新型コロナもう一つの後遺症
今年(2021年)も1月下旬に入り、昨年秋から始まって第一波・第二波を大きく上回る猛威をふるった第三波も新規感染者数の伸び率が鈍化してきたように見え、ようやくピークを越えつつあるのかも知れませんが、重症者数はこれからピークを迎えて医療機関の病床を圧迫するはずですから、まだまだ油断は禁物です。何しろこのウィルスの厄介なところは、まだ症状が出ていない人や、軽症者・無症状者からもかなり強い感染力を示すこと、したがって元気に見えるから大丈夫と思って飲食の席を共にすると、呼気中に含まれるウィルス粒子によって知らないうちに感染させられてしまう、また自分は大丈夫だと思っていても一緒にいた人にウィルスを感染させてしまう、まるでウィルスによる完璧な奇襲攻撃です。
さらにこのウィルスはヒトに感染すると、肺内で増殖して肺胞を広範に破壊してしまうばかりか、神経細胞をはじめとするいろいろな細胞に侵入して内部で増殖を開始する。当初から知られていた味覚・嗅覚障害はそれらの感覚細胞にウィルスが感染したためと考えられるし、消化器症状は胃腸の粘膜細胞がやられたためと考えられる。そういう多様な症状の中でも、急速に進行する広範な肺炎による呼吸不全の次くらいに恐ろしいのは血管症状だと思います。血管内皮細胞にウィルスが侵入するのか、あるいはウィルスに対する生体の免疫反応によって血管の炎症が起きてしまうのか、正確な機序は分かりませんが、どうやら新型コロナウィルス感染症にはかなりの高頻度で血管炎が合併するのが確かなようです。
最近マスコミで報道される事例の中にも血管障害の可能性を疑わせるものが多いようです。昨年12月27日に立憲民主党の羽田雄一郎議員が53歳の若さでコロナウィルス感染で急死されましたが、発熱と感冒様症状のみで前日まで奥様の誕生祝いをするなどほとんど軽症だったにもかかわらず、翌日秘書の運転する車内で容態急変、「俺コロナかな」と短い言葉を発した次の瞬間意識を失ってそのまま亡くなったと伝えられています。これほど急速に肺炎が進行したとは考えられず、おそらく脳血管障害による脳組織の壊死、または冠状動脈障害による心筋梗塞と考えるのが妥当です。
他にも自宅療養中に医療保健機関への連絡もできないまま亡くなるケースの多くも脳血管障害や心筋梗塞を疑わせますし、実際軽症で自宅療養中だった男性が脳出血で倒れて亡くなっていたというケースも報道されています。また新型コロナ感染症から復帰したばかりのお笑いコンビ爆笑問題の田中裕二さん(56歳)も軽いクモ膜下出血を起こしました。高齢者や喫煙者は新型コロナウィルスに感染すると、おそらく急速に進行する肺炎が死因となるのでしょうが、血管炎による脳や心臓へのダメージはもっと若い世代への脅威となる恐れがあります。
以前別の記事の最後の方にも書きましたが、私が小児科医になったばかりの頃、乳幼児を襲う川崎病にも冠状動脈の血管炎が合併して、幼い子供たちが心筋梗塞で急死する症例が相次ぎました。血管炎を合併する疾患となると、現在は新型コロナに対して“不死身”であると自他ともに信じている20歳代30歳代の若年層も油断はできません。今回の新型コロナで脳や心臓の動脈に炎症が起こったために血管壁に小さな損傷が発生すると、若いうちは何事もないかも知れないが、10年20年30年と経つうちに全身の動脈硬化が進行し、糖尿病や高血圧などのいわゆる成人病が顕在化してきて、かつてのコロナの古傷で脆くなっていた部分の破綻による脳出血や心筋梗塞で大事に至るリスクが大きくなる。ですから不幸にして今回の新型コロナウィルスに感染してしまった人たちは、今後生涯にわたって成人病の予防にぜひ人一倍の注意を払って下さるようお願いいたします。
別に以上のことは現在のところ格別科学的な“エビデンス(証拠)”があるわけではありません。しかし“エビデンス”が無いということは大丈夫ということではありません。大丈夫であるともないとも判断する根拠がない、そういうことです。昨年のことだったか、感染が拡大しているのにGo
