蟻の穴から堤も崩れる
小学生の頃、諺や成句に関連する物語を集めた児童向けの書籍で、「蟻の穴から堤も崩れる」という成句に関連したこんな話を読んだ記憶があります。今回ちょっと調べてみると出典は古代中国の韓非子で、千丈の堤も螻蟻の穴を以て潰ゆ(せんじょうのつつみもろうぎのあなをもってついゆ)からきているそうですが、その物語はオランダを舞台にしていました。
オランダは海面より低い土地が多いので、海岸線に沿って長大な堤防が築かれている。ハンス少年の父親は堤防を監視する監督官で、この堤防が蟻の穴ほど崩れてもオランダ中が水浸しになってしまうかも知れないと、日頃からハンスに話していた。
ある日ハンスが隣村から帰る途中、天候が悪化して海が荒れてきた。見ると堤防の内側から1ヶ所、水が流れているのが目に止まり、ハンスは父の言葉を思い出した。早くこの事態を知らせようと、応急処置で堤防の穴に泥を詰めたり石を置いたりしたが海水の流入は止まらない。ハンスは仕方なく腕を穴に突っ込んで水を止めたまま、翌朝までその場で堤防を守り通した。朝になって駆けつけた人々がハンスの腕を引き抜くと、その腕は紫色に腫れ上がっていた…。
という物語でしたが、確か主人公の少年の名前はハンスだったなと思いながら、「蟻の穴から堤も崩れる」と「ハンス」をキーワードにして検索をかけたら、この物語を載せたサイトが見つかったのです。インターネットも凄いけど、私の記憶力も凄いでしょ?(笑)
この話はどうやらオランダ系アメリカ人のメアリー・メイプス ドッジという作家による創作のようですが、この物語はまずアメリカで注目され、オランダにはこの主人公の少年を讃える像が多数存在し、日本でも道徳の教材に使用されるようになったとのことです。
先日オランダ在住のある日本人の方がフェイスブックに投稿されていたのを読みましたが、最近になってオランダでもアメリカでも日本でも、新型コロナウィルスに対する人々の我慢が目に見えて減ったと述べておられたのです。感染者数世界一のアメリカでも第一波の流行はピークを過ぎたと見られますが、感染者数が減少してきた諸国でも油断すれば再び感染は燃え上がる、いったんは完全にウィルスを封じ込めたかに見えた韓国でも夜の盛り場を中心に再び新型コロナウィルスが鎌首をもたげている、それなのに人々はまた元の楽しい日々の生活に戻りたくて大騒ぎしています。
国を守るために自分の細腕一本で堤防の穴を塞いだハンス少年の1/10でもいいから人々の気概が必要な時です(実際の堤防ではそんなことをせずただちに逃げて下さい)。経済を回さないと選挙の票にかかわる政治家たちが緊急事態宣言を解除した、しかしウィルスはそんな政治家の浅はかな思慮とは無関係に、堤防の穴から水が漏れるようにジワジワと広がってくることなど小学生レベルの常識さえあれば容易に想像がつくはずです。
現代のオランダ人もアメリカ人も日本人も、もしあのハンスの立場に立たされたらたぶんこう言うでしょう。
「このくらいの穴なら大丈夫さ、明日誰かが見つけて対処してくれるまでに国中が水浸しになるなんてことはないだろう。それより早くお家に帰って美味しいご飯食べようっと!」
7月になって東京都の毎日の新規感染者数が連日100人を越えるようになりましたが、日本の政治家たちは国民に対して気休めと逆ギレの言葉しか言わなくなりました。3つの密(密閉、密集、密接)いわゆる“3密”を避けましょうと実に印象的なキャッチフレーズで東京都民や日本国民の警戒感をリードした小池都知事も、選挙で再選された途端に東京アラート再発令の数値基準を撤廃した、西村経済再生担当大臣も、現段階の感染者は重症化しない若者が中心だから医療体制は逼迫していないと余裕こきながら、誰だって緊急事態宣言の自粛要請はイヤだ、国民ももっと気をつけろなどと逆ギレ説教を垂れている、たぶんこの国の政治家は堤防の穴を見つけても自分は知らんぷり、誰か通りかかった人を見つけて、「おい、お前、ちょっと腕を突っ込んで水を塞いでおけ」と命令するだけでしょうね。
政治家が本当の危機を言わない。確かに若者たちは新型コロナウィルスに感染しても重症化しにくいから医療機関の負担にはなっていないですが、だからと言ってほんの一部でも夜の街に大勢で繰り出して心ゆくまでパーティーだコンパだ飲み会だと酔いしれていたら、昼の街に戻ってきた彼らが家庭や職場の高齢者や持病のある人たちにウィルスを感染させることは火を見るよりも明らかです。それでもまだ危機じゃないと言い放つ政治家たちを見ていると、つい戦時中の大本営発表とやらを考えてしまいます。連合軍の反攻は間違いないと分かっていても、当時の政治家や軍人たちはまだ神国日本は大丈夫、大和魂で頑張れと根拠のない空しい檄を飛ばし続けていたんでしょう。
いずれ夜の街で遊んだ一部の若者たちが高齢者や基礎疾患のある人たちに感染を広めて、医療崩壊の危険を招くのは時間の問題ですが、まだ病床数に余裕があるから大丈夫という楽観は禁物です。実際に医療現場で働く方々の口からは言えないでしょうから私が代わりに言います。いくら病床に空きがあって余裕があろうが、つい2ヶ月前まで重症の新型コロナ感染症患者の治療に当たっていた実働スタッフの大多数は心身ともに疲弊しきっているはずです。臨時の当直体制を組んでほとんど不眠不休だった、家にも帰れなかった、あの苦しい日々がまた来月か再来月にも始まるのか、もう勘弁してくれよ…。
現場の医師や看護師なら表向きそんな弱音は吐けません。戦時中、連日のように作戦行動で心身をすり減らした将兵たちを想像して下さい。次の新しい作戦行動を心待ちにして腕を鳴らしていたような“戦闘マニア”の兵隊など、ほんの一握りでもいたかどうか。多少はタフな神経の持ち主でも、過剰な負荷の加わるような任務が続けば“燃え尽き症候群”に陥るスタッフが続出するかも知れません。いずれ高齢者や基礎疾患患者の感染も増えてくることが想像できる政治家ならば、もう次の一手を打たなければいけないのは分かっているはずだ!
