。いくらヘタクソな絵でも、馬に羽根が生えているのですからペガサスだと分かりますね。私が大学で教職に就いていた時に、黒板にサラサラと2〜3秒で描いて学生の講義に使った絵です。下絵を元にマウスで描くには10分くらいかかりましたが、一応ペガサスに見えるじゃありませんか(笑)。

 医学にはギリシャ神話のモチーフがずいぶん関与しているという話の中で、肝硬変などで肝門脈の血液が滞ると臍を中心として腹壁に血液が流れ、まるでギリシャ神話の怪物メデューサの頭みたいに見える話をしました。その講義の途中で医学の話から脱線して、このメデューサを退治した英雄ペルセウスがその首を布に包んで愛馬ペガサスでお持ち帰りするという時に、このペガサスの絵を描くんですね。

 先生は絵が上手ですねと誉めてくれる学生さんもいて(ただ馬らしく見える絵を早く描けるだけ)、それはそれでどうでも良いんですが、問題はこの絵の赤い矢印の部分、馬の後ろ脚の中ほどが後ろ向きに出っ張っているじゃありませんか。私はこれまでずっと馬の脚の構造も知らずに解剖学を講義していたことに初めて気付きました。まさに馬脚を露わすとはこのことか…(笑)。

 競馬ファンでない皆様、ご存知でしたでしょうか。馬の後ろ脚の赤い矢印の部分は実は踵
(かかと)なのです。私はずっと膝(ひざ)だとばかり思ってました、…というより何も考えてませんでした。馬の膝関節はちょっと変な角度だなと…。ボーッと生きてんじゃねーよ!

 馬の後脚中間部の後ろ向きに出っ張った部分は、人間で言えば踵に相当する部分、したがってそこから下の部分が人間の足の裏(足底)に相当するわけです。馬に限らず、犬や猫などの四つ足の動物は後ろ脚が皆こういう形になっていますが、四つ足動物の後脚は爪先立ちをしているわけですね。馬の場合は中指の爪先が発達して蹄
(ひづめ)になっているのですが、人間は二足直立をするために踵から爪先までの足底をしっかり大地に押しつけていなければバランスを崩してしまいます。バレーのダンサーはトウシューズを履いて爪先立ちしますが、あんなことはよほど訓練しなければできるものではない。ただし人間でも駆け足でランニングする時は誰でも爪先立ちですが、その方が地面を蹴り出す力の効率が良いのでしょう。四つ足動物は身体の安定が保たれているので、常に後脚で爪先立ちしているということです。

 韓国のイラストレーターのソク・ジョンヒョン氏が出版した『ソッカの美術解剖学ノート』(日本語訳 オーム社)を読んでいて、初めてそんなことに気付いた間抜けな自分が恥ずかしいですね。他の人ならいざ知らず、私は大学で学生さんたちに解剖学を教えていた医者です。獣医さんではないから仕方ないよという慰めの言葉も聞こえますが、人間と動物の構造の比較に関する知識が足りなかったことは懺悔に値します。しかし美術関係の中には解剖学もよく勉強している人が多いですね。この『ソッカの美術解剖学ノート』という本は、神経や血管や内臓に関する記載が無いので医学生に全面的にお勧めできるわけではありませんが、筋肉と骨に関する記載は医学部で使う解剖学教科書をはるかに上回っていると言わざるを得ません。楽しく読めるし…。

 さて植物に関しても懺悔しなければいけないことがあります。かなり以前の記事で動物と植物の違いを書いた時に、原始細胞が葉緑体をパクッと食って植物細胞になり、植物が大気中に放出した酸素を利用できるミトコンドリアをパクッと食った原始細胞が動物細胞になったなどと書きましたが、これは本当は微妙に違うことを教えて貰いました。
「葉緑体を持つのが植物細胞、ミトコンドリアを持つのが動物細胞」
ではなくて、
「葉緑体を持つのが植物細胞、葉緑体を持たないのが動物細胞」
というのが本当なのです。

 何が違うのさ、というのが、人間という動物しか知らない医者の悲しさ、植物は葉緑体の他に少数ながらミトコンドリアを持っているのだそうです。あ、確かに緑色の葉っぱを紅葉させて散らせた後の樹木は冬の間どうやって生きるのか、さらに地中にあって光を浴びない根っこの細胞はどうやって生きているのか。医者の盲点でした。盲点とは眼球の網膜上で視神経の束に相当して視細胞のない部分のことを指しますが、今回の盲点はそんな立派な物じゃない、ただ他の分野への関心も興味も持たなかった怠け者の無知でしかありません。

 そう言えば小学校の理科の時間にも、植物は昼間は光合成をして酸素を放出するが、夜は呼吸で二酸化炭素を放出するから、日が落ちたら植木鉢は外に出さなければいけないと習いました。そういう幼少期の学習の記憶も頭の片隅には残りながら、それ以上深く突きつめて考えようとしなかった自分の甘さに舌打ちする思いです。

 私はあの記事を書いた時、動物の受精卵に葉緑体を導入したら、食物補給も肺呼吸も必要ない効率的な新しい家畜に応用できるんじゃないかなどと取り止めないことをシャアシャアと書いてますが、そんなことは何億年も昔から植物がやっていたんですね。ではなぜ動物細胞は葉緑体を捨ててしまったのでしょうか。それは自分で光合成をして炭水化物を自給するよりも、植物が作ってくれた炭水化物を探して摂取した方が生存戦略として効率的だったからだそうです。つまり自分で作るより他人が作った物を頂戴する方が得だということ、動物は植物がいなければ生きられないくせに、ちゃっかり植物が作り出す物を搾取しているわけです。何だか人間の社会悪を体現されているようで複雑な思い…。

 大学の教養学部時代にクラスが同じで農学部に進学した旧友からいろいろ教えて貰いましたし、馬の後脚についてはイラストレーターさんの解剖学が勉強になりました。もうこの年齢になると新しい知識への探求心も乏しくなるものですが、異なる分野との接点を大切にすれば何歳になっても日々新鮮な感動を経験できるものだと感じました。


飛行機よ、お前もか

 医者が患者さんに勧める健康的な食事として糖質制限是か非かなどを論じる際に、どちらの陣営も糖質代謝や脂質代謝の基本的な知識も曖昧なまま、権威筋の論文や経験的観察だけを根拠に自説を主張するので困ったものだと思っていることは時々このサイトにも書いています。これは医学が生物としての人体という個体差の大きなものを対象にしているから、ある意味で仕方ないとも言えるのですが、こういう現象は他の分野にもあることを感じさせる経験をしました。

 文学や歴史学などの人文科学の領域ならば学者同士の見解の相違があるのはむしろ当然で、源頼朝が鎌倉幕府を開いたのが1192年だったか1185年だったか、静御前が実在の人物だったか北条一族の手による架空の人物だったかなど、専門に研究されている方々の論争に耳を傾けさせて貰えるのは知的好奇心をくすぐられる非常に貴重で新鮮な体験です。最近はちょっと下火のようですが邪馬台国論争など面白かったですね。

 純粋自然科学の分野でも、大宇宙の果てだとか時間と空間の構造だとか哲学論争にも似ていろいろな学説を傾聴するのは楽しいです。しかし工学系の学問は最初から人間の頭脳が産み出した科学技術の成果を応用する分野ですから、専門家同士の見解が異なることなどあり得ないと思っていたら、実はそうでもないらしいのですね。私が今回びっくりしたのは、なぜ飛行機が空を飛ぶのかという理由について、いろいろな専門家がいろいろなことを言って飛行機恐怖症の素人たちを怖がらせている現実があるということでした。

 ことの発端はNHKの『チコちゃんに叱られる!』という番組、今年(2019年)10月4日に放送された内容ですが、飛行機はなぜ飛ぶかという疑問に対する答えが、例えるなら翼の下は風船から空気が吹き出す感じで翼の上はストローで吸い上げられる感じ…などという文字どおり雲をつかむような感じだったことです。

 さらにその解説に使われたのがこのようないい加減な図で、しかも番組ではこれ以上くわしく説明しても視聴者の大半が眠ってしまうのでやめておきます…などと、視聴者をバカにする構成で尻切れトンボに終わってしまいました。本当は番組制作スタッフが専門の解説者の説明を中途半端にさえ理解できないまま適当にお茶を濁したのが明らかです。天下のNHKの人気番組で私も応援して観ているだけに、今後このようなゴマカシは止めて頂きたいと思いますが、さて実際に飛行機が空中に浮かぶ理由を素人に数分程度でわかりやすく説明することは困難であることに気付きました。

 さて『チコちゃんに叱られる!』の番組スタッフが準備したこの図、見ただけで変だと思わなければいけません。赤い矢印が翼に沿った空気の流れを表しており、その結果として緑の矢印の向きに“向心力”が生じることを意味しているのですが、これでは飛行機は浮かび上がるどころか下へ叩きつけられることになります。

 本来飛行機の説明に“向心力”が出てくるのは、私も水中翼船の記事で触れたように飛行機の旋回に関する部分です。しかし番組スタッフは一応航空工学の専門家から解説を受けているはずなので、その専門家がスタッフにそんな間違った“向心力”の図を描いてあげたとは思えません。専門家が説明したであろう内容を推測してみると大体次のようなことだろうと思います。飛行機の翼は気流を赤い矢印のようにカーブさせる、流体はカーブさせられると内側より外側の方が圧が高くなる(ケンブリッジ大学のサイトに実験映像あり)、するとカーブの内側に向かう力(これが“向心力”か)が生じ、この反作用として翼を浮かび上がらせる揚力が発生する…。