To トラベルなど継続してよいのかと質問された菅首相が、Go To トラベルが感染拡大の原因であるという“エビデンス”は無いから中止は考えていないと実に噴飯ものの答弁をしました。おそらく専門家会議のメンバーか誰かが議論の中で“エビデンス”という単語を使っていたのを聞きかじって、その言葉を自分の政策に都合の良いように生兵法で解釈したものでしょう。さすがにこの時は野党議員から、Go
To トラベルは感染拡大の原因ではないという“エビデンス”も無いと突っ込まれて窮していたようでしたが、こういう無知蒙昧な政治的土壌が、以前別の記事でもちょっと触れたサリドマイド事件の背景でもあったのです。
エビデンス至上主義が新型コロナのパンデミックを未然に食い止められなかった要因の一つだと別の記事で論じましたが、こういう緊急事態はエビデンスが明らかになった時にはすでに手遅れになっていることが多い。全世界的なコロナの感染流行もそうでしたが、個人の身に起きる後遺症も同じことです。明らかな“エビデンス”は無いが、新型コロナにはどうやら血管炎が合併することが多いらしい、また感染した患者さんで脳血管障害や心筋梗塞を疑わせる急速な転帰を取る方もいるようだ、そういう個別の報道内容からはまだ正確な判断を導けませんが、新型コロナ感染の既往を持つ方は他の人々よりも10年ないし20年ほど早期から成人病による死亡のリスクが高まる恐れがあると私は警告したいわけです。繰り返し言いますが、この警告に“エビデンス”=科学的根拠はありません。しかし若いうちから栄養と食事のバランスを心掛け、適度な運動の習慣を身につけることは、別にコロナ感染の有無を問わず決して損になることではありませんから、特に今回新型コロナに罹患してしまった方々には私の言うことに耳を傾けて頂きたいと思います。
さて以上は新型コロナウィルスの後遺症に関する私見でしたが、この記事のタイトルがもう一つの後遺症となっている理由はこういうことです。私は定年退職後は特に介護福祉施設や保育園などの健診で首都圏を回っていて、施設の利用者ばかりでなく、そこで働いている職員の診断も行なっていますが、最近そこで気になっているのが受診者の皆さんの体重の変化です。少し勘の良い方なら前段の内容からの続きですぐにアッとお気付きになると思いますが、この1年間でほぼ95%以上の人たちの体重が増加しているのです。
よほど強い意志を持って運動やダイエットに励んだ人以外のほぼ全員が、この1年間で体重が平均2キロほど増加していました。多い人では7キロから10キロ近く増えた方もいらっしゃる。これは由々しき事態だと思います。昨年1年間は新型コロナが恐くてスポーツジムやプールにも行かなくなってしまったし、他人との接触を避けたくて外出して歩く機会も減ったと皆さんおっしゃってます。特に自家用車やバイクで通勤している方などは、もう日常生活の中でほとんど筋肉を動かすこともなくなっている、その果てが肥満です。肥満は糖尿病や高血圧などの成人病を助長する大きな因子ですから、これはコロナ禍の後遺症と言ってよいでしょう。
さらにもっと直接に生命を脅かすコロナ禍の後遺症は悪性腫瘍の進行です。病院へ行くと新型コロナの患者さんと遭遇する可能性があるので受診を控える人が増えているようですし、最近では新型コロナの重症者の対応に追われて、特に基幹病院を中心にコロナ以外の患者さんに手が回らなくなったりしています。それで以前までだったら、何となく変だからちょっと病院で診て貰おうかという感じで早期に発見されていた悪性腫瘍が、進行してはっきりした症状が現れるまで受診しなくなった、あるいは病院もコロナ対応でスタッフの人数が足りず、やむを得ず手術の日程を延期しているうちにステージが進行してしまった…というようなこともなきにしもあらず。こちらはコロナ対応に参加していない民間病院の方で拾い上げてくれると思いますが、やはりちょっと心配な点は残ります。1日も早く新型コロナが終息してくれないと、将来の日本人の健康が全体的に損なわれてしまう恐れは否定できません。
補遺:
いずれにしても新型コロナウィルス感染症の終息にはまだかなり時間がかかりそうです。過去2つの波を大きく凌駕して今度こそ感染爆発かと思わせた第三波も、欧米列国のような強力な私権制限を伴うロックダウンも行わずに何とかピークを越せそうですが、これはやはり日本人がきわめて真面目にマスクを着用する国民であることが理由のように思います。これだって必ずしも“エビデンス”があるわけじゃない、ウィルスがマスクの表面で跳ね返されるのを直接肉眼で確認できるわけでもない、しかし1日何万人もの新規感染者数を示す欧米列国に比べて、1桁も2桁も感染者が少なくて済んだ理由は、私にはもうそのくらいしか思いつきません。
感染の機会はマスクを外した飲食の場が最も多いようですが、マスク着用の“エビデンス”が明らかになってから着用を徹底したって、いったん感染してしまった人に対しては手遅れです。医療現場ではいまだに人間の限界を越えた死闘が続いているのです。先日までよく報道番組で医療現場からコメントされていたふじみの救急病院の鹿野院長先生も、最近お見かけしないなと思っていたら、ご自身もコロナに感染してしまったそうです。今朝の報道番組で復帰を報告されていましたが、コロナ医療最前線のプロでさえ感染してしまう恐ろしさを胆に銘じるべきでしょう。酸素も必要としない軽症であったにもかかわらず非常に苦しい思いをされたそうです。また先ほど書いた血管炎に続く脳血管障害や心筋梗塞を予防するため、水分を十分に摂取し、血栓ができないように下肢の運動に努めたと語っておられました。
医療現場は戦場なのです。私が約40年前に体験した未熟児・新生児のICU(NICU)も地獄の戦場でしたが、新型コロナの重症者病床はおそらくその数倍の地獄でしょう。医療を崩壊から守るために、すべての国民はマスクを着用しましょう、複数人数での飲食も延期または中止しましょう。現在のところマスク着用や会食自粛が有効であるという“エビデンス”はまだ揃っていませんが、意味がないという“エビデンス”もありません。地獄の現場で苦闘する医療従事者に思いを馳せられる人々ならば、少しでも役立ちそうなマスクを着用、少しでも危なそうな飲食は回避する、それが国民の良識というものです。
昔の人の話し言葉
最近久々にちょっと面白い小説にハマリました。内舘牧子さんという方が書いた『十二単衣を着た悪魔』(幻冬舎文庫・平成26年初版)で、昨年(令和2年)には映画化もされたらしく、文庫本には従来の表紙カバーの上に、さらに映画のポスターをあしらった別の1枚がかぶせられていました。出版社によってはカバーだけ換えて本自体の定価を値上げしてしまうということもあるやに聞いていましたが、そういう悪巧みとは関係ないようです(笑)。
さてこの小説、大学卒業したものの就職活動59連敗、学生時代に交際していたカノジョにもあっさりフラれる現代のフリーター青年が、人材派遣会社からある大手製薬会社のイベント会場設営作業に派遣される、『源氏物語と疾患展』という企画で(面白そう…!)、作業終了後に源氏物語のあらすじ本と、登場人物に処方すべき現代薬のサンプルを貰って帰宅途中、いきなり平安時代にタイムスリップする…というところから物語が始まります。
正確にはタイムスリップとかタイムトラベルというのとは違い、主人公の青年がスリップした先は実際の平安時代ではなく、源氏物語の架空の世界に飛び込んだのでした。つまり紫式部の頭脳というか想念の世界にスリップしたわけです。
家の近所の路地でいきなり雷に打たれて気がついてみると、そこは今まで製薬会社のイベントで設営していたのと似た平安時代の邸の前、しかも桐壺帝という源氏物語中の架空の帝が統治する御世で、正妃の弘徽殿女御(こきでんのにょうご)がおりながら帝は桐壺更衣(きりつぼのこうい)という愛妾に日夜うつつを抜かす毎日、正室の弘徽殿女御にも後に朱雀帝として皇位継承する一宮(春宮)がいるが、桐壺更衣にはあの光源氏がいるという、まさに紫式部が書いた源氏物語そのままの世界なのですね。