それに若者は重症化しにくいというのも、それは現段階ではそう思われるというだけであって、中長期の重篤な合併症まで含めて若者は新型コロナウィルスに対して不死身だという保証は何もないのです。だってコロナに感染して幸い回復した人たちが1年後も2年後も、さらに10年後も20年後も健康でいられると、誰も未来へ行って見てきたわけではないのですから…。
私の世代の医師が思い出すのは川崎病の悲劇です。川崎病は神奈川県川崎市で発生した風土病と誤解する人も多かった時代に私は小児科医になりました。川崎病とは1967年に川崎富作博士が報告した小児疾患で、原因不明の高熱が持続してリンパ節が腫れ、眼球結膜や舌粘膜や皮膚が発赤する病気ですが、見た目ちょっと激しい症状の割には、様子を見ていればやがて自然に回復すると信じられていました。
ところが川崎病は厄介な血管炎を合併することがあり、特に心臓に血液を送る冠状動脈に瘤(動脈瘤)ができると、まだ幼い子供が症状回復後に心筋梗塞で突然死んでしまうという悲痛な事例が相次いだのです。熱も下がって皮膚や粘膜の赤みも改善し、さあ退院ですよとお母さんがまだ乳児の患者さんを抱き上げた瞬間、動脈瘤の血栓が飛んでそのお子さんはお母さんの腕の中で突然息絶えてしまったという、未だに胸の痛むような出来事もありました。
新型コロナウィルスでも血管炎が合併しているという報告例があるようです。
「ウィルスが恐いなら出歩くな。俺たちは感染も覚悟して遊んでるんだ」
などと高飛車な暴言を吐きながら、おそらく自分は感染しても重症化しないと多寡を括って夜の街に繰り出す若者もいるようですが、あるいは無症状で済んだそういう若者の一部がある日いきなり動脈瘤破裂で救急外来に運び込まれるような事態になれば、医療現場はいよいよ逼迫するばかり…。本当に蟻の穴のような油断や気の弛みから国が崩壊することもある、それを為政者も若者を含む全国民も肝に銘じなければいけません。
コロナで繰り返される歴史
新型コロナウィルス感染症がこの先どうなっていくのか、2020年7月下旬の段階ではまだまだ予断を許さないが、6月に始まった第二波と思われる感染増加は7月中にピークを越えて以後は終息に転じるとか、日本人など東アジア民族は自然免疫が強いので、すでに多数の国民が感染を経験しており、このままコロナウィルスとの共生の段階に入れるとか、テレビの報道番組に登場してかなり楽観的な見解を述べる専門家も出てきた。私だって自分なりの直感や見解が間違っており、そういう専門家の楽観的な予測が的中して私自身が懺悔する日が到来して欲しいと心から願っているけれども、根拠も曖昧なまま楽観的で都合の良い解釈だけを過信して油断しているとミッドウェイ海戦という歴史上の悲劇を繰り返してしまうことにもなりかねない。
というより6月に始まった2度目の感染の山は、日本の指導者層がすでにミッドウェイ海戦の教訓をないがしろにしたために招来したと言わざるを得ない部分がある。日本における第一波と見られる波は4月に始まって5月にいったん終息したわけだが、欧米各国が感染爆発で夥しい感染者と死者を出している中、日本は奇跡的に新型コロナウィルスによる被害を最小限に抑え込んで、諸外国から注目を集めた。まさに対コロナ戦争の緒戦における大勝利、これで日本政府は慢心したと思われる。
この慢心が跳ね返ってきたのが6月の第二波、あるいは2番目の感染の山だった。まず東京でいったんは1桁にまで抑え込んでいた1日当たりの新規感染者数が2桁になり、あれよあれよという間に100人超え、200人超え、ついに7月23日には366人と300人を超えるに至ったが、最初の波を最小限に抑え込み“日本の奇跡”などと諸外国から注目されたことで有頂天になり、新宿や池袋あたりの歓楽街(いわゆる夜の街)で遊び歩く若者たちの間にクラスターが形成されている徴候を認めていたにもかかわらず、何ら有効な抑止手段を取らなかったことが原因の一つであることは間違いない。真珠湾攻撃後、インド洋で英国東洋艦隊を撃破して無敵艦隊などと自惚れ、十分な索敵も情報管理も行わずに漫然とミッドウェイに向かった日本機動部隊を彷彿とさせる。
さらにミッドウェイ海戦の失敗により次に打つ有効な手が限られてきた指導部は、戦争の行方を左右する要素を国民に丸投げし、国民の敢闘精神と愛国心だけを頼りに勝算の少ない無謀な作戦を決行して敗戦の坂道を転がり落ちていく。ウィルスに対しては感染防止を徹底するようにと説教するばかりで、GO TO キャンペーンなどという不要不急の観光奨励策にのめり込んでいく現政権と同じ精神構造としか思えず、おまけにかつての陸軍と海軍が互いに反目し合っていたように、政府と自治体が政策上の感情的な対立を深めていくのも太平洋戦争における指導者たちの相似形だ。
多くの医療関係者や知事が無謀と批判するGO TO キャンペーン、第二波と解釈してもおかしくない感染増加の波がまさに襲ってきている時期に何が何でも実行すべき政策なのか?一部の専門家の楽観的な見通しが的中して日本経済起死回生の道となれば現政権の手柄ということになるだろうが、あまりに投機的、イチかバチかの無謀な賭けである。
思えば緊急事態宣言が発令された4月7日の首相記者会見でのイタリア人記者からの質問、日本の政策はイチかバチかの賭けもあるのではないか、もし失敗したらどう責任を取るのかと問われた安倍首相は実に驚くべき答弁をしている。他の多くの国が都市封鎖、ロックダウンなどという強烈な私権制限まで伴う対処をしているのに、日本の外出自粛要請程度では甘いのではないかという指摘である。確かにこの時の日本の緩い対応は結果的に第一の波を封じ込めることになったのであるが、安倍首相の返答は将来的に禍根を残すものであった。
例えば最悪の事態になった場合、私たちが責任を取ればいいというものではありません。(中略)
日本は感染者数も死者数も他の国々より圧倒的に少ないから、経済的にダメージの大きい政策は取らない。しかし感染状況と経済を見合わせながら判断をしなければならないが…という意味のことを続けた上で、
もちろん専門家の皆さんが必要と言えば、我々は(諸外国と同じような政策も)判断をするわけであります。
常日頃から「政治は結果責任」と公言している御仁の発言とはとても思えないが、GO
TO キャンペーンなどの政策の結果がたとえ悲惨なものになったとしても、それは御用医学者や御用経済学者の皆さんが言うことに従っただけであって、私たち政治家の責任ではありませんよと宣ったのだ。こんな無責任な政治も歴史の輪廻か。
対米開戦か否かで国論が割れていた1941年、及川古志郎海軍大臣は近衛文麿首相に決定の下駄を預けると、近衛は自分なら中国大陸から撤退して米国とは戦争しないと表明、ところが東条英機陸軍大臣は絶対に陸軍は中国から撤兵しない、対米戦争についても、人間は時には清水の舞台から飛び降りる覚悟も必要だと強硬意見を吐いた。近衛首相は、1個の人間ならそれも必要だろうが、一億国民を持つ国家がやるべきことではないと反論すると、東条陸相は性格の違いだと一笑に付した。