 確かにこんな面倒なことを数分間で一般視聴者に説明するのは無理ですね(笑)。しかしその後、航空系エンジニアのサイトを見ていくと、いろいろとんでもないことが書かれていました。航空力学の専門家のサイトで、飛行機がなぜ飛ぶかはいまだに判っていないなどと書いてあるものが半分以上あるとの調査があるそうです。
エエエエエッ!
というわけですが、実際に航空機を設計する専門家を育てている方のサイトでは、そんないい加減な説を流布されては困る、飛行機が飛ぶ原理など100年以上も前から判っている、航空機設計の現場では翼のどの部分にどのくらいの揚力が発生するかなどコンピューターで精密に計算しているんだと力強く断言してくれていました。

 私自身はエンジニアの知識も経験もありませんから、どの説が正しいかはご自分で検索して判断して下さい。私はここでは自分が一番納得したサイトの説明を受け売りするだけにします。飛行機の翼の断面は上面に凸、すなわち上が膨らんでいるから、飛行機が前進すると上面を通過する気流の速度の方が速くなる。私が高校時代に読んだ岩波新書にも確かそんなことが書いてありました。流速が早いとベルヌーイの定理で翼の上面に陰圧がかかって飛行機は上方へ吸い上げられる…、しかしこれでは航空自衛隊ブルーインパルスのジェット機が背面飛行できる理由が説明できません。私も長いこと疑問に感じていました。

 ここから先は私には理解不能なのですが、飛行機の翼は上面の気流が速いことが重要なのだそうです。下面の気流の方が遅くて翼の後端まで達する時間も長いので、相対的に翼の周囲に空気の渦が想定される、上のNHKの図で言えば、翼の断面を時計方向に回る渦です。実際に空気が渦を巻くわけではないので理解しにくいが、この渦を想定すると飛行機の翼に働く揚力が正しく計算できる、翼は渦を形成する装置だと定義できるそうです。

 まあ、自分でも問題の本質を十分理解できないまま知ったかぶりをするのはここまでにしますが、飛行機がなぜ飛ぶかよく判っていないなどと脅かされていた飛行機恐怖症の皆様、少しはご安心いただけたでしょうか(笑)。結局私も『チコちゃんに叱られる!』の番組スタッフの説明と同じレベルになってしまいましたが、飛行機に乗るときは魔法のじゅうたんに乗せて貰って、アラビアン・ナイトの世界をボーッと楽しむつもりでいるのが良いのかもしれません。アラジンもジーニーもじゅうたんが飛行する原理をきちんと理解しているようですから…。


前後左右

 まだ高校生だった頃、友人からある問題を出されました。
「なぜ鏡は左右が反転するのに上下は反転しないのか?」
確か当時はそんな内容の本が出版されていたように記憶していますが、友人はたぶんその本を読んでいたのかも知れません。

 私もいろいろ言い返してみました。だって鏡は表面で光を反転させるから上は上で下は下、鏡に映した自分が逆立ちするわけないじゃないか、そもそもあれは左右が反転してるって言うのか、鏡の前で寝っ転がって映したって頭と足が入れ替わるわけじゃない、今まで左手があったところに頭を持って来ても頭と足は反転してない、だから直立した時の右手と左手も反転してるとは言えないし…アレ?

 …などと問題の意味も要領を得ないまま、折に触れていろいろ理屈をこねくり回しながら半世紀以上が経ちました。そうしたら去年(2019年)の10月、例のNHK人気番組『チコちゃんに叱られる!』でこの問題が取り上げられており、高校時代を思い出して少し懐かしかったと同時に、私は50年以上も解答を出せないままボーッと生きてきたのかと情けなくなりました(笑)。

 しかしチコちゃんの解答も「分からない」…、「ヘッ?」と拍子抜けする感じでしたね。偉い先生たちがいくら考えても解答は出ないんだそうです。これは自分の姿を鏡で見ている人が右手を挙げた時、鏡の中の自分は左手を挙げた(左右反転)と感じるか、右手を挙げた(左右反転せず)と感じるかは、鏡を見る人それぞれの心理特性によるとのこと。

 その解説がなかなか秀逸でした。上下と前後が決まって初めて左右が決まる、鏡の中の自分は前後が反転しているから、それに伴って左右も反転していると考えるか、前後が反転しているという前提の下では左右は反転していないと考えるか、それは個人個人の心理特性によるらしい。そういうことなら私は「左右は反転していない」派ですね。だって私が左手を挙げた時は鏡の中の私も腕時計をして結婚指輪をしている方の手を上げるから、あれは鏡の中の自分にとってはやはり左手でしょう。

 しかし上下と前後が決まって初めて左右が決まるという解説、これは単なる哲学的、観念的な命題にとどまりません。胎内で発生途上の私たちの身体もまず
上下=頭と足が決まり、次に前後=腹と背中が決まり、最後に左右が決まります。私たちの体は最初はたった1個の受精卵細胞からスタートして、細胞分裂(卵割)を繰り返しながら細胞数がどんどん増えていきますが、そのままでは肉でも骨でも内臓でもないただのブヨブヨした細胞の塊にしかなりませんね。

 そういう細胞の塊の中にある時点で脊索という定規や物差しのような役目をする細胞群が出現します。この物差しに沿って体を作れという細胞群ですが、まずこの脊索の一方の端に頭を誘導する遺伝子群が発現して頭ができてきます。そして頭になり損なったもう一方の端は“仕方なく”足になります。これで身体の上下(頭と足)が決定します。『ドリトル先生』シリーズに体の両側に頭がある“オシツオサレツ(pushumi-pullyu)”という奇妙な架空の動物が登場しますが、胎生初期に脊索の両側で同時に頭を誘導する遺伝子群が発現したまま成長した奇形ということになります、実際にはあり得ないと思いますが…。

 こうして体の上下が決まると、今度は身体を腹側化する遺伝子群と背側化する遺伝子群が対抗するように働いて身体の前後が決まります。腹側には腹筋や腹壁ができて、背側には背骨の元などができてくるわけですね。

 確かにこうして身体の上下と前後が決まって初めて左右が意味を持つようになる。チコちゃんの説明のとおりです。ヒトの身体の場合、その名も
leftyという遺伝子が発現した側が左側になります。人体の外表はほぼ左右対称ですから普段はあまり意識しませんが、内臓は左右非対称です。左側には脾臓があり、大腸は時計回りに左側から肛門に向かい、心臓は左側に張り出すように捻れて左心室からは大動脈が出ています。

 こういう変化を主導しているのがleftyという遺伝子ですが、rightyに相当する遺伝子は無いそうです。leftyが働いた側が左になり、働かなかった側が右になる。非常にまれですが、leftyの働き方に異常があると、内臓が左右逆になったり、両側が右側のようになったり、左側のようになったりする疾患があるのですね。左心室から大動脈につながらないというのが最も差し迫った生命にかかわる問題で、生後ただちに心臓手術が必要になりますが、体の内部がそっくりそのまま鏡に映したように左右逆になっている場合はまったく健康上の問題はありません。ただ虫垂炎(いわゆる盲腸炎)の症状も左右逆に出るので、救急受信時に誤診されやすいので注意が必要です。

 leftyとは文字どおり左利きを意味しますが、右利きか左利きかはlefty遺伝子の問題ではないと思います。政治的に右翼か左翼かもたぶん関係ないでしょう(笑)。先日の『チコちゃんに叱られる!』を見て、高校以来ずっと頭の片隅に貼り付いていた難問の意味がようやく理解できました。


麒麟がいる…(笑)

 今年(2020年)のNHK大河ドラマは『麒麟がくる』、明智光秀を主人公とした戦国時代モノです。後の世で日本の歴史上最大のスーパーヒーローとなる織田信長を討ってしまったばかりに、従来の大河ドラマや他局の歴史ドラマでの明智光秀の描かれ方はお世辞にも好意的とは言えませんでした。極悪非道の傲慢なイメージに描かれているものもありますし、クソ真面目でネクラゆえに信長のような時代の寵児からはいじめられキャラでしかなかったように描かれたものもあります。

 今回の『麒麟がくる』ではそういうネガティブな光秀像とはまったく違った視点から、新たに発見された史料なども交えて、本当の光秀はどういう人物だったのか、なぜ本能寺で信長を討つことになってしまったのかを独自の解釈でドラマにするらしいです。今後1年間が楽しみです…と言いたいところですが、年頭第1回の初放送から致命的な脚本のミスを露呈してしまったのではないかと個人的には心配ですね。

 まだ美濃の斎藤道三に仕えていた光秀が堺へ鉄砲買い付けに出かけた際、松永久秀に気に入られて一緒に飯を食う場面、ベロンベロンに酒に酔った光秀はとんでもないことを放言します。斎藤道三のようなケチな主君は嫌いだ、しかし仕える主君は個人的な好き嫌いで選ぶものではない…と。

 あらまあ、こんなことを言わせてしまっていいの?これじゃ後に仕えた信長に対してもこういう態度で面従腹背してたのね…ということが初回放送分から分かってしまったという感じ。本当は信長に本心から忠義を尽くしたかったとか、止むに止まれぬ事情の行き違いで本能寺の変になってしまったとかいう情緒的な可能性は否定されてしまいました。あと年末の完結編に向けて興味の対象として残っているのは、光秀は信長の何が気に入らなかったのかという点だけ…。

 さて今年の大河ドラマのタイトルになっている麒麟とは中国の伝説上の聖獣、もちろん実物を見た人は誰もいませんが、私たち日本人が最もよく目にする麒麟の絵姿はこれで決まり。真夏になるとビール好きにはたまらない。キリンレモンというのもありますが…(笑)。しかし改めてよく眺めると麒麟は実に不思議な姿をしています。金色の体毛とともに黒い鱗も付いている。

 麒麟は一見すると奇怪な獣ですが、性格は非常に優しく草や虫を踏みつけることさえ嫌うとされていて、徳の高い王が善政が行なう世に現れるそうです。NHKの大河ドラマでも室町時代末期から戦国時代にかけての暗い戦乱の世を終わらせてくれる名君となるべき可能性のあった光秀を描く意図がタイトルに表現されているのでしょう。