主人公の青年は学生時代ろくに勉強もせず、大した教養も身につけなかったため源氏物語などまったく無縁だったが、イベントで貰ったあらすじ本で物語の先の展開(つまりその世界の未来)を読んで占いや予言を行なったり、精神安定剤のような現代薬のサンプルを使って弘徽殿女御や桐壺更衣の症状改善を行なったりして、一躍頭角を現していくという奇想天外で痛快なストーリーでした。源氏物語の中では脇役でしかなく、女性関係乱れる宮中で桐壺更衣を苛める意地悪で嫉妬深い女として描かれる弘徽殿女御が、実は現代流にいえばバリバリのキャリアウーマンであり、ジェンダーの差別など意に介することなく合理的に物を考えて思ったとおりに世の中を突き進んでいく魅力的な女性として描かれていて、平成・令和の現代では脇役にもなれなかった主人公の青年が弘徽殿女御に触発されて成長していくわけです。
そういうストーリーの面白さもさることながら、これほど源氏物語を身近に感じさせてくれた作品は私は初めてです。そもそも源氏物語は平安朝の皇室内スキャンダルを描くに当たって、紫式部もまさか実名で天皇や皇太子を登場させるわけには行かなかったから小説の体裁をとり、あくまで架空世界の虚構として宮中の色恋沙汰を暴露したと考えられるという話を聞いたことがあります。確かに万世一系の大王である天皇家が平安の昔から一点の非の打ちどころもない清廉潔癖な家柄だったとすれば、紫式部は何もわざわざこんな長編小説を延々と書く動機も生まれなかったでしょう。
しかし源氏物語を皇室の色恋沙汰として後世の青少年の教材にするわけには行かないから、冒頭の
いづれの御時にか女御、更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに…
の“御時”は、時(時代)に接頭語の“お”を2つ重ねて「おほんとき」と読むんだよに始まって、やれ四段活用がどうしたとか、やれ係り結びの法則がどうしたとか、現在自分たちが喋っている日本語とは何の関係もないように見えることをつらつらと講義される、だから中学高校時代の古文(古典)の授業は眠くなるばかりでしたね。登場人物たちの宮中における生き生きとした愛憎の物語として講義してくれたら、もっと源氏物語に興味が湧くのにと、内舘牧子さんも主人公のフリーター青年の口を借りて述べてました。
ちなみに私が多少なりとも源氏物語に興味を持っている理由、つまり古稀の声を聞くような年齢になってこの内舘さんの小説を手に取ってみる気にさせた理由、それは浪人時代に予備校の古文の先生が、源氏物語の美しい文章を幾つか暗誦できるようにすれば、この世界最古の長編小説にもっと親しみが持てますよとおっしゃったからです。だから、
八月(はづき)十五夜、隈なき月影、ひま多かる板屋、残りなく漏り来て、見ならひ給はぬすまひのさまも珍しきに、あかつき近くなりにけるなるべし (夕顔)
とか
須磨には、いとゞ心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の「關吹き越ゆる」と言ひけむ浦波、夜々はげにいと近う聞えて、またなくあはれなるものは、かゝる所の秋なりけり。御前にいと人少なにてうち休みわたれるに、ひとり目をさまして、枕をそばだてて四方の嵐を聞き給ふに、波たゞこゝもとに立ちくる心地して、涙おつともおぼえぬに、枕うくばかりになりにけり (須磨)
など暗誦したら、確かに韻の美しさに惹かれる気にはなりましたが、宮中の高貴な人々の生々しい愛憎という視点までは到達できませんでした。また2001年に東映から公開された映画『千年の恋:ひかる源氏物語』では、元宝塚の天海祐希さんが光源氏役、さらに周囲を吉永小百合さん、常盤貴子さん、高島礼子さん、かたせ梨乃さん、南野陽子さん、細川ふみえさん、竹下景子さん、中山忍さん、松田聖子さんら豪華女優陣で固め、平安王朝の映像美の再現を謳っていましたが、確かに平安王朝の美しい光景に触れた思いはしたものの、やはり生々しい愛憎劇までは理解に至らなかった。そう考えると、文庫本たった1冊で源氏物語をかくも生き生きと浮かび上がらせた内舘牧子さんは、本当によく源氏物語の世界を分かっておられたのだなと感銘を受けました。