こうして第三次近衛内閣は総辞職、後を継いだ東条英機内閣は一億国民を道連れに“清水寺の舞台から飛び降りて”国家を滅亡に導いたのは歴史上の事実、第二波と思われる感染拡大はすでに東京にとどまらず、大阪府や愛知県や福岡県などにも飛び火している最中、人々の旅行やレジャーによる移動を奨励したのも、清水寺の舞台から飛び降りたようなものか。東条英機は戦後極東軍事裁判で絞首刑に処せられたが、それは日本国民が彼の責任を追及した結果ではなかった。日本人自身は国民を巻き込んで戦争を開始した首相の責任を追及せず、その内閣で商工大臣を務め開戦に賛成した岸信介が戦後組閣するのも許した。そして今度はその“お孫さん”が自分の経済再建策の目玉を強行して何か悪いことが起こっても、それは専門家の皆さんの責任だとおっしゃっておられる。やはり歴史の輪廻か。
マスクは外しません勝つまでは
2020年8月になっても新型コロナウィルス感染は収まる気配も見えず、東京都内の新規感染者数は相変わらず300人、400人と日本としてはかなり高い数字で推移しており、全国では7月後半以降ほぼ連日1000人越えである。おまけに政府も自治体も国民に対して発するメッセージが朝令暮改とか支離滅裂とか曖昧模糊とか二律背反とか自己矛盾とか、およそその類の四文字熟語を足して平均したような場当たり的でご都合主義なものばかり、最近ではSNS上にこんな狂歌だか戯れ歌さえ流されている始末。
自粛しろ 経済まわせ 家にいろ
旅行には行け 帰省はするな
今この段階で国や自治体の指導者がウィルス感染対策で発するべきメッセージはたった一つ、
「あなたも私も、あの人もこの人も、もしかしたら感染者かもしれない」
単純にこのメッセージだけで礼節正しい日本国民には十分なはずである。
酒を提供する飲食店に午後10時以降の営業自粛をお願いするって?バカじゃないの。午後9時50分で飲み会お開きにすれば感染しないとでも思ってるのか?コロナウィルスさんにそんな“時間厳守”を期待しているバカを行政のトップに仰がなければいけない住民は不幸である。そんな馬鹿な対策しか言い出さないから、国民も都道府県民も自分たちに都合の良いように解釈して、いつまでもウィルスに対してスキのある勘違いのドンチャン騒ぎを繰り返しているのだ。
そもそも観光バス1台借り切って、補助席まで全部使って定員いっぱいのバス旅行、車内では酒ビンやカラオケマイクを回して飲めや歌えの酒盛りをしながら、ドライブインでキス・ハグしまくりの乱痴気騒ぎまでやったって、その参加メンバーにウィルス感染者が1人もいなければ、そのバスツアーで感染のクラスターは絶対に発生しない。
逆に厳密な手洗いを慣行して自宅に籠もりきり、生活必需品も誰かに玄関先まで届けて貰うという完璧な隔離生活を送っていても、玄関に届けて貰った食品のパッケージに誰かのウィルスの飛沫が付着していて、不運にもうっかりそれに触れた指先で目をこすってしまったというようなことでもあれば、それで感染しない保証はまったくない。広い世間の無症状感染者の飛沫がどこに付着しているか、どこに漂っているかなど誰にも分からないのだ。
ある意味このウィルス(に限らずインフルエンザなど他の病原体)に感染するかどうかは確率の問題、ロシアン・ルーレットの引き金を引くようなものだが、その確率をいかに最小限、できれば可能な限りゼロに近づけるかという工夫と思いやりこそがコロナウィルスと共に生きる“ウィズコロナ時代”のマナーとエチケットだと思う。
この間知人と会食して大丈夫だったから次も大丈夫だとは限らない。あの店でカラオケ歌っても感染しなかったからこの店で歌っても感染しないとは限らない。昨日まで発熱も咳もなく味覚嗅覚も異常なかったから今日誰か友人に感染させないとは限らない。政府や自治体のトップが肝心なメッセージを出さず、いたずらに営業時間だとか営業地域だとか外出旅行先だとか、枝葉末節の規制や自粛要請ばかりくどくど並べ立てるものだから、国民も都道府県民もいちいち右往左往するのも面倒になって、ウィルスが装填されたロシアン・ルーレットのピストルを危ない手つきでいじくり回している。
仕事で早朝に電車で出かけると、明らかに歓楽街から朝帰りの若者がマスクもせずに駅のベンチや車内シートで酔いつぶれている、婆さん連が飲食店の席に着くなりマスクを外して知り合いや家族の愚痴をベチャクチャベチャクチャ取り止めもなく喋り始め食事がきても止める気配がない、特に食品・飲食以外の商店主の親爺がマスクもせずに店頭で接客していることがある、あんたらの喀痰や唾液の飛沫を誰かが触れたらどうするの?
そろそろ現時点で確実に分かってきているのは、どうやら喀痰や唾液の飛沫感染、および何かの物体に付着したそれらへの接触感染がヒトからヒトへの重要な感染経路らしいということ。酒食や接待を伴ういわゆる“夜の街”、昼間でもカラオケや親しい間柄の会食など、いずれもアルコールが入って気が緩み、遠慮なく大声を出し合う空間こそが、場所や時間帯を問わずかなりヤバイということ。また現在症状がなくてもウィルスの飛沫を撒き散らす可能性があるということ。
為政者が出すべきメッセージは、『飛沫を撒き散らすな。お前は感染者かも知れない』のただ一点のみ。医療関係者の方は政府の“御用学者”まで含めてそれをたびたび口にしているのだが、やはり為政者は文科系独特の思考回路が災いするのか、「どこそこへは行くな」とか「何時までに終了しろ」とか「旅行に行く時は感染防止策を十分に」とか、やたら権威主義的に回りくどい事柄を細々と指図するばかりで始末が悪い。日本国民全員が人前ではマスクを着用して余計な会話を慎めば新型コロナウィルス感染は秋が深まる頃には終息するのではないか。
2000年前の花に思う
先日、茨城県古河市で仕事があった場所の隣に古河公方公園というよく整備された大きな公園があり、そこの池に“大賀ハス”が咲き誇っているというので見てきました。大賀ハスとは1951年、千葉県にあった東大検見川厚生農場で2000年前の地層から発掘されたハスの実が発芽した花の後裔で、現在ではここ茨城県古河市以外にも全国各地にその繁殖地があるそうです。ちなみに「古河市」は何と読むかお分かりですか。普通に読めば「ふるかわ市」ですが、実は「こが市」と読むのですね。
さて東大検見川厚生農場は現在は東大検見川総合運動場になっていて、私も学生時代にそこで陸上部の合宿をしたことがあります。そこの湿地帯には大量の泥炭が埋蔵されているので、戦時中は燃料不足解消のため、泥炭の採掘が行われていました。
泥炭とは最も等級の低い石炭のこと、石炭とは古代の植物が腐敗分解する前に地熱などの影響で炭化したもので、産業革命当初は“黒いダイヤモンド”とも称された重要な化石燃料でした。石炭の等級には幾つかあって、最も炭化が進んだ良質のものが無煙炭、次が瀝青炭(れきせいたん)、以下褐炭、亜炭、泥炭と続きます。日露戦争では日本艦隊は英国から輸入した最高級の無煙炭を使用していたようですが、バルチック艦隊を待ち受けている間、万一敵が宗谷海峡や津軽海峡に出現した場合に備えて、各艦ともそちらへも急行できるだけの余分な無煙炭を甲板にまで積み込んでいた、しかし敵は対馬海峡に現れたため、不要になった無煙炭を惜しげもなく海中投棄してから出撃したそうです。それが勝ち戦というものでしょう。農場の泥炭に頼っていた時点で太平洋戦争は負け、航空機用燃料に松から採取した松根油(しょうこんゆ)など論外というべきです。