 日本では伝説の麒麟と、実際にアフリカ大陸に生息するキリン(ジラフ)が同じ名前で呼ばれていますね。その理由は1419年に中国明代の武将鄭和が船団を率いて南海遠征を企てた、そして帰国後にアフリカで捕獲した珍獣を永楽帝に献上したところ、ライオンやシマウマやサイなどの中でも帝は特にキリンを気に入り、伝説の聖獣麒麟に似ているとして非常に珍重した、その故事に基づいているんだそうです。ただしジラフをキリンと呼ぶのは日本と朝鮮だけで、故事発祥の地である中国では“首の長い鹿”という意味の言葉で呼ばれているとのこと。

 永楽帝はさぞ喜んだことと思います。甥の建文帝を反逆で倒して明朝皇帝の座を奪った永楽帝にしてみれば、麒麟によく似た珍獣が献上されたことは自分こそ徳の高い王であるという絶好の宣伝材料にもなりますからね。彼は骨肉の建文帝を武力で倒して帝位に就いたことを後ろめたく感じていたようで、明朝の歴史書から建文帝の名前を削除しようとしています。確かに永楽帝は明朝の基盤を確固たるものにした最大の功労者なのですが、これに関してはまさに歴史の改竄でしかない。

 さて大阪港近くのLEGOLANDを通りかかったら、すべてレゴで組まれた実物大の麒麟ならぬキリン(ジラフ)の像がありました。本当に首が長いですね。ここからが本題ですが、キリン(アフリカに実在する野生動物の方)の首の骨は何個あるでしょうか。

 人間の首の骨は7個です。もっと解剖学的に正確に言うと、人間の背骨(脊椎)は頸椎、胸椎、腰椎、仙椎、尾椎よりなり、頸椎は7個、胸椎は12個、腰椎は5個、仙椎は5個の骨が1つに癒合、尾椎は人により個人差があって1〜数個、これらが積み木のように椎間板のクッションをはさんで積み重なり、まさに人体の大黒柱である背骨を形成しています。

 背骨を形成する椎体という骨は下へいくほど大きくなりますが、大体ほぼ同じような形…、ではそれぞれ何が違うかと言えば、肺や心臓を背後から抱え込むように守ってくれている肋骨と連結している12個が胸椎、それより上部の7個が頸椎、下部の5個が腰椎、腰椎の下は5個が癒合した仙椎、人間の場合それより下にある尾椎は尻餅でもつかない限りはそれほど問題にならない。ついでに頸椎の一番上で頭蓋骨を支えている第一頸椎は別の記事でもちょっと書いたとおり、アトラスという別名を持っています。

 さて人間の頸椎が7個ということはお分かり頂けたと思いますが、ではキリンの頸椎は何個でしょうか。レゴの隣に立っている人間の首の長さや、首と胴体の比率などを考えてみれば、20個や30個ありそうですね。しかし陸上哺乳類の頸椎の数はどれも一定で、キリンの頸椎も人間と同じ7個です。進化の過程で哺乳類が枝分かれして以降、頸椎の数を決める遺伝子の変化は無かったけれど、キリン一族は一つ一つの頸椎のサイズを大きくして首を長くしたわけです。私も初めてこのことを知った時は驚いて、学生さんの校内試験のボーナス問題にも出題したくらいです(笑)。

 ではキリンの首はなぜ長いのか。首が長いということは頭の位置が高い、頸椎のサイズを大きくするだけでなく、頭部まで血液を送るために心臓が血液を送り出す圧力(血圧)も高めなければいけない、そうまでして進化した動物が現生まで生き延びた理由は、高い樹木の上の方の葉を独占的に食べることができて他の草食動物よりも有利だったから…で間違いないと思います。

 ここで2つ目の本題、草食動物と肉食動物はどちらが先に進化したのでしょうか。実は草食動物の最初の祖先が現れたのは3億年前で、それより前の陸上動物はすべて昆虫食または共食いの肉食動物だったそうです。エオカセア・マルティニ(eocasea martini)というのが最初の草食陸上動物の祖先で、以後恐竜時代を経て現在の哺乳類へと続くそうですが、時に生命進化(創造主)の意志は無慈悲で残酷ですね。肉食動物が互いに捕食し合っているだけでは地上に繁殖できる動物の個体数は限られてしまう、そこですでに陸地に繁茂していた植物が蓄えた炭水化物を直接エネルギーとして利用できる草食動物を誕生させた、つまり食物連鎖の上位に君臨する肉食の捕食者のためにエサ(食事)を提供したわけです。

 草食動物は動かない植物を食べるわけだから、エサを探し回り追いかけ回す肉食動物に比べればはるかに楽で効率的な生活をしている、しかも獲物の肉のタンパク質を炭水化物に変換する糖新生という面倒な化学反応も必要ない、そうやって楽に生きる草食動物は個体数を大幅に増加させて繁栄しましたが、それは温厚平和な草食動物の楽園を約束したものではありませんでした。草食動物たちは食物連鎖の上位にいる肉食動物たちの餌食となる運命を免れなかった、まさに自然界の冷厳な摂理を見る思いがします。


正しい咳の講座

 昨年(2019年)の暮れから新型コロナウィルスによる肺炎が世界中の脅威になっています。まだ感染者が中国国内の少数にとどまっていた最初の頃は、そんなに感染力も強くなさそうだとか、人から人への感染が確認されたわけではないと言って、世界保健機関(WHO)も、日本や中国をはじめとする各国の保健衛生当局も楽観しているうちに、あれよあれよと言う間に中国湖北省を中心に感染が拡大、患者数も爆発的に増加して死者も2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)の時を越え、世界的感染の兆候を見せ始めています。

 社会的パニックも大きい。マスクや手指消毒剤などは全国の薬局の店頭から姿を消し、医療機関でさえ職員が利用するマスクが品薄になってきているようです。1970年代のオイルショックで人々がトイレットペーパーの買い占めに走った不安心理の再来ともいえるマスクの買い占めもあるようです。こうなると自分さえ助かりゃいい、自分さえ良けりゃいいというエゴが剥き出しになりますね。マスクなどは広く行き渡らせてできるだけ多くの人々が感染の予防に利用した方が社会的な危険を軽減でき、それが結果として個々人の感染予防にもつながるのは自明の理なのに、マスクの箱を1人で5箱も6箱も買い占めていく消費者の姿も報道されていました。

 さらに悪いことに、ちょうど中国の春節(旧正月)の時期に重なり、休暇で日本を訪れた中国人観光客が日本の薬局店舗からマスクを爆買いしたことも品薄に輪をかけたようです。新型ウィルスの出現を確認していながら、観光客の移動を禁止しなかった中国当局や、中国人観光客の入国を制限しなかった日本当局の初動の対応の甘さがパニックにつながったとも言えるでしょう。刑事事件の被告人に対しては人権無視の推定有罪で最初から犯人扱いするような東アジアの大国どもも、莫大な経済的利益をもたらす観光客に対しては推定無罪なのですね。

 日を追うごとに欧米でのアジア人に対する偏見も強まっているようで、イタリアのある音楽院で東洋人のレッスンを中止するとか、アジア人学生の登校を禁止するよう署名活動が行なわれた国もあるとか、このまま新型コロナウィルス感染が終息しないと次にどんな差別や偏見が生まれるか予断を許さない状況になっているところへ、最近ではアメリカでマスクをしていたアジア人女性が黒人男性から「この病気の女め」と罵られて暴行される事件まで発生しました。

 専門家たちはそんなに恐れる必要はないとマスコミで強調していますが、本当はそんなに恐れても仕方ないというのが本音だと思います。この新型肺炎は恐ろしいと言いきってしまうと、こういう人種差別が急速に助長されてしまうので、取りあえずは警戒すべきだが必要以上に恐れる必要はないという微妙な表現に終始しているのでしょう。

 どうも今回の新型コロナウィルスの感染力はそんなに弱くないし、潜伏期間もそんなに短くないし、しかもそんなに毒性が強くないので、まだ症状を出していない一見健常な人からも感染が起こるらしいことが確認されています。これは病原体としては非常に巧妙なウィルスです。感染力が弱ければそんなに患者数は増えないし、毒性が強ければ患者は死亡するか長期臥床してしまってそんなに感染を広める機会もありません。

 まるでゲリラのような巧妙なウィルスの感染者を、今さら水際で食い止めることなどできません。中国からの入国者や帰国者を厳重に隔離したって、もうすでに潜伏期間の感染者や無症状の患者が堂々と数多く入国してしまっていると考えられますから、そういう人たちからさらに感染が拡大していくと思われます。

 日本・香港・台湾などを結ぶクルージングをしていた巨大クルーズ客船ダイヤモンド・プリンセス号の船客の皆さんは不運でした。日本から香港までのクルージングに乗船していた香港の高齢男性が下船後に新型コロナウィルスの感染を確認されたために、この船の乗客・乗員約3700名は横浜入港後も上陸を許されず、さらに14日間も船内の船室に滞在しなければいけないそうです。(この写真は2016年10月に横浜入港中のダイヤモンド・プリンセス号)

 レストランやカジノやアスレチックやシアターなど贅沢な船内設備の整った豪華客船ですが、まさか10日以上もクルーズが延長できたと喜んでいる人はいないでしょう。自分の船室から出歩いてはならず、通路には見張りのスタッフもいるなど、まるで抑留されているような状況に置かれてしまいました。香港ではさらに別の巨大クルーズ客船が同じように検疫のため足止めされているとのことです。