検見川の泥炭採掘は戦後も続けられ、1947年にたまたま1隻の古代の丸木舟と6本の櫂が発見されたことから、さらに調査を進めたところ、もう2隻の丸木舟と一緒にハスの花托(かたく)が発見された、花托とはハスの花が咲いた後に残るシャワーの注ぎ口みたいに穴のたくさんあいたヤツです。当時のハスの権威だった大賀一郎博士はハスの花托が出土したことに興味をもって1951年、地元のボランティアや小中学生の協力を得て発掘調査を継続、何と調査打ち切り直前になってハスの実を1粒発見、調査期間を延長したところさらに2粒を発見しました。硬い皮を被った長径2センチくらいの種子ですが、よくあの広い検見川運動場(当時は厚生農場)からわずか3粒を見つけたものと感心します。
大賀博士はさっそく3粒の種子を植えたところ、そのうちの1粒だけが発芽に成功して大輪の花を咲かせたので、以後“大賀ハス”として有名になり、株分けされて日本各地に広がっていったとのことです。その後シカゴ大学に放射性炭素年代測定を依頼したところ、このハスの実が出土した地層は約2000年前、弥生時代のものと判明しました。植物の種子の中にはかなり長期間、土中で生命を保つものもあるそうですが、2000年間も泥炭層に埋まりながら発芽能力を保っていたのはかなり驚異的なことのようです。弥生時代の人々は、こんなハスの花が咲き誇る水辺に丸木舟を係留して、遠隔地との物々交換などやっていたのでしょうか。
2000年も眠っていたハスの実としてはさぞ驚いたことでしょう。「泰平の 眠りを覚ます上喜撰」どころではありません。せっかくですからちょっと寄り道すると、この狂歌は「たった四はいで夜も寝られず」と続き、幕末の1853年(嘉永6年)に浦賀にペリーが来航した際の混乱を詠んだものです。最近の研究では日本橋の書店主の山城屋佐兵衛が常陸国の国学者色川三中に宛てた1853年6月付けの書簡の追伸に、「太平之
ねむけをさます上喜撰 たった四はいで夜るもねられず」とあるそうで、上喜撰には蒸気船の添え書きもあるとのこと、横須賀開国史研究会の斎藤純さんという方の調査です。
江戸時代の8倍以上の眠りから覚めたハスの実が昭和・平成・令和の時代に咲いてみて何を感じたのか、この見事な薄紅色の花に聞いてみたいものです。おそらくこの花が眠りに入った当時、人々は農業を営んで集落を形成し、近隣の集落とも徒歩や家畜や丸木舟などを使って往来して、さまざまな情報交換や物々交換などを行なっていたと思われますが、基本的な社会や文明の在り方は現在もそんなに変わっていません。人々は集落(市町村)に定住して貨幣を介在させた大規模な物々交換(商業活動)にいそしんでいる。しかしその規模たるやハスの花の想像を絶していることでしょう。
弥生時代、ハスの花は数人の屈強の男たちが収穫した穀物を載せた丸木舟で漕ぎ出していくのを見送った、そして数日経つと同じ男たちが獣の肉を抱えて元の船着き場に戻ってきた。だが現代ではハスの花にとって顔も覚えられぬくらい多数の人々が、車輪の付いた箱に乗って行き交い、翼が付いて轟音を発する鉄の筒に乗って地の果てまで飛んで行ってしまう。もしあなたが2000年後まで人類文明が発展し続ける未来を信じられるならば、眠っている間にそんな時代に生かされることになった自分自身を想像してみるのも一興かも知れませんね。
ところで2000年後の人類の栄華を信じられるかどうか、ちょっと気になる話を拝聴する機会がありました。ある医学関連の学会(リモート開催でしたが)に招待されて特別講演をされた立命館大学古気象学研究センターの中川毅先生の講演で、『人類は予測不可能な時代をどう生き延びたか』というタイトルです。
この先生は福井県の若狭湾国定公園にある三方五湖の一つ、水月湖の湖底年縞の調査を行なって研究されてきた人です。水月湖は周囲から流れ込む河川が少なく、山に囲まれていて湖水がかき混ぜられることもないため、毎年毎年季節ごとに湖底にプランクトンの死骸や鉱物、大気中の塵などが堆積して1年ごとの縞模様を形成しているそうです。これを年縞といいますが、水月湖ではその恵まれた自然条件ゆえに何と7万年分の堆積物を1年ごとに正確に分析できるのだそうです。まさに地球環境を測定する物差しとして利用できるわけですね。これに匹敵する物差しとしてはグリーンランドの氷河などもあるそうですが…。
大賀ハスの眠りの35倍もの気の遠くなるような時間を水月湖底の年縞で1年ごとに調べていくと、地球が最後の氷河期を脱して安定した気候になったのは約11,500〜11,600年前のこと、それまでは寒冷と温暖が予測不可能なほどイレギュラーに繰り返される“荒れた気候”だったが、その後ようやく温暖な気候が始まったらしい。この“荒れた気候”と“安定した温暖な気候”はこの7万年の間にも何回か繰り返されたが、これほど長く“安定した気候”が続いたのは地球の自然史としては珍しいとのことでした。
そして“荒れた気候”と“安定した気候”の変わり目は決して何百年も何千年もかけて移行するのではなく、せいぜい10数年で起こる、水月湖底の年縞はそれを物語っているそうです。大賀ハスが見てきた2000年という歳月、それは地球の気候がかつてないほど長期間にわたって安定してきた時代、すなわち毎年毎年平均気温の乱高下に翻弄されながら狩猟採集に頼る生活をしてきた人類が、やっと来年も同じ収穫を期待できる農耕生活に移行して都市・集落を築き、さらに活動と協調の場を広げて全地球的規模の文明を作り上げた期間だったわけです。
この文明の基盤を揺るがすものはコロナウィルスなどのパンデミックばかりではない、地球を含む太陽系が銀河系宇宙の何らかの変動でちょっとでも気候が変化すれば、人類は再び狩猟採集の生活を余儀なくされるかも知れません。かつてアルビン・トフラーが『第3の波』で考察した人類文明変革の第1の波であった農業革命は、今年もまた去年のように、来年もまた今年のように、ほどよい気候が予想されて同じくらい農産物の収穫を期待できる…という大前提があって初めて可能だったのだと気付きました。昨今の世界的異常気象はコロナウィルスのパンデミックと共に人類文明へのダブルパンチの恐れさえ出てきました。人類にいよいよ次の段階への大飛躍の時期が差し迫っているようです。
地域格差の始まり
先日、JR相模線の下溝駅の近く(神奈川県相模原市)で仕事をした帰り、縄文時代の遺跡があるというので見学してきました。約4500〜5000年前の縄文中期のもので、1926年に発見された勝坂遺跡だそうです。独特の装飾文様を持つ土器を勝坂式土器ということは何かの本で読んだことがありましたが、まさかその命名の元になった遺跡の近くを、それと知らずに仕事で通りかかるとは何たる偶然でしょうか。下の写真2葉のうち左のものはこの勝坂遺跡に復元されていた約4700年前の竪穴式住居です。
古代の竪穴式住居というと、普通は右側の写真のように単純な構造のものを思い浮かべますが、何と勝坂遺跡にあったものは前室みたいに張り出した玄関入口が付いている。防寒対策でもあったのでしょうが、右の竪穴式に住んでいた人から見れば大邸宅ですね。
ところで問題なのは、右の写真は私の自宅の近く、練馬区の石神井川沿いにある栗原遺跡に復元されている竪穴式住居、1955年に発見された遺跡で旧石器時代から平安時代までのさまざまな事物が出土しているそうですが、この住居はそのうちどの時代のものでしょうか?