 すでに潜伏期間中や無症状の感染者が検疫の網の目をくぐり抜けて入国してしまっているのが明らかなのに、今さらこれらクルーズ客船の乗員・乗客を船内に足止めしても何の意味があるのでしょうか。確かにこれら乗船中の人々を上陸させることによる新たな感染拡大を防ぐ狙いがあるのはもちろんですが、おそらく日本や香港の保健衛生当局の意向、ひいてはその裏にいる世界保健機関(WHO)の目的はもっと別にあると思います。

 数千人の健康な人々が生活する巨大な隔離空間であるクルーズ客船は世界の縮図と言ってもよい、その中で新型コロナウィルスの感染が勃発した、当然最初の発端になった香港人男性がどの船室に滞在して、どういう船内生活を楽しんだかは十分に聞き取り調査が行われたと思います。そしてこの男性と意識的あるいは無意識的に接触していた他のすべての船客の行動パターンを把握することで、かなり確度の高いウィルス伝播経路の特定が可能となり、今後の感染予防に有効な対策を立てることができる、それがおそらく全世界の保健衛生当局者・研究者の意図かと推測します。

 船内に閉じ込められた乗客・乗員は図らずもそういう疫学観察の対象にされてしまった、これをハイジャック同然、冷酷非道な人権無視と非難することも可能でしょうが、正体不明の見えざる敵と戦うためにはやむを得ない犠牲かも知れません。足止めされた船客の中にはクルーズ終了直後に大切な用事があった人もいるでしょうし、自分の国に帰るはずだった人もいるでしょう、また持病があって定期的な服薬や受診を必要とする人もいるでしょうし、年齢が幼くてこういう抑留がトラウマになるお子さんもいるでしょう。そういう人たちのケアや補償はすべて万全に実行されなければいけませんし、さらに足止めが1週間2週間と続くうちにストレスの溜まった一部の船客による中国人船客への暴行や差別が起こる恐れがあることも想定して対処しなければいけません。

 さてすでに多数の新型コロナ肺炎患者が入国していると考えられる状況において、自分の身を守る最も有効な手段はマスクの爆買いではありません。手洗いとウガイという幼稚園の頃に教わった素朴な予防法が意外に大事です。

 さらに患者たちが街中の人混みで撒き散らしたウィルスは鼻水や唾液の飛沫に含まれて周囲の物体に付着しますから、電車の吊り革や鉄棒、建物のドアノブや家具などを触った手を自分の目や鼻や口の粘膜に持っていかないことを徹底して下さい。これは今回の肺炎だけでなく、インフルエンザなど飛沫感染するウィルスの予防にも当てはまることです。

 以前の記事でも書きましたが、私の同業者である医師は、学生時代から手洗いの習慣を徹底的に叩き込まれており、何かを触った手指で自分の顔を決して触らないということを無意識のうちに実行しているので、インフルエンザなどが流行しても感染率が一般の人より低いようです。

 もうひとつ、不幸にして人混みで咳やクシャミをしたくなった時、もしかしたら自分が感染しているかも知れないウィルスを他人様に広めないために何をするべきか。鼻と口に手を当てるように、これも幼稚園の頃から指導されてきましたね。最近は電車の中や人混みの通路でスマホやゲーム機を操作しながら手も当てずに平気でハックショ〜ンと飛沫を撒き散らすバカ男女をよく見かけます。先日は電車の座席で人目も憚らずピッタリ抱き合って寄り添っていたバカップルのうちのバカ男がいきなり振り向いて、他人の方へ向かってクシャミをしているのを見かけましたが、こんなバカは論外。

 公共道徳の心得ある教養人ならばマスクを着用していない時に咳やクシャミをする時は、必ず上の写真左のように手で鼻と口を覆いますが、実はこの作法は諸外国では間違いなのだそうです。こうして手で鼻と口を覆うと飛び散った濃厚な飛沫は手に付着し、その手で操作したドアノブなどにウィルスを含む飛沫が付着、次にそれに触った別の人の手からその人の目や鼻や口などの粘膜を介して接触感染する危険があります。

 だから誰かの飛沫が付いている可能性のある物体に触れた手指で絶対に自分の顔を触らないというのが感染予防の鉄則なのですが、万一自分がした咳やクシャミで他人にウィルスを感染させないためには、上の写真右のように衣服の袖で飛沫を受け止めるのが正しいやり方なのですね。くれぐれも他人様のウィルスを貰わぬよう、他人様にウィルスをあげぬよう、十分お気をつけてお過ごし下さい。
(お詫び:爽やかなイケメン系モデルがおらず、お見苦しい写真をお見せいたしました。)


コロナパニック

 中国で発生した新型コロナウィルス感染症(COVID-19)は日本でも爆発的な広がりを見せる徴候が見え始め、マスコミの報道も1日ごとに深刻さを増していくようです。もともと最初に中国湖北省の武漢市で新型ウィルスが確認された時、感染力は弱くて中国奥地に限局されたまま終熄するだろうとか、人から人への感染は認められないからまだそれほど心配することはないだろうとか、感染症の専門家筋からいろいろ楽観的な憶測が流れていたが、本当にこれで大丈夫だろうかと心配しているうちに、中国からの春節(旧正月)の観光客を例年通り大量に受け入れた後、またたく間に日本国内でも感染が蔓延する兆しが見えてきました。

 こういうことは外野の第三者にとっては、後知恵で何とでも言えるものですが、私が地震と津波の記事でも書いたように、現場で咄嗟の決断を迫られる責任者が常に最悪の事態を想定しておく訓練が日本人には足りないのではないか、「まあ、何とか大丈夫なんじゃないか」という安易で楽観的な判断に現場のすべての人間が支配されてしまい、それに誰も異を唱えられないのが日本人の習性なのではないか、ミッドウェイ海戦しかり、福島第一原子力発電所しかり、そして今回もそうだったんではないか。

 中国からの春節の観光客の入国を前に、誰か検疫態勢を強化すべきだと提案した人はいたのでしょうか。これには世界保健機関(WHO)を頂点とする現代医療の弱点も露呈されています。現代医学はエビデンス(証拠:evidence)というものを重視します。何かを主張するためにはとにかく科学的に証明された根拠が必要なのですね。研究論文を発表したり、新しい診断方法や治療方法を提唱するためには、それは当たり前のことです。さまざまな実験や統計学的手法を駆使して自分の主張を科学的に実証しなければ、新しい知見として受け入れるわけにはいきません。

 しかし社会を脅かす感染症などの疾病が急速に蔓延する恐れがある時に、必ずしもエビデンスを重視して…などという悠長な態勢では間に合わないことも起こり得ます。人から人への明らかな感染事実がエビデンスとして確認されるまでは、検疫も防疫もできない。それが今回明らかになった現代医学の弱点だと私は思います。今回の新型コロナウィルス感染症も、武漢市の李文亮医師が最初に警告を発したにもかかわらず、中国政府はこれをデマとして圧殺、そうこうしている間に初動が遅れて感染が燃え広がってしまった経緯があります。

 中国共産党の独裁下という特殊な事情もありますが、現場の医師の観察と直感だけで警告を発すれば、どこの国でも最初の警告者は白眼視されて排除される可能性が高いのが現代医学のエビデンス至上主義ではないでしょうか。李文亮医師はご自分もこの感染症に倒れ、33歳の若さで亡くなったと報道されました。感染源だからと言って母親でさえ死に顔を見せて貰えなかったという不可解なことも報道されましたが、とにかくご冥福をお祈りします。

 初動が遅れた日本国内でも、中国本土に次いで感染者数が増加しています。まさに中国と欧米の間の防波堤になった形ですが、欧米のメディアの批判に晒され始めているのが、横浜港に足止めされたクルーズ客船ダイヤモンド・プリンセス号です。3700名の乗客・乗員は14日間も上陸を許されず、船内の客室に軟禁状態に置かれています。さらに船内からは当初の予想をはるかに越えた感染者が確認され、続々と病院に搬送されています。14日間という根拠は世界保健機関(WHO)が発表した潜伏期間の14日(その後12.5日に修正)ですが、欧米のメディアが指摘する日本政府の拙劣な対応の象徴が、まさにこの船なのだろうと思いますし、日本のマスコミもそれに同調しはじめています。

 現段階で北海道から沖縄まで感染者が確認され、しかも今回のウィルスは症状の出ていない軽症者からも感染することが分かっており、どこから感染したかルートも明らかでない症例が次々と報告されている現状では、すでに日本全国にウィルスが蔓延してしまったと考えなければいけない。もう水際防御の段階ではないのです。今はクルーズ客船の乗客・乗員の隔離を終了して、ここに検査や防疫のために張り付いている要員を地域の保健体制に振り分けるべき時期です。とにかく人員も資材も限られているわけですから、母屋が燃え上がっているのに、まだ隣家からの延焼を恐れて塀に放水を続けるような無駄は避けなければいけません。

 こういう方針転換も日本人は苦手なのですね。持病を持った高齢者に限って下船を認めるなどという姑息な方針も打ち出したようですが、もはや海外メディアやそれに同調する日本マスコミからの批判をかわすことはできません。隔離期間が過ぎて下船した乗客たちからも批判や不満が一気に噴出するでしょう。さらに悪いことに、武漢からの帰国便で空路帰国した方々も一定期間政府の用意した宿泊施設に隔離されたとのことですが、子供連れだったために例外的に自宅待機にして貰った方が後から感染確認されたという驚くべき事態が発生しました。

 どういう立場の方がこの例外処置を認められたのかは分かりませんが、片や飛行機で武漢から帰国した一部の人は例外的に帰宅でき、しかも後日感染確認された、片や香港で下船した感染者と一緒にクルーズに参加した船客は高齢者も持病のある人も子連れの人も有無を言わさず船内に隔離された、こういう不公平が後日どれほど日本政府への信頼を損なうことになるか、オリンピックを控えて日本政府関係者はもっと頭を冷やして冷静で公平な対応を心がけなければいけません。一番パニックに陥っているのは日本政府ではないのか。


やっと出版できました

 未熟児・新生児や妊娠分娩管理などの周産期医療から病理診断の世界を渡り歩き、臨床検査技師を志望する学生たちを育てる大学教員で公的な職歴を終えた私でしたが、最後に特に学生相手に講義した内容をまとめて他の誰にも書けない医療の教科書を出版してみたいと、このコーナーに書いたのはもう4年も前のことでした。

 その後定年退職の日を迎え、日々の仕事が一気になくなって気が抜けてしまったこと、また新しく始まった健康診断の仕事が面白くなってしまったことなどもあって、しばらくは出版の気力も湧かなかったのですが、やはり自分でもあれだけ全力投球で工夫した講義の一部を何か形に残しておきたいと考えるようになり、一昨年頃からボツボツ原稿執筆に取りかかりました。

 私は文章を書くのはかなり早い方ですが、大学を完全に辞めてしまったので手元にスキャナーがなく、こういう書籍に必須の図表を作成するのに非常に手間取ってしまいました。それでも古巣の大学を訪ねては元同僚の先生に力を貸りて手描きの図表をスキャンしたファイルを作って貰い、去年の4月に羊土社という医学関連の出版社に打診したところ、比較的トントン拍子に話が進んで、何とか1年後の今年(2020年)3月30日に晴れて出版できることになりました。

 題名は『忙しい人のための代謝学』、副題が『ミトコンドリアがわかれば代謝がわかる』で、章立ては以下のようになっています。

 第1章 植物と動物
 第2章 動物エネルギー産生
 第3章 肉食動物の場合
 第4章 補助燃料タンク(グリコーゲン)
 第5章 補助燃料タンク(中性脂肪の分解)
 第6章 補助燃料タンク(中性脂肪とコレステロールの合成)
 第7章 ビタミンB群の関与
 第8章 アミノ基転移反応とアンモニアの処理
 第9章 ヘムの合成
 第10章 赤血球の代謝と機能
 第11章 素材としてのグルコース
 第12章 代謝各論
 終章  ミトコンドリア・イブ〜ミトコンドリアの母

 私もこのサイトで糖質代謝とか、脂質代謝とか、タンパク質代謝などについてパラパラ書いていますが、それらをもう少し教科書的にまとめた本です。糖尿病専門医を目指すマジメで優秀な研修医の先生の解糖系に関する知識が高校生レベルしかなかったことに衝撃を受け、現在の医学部教育の盲点になっているこの分野の教科書的な本が必要だと痛感したのが、そもそもの事の発端でした。

 幸いなことに、私は学生時代にハーパー(Harper)の生化学の教科書を原語で通読して以来、常に頭の中には生化学的な発想があったうえ、大学教員時代には驚異的にマジメな学生さんが私の部屋に入り浸ってハーパーの教科書を読み耽っていて、私も触発されて生化学の知識をブラッシュアップする機会に恵まれていました。それでこういう本を書けるのは自分以外にはなかろうということは以前から漠然と感じており、今やっとその使命も達成されようとしています。

 私が大学教員生活最後の年に新入生だったクラスも今年(2020年)卒業します。私の講義担当は2年生以降なので1年生には講義する必要はなかったのですが、特別補講として彼らにも本書の内容を講義しました。まだ高校卒業したばかりでしたし、しかも高校時代に生物を選択していない学生もいましたから、できるだけ平易な言葉を使い、生物学の初歩からくどいほど丁寧に教えた、その経験をもとに本書を執筆しましたので、一般の読者の方でも何とか読み進むことができるのではないかと思います。

 あの時の1年坊主(女子の方が多かったが…)も今春卒業か。私との接点はこの特別補講の20数コマしかありませんでしたが、何と卒業式の謝恩会に招待してくれたんですね。謝恩会自体は例のコロナ騒動で自粛中止になってしまいましたが、3年以上経ってもまだ印象に残してくれるような講義だったことは改めて誇りに思います。ですから高校程度の生物の知識でも読める本であることは保証します。

 羊土社というのは駿河台下にある医学関連の出版社ですが、南山堂とか南江堂とか医学書院とか医歯薬出版などが刊行するお堅いガチガチの医学書というよりは、もう少し一般の読者にも読みやすい書籍を多数出版している会社です。しかし編集者もイラストレーターも医学的な内容に関しては責任をもって本を制作しており、専門知識もかなり高いと感じました。

 書店の棚にあふれる一般向け家庭医学などの本の中には、会社の出版実績を水増しするためにずいぶんいい加減な仕事をしているものも多いようです。そういう本の著者とか監修者とかいって表紙や背表紙に名前の載っている医者は、ただ名義を貸しているだけの場合もありますから、読者の方も読む時にはよくよく注意して下さい。


対コロナ医療の最前線

 本当に去年(2019年)の暮れには、まさか世界がこんなひどい状況になるなんて夢にも思いませんでした。中国の武漢で新型のウィルスが発生したことは一般報道で知っていましたが、世界保健機関(WHO)や各国保健担当者が言うほど楽観的とは思わなかったものの、最悪の場合世界で数千万人の死者が出るという予測さえ出るほどの破滅的な危機が2ヶ月や3ヶ月のうちに訪れるとは…。これは約100年前、1918年から1919年に発生したインフルエンザ(スペイン風邪)の惨禍にも相当する規模の災害です。

 このウィルスは感染してもかなり多くの人が軽症で済む(約8割と言われている)、しかし残りの人たちは重症化して一部は人工呼吸器や人工心肺を装着しなければ救命できない、しかもその重症化するスピードは信じられないほど速く、肺胞がひどいダメージを受けてあっと言う間に死に至る、それが今回の新型コロナウィルスの恐ろしさです。初めの頃は普通の風邪か季節性インフルエンザにちょっと毛が生えた程度のウィルスと言われていましたが、最初にウィルスが蔓延した中国の武漢や、その後きわめて短期間に感染者が増加したイタリアなどヨーロッパ諸国の医療現場の記事を読むと、まさに野戦病院並みのとんでもない事態になっていたようです。

 次から次へと救急外来に運び込まれる患者、病院の床や玄関の外まで呼吸の苦しい人々が横たわり、あちらでもこちらでも息を引き取っていく。当初は亡くなるのはほとんど高齢者ばかりと信じられており、若年者はせいぜい風邪の症状だけで終わると思っていたところ、欧米では10歳代の若者たちまでが生命を落としました。さらに患者の救命に当たる医師や看護師も次々に感染して、亡くなった人も少なくありません。

 我が国でも元ドリフターズのメンバー志村けんさんが3月29日にコロナウィルス肺炎で亡くなりました。どんな医師や政治家が百万言を費やしたって、この事実ほど新型コロナウィルスの本当の恐ろしさを人々に伝えることはできないでしょう。3月17日から倦怠感、19日から発熱と呼吸困難、23日にコロナウィルス陽性が確認されて、発症からわずか12日間で帰らぬ人となってしまいました。1974年に荒井注さんの代わりにドリフターズのメンバーに入った時は、やはり最年少なので早くメンバーに定着したいと気負いが過ぎたのでしょう、またドスの利いた荒井注さんの代役としての重圧からか、何か突っ張ったトゲがあってぎこちない印象を私は受けたものでしたが、いつの間にか押しも押されぬ大スターになり、ドリフの看板だけでなく日本最高のコメディアンの1人として、自然体でイヤミのない、無条件に笑える数々のギャグにいつも笑わせて貰いました。きっと陰では人一倍の努力をされたのでしょう。心からご冥福をお祈りいたします。

 さて志村さんの最期は急激に進行した肺胞のダメージのため、ECMO(エクモ: Extracorporeal Membrane Oxygenation)という治療を行なったそうです。これは体外式膜型人工肺の略だそうですが、患者さんの血管を身体外の循環回路に接続し、そこから血液を抜いて薄い膜を介して赤血球に酸素を供与、その血液を再び患者さんの身体内に戻すという治療機器のことです。要するに血液中の赤血球に酸素を与えるという肺の機能を完全に代行する装置ですが、そんな装置を使わなければ救命できないほど重篤な患者さんもいるということです。

 志村さんは救えなかったけれど、コロナ肺炎がかなり重症になってもそんな最新鋭の医療機器があるなら心強いと思っていらっしゃる方も多いでしょうが、とんでもない心得違いですね。マスコミも国民世論も“ECMO”という洒落た頼もしい言葉のイメージに振り回されて、事態の本当の深刻さに気付いておられないようです。経済再生担当大臣などはECMOの増産を指示したなどと政府与党の施策を誇張してコメントしていますが、バカ言ってんじゃないよ…
機械がいくらあっても動かす人間がいなくちゃただの玩具なんだよ!