説明板によれば、何と8世紀初めの奈良時代のものだそうです。
あおによし 奈良の都は咲く花の 匂うがごとく今盛りなり
と奈良の都の繁栄ぶりが万葉集に詠われていた時代、東京練馬区の外れでは3000年前の“大邸宅”よりもさらに簡素な竪穴式で暮らしていた人たちがいた、その事実はある意味で新鮮な驚きでしたね。説明板にも「奈良の都の華やかさに比べ、当時の地方農民の暮らしぶりがどんなものであったのかを語りかけてくれる」と記載してありますが、左の写真が4700年前、右の写真が1300年前、そう思って2葉を見比べると、現代も続く地域格差って何だろうと考えてしまいます。
日本列島の人口が500〜600万人程度しかなかった奈良時代、華麗な大仏殿などを建造した建築技術が全国に拡散できたわけはなく、また東日本などの片田舎に住んでいた住民が一生に一度でも“関西旅行”で見聞を広められたわけでもなく、さらに自分が住んでいる住居は3000年前と同じだなどということを教えてくれる歴史学や考古学があったわけでもなく、地方の人々は都の生活との格差に不平や不満を洩らすこともないままに、30歳前後の平均寿命を精一杯生きていたのでしょう。
しかし現代は違います。日本全国、世界各地の状況はインターネットやニュース報道などを通じて手に取るように分かる時代であり、しかも我が国を含む自由主義の先進国では福祉政策による積極的な平等主義を憲法など国の最高規範で定めています。東京や大阪だけでない、日本中の都市には高層ビルがニョキニョキと建ち並び、つい先日も東京駅の近くに日本一の超高層ビルが建設されると発表されましたし、延期になったオリンピックのための競技場や体育館が相次いで短期間に建設されたことは記憶に新しい。
しかし一方で東北地方の太平洋沿岸では津波の防潮堤がまだ完成していない所もあるし、1年前の台風で被災した地域にまだ吹き飛ばされた屋根をブルーシートで覆ったままの家屋も散見される。人や物や情報が大量迅速に行き交うこの時代にあって、この地域格差は4700年前と1300年前の竪穴式住居の比較以上に大きいのではないかと思いました。
若鷲の歌
今年(2020年)春先からNHKで放送されている朝の連続テレビ小説(通称朝ドラ)の『エール』は昭和の作曲家古関裕而さんをモデルにした作品で、通算102作目になるそうです。この朝ドラシリーズは『おはなはん』、『雲のじゅうたん』、『おしん』、『澪つくし』、『はね駒』、『ふたりっ子』、『あすか』、『ちゅらさん』、『ゲゲゲの女房』、『なつぞら』など、その物語や主演女優さんなども絡めて非常に印象に残っているものが多いですが、今年は古関裕而さんという実在の作曲家とその妻がモデル、古関さんといえば私も高校時代にブラスバンドで『オリンピックマーチ』を演奏した思い出がある、あの名曲を作った人ということで特に興味を持って視聴しています。
古関裕而さんは生涯5000もの曲を産み出したと言われていますが、戦前は早稲田大学の応援歌『紺碧の空』や阪神タイガースの応援歌『六甲おろし』などの応援歌や、日本各地のいわゆるご当地ソング多数を作曲して、チームや地方に元気を与える歌が多く、それが今回の朝ドラのタイトル『エール』に込められた意味だと思います。
しかし戦前から戦時中の大日本帝国の政府や軍部は、人々の力を鼓舞し、意気を高揚させるそういう歌の力を利用しようとしました。もっともこれは当時の大日本帝国に限りません。古今東西どこの国でも人々の戦意を高揚して戦いに駆り立てるための軍歌は盛んに作曲されました。古関裕而さんも『露営の歌』、『暁に祈る』、『ラバウル海軍航空隊』、『若鷲の歌』など、あの歌もこの歌もか…と驚くばかり多数の軍歌や戦時歌謡を作曲しています。
中でも戦意高揚映画『決戦の大空へ』の主題歌として作曲された『若鷲の歌』(別名『予科練の歌』)は、映画を見終わった小学生の少年たちまでがこの歌を口ずさみながら劇場から出てきたほど、当時の国民の心情に訴えるものが大きかったそうです。まさに歌の力、音楽の力とでもいうのでしょうか。
古関裕而さんは戦時中はそれも国民の務めと考えて国策に協力する音楽を作っていたようですが、敗戦後、自分が作曲した歌に鼓舞されて戦場に向かい、再び帰らなかった人々への自責の念が強かったといいます。まあ、実際の史実でどうであったかは知りませんが、NHK朝ドラで古関裕而さんをモデルに描かれる架空の人物“古山裕一さん”のそんな物語を追っているうちに、昔読んだ戦時中のある元中学校長の回想を思い出しました。
確か昭和から平成になる前後のことだったと思いますが、その方は最近ではよく流れるようになった『若鷲の歌』をまともに聞くことはできない、かつて御国の為といって予科練に送り出した教え子たちのことが思い出されるというのです。中には志願を迷っていた教え子も多かったのに、当時は予科練志願者を多数集めることが学校の名誉であり、中学校ごとにその人数を競い合う風潮などもあって、半ば強制的に志願させた教え子もいた、戦時中のことで仕方なかったなどと言い逃れられるものではない、自分の言葉に従って予科練を志願して入隊、そのまま戦死した教え子たちを思うとどんなに悔いても悔い足りない、どんなに詫びても詫び足りないのだそうです。
横須賀市の追浜(おっぱま)にある貝山緑地には豫科練誕生之地の碑が建てられています。昭和5年(1930年)に航空戦力充実の必要性を感じていた日本海軍は、追浜にあった横須賀航空隊の一角に海軍少年航空兵養成の教育機関として豫科練習部を開設し、15歳から17歳の男子を募集して3年間の教育を行うことになりました。豫科練(予科練)と呼ばれるようになったこの教育航空隊は、後に昭和14年(1939年)に霞ヶ浦に移転しましたが、碑文によれば、
豫科練を巣立った若人たちは、飛行練習生教程、実用機錬成教育と研鑽をかさねてたくましい若鷲と育ち、太平洋戦争に於ては名実共に我が航空戦力の中核となり、水陸の基地から、航空母艦から、戦艦
巡洋艦 或は潜水艦から飛び立ち、相携えて無敵の空威を發揮したが、戦局利あらず、敵の我が本土に迫るや特別攻撃隊員となり、名をも命をも惜します一機一艦必殺の体当たりを決行し、何のためらいもなく、無限の未来を秘めた蕾の生涯を祖国防衛の為に捧げてくれたのである
とのことです。しかしあの元中学校長は、こんな美文調で戦死した若者たちを讃えても、その自責の念は少しも和らぐことはなかったでしょう。
予科練の歴史の中で約2万4千人が飛行練習生過程を終えて戦地に動員され、その約8割が戦死したといいます。人類という種族が太古の時代より集団間、部族間、国家間で闘争を繰り返さなければならなかった長い歴史を考えれば、一部の護憲的理想主義者のように何でもかんでも“戦争”というものを全否定すればそれで済むとは思っていません。しかし太平洋戦争に関しては、膨大な若者たちの犠牲、銃後の国民の犠牲がなぜこれほどまでの国民的トラウマとなり、古関裕而さんや元中学校長たちが自責の念にかくも苦悩しなければならなかったのか、そういう新たな歴史的視点からの検証が現在求められていると考えます。
誤解を恐れず言えば、自由という人類の普遍的価値と信じられるもののための戦いに斃れた人々への鎮魂であったならば、我々戦後日本人は太平洋戦争をこれほどまで自虐的に捉えることもなかったのではないか。為政者を含め右翼も左翼もしっかり考えるべきだと思います。20世紀から21世紀に変わる頃を境に我が国には戦前回帰といってもよい風潮が台頭してきました。事あるごとに中国や北朝鮮の政治体制を批判する日本政府ですが、日本学術会議の人事に官邸が介入したり、中曽根元首相の葬儀に国立大学の半旗掲揚を要請したりと、一見するとひとつひとつは大したことないように思える既成事実が積み重なって、中国や北朝鮮も顔負けの戦前のような政治体制に向かっているのではないか。古関裕而さんも、せっかく戦後の日本にもエールを送ってきたのにまたか…!と草葉の陰で渋い顔をされているかも知れません。
「三丁目の夕日」の時代と新型コロナ感染症