 最近コロナウィルスに感染する人が増えてきて、ECMOや人工呼吸を施行しなければ救命できない重傷者も一定の比率でいらっしゃるなどという報道を連日のように聞いていると、私はフラッシュバックというほどではないと思いますが、どうしても30余年も昔の自分を思い出して言い知れぬ不安に襲われてしまいます。夜中にいったん目が覚めると、もうドキドキして明け方までまんじりとできないことも何度かありました。30余年前…あれは小規模な“医療崩壊”だったといってもよいと思います。

 昭和58年から59年にかけて私がかつて世田谷区にあった都立母子保健院に勤務していたことは別の記事に書いたことがあります。そこの未熟児室は都区内北西部の産科で生まれた未熟児や病的新生児の医療をカバーしていましたが、何しろお産のことですから、いつ容態の悪い赤ちゃんが誕生して緊急の医療が必要になるか分かったものじゃない。多くの診療科のように「では○月○日に入院しましょうね」などと予約ができるようなものじゃないし、重症の場合は入院初日から人工呼吸器で集中治療を施さなければ助けられません。

 ある時など、母子保健院に2台しかない未熟児・新生児用の人工呼吸器(レスピレーター)が2台とも稼働しているところへ、3人目の重症未熟児が救急搬送されてきた、さあ、大変だ、どうしよう…というわけで、人工呼吸器を愛育病院から借りたり都立八王子小児病院から借りたりして急場をしのぎました。そういう病院間の連係プレイは制度化されていたわけじゃないから、機械の借用依頼はすべて私の個人的なコネクション、そして私の自家用車で運搬する…、おそらく今回のコロナ感染症でもさまざまな煩雑な事情があって、現場の医師たちは目の前の患者さんに医学的に専念していればよいという状況ではないでしょう。

 では小池都知事や西村経済再生担当大臣がコメントするように、コロナ感染症用の病床を確保し、ECMOの増産を図れば万事オーケーなのでしょうか。答えはノー、ECMOを解説するある報道番組で通常の人工呼吸器は専門医1人で動かせるが、ECMOは数人必要だなどとパネル付きで述べていましたが、どこがおかしいかお分かりですか。人工呼吸器とは患者さんの気管内にチューブを挿入して肺に酸素を送り込み、呼吸を助ける装置のことですが、それを専門医1人だけで動かせると思うなんて、番組の制作者や一般の視聴者の方々はともかく、番組を監修した専門家の医師は集中治療の現場を知らないんでしょうか。

 重症の患者さんが運び込まれた、人工呼吸器を準備して気管内にチューブ挿管、人工呼吸開始…とここまでは確かに1人でもできます。しかしいったん人工呼吸治療が始まった患者さんは少なくとも2日や3日、長ければ2週間や3週間くらい人工呼吸器を装着したままになります。その間ただ漫然と機械を動かしていればいいわけではなくて、頻回に動脈から採血して血液中の酸素濃度を測定、人工呼吸の最適条件(酸素濃度や換気回数など)を調節しなければいけない、口からは水も飲めないので輸液(点滴)管理もしなければいけない、投薬中の薬剤による副作用が出ていないことや感染を起こしていないことを確認しなければいけない、気管内チューブが抜けたら再挿管しなければいけない、ほとんど24時間寝る間もない激務です。それを1人でやれと言うのですか。通常の人工呼吸器でさえ同程度の力量と経験を持った専門医がせめて3人は必要です。ましてECMOを動かすとなれば…。

 母子保健院にも集中治療の現場を知らない小児科医はいたが、そんな連中は何の役にも立たなかったし、集中治療の現場の事情を洞察する気さえなかった。今回の新型コロナ肺炎の治療現場だって、ベッドと機械さえ揃えればただちに救命ができるわけではありません。医療とは、特に高度な医療とは熟練した医師と看護師のチームが連携して初めて機能するのです。看護師はベッドのあるフロアに常駐して患者さんの容態変化を逐一観察したり、チューブ内に貯留する患者さんの喀痰を適宜吸引除去する、そういう熟練した看護師なしでは人工呼吸器は動かせません。

 しかも昔の私の場合は自分が未熟児から病気をうつされることはありませんでしたが、今度のコロナウィルスは医師や看護師にも感染します。自らの身を防護しながら患者さんの治療に当たる御苦労は筆舌に尽くし難いものがあると思います。事実、世界各地では治療に当たる医師や看護師がコロナウィルスに感染して亡くなるという痛ましい事例がたくさん報道されていますが、ほとんど休む間もない過酷な現場で心身ともに疲弊した結果、病状を悪化させてしまうケースも多いと思いますし、極度の疲労で注意力も散漫になりがちですから、ちょっとしたミスを犯して自分が感染してしまうこともあるのではないでしょうか。

 行政もマスコミも一般世論も、病床さえ確保して人工呼吸器やECMOを調達すれば、コロナ肺炎に対処できると思っているかも知れませんが、コロナと戦える熟練した医師や看護師の人数は限られています。しかも日々の医療現場での戦いの中で彼らもまた感染して倒れていきますし、熟練したスタッフの抜けた穴はおいそれと急に補充するわけにも行かず、残ったスタッフへの過度の業務負担はさらに増加するばかり、おそらく現時点(国内の感染者が3000人を越えた4月上旬)でさえ、医療スタッフは不眠不休の戦いを続けておられるだろうことを想像すると、母子保健院で働いていた時のことが思い出されて息が詰まるようです。

 借り物も含め3台の未熟児用人工呼吸器が稼働していた時に私の胸の中にあった不安は、これでもし4人目の重症未熟児が生まれたらどうしようということでした。救命の望みが最も少ない子の人工呼吸器を外して新しい子に装着しなければならない、それは神にしか許されないはずの恐ろしい選択ですが、大災害や戦争が起こった時の救急医療においては必須の冷酷な現実ですし、ヒポクラテスもそれが医療者の使命だと言っています。

 各国の指導者たちは、必ずコロナに打ち勝つと高らかに宣言していますが、その戦いに勝利した後のポスト・コロナ時代、おそらく多くの医師や看護師たちが集中治療の現場を去ることになるのではないかと思います。私は幸いにして実際に人工呼吸器を外さなければいけない決断を下す一歩手前の局面で止まることができましたが、今回のコロナ感染症ではこのまま感染拡大が爆発してしまえば、全国各地の病院で生命の選別を余儀なくされる医療スタッフがたくさん出るはずです。それがトラウマになって二度と臨床の現場に戻れなくなる。過酷な戦場でのトラウマが1人の兵士をダメにしてしまう、それは単なるハリウッドの戦争映画の一場面ではないのです。

 現在全国各地で、コロナ感染防止のために不要不急の外出を避けて下さい、家族以外の人との会食は止めて下さい、イベントは延期して下さい、今日やらなければいけないことかどうか判断して行動して下さいと、さまざまな自粛が一般の人々にも要請されていますが、感染しても自己責任で諦めますからとか、自分1人くらいなら大勢に影響ないだろうとか、そんな風に考えないで下さい。ウィルスは集団内の人間の移動に伴って感染を広げます。1人でも多くの人間の行動自粛によってウィルスはその分だけ蔓延する力を失います。ウィルスの跳梁を許した場合、犠牲になるのは高齢者や持病のある人だけではありません。人の命を守ることを志した有能な医師や看護師たちまでを殺すことになる、そのことを自覚して頂きたい。

 コロナ感染が制御できなくなった幾つかの国では、医学部最高学年の学生たちの卒業を繰り上げて、一刻も早く医療の現場へ送り込むことが検討されているとのことです。これはまるで戦時中の学徒出陣と同じです。事態はもうそこまで逼迫しているのかと愕然としました。教科書の知識はあるが、まだ現場での経験が皆無の医学生、急遽現場に送り込まれたって大した戦力にはならないことが分かっていても、そうせざるを得ない。日本でも感染がこのまま推移して欧米並みになってしまえば、医学生の“学徒出陣”はあり得るでしょう。戦艦大和の沖縄特攻でさえ、その年に兵学校を卒業したばかりの若い少尉候補生たちを退艦させてから出撃したそうです。せめてその程度の余裕くらいは残っていて欲しいです。私のような定年退職後の“老兵”が、手薄になった各医療分野への応援に動員されることは覚悟の上ですが…。


小数点の殺人者

 もうずいぶん昔のことですが、隔週刊の漫画週刊誌に掲載された確か西岸良平さんの漫画にこんなのがあったのを覚えています。三途の川を渡ってあの世に行った人たちが閻魔大王の前に出て、この世で生きていた間の罪を判定される場面、閻魔大王の助手の子鬼たちが亡者1人1人について、「0.2人」とか「0.5人」とか不思議な数を報告して、それを聞いた閻魔大王が行き先を決定、亡者たちに宣告していくのですね。

 80歳か90歳くらいで亡くなった老婆が(まだ100歳老人が珍しかった時代)子鬼から「0人」と告げられると、閻魔大王は破顔一笑して、「その年齢まで生きて0人とは感心なものじゃな」と老婆を賞賛する。その後のストーリーがどう展開したかは覚えていませんが、この小数点の数字は何だと思いますか?

 それは亡者1人1人がこの世で殺した人の数なのです。もちろん本当に殺人を犯せば「1人」とか「2人」とか実際に殺害された被害者の人数が反映されるわけですが、そういう犯罪とは無縁に人生を終えた人でも、ほんのわずかでも誰かを死に至らしめるような原因の一部を作ったのではないかというのが西岸良平さんの言わんとするところです。

 例えばタバコを吸って周囲の人に副流煙を吸わせた、吸わされた人はその煙によってごくわずかずつでも健康を害して死に近づいた、それを子鬼たちは1本の喫煙で0.00…01人殺したとカウントする。また誰かにひどい言葉を投げつけて恐怖や不安や失望を与えると、その人は心血管系にストレスを感じてごくわずか死に近づく、これもまた子鬼たちは0.00…01人殺したとカウントする、彼らはそういう“微少殺人”の累計を閻魔大王に報告していたわけです。

 これは衝撃的な考え方でした。もう40年以上も昔に読んだ漫画の内容を覚えているんですからね。新型コロナウィルス感染症が流行している現在(2020年春)、国民にはぜひこの考え方を共有して頂きたいと思います。4月7日に東京・大阪など7都府県に発令された緊急事態宣言は16日に対象地域が日本全国に広げられ、国民は感染拡大防止のために可能な限り外出自粛するよう政府や自治体から求められています。

 しかし、大都市の有名繁華街の人出はかなり減ったものの、地元の商店街や公園などでは却って買い物などの外出が増えたことが報道されていますし、ちょっとどうかと思うのは、郊外の海や山へ気晴らしの観光に繰り出す人間が跡を絶たず、好天に恵まれた週末にはかなりの渋滞と混雑が見られたそうです。飲食店や宿泊施設を休業せざるを得ず経済的に困窮された方々がそんな郊外の観光地に遊びに出るはずがありません。外出自粛が続いて退屈だから、息が詰まりそうだから、とある程度余裕のある人たちが身勝手な理由で遠出をし、新型コロナ感染拡大のリスクを増大させているのです。