「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画が大ヒットしたのは2005年(平成17年)、私もそれにあやかって昭和30年代のことやその当時の学校教育のことなどについてこのコーナーに記事を上げたのが翌2006年のことでした。もうあれから干支が一周と1/4ほど回ってしまったのか、あれは私が新しい学科の教授になった年、あれから数多くの教え子たちに医学や医療を教え、それと引き換えにたくさんの若々しい思い出を貰ったものだと、時の流れの速さを感じますが、先日のこと、ふとある突拍子もない考えが頭をかすめました。もし新型コロナウィルスに襲われたのが昭和30年代前半の日本だったら…。
当時はまだ現在に比べればウィルスについての知見も浅く幼稚で、“virus”も日本語で「ウィルス」ではなく「ビールス」と表記されていたものです。「アビガン」だの「レムデシビル」だのひょっとして効くかも知れないと期待を持たせてくれるような薬など何一つありませんでしたし、ウィルスに冒された肺の呼吸を助けてくれる機械も技術もなかった、また現代でさえ難航している有効なワクチン開発が可能だったはずもないから、日本人に限らず当時の人類は新型ウィルスに対しては完全に無防備な状態、医学的には何ら手の打ちようもなく、いったん感染してしまった高齢者の死亡率はかなり高かったのではないかと思います。当時はサザエさん一家のように高齢者も同居する家庭は多かったから、それも死亡率の増加につながった恐れがあります。
それでは新型コロナウィルスに襲われた昭和30年代の日本が死屍累々の惨状を呈するに至ったかというと、必ずしもそういうことにはならなかった可能性があります。「三丁目の夕日」の時代の人々も我々令和の日本人と同様、この未知の伝染性病原体に対して手洗い・うがいとマスク着用で対処したと思いますが、昭和30年代と令和の時代で根本的に異なっているのは人と人との接触、いわゆる3密に関する状況ですね。
昭和30年代、すなわち私たちの世代がまだ幼児から学童だった頃、人々は滅多に外食などしませんでした。親戚一同や町内会一同あるいは同業者の家族連れ会合など1年に1回くらいしかなかった、人々はまた次の年に顔を合わせるのを楽しみに1年間の日常生活に励んだわけです。人々の日常の食事は、各家庭の主婦や高齢者が近所の商店街で買い求めた食材を調理して作るまさに正真正銘の家庭料理。新型コロナウィルス感染が広まりやすい場所として歓談しながらの会食が挙げられてますから、まず重要な感染ルートの一つが消去されることになります。
次に昔はディズニーランドやユニバーサルスタジオみたいな大規模なテーマパークに人々が大挙して押しかけることもなかった。そもそもテーマパーク自体が無かったし、西武園や後楽園や先日閉園した豊島園などの“遊園地”には観覧車やジェットコースターのような屋外の遊具はあっても、人々が密閉空間で楽しむ劇場型のアトラクションなどありませんでした。ここでも3密のうち密閉と密集は避けられていました。
さらに大規模なイベントもほとんど無く、千人単位の人々が集まる娯楽としてはプロ野球や大相撲観戦、映画や歌舞伎鑑賞があるくらいで、もしかしたらここが昭和30年代のクラスターになっていた可能性はありましたが、令和時代に比べたら全体の観客動員数は1割に満たなかったんじゃないでしょうか。それに新型コロナウィルスを最も“媒介”しているとされる20歳代を中心とした若年層が各種イベントに少々過熱気味に夢中になる時代でもありませんでした。
あと人々が“そぞろ神”に憑かれた『奥の細道』の松尾芭蕉のように旅行旅行と狂奔することもなかったです。そもそも週休二日などという結構な時代でなく、土曜日も午前中半日は大人も子供もそれぞれ課業があって、長期休暇でもなければ泊まりがけで遊びに行く余裕などありませんでした。だから東京で感染が増加してもそれが地方に波及するリスクは令和時代に比べればかなり小さかったはずです。
こうして考えてくると、テレビゲームもパソコンもインターネットもDVDもブルーレイも無かったあの時代、老いも若きも日本の人々は何を娯楽に日々を生きていたのか、現在の視点から見るとちょっと寂しい感想を抱かれる方々も多いでしょうが、それでも昭和30年代の人々はそういう時代で生活していたのです。もし現代のウィルスの医学知識を持ってあの時代の生活に戻れれば、もしかしたら新型コロナウィルスなど半年か1年で終息させられるのではないか。
まあ、グルメだ、アミューズメントだ、トラベルだと歓楽への欲望に慣れてしまった日本人が昭和30年代に戻れるはずもないのですけれど、新型コロナウィルスの流行は特に先進国の国民にとって、あまりにも豊かで贅沢になり過ぎた自分たちの日常を振り返ってみる試練なのだろうと思います。
官邸主導政治の盲点
安倍晋三の前政権は霞ヶ関官僚の人事権を握ることによって官邸主導型の政治を推進してきたと言われる。だから首相の意に添わない意見を具申するような官僚は次の人事で左遷されてしまう恐れもあるため、次第に首相の顔色を見て“忖度”するようになり、官邸の意志がそのままストレートに政策に反映されるようになったらしい。
我が国のような議院内閣制の建前では、国民が選挙で選んだ国会議員によって選出された者が首相になるから、国家公務員試験を通ったエリート集団である官僚が政策を立案するよりも民主主義の理念に近いという意見もある。それはそれで一理ある話だが、ここへきて官邸の素人集団が決定した政策のために国民の血税が水漏れするといった事態も見られるように思う。
新型コロナウィルス感染症が終息という状況にはまだ程遠いのに、政府の肝煎りで始まった各種“GO
TO キャンペーン”事業ではさまざまな不手際が目立ったが、中でも“GO TO イート”や“GO
TO トラベル”では不正なポイント取得疑惑が浮かび上がった。まず“GO TO イート”、有名なのは居酒屋チェーンの『鳥貴族』における“トリキの錬金術”だが、予約サイトからの予約客に昼食なら1人500円、夕食なら1人1000円分のポイントが付与される制度が悪用された。サイトから席だけ予約しておいて1品300円程度のメニューだけ注文し、まんまと差額のポイントを手に入れるというもの。
“GO TO トラベル”も宿に予約を入れると、その代金に応じた電子クーポンがチェックイン前の午後3時の時点で付与されるシステムが悪用された。架空の電話番号やメールアドレスから長期間高額の部屋を数人分予約して、チェックイン予定日の午後3時にクーポンのポイントだけ獲得した後は無断キャンセルしてしまうというもの。この手口で何万円分もポイントを取得する不正が全国各地で頻発したという。
制度の不備や盲点を突いて不正にポイントを獲得する、そんな犯罪行為を実行する人間が悪いのは論を待たないが、こんな抜け穴など法律や経営の知識に乏しい私たちのような素人同然の一般国民でも事前に分かるのではないか。新型コロナ感染症で日本経済も青息吐息の状況の中、景気刺激のための“GO
TO”キャンペーンをやるのはある意味仕方ない面もあるが、果たしてこの拙速性は霞ヶ関官僚の責任だったのか?
そもそも“GO TO”キャンペーンは2020年4月7日、東京など7都府県に緊急事態宣言が発令された時に、感染終息後の景気刺激策として実行することを安倍前総理が約束したものであった。これから感染症と闘うという時に、何で抱き合わせで終息後の夢を振りまくのかという批判はあったし、私も真珠湾攻撃の前に「アメリカに勝ったらハワイで戦捷祝賀パーティーをやりましょう」などと内閣や軍部が公言したような滑稽さを感じたものだった。
案の定感染症は終息しなかったが、いったん首相が口約束してしまった以上、“GO
TO”キャンペーンを取り下げることはできず、何だかんだともっともらしい理屈をつけて“GO
TO”キャンペーンは拙速に見切り発車してしまい、ポイントの不正取得などで国民の血税が一部のモラルの無い人間や犯罪者の手に渡ってしまった。
これが議院内閣制の頂点に立つ官邸が主導する政策の盲点ではないか。国民に選ばれた議会に支えられた頂点だから支持者の意向を無視することはできない。経済を優先する支持者を母体とする官邸だから、ウィルスを押さえ込めなかった時点でさえ景気刺激策を先延ばしすることは自らの政治的生命を縮めることになる。こうして制度の十分な吟味もなされぬままに“GO
TO”キャンペーンは強行された。官僚主導なら、そもそも非常事態宣言と抱き合わせで“GO