 感染が拡大して患者が増えれば、高齢者や持病のある方は生命を失う危険が高い、医療崩壊に直面する職場で働く医師や看護師など医療従事者や、生活のインフラやライフラインを維持するために働いている方々にも感染の危険が及んで、場合によっては生命を失うこともある、さらに感染蔓延が長引けば営業自粛を余儀なくされた事業者の方々の経済的困窮もさらに長引いて倒産、それが原因で自らの生命を絶つ方も出てくるかも知れない。

 特に今回の新型コロナ感染症が自分の生活にそれほど大きな影響を及ぼさないような方々、長期間の外出自粛を要請されて気分も滅入ってしまっていることは理解できますが、だからといって気晴らしをしたいとか、少しは楽しみたいとか、ストレスを発散させたいとか、そんな身勝手な理由で遠出しないで下さい。自分1人くらい遊びに出たところで大勢に影響ないから大丈夫だろうと思っているかも知れませんが、たった1人であっても新型コロナウィルスの感染力は何万分の一か何十万分の一か確実に増加しているのです。

 自分は手洗い徹底しているから絶対大丈夫と過信、仕事と称して東京から沖縄へ行ってゴルフを楽しんだ芸能人がいましたが、彼はゴルフの最中に発症して後日感染が確認されました。自分は絶対に感染していないと断言できる人は誰一人いない、症状が出ないまま出先でウィルスを撒き散らすことになるのです。その結果、さまざまな立場の人たちが長期間感染の蔓延に直面させられ、そのうち何人かは実際に発症して生命を失う人も出てくる、退屈だからと遊びに遠出した人間が直接手を下した“殺人”ではないけれど、死んだ後に閻魔大王の前で0.00…01人殺したとカウントされても仕方ないと思います。


陽性なのに陰性…

 今年(2020年)も梅雨入り間近となりましたが、新型コロナウィルス流行はまだまだ予断を許しませんね。インフルエンザのように夏場にかけてはいったん小康状態になるかと期待していたんですが…。しかし日本の感染者数や死者数が欧米先進国と比べて2桁違う理由、諸外国からは日本の奇跡、あるいはアジアの奇跡と言われ、予防や治療の手掛かりになる“ファクターX”があるんじゃないかと現在注目されているようです。

 日本人は物静かで行儀が良いとか、社会が決めたルールを破らせない世間の目という同調圧力があるとか、それも原因の一つである可能性はありますが、忘れちゃいけないのは隣の韓国も欧米に比べて同じように感染者や死者が少ない、私は何か人種的に共通する遺伝的背景があると思っています。これから少しずつ解明されていくといいですね。

 中国人も人口あたりの死亡率が低いとされていますが、ウィルス発生源ではない西側諸国で観察されたデータということで、日本と韓国が先進欧米諸国のような感染爆発を回避できたのはなぜか。流行初期の対応で事あるたびに比較された東アジアの両国ですが、日本と韓国でほぼ真逆に見えたのがPCR検査体制。韓国では疑わしい症例は片っ端からPCR検査を実施して感染者を特定し、患者を施設に隔離していった、それを横目で見ながら、日本では診察した医師が必要と認めても保健所を介さなければPCR検査ができない、日本の衛生当局はいったい何をやっているのかとマスコミも世論も次第に激昂していったのを思い出します。

 まだオリンピックの延期が決まる前でしたから、日本はオリンピックを強行したいので新型コロナウィルス感染確認者を増やさぬよう、PCR検査にも及び腰だったのではないかと勘繰られるような対応であったことは否めませんが、結果論で言えばPCR検査の実施数は大勢に影響なかったのではないか。私が日韓など東アジア民族の遺伝的背景が関係している可能性を考える根拠の一つですが、これについても後日の精密な解析結果が待たれます。

 ところで最近マスコミや専門家の会見を通じて有名になり、一般の方々にもその名を知られるようになったPCR検査ですが、どういう検査だかご存知ですか。PCR検査の意味も知らないで、俺等もPCR検査をやってくれ、何で日本は韓国に負けてるんだと騒ぐ日本人の何と多いことか。PCRは「
パッと見 ちょっとクな」検査の略ではありませんよ。

 PCRはPolymerase Chain Reaction(ポリメラーゼ連鎖反応)の略です。遺伝子とプロ野球チームの違いが分かる人なら、生物にとって必要なタンパク質の設計図はDNAの遺伝暗号として細胞内に格納されていることはご存知でしょう。細胞が分裂して増える時も、生物が子孫を残す時も、DNAは自らを複製(コピー)して同じ遺伝暗号を無限に増幅していきますが、そのメカニズムを応用し、DNA上のある形質に特有な部分を繰り返し複製して何万倍〜何億倍にも増幅させる技術がPCRです。どの部分を増幅させるかはプライマーと呼ばれるDNAサンプルであらかじめ指定しておき、検体DNAの特定部位にそのサンプルと同じ配列があれば、その部分が無限に増幅されて診断などの目的に利用できるのです。

 コロナウィルスは遺伝情報をRNAとして保存しているので、まずそのRNAをDNAに変換するという手間が一つ余計に必要で、それからPCRで新型コロナウィルスに特有の配列が含まれるかどうかを検出するわけです。簡単に説明するのも難しいですが、非常にデリケートな検査なので実際に施行するのはもっと難しい、最近ではかなり自動化が進んでいるようですが、特にコロナウィルスのようなRNA検体を扱う場合、呼気や唾液中の飛沫や手指の脂などが混入しないように細心の注意が必要で、今回のように大量の検体を迅速・確実・正確に処理できる臨床検査技師や研究者はそんなに多くない。

 私も1000人近い臨床検査技師の育成に関わってきましたが、流行初期の時期にこの流れ作業のようなPCR検査を遂行できた卒業生はせいぜい10人か20人もいればいい方だったのではないでしょうか。臨床検査技師の職域は複雑多岐にわたっており、普段は心電図や超音波検査、顕微鏡検査、微生物検査、血液検査、尿検査などに携わっている者に、いきなりPCR検査をやれと言ったって習熟に1ヶ月や2ヶ月はかかります。ドライブスルーの検体採取場ができた時、これでPCR検査が5分で簡便にできると勘違いしていた報道番組は1つや2つではありませんでしたが、あれはあくまで検体を採取するだけです。

 さてそのPCR検査の結果判定についても、多くの報道番組が視聴者に正確に伝えきれていない印象があります。今後はPCR検査も今よりもっと広い範囲で行われるようになると思いますが、もしPCR検査を受けて「陽性です」と言われた時、あるいは「陰性です」と言われた時、それぞれその結果をどのように受け止めるべきなのか、またそれ以前に、私が何でこんなわけのわからない質問を始めたのか、それをご説明しましょう。

 日本の衛生当局がまるでPCR検査を出し惜しみしているように報道されていた時期、希望者が検査可能な施設にドッと押しかけたら本当に必要な人にPCR検査ができなくなってしまうと言われました。何か気になる症状があった時に検査を受けて陰性と言われれば安心するのに何でやってくれないんだ、韓国じゃきちんとやってくれてるそうじゃないか、と思われた方はかなり多いと思いますが、それは誤解です。また会社の上司からPCR検査の陰性結果を貰って来なければ出社させないと言われた社員の話も報道されていましたが、そんなことを言う上司も無知なるが故の理不尽です。

 新型コロナウィルスのPCR検査は、ウィルスのRNA中に含まれる独特の遺伝子配列をDNAとして増幅させて検出しますが、最近ではその遺伝情報によってウィルスが産生した独特のタンパク質を検出する抗原検査も併用できるようになりました。PCR検査(遺伝子)も、抗原検査(タンパク質)も大体同じくらいの“精度”でウィルスを検出できるとされてます。だから疑わしい症状のある人たちを先ずは抗原検査でふるい分けすると、感染者の70%くらいは“陽性”になるが、この時一部は“
陽性なのに陰性”になるから、抗原検査で陰性だった分だけをPCR検査に回すようにすればPCR検査の負担が減る。

 言わんとすることはよく分かりますし、基本的に間違ったことは言ってませんが、“
陽性なのに陰性”というような変な用語を使うから、臨床検査自体に対する正しい認識が伝わらなくなってしまうのではないでしょうか。まず一般的に、
 
検査陽性=ウィルス感染者(患者)とは限らない
 
検査陰性=ウィルス非感染者(健康)とは限らない
ということを確認しておきましょう。

 およそすべての臨床検査といってよいでしょうが、それを陽性とか陰性とか判定する場合、例えば血液や尿中のある物質の含有量が一定の水準より高かった、レントゲンや超音波の画像で異常な影が存在した、顕微鏡で観察した細胞の形がおかしかった、特定の遺伝子配列が検出された、などの所見をもって“陽性”と判定します。しかしそれは「この人は患者だ」とか「この人はウィルスに感染している」と断言するものではなくて、「患者である可能性が高い」とか「ウィルスに感染している可能性が高い」という判断材料の一つを提供するものだということです。

 先ほどの“陽性なのに陰性”という言い方も、“
ウィルスに感染しているのに陰性”と言えば完璧です。どんな臨床検査でも、“陽性”と判定した中には、実は健康な人に濡れ衣を着せてしまっていることもある、これを偽陽性と言います。また“陰性”と判定した中には、実は患者さんを見落としてしまっていることもある、これを偽陰性と言います。