TO”キャンペーンを発表することはなかったろうし、仮にキャンペーンを実行するにしても専門家集団があらゆる方向から制度を吟味した上で慎重に開始したことと思う。
勝負の3週間
2020年11月25日、新型コロナウィルス感染に歯止めがかからず、業を煮やした日本政府は「年末年始に向かってこの3週間が勝負だ」と、西村経済再生担当大臣を通じて国民に強い呼びかけを行なったが、3週間経っても感染の勢いは止まるどころか乾燥した寒い季節を迎えてさらに増加し、東京都内で1日800人を超える新規感染者数を数える日が出るなど、全国でも新規感染者数はうなぎ登り、各医療機関の新型コロナ対策用の重症者ベッドは急速に埋まって医療崩壊は間近に迫った。勝負の3週間は完全な敗北だった。
それにしてもウィルスの跳梁を許しやすい冬の季節を迎え、一部からは御用学者の集団と称される専門家会議のメンバーからさえ、もはや国民個人の努力で対処できるレベルは越えたという発言も飛び出す中、政府はこの3週間いったい何を勝負してきたというのか。自分たちの支持層である経済界のご機嫌を損ねないよう、各種Go
To 事業見直しなど痛みを伴う政策の実行に踏み切らず、国民に向けて檄を飛ばすばかりで何ら感染対策に有効な手を打とうとしなかったではないか。
決してヌクヌクと安穏を貪っていたとは言わないが、これではまるで太平洋戦争中の戦争指導部と変わりない。「進め一億火の玉だ」とか「欲しがりません勝つまでは」などと威勢の良いスローガンを叫ぶだけで、兵役に耐えうる男子は根こそぎ狩り集めて戦地へ送り、各家庭にある金属類は鍋や釜などの調理器具から指輪などの貴金属に至るまで供出させておいて、挙げ句の果てが無条件降伏で敗戦…。
私が幼かった頃、祖母が憤っていた言葉を思い出す。
「うちなんか金目の物はみんな出せと言うから、御国のためだと思ってバカ正直に良い指輪や首飾りまで出したのに、一部の高級軍人や役場の偉いさんの中にはそれを着服して戦後焼け肥った連中がいた、許せない」
ということだった。
バカ正直な国民は政府や自治体の要請にしたがって楽しみを我慢し、飲食店の方々は営業時間を短縮してギリギリの状態で店を守ろうと奮闘し、旅行・観光業者の方々は先行きの見えない苦境を何とか耐え抜こうと必死に知恵を絞り、医療従事者は人間の能力の限界を超えた治療を半年以上も支え続けている。
そんな一億国民のバカ正直を嘲笑するかのように、これ以上感染が広がったら自分の支持率に影響すると危惧したのか、ついに目玉政策だったGo
To トラベルを年末年始に一時中断すると発表した。何でもっと早く決断しなかったかと医療現場は切歯扼腕の思いだろうし、旅行・観光業者の多くは朝令暮改でクルクル変わる政府の方針に翻弄されていることだろう。
さらに呆れたことは菅首相の驚くべき無神経な行動。国民に対しては5人以上の会食は避けるようにと要請している舌の根も乾かぬうち、しかもGo
To トラベルの一時中断を発表したばかりのその夜、菅首相は二階幹事長、王貞治氏、みのもんた氏、杉良太郎氏などと一緒に8人で銀座の店で高級ステーキの会食をしていたという。
最初のうちは何とかごまかせると思ったのか、政治の話を聞いていて、食べるとき以外は小まめにマスクをしていたなどと言い訳のコメントもしていたようだが、出席していた王氏や杉氏などから野球や秋田の話をしていた、食事の間はずっとマスクを外していた、あれは忘年会だったなどと暴露され、ついに菅首相は「国民の誤解を招くような行動で真摯に反省している」と陳謝するに至った。しかしこの期に及んで“国民の誤解”とは何事か。首相自ら禁を破って多人数会食をしていたという事実に誤解も六階もない(二階はあるが…)、密会で済むと誤解していたのはお前の方だろうが…。
こういう一連の情けない報道を見ていると、やはり日本の上層部は戦争とか感染症パンデミックとか国家を挙げての非常事態に立ち向かう時に醜態を晒してしまうものだなと慨嘆してしまう。1944年(昭和19年)、まさに日本陸軍の無謀な作戦の代名詞とさえいえるインパール作戦(ビルマからインドへの侵攻を企てて英印軍と戦った作戦)で、前線の将兵が補給もない苦戦を強いられている中、牟田口司令官とその高級幕僚たちは後方の安全地帯で芸者を上げて酒食に耽っていたという話を思い起こさせるような菅首相の多人数会食事件であった。
自由と民主主義の終焉
かつてフランシス・フクヤマ氏が1992年に出版した『歴史の終わり(The End
of history and the Last Man)』という書物の中で民主主義こそ最終の政治的統治形態であり、これに取って代わるものはあり得ないと論じたとおり、またフランス革命など流血の末に市民が獲得した基本的人権に基づく自由主義こそ人類が手にした普遍的な価値であると言われているとおり、20世紀から21世紀にかけてアメリカ合衆国や西ヨーロッパを中心に自由と民主主義を国是とする諸国家陣営が世界史を牽引してきたが、21世紀も1/5を過ぎる頃になって自由と民主主義に翳りが見える事態になってきた。
第二次世界大戦は民主主義と共産主義の連合軍が、ファシズムと軍国主義を信奉する日独伊枢軸連合を打ち破ったいわば準決勝、そして戦後の東西冷戦という決勝戦で民主主義が共産主義を圧倒して最終的な勝者が決まったというのがフランシス・フクヤマ流の歴史観であり、共産党一党独裁の中国などもいずれ西欧民主主義の軍門に降るのは時間の問題と思われていたところ、2020年になって民主主義陣営にとってとんでもない状況が突発したのである。
一つは2020年のアメリカ合衆国大統領選挙、共和党のトランプ大統領は選挙の結果、民主党のバイデン候補に敗れて次期大統領にはなれなかったが、これを不満としたトランプ氏は票の集計に不正があったとしていつまでも敗北を認めないどころか、支持者たちを私兵化して議事堂に押し寄せるよう煽動、人々は暴徒と化してバイデン氏の当選を確認する作業が行われていた連邦議会の建物に乱入する前代未聞の暴動に発展してしまった。
民主主義国家の総本山ともいえるアメリカ合衆国で起こったこの醜態に、良識あるアメリカ国民も自由と民主主義を国是とする同盟国首脳も一斉に失望と怒りを表明した。これは1963年に起こったJ.F.ケネディ大統領暗殺事件に匹敵する民主主義の危機といってよい。民主主義では国民による選挙で選ばれたリーダーが暴力で脅かされることはないという確固たる信念がある。トランプ大統領とて前回の大統領選挙では民主主義の手続きに従って選出されたリーダーである。その人物が選りも選ってこういう事態を引き起こすことを防げなかった、まさに民主主義の最も脆弱な部分を見せつけられた思いである。第一次世界大戦後のドイツでも、史上最も民主的と言われるワイマール憲法体制下でヒトラー率いるナチスが台頭したことを思えば、将来にわたって民主主義こそ普遍的な価値であると中国やロシアや北朝鮮などにお説教できるほど盤石な体制ではないのかも知れない。
さらに自由と民主主義のもっと深刻な弱点が新型コロナウィルスによって露呈された。新型コロナは一昨年(2019年)暮れに中国武漢で発生してあっと言う間に全世界を席巻するに至ったが、中国では強権を伴った都市封鎖や情報統制まで行なって2021年1月の時点ではウィルス封じ込めにかなり成功しているとされる。まあ、1月初旬になって久し振りに1日の新規感染者が100人を超えたということだから予断は許さないが…。
一方で欧米の民主主義陣営諸国でも都市のロックダウンなど強硬な対策も行われているが、やはり共産党の一党独裁で個人の自由など簡単かつ徹底的に封殺できる中国に比べればその効果もかなり減じるのは当然で、感染を食い止めるに至っていないどころか、1日数万人単位の新規感染者を数える感染爆発を呈している国がいくつもある。まさに民主主義の限界であるとさえ言っていいかも知れない。
1571年のレパントの海戦では、スペインやイタリア海洋国家のキリスト教連合軍がオスマントルコ帝国の艦隊を打ち破ったが、奴隷に船を漕がせていたトルコ海軍と、自由市民が漕ぎ手となっていたキリスト教連合海軍では兵員の数と質と戦意の差が勝敗を分けたといってもよいが、第二次世界大戦で国家主義・全体主義を奉じた日独伊が米英連合軍に敗れたことも、果たして自由主義や民主主義の優越性を示す必然的な歴史的事件だったのか。単に資源力や工業力の差による偶然でしかなかったのではないか。新型コロナに対する戦いで一歩先んじている中国を見ると、そんな疑念すら湧いてくるように思える。