 以下新型コロナウィルスの場合として説明しますが、ウィルスに感染している人から偽陰性で見逃す人を除いて、正しく陽性と判断できる比率を“感度”と言います。感度が高い検査とは、
患者さんをどのくらい正しく拾い上げられるかという割合の数値が高いということで、PCR検査も抗原検査も大体70%くらいと言われてますね。つまりウィルスに感染している人が10人検査を受けると、3人くらいは見逃されてしまうということ、この人たちに特に症状が無ければ、本人たちはお墨付きを貰ったと勘違いして普段通りの生活をし、周囲の人たちに感染を広めてしまう危険性がある、新型コロナウィルスの恐ろしさですね。PCR検査や抗原検査がもうちょっとウィルス感染者に敏感に反応してくれると良いんですが…。

 そういうわけで“感度”の方は一般の人たちも何となく理解しやすいと思いますが、少し分かりにくいのが検査の精度を表すもう一つの指標である“特異度”…。これは
健常者をどのくらい正しくふるい落とせるかという割合の数値で、PCR検査や抗原検査はウィルスに感染していない人はほとんど100%“陰性”になるとされています。つまり本当はウィルスに感染していなかったにもかかわらず、検査で陽性と判断されたために新型コロナ専門施設に収容されて、そこで逆に感染してしまうというような悲劇は避けられる、だからPCR検査で陽性が出たら、ただちに隔離と治療という選択ができるのです。

 新型コロナウィルスに対するPCR検査あるいは抗原検査の感度は70%、特異度は100%とのことです。これで安心したいからといって念のためにPCR検査を受けるという行為には意味がない、むしろ無症状な感染者が周囲にウィルスを拡散する危険の方が大きいということがお分かり頂けたでしょうか。

 本当は感度も100%、特異度も100%という検査があれば理想的なのですが、いろいろな検査ごとにさまざまな制約や限界があって、現在実用化されている臨床検査の多くは、感度が80〜90%くらい、特異度が95〜99%くらいといったところのようです。これからは新型コロナに限らず、臨床検査に関する医療報道を視聴することがあったら、感度と特異度という視点を意識してご覧になると良いかも知れません。なお感度は敏感度と呼ばれることもありますよ。


見えない敵

 昨年(2019年)暮れから全世界で猛威をふるっているコロナウィルスです。上は国立感染症研究所、下はアメリカ国立アレルギー感染症研究所による電子顕微鏡写真で、もう何度もテレビや新聞や雑誌に掲載された写真なので皆さんお馴染みと思います。ウィルス本体から放射状に何本も棘のような突起が出ているのが、まるで王冠(コロナ)にそっくりというのでその名があります。太陽のコロナも同じく王冠から名付けられました。

 ところでこの下の写真、何で黄色の背景におどろおどろしい深紅のウィルスを描き出しているのでしょうか。この色彩の不気味さに夢にうなされる人も多いようですが、本来コロナウィルスは従来型も新型もこんな不吉な深紅色をしているわけではありません。

 ウィルスの姿は電子顕微鏡でなければ捉えられませんが、電子顕微鏡の世界に色彩はありません。色彩は3原色(赤、緑、青)から生じますが、これは波長が約3800オングストロームから7800オングストロームの領域に含まれる可視光線が、対象物から反射または透過してきた波動を我々の視覚が判別しているものです(1オングストロームは1/10,000,000ミリメートル)。

 学校時代の理科の実験で用いた光学顕微鏡は、複数のレンズを組み合わせて観察対象物の像を拡大しますが、これも所詮はレンズを通った可視光線の像ですから、波長の3800〜7800オングストロームより小さい物体はぼやけてしまうか、あるいはまったく像を結ばない。そしてコロナウィルスの大きさは大体1000オングストローム程度なので、色彩のある可視光線を当てても、透かして見ても観察することはできない。

 しかし電子線は加圧電圧によっては0.01オングストローム程度の波長のものができますから、これに磁場をかけてレンズのように屈折させ、蛍光スクリーン上に結像させることで光学顕微鏡よりもはるかに小さい物を観察することができます。20世紀前半に開発が始まった電子顕微鏡は戦後めざましい発達を遂げ、今ではこんな鮮明なウィルスの姿を映し出すことも可能になったわけですね。繰り返しますが、電子顕微鏡は単一波長の電子線の濃淡画像として記録されるので、それは本質的にはモノクロ画像、最近の報道番組や書籍でよく目にする“赤いコロナウィルス”は最近のコンピューター彩色ソフトによる画像ですが、何もこんなおどろおどろしい色に塗らなくてもよいと思うのですがね。

 さてウィルスは19世紀の末に、細菌濾過器を通しても感染力を失わない非常に小さな病原体ということで、濾過性病原体と呼ばれていましたが、特に20世紀の後半になって電子顕微鏡や遺伝子研究の飛躍的な進歩によって、従来の細菌や寄生虫とは一線を画す新たな病原体であることが徐々に解明されてきました。私が幼児であった1950年代はウィルス研究が緒について発展を始めた時代だったわけですが、当時はvirusの日本語表記は“ウィルス”ではなく“ビールス”でしたね。

 「風邪やインフルエンザの“ビールス”に感染しないように、よく手を洗ってうがいをしましょう。」
昔の幼稚園や小学校の先生方も、ウィルス感染予防のために手洗いとうがいの重要性を指導して下さいました。考えてみればほとんどの日本人は幼少期から手洗いとうがいの習慣を骨の髄まで叩き込まれて育った。たぶん今回の新型コロナウィルス第一波の感染を防いだのは日本人のこの習慣だったかも知れません。最近東京と大阪と宮城で無作為に抽出した人たちの血液で新型コロナウィルスの抗体検査をしたところ、99.9%前後の人が新型コロナウィルスに感染していなかったことが分かったそうです。幾つかの欧米諸国での検査で数%から10%程度の人が抗体を持っていたとされましたから、それに比べるとかなり低い割合です。

 前項で述べた新型コロナウィルスの
PCR検査抗原検査とは、今そこにいるウィルスを発見する検査ですが、体がウィルスを追い出すために武器として使用した抗体というタンパク質があるかどうかを調べるのが抗体検査です。つまり敵の爆撃機の機影を探ったり、敵が落とした爆弾を見つけるのがPCR検査や抗原検査で、その爆撃機を撃墜するのに使用した味方のミサイルがあるかどうかを調べるのが抗体検査。

 大多数の日本人の体はまだ敵の爆撃機の侵入を許していない、だからそれを撃墜するミサイルもまだ製造されていない。日本で新型コロナウィルスが欧米のような感染爆発を起こさなかったのは、日本人の体質や遺伝的素質がこのウィルスに対して特別な抵抗性を持っていたわけではない、優秀なミサイルを製造する技術が欧米人に勝っていたためでもない、日本人が幼少期から身につけた手洗いとうがいという行動様式でウィルスを寄せ付けなかったのが重要な要因だった可能性が、今回の
抗体検査によって少し高くなったように思います。

 さて電子顕微鏡を使わなければ見えないウィルス、どこに潜んでいて、どこから襲ってくるか分からないウィルス、姿の見えない敵は恐ろしいものですが、ウィルスに勝るとも劣らない恐るべき見えない敵が最近増殖して蠢動しているのが不気味です。某テレビ局の恋愛リアリティ番組に出演していた女性メンバーが番組内での些細なトラブルを巡り、匿名の視聴者からネット上で誹謗中傷の集中攻撃を受けて自ら若い生命を絶ちました。無能なテレビ番組制作者は素人男女を集めて筋書きのない恋愛を進行させ、それを周囲で面白可笑しく編集して視聴者も巻き込んで楽しむという、いわゆるリアリティ番組に頼るそうですが、アメリカやイギリスや韓国などでもそういう番組では何人もの出演者が匿名の誹謗中傷に悩まされて犠牲になっているそうです。

 匿名の誹謗中傷で相手を傷つけるネットユーザーの群れほど恐ろしいものはありません。人間と同じ染色体を持ちながら場合によってはウィルス以上の暴威をふるう。電子顕微鏡を使ってもその姿をあぶり出すことはできませんし、ワクチンも作れません。自分の氏名も素性もプライバシーで守られていることを熟知したうえで、匿名というカーテンの裏側からターゲットに定めた相手の人格を徹底的に卑しめる誹謗中傷の言葉を投げつける…。

 よくニュースや芸能サイトの匿名投書欄や、フェイスブックなど内向き限定のネット空間で、世間には実名も明かさないまま、「安倍のバカヤロー」などと政権批判や、「下らないプログラムだ」などと芸能批評をしている人々も多いですが、これは単に相手方シンパやファンからの反撃が恐いだけ、匿名を武器とする誹謗中傷ネットユーザーは、そういう臆病な腰抜けとは明らかに異なります。

 自分の言葉が相手の心に突き刺さり、生きていくのもイヤになるくらいの心理的ダメージを与える、そういう自分の言葉の“威力”を楽しんでいるのですね。まさに陰険きわまりない危険な“ビールス野郎”と言ってもよい。先日東京都内の公衆トイレに設置してあったコロナ対策の消毒液ボトルが、強酸性液体の入った容器にすり替えられていた事件がありましたが、誰がやったか悟られないまま、たまたま使用した人が手掌に傷害を受けるのを期待しているのと同じです。匿名の誹謗中傷者はチャンスがあればこれに類した犯罪に手を染める可能性もあると思います。

 誰もが手軽に広範に自分の意見を発信できるようなネット社会になったのだから、自分の言葉に責任を持つという人間関係の初歩的なマナーをもう一度見直すべきですね。私たちの世代が子供だった頃、“ビールス”から身を守るために手を洗ってうがいをしなさいと厳しく教えられていた時代、自分の言葉を発するには直接対面の会話か、せいぜい電話か手紙による方法しかありませんでした。だからこそ…だったのかも知れませんが、自分の言葉が相手の心にどう響くかよく考えなさいとよく指導されたことも思い出します。匿名での発言など不可能な時代でしたが、今にして思えば人類はインターネットから感染した“匿名”という新型ウィルスによって互いのコミュニケーション基盤をジワジワと破壊されつつあるように思えます。


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