欧米のロックダウンほど強い強制力を伴わず、夜8時以降の5人以上での飲食の自粛要請程度の緩い緊急事態宣言で急場を凌ごうとしている日本では事態はさらに深刻と言える。第二次世界大戦で民間人の玉砕や特攻隊まで出してしまった国家主義への極端な反動と反省から、日本では人々の移動や接触に関してイギリスやフランス程度の私権の制限さえかけられない。戦後日本の民主主義が露呈した脆弱性は欧米以上である。政府や自治体から自粛の“お願い”しかされていないのを良いことに、夜の8時までは思う存分飲んで遊んでいいんだろ、4人以下なら会食してもいいんだろと、自分に都合のいいように解釈して浮かれていては、せっかく手に入れた基本的人権も民主主義も根こそぎ失うことになりかねない。
新型コロナウィルスを国民の自粛だけで制圧できなければ、お隣の中国のように、あるいはかつての大日本帝国のように、国家の利益と安全のためには個人の自由などあって無きに等しい体制になってしまうこともあり得ることを、我々は胆に銘じておかなければいけない。
男女差別発言
今年(2021年)に延期された東京オリンピック2020の開会予定まで半年もなくなった2月になって、東京オリンピック組織委員会のトップが交代するという異例のドタバタ劇になっています。招致に当たって皇族を政治利用したんじゃないかとか、メインスタジアム設計のコンペが不透明じゃないかとか、最初からいろいろケチがついた今回の東京オリンピック、とても1964年の時のような祝賀ムードのうちに挙行できるとは思えなかったところ、案の定コロナ禍で1年延期されたばかりか、まさか土壇場にきてこんなトップ交代のおまけまで付いてくるとは…。
東京オリンピック組織委員会の会長は元首相経験者でもある森喜燻=Aその人が健康上の理由などではなく、男女差別発言をした、つまり失言問題で引責辞任ということですから話は穏やかではありません。この人は首相在任時の20年前にも宇和島水産高校の練習船えひめ丸が浮上するアメリカ潜水艦に衝突されて沈没、多数の若い生命が犠牲になった事件の際にプレイ中だったゴルフを継続して初期対応を怠ったなど、非常にワキの甘い人だという印象があります。今回の失言引責辞任はあの事件からちょうど20年目の節目だった、さらにこれはあまり関係ないけれど失言と時を合わせるかのように、海上自衛隊の潜水艦そうりゅうがまるであの事件を思い出させる状況で貨物船との衝突事故を起こした、よくよく森喜烽ニいう人は海神に呪われているんだろうなと思ってしまいます。
さて森喜燻≠フ男女差別発言または女性蔑視発言とは次のようなものだったと言います。2月3日のJOC臨時評議員会の席上、スポーツ団体の女性理事の比率を40%以上に引き上げるという話題に関連して、女性が多い理事会は時間がかかる、女性は競争意識が強いから誰か1人が発言すると我も我もと発言するからだろうが、発言時間の制限なども考えなければいけない…というような内容だったらしい。これは女性蔑視であるということで炎上したわけです。
我も我もと発言するのは悪いことではありません。むしろ普通の男は何か発言すると後の祟りがあるんじゃないかと戦々恐々として、「沈黙は金なり」とか「能ある鷹は爪を隠す」という都合のいい諺を決め込んで、会議の席上では上役の顔色を窺い、必要以上に場の空気を読んで沈黙している輩が多いが、これは別に男性が優れているということではない、逆に無能の表れと言ってもよいでしょう。
それに私の経験上、喋らせると一番無駄な話が多いのは、かつてはそこそこのポストに就いていたけれど究極まで偉くなりきれなかった権力志向の強い男性です。俺は本当は偉いんだぞと思わせたいために、自分の持ち時間も無視して余計なことを思わせぶりにくっちゃべるから無駄な時間がダラダラ過ぎていく。私の知っている某氏などは、3人で15分間を使ってプレゼンテーションするに当たり、最初に登壇して簡単な挨拶と概略で済ませばよいところ、先ず自分の経歴や地位を子分に紹介させ、「エ〜ただ今ご紹介にあずかりました○○です」に続いて、自分は本当は医者で△△委員会にも参画していたなどという自慢話をそれとなく散りばめながら、時候の挨拶やら配布のパンフレットを読めば書いてあるような誰でも知っているようなことをベラベラ10分以上も喋りまくったから、その場の聴衆が本当に知りたいはずのことを次に話すはずだった私の持ち時間は2分間も残ってない、さらに最後の演者には持ち時間なし、そんな奴もいましたよ。あの某氏のプレゼンテーションは森喜燻≠ノ聞かせたかったなあ(笑)。
さて森喜燻≠フあの女性蔑視発言、アメリカのトランプ前大統領の度重なった女性蔑視や人種差別発言に比べたら程度も回数も明らかに取るに足らないものなのに、何で森喜燻≠ヘ国内外からこんなにも指弾を受けたのか。それは心ある常識的な日本人ならよく考えておかなければいけません。トランプ氏は結局はああいう女性差別論者、人種差別論者であることを自ら公言し、世界中の支持者も反対者もトランプはああいう奴なんだという前提の納得ずくだったから今さら非難もされなかった、聞く耳を持たない人間に何を言っても無駄だ、単にそういうことです。
森喜燻≠ヘトランプ氏のような根っからの女性差別論者ではないと思います。日本にはトランプ氏ほどあからさまに性別や人種で差別発言する人間は少ない、日本は和を重んじる社会ですから、性別や人種の違いを強調して口に出してしまうと集団内での対立が尖鋭化してまずいことになると考えているからでしょう。森喜燻≠フあの程度の発言がトランプ氏以上の悪役みたいに叩かれたのは、そのタブーに触れてしまったからだと思います。
しかし日本の社会で“あの程度の発言”は内輪で私的な会合の席上なら単なる冗談で許されることの方が多い。それは私も認めるし、今回の森喜燻≠公式に激しく指弾する多くの方々も認めていることでしょうが、それこそまさに日本社会が抱えてきた歴史的な問題であると私たちは認識する必要があります。別の記事の中でもちょっと書いたことがありますが、日本では男子公衆トイレを女性が掃除していることが多い、これは男尊女卑の風潮もありますが、日本では温泉の混浴が許されてきたようにジェンダーの差が意識されにくい社会だったからかも知れないと論じました。
つまり男女を差別するとかしないという規範意識が育ちにくかった。さらに近世以降、男女七歳にして席を同じうせずという儒教的な倫理観が当たり前のように受け入れられていたことも、差別を差別として認識できなかった一因でしょう。日本の伝統的な社会では、男女は生まれつき違っているのが当たり前、だけど沐浴や排泄の場における男女の境界線は曖昧だった、それがあの森喜熬度の発言が私的な会合では冗談で済まされる風土を作ったのだと思います。
20世紀から21世紀へと時代が移り、特に日本の男性はそういう男女に関する伝統的な価値観や倫理観が変化していることを重く受け止めなければいけません。私はまた別の記事の中で、高校時代の私は部落差別の何たるかをまったく知らなかった、知らないということは差別するとかしないという意識もなかったと書いた覚えがあります。おそらく今回の森喜燻≠フ発言もそれに近いものだとは思いますが、まさにそれこそが各種の差別問題解決の難しいところです。差別に苦しむ人々がいることを正しく理解しなければいけないが、差別してはいけないと思った時点で、すでに相手と自分の間に差があることを意識していることになる。お互い同じ人間だと無邪気に信じていた間は差別するとかしないとか意識することさえなかったのに…。
森喜煢長が女性蔑視発言で辞任することになったのだから、後任会長は女性にするべきだという意見もあるようですが、それこそまさに差別の意識であり、差別問題解決の度し難い難しさを表しているのではないでしょうか。組織をまとめて今後の交渉や調整を行う能力に男女の違いは関係ありません。それを敢えて女性にするべきだ、あるいは女性にした方が良いと主張する裏には、やはり女性を差別する心が見え隠れしているように思います。
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