ところでこの小説を読んでいて思わず可笑しくて吹き出してしまうのが、主人公の青年がつい口癖で横文字など現代語を喋ってしまったり、現代の若い女性たちが喋る今風言葉を平安王朝と引き比べてしまうところです。プレゼントだのスポーツだのトップクラスだのと口を突いて出てしまうと源氏物語の登場人物たちがうろたえるので、主人公の青年は慌てて、これは自分が長年修業していた高麗の言葉だと言い繕うのですが、「やべー!バレバレかよ」などと平成・令和の若者語を喋ると「高麗の言葉は品がございませんな」と揶揄されてしまう。
また弘徽殿女御の美しい黒髪を見た時に、自分をあっさり捨てたかつての恋人が黒髪を嫌って呟いた現代女性の若者言葉を思い出したりしています。
やっぱサァ、黒い髪とかってェ、重くてダサくてェ、服の方とかと合わないってかァ。栗色とかってェ、ハンパなく軽くなる感じ?みたいなァ。でもォ、金髪までいくとォ、アタシ的にはァ、ビミョーかなみたいな。
最近の若い女性たちがテレビで喋っているのを聞くのは慣れましたが、やはりこうやって文字に表現するとビミョーかなみたいな(笑)。また元の世界に戻って来た主人公が図書館司書の若い女性から言葉を掛けられる場面、
何があったかわかりませんけど、実は私もマジ心配してたかなっていうか。ものすごい勢いで『源氏物語』の原文を読む若い人?とかって、初めて見たっていうか。ぶっちゃけ、なんだかどんどん痩せる?カンジで、目だけギラギラ?してくるカタチっていうか。
「とか」だの「みたい」だの「カタチ」だの語尾上げだの、「ぶっちゃけ」だの「マジ」だの、甲高い声で話すこの女性に主人公は現代に戻ってきたことを実感するのですね。
私も別の記事にちょっと書いたとおり、『源氏物語』は『平家物語』と対をなす源平合戦の戦記物語だと信じていた、それが勘違いと知って独り赤面したとき以来、源氏物語をこんなに身近に感じさせてくれた作品は初めてでしたね。ネット上の批評など読むと、実際の平安時代へのタイムスリップではなく、紫式部の想念へのスリップという設定に馴染めない読者には多少抵抗があったようですが、私は久し振りに小説を堪能した満足感を味わいました。
それでちょっと思ったんですが、平安時代の人々は実際にはどんな話し方をしていたんでしょうか。レコードやテープレコーダーといった前世紀の音声録音技術さえも無かったはるか遠い昔の話し言葉を誰も実際に聞いた人などいるはずもありませんが、それでもさまざまな手掛かりをもとに平安時代の話し言葉を復元する研究をされていらっしゃる方もいるようで、ネット上には幾つかの“成果”が公開されています。例えばこんなのとか。古代日本語会話講座シリーズになっているようです。
聞いてみると、会話テンポが現代よりも緩やかで、あと母音の種類が多くてやや中国語的な語感があります。もちろん音源データの無い時代の話し言葉を復元するわけですから正確を期するのは無理というものですが、確かに能や歌舞伎などの古典芸能の話し言葉は、忙しい現代人ではイライラするほどゆったりしている。もし昔の人々が現在の我々のようなテンポで日常会話をしていたのであれば、古典芸能の作者たちは登場人物たちに、あ〜ん〜な〜に〜ゆ〜っ〜く〜り〜しゃ〜べ〜ら〜せ〜る〜は〜ず〜が〜な〜い〜んじゃないかい。
さらに文語体というのは平安王朝の会話言葉が以後独特な発展を遂げて日本語表記になったものと聞いたことがあります。学校時代に文語体を習う古文(古典)の授業に辟易していた多くの日本人など、あの時代にタイムスリップしても当時の人々と会話を通じさせるのは難しかったんじゃないかと思いますね。
平安時代が終わって武士の時代になった時に、おそらく日本語会話の大きな変革があったんじゃないでしょうか。雅でゆったりした平安時代語では戦争はできないでしょうから…。それでも平安時代語は近世にまで連綿とつながる文語体として日本語の根底に流れ続けてきた。それが明治時代以降、現在に近い日常会話をそのまま表記する口語体が次第に公式文書にも採用されてきたわけですが、ここにアイデンティティーだのコンプライアンスだのリテラシーだのガバナンスだのレガシーだの訳が分かったようで分からない外来語が氾濫し、さらに現代若者語もほとんど年単位か月単位で目まぐるしく変遷する時代になりました。音源保存技術は格段に進歩していますが、1000年後の国語学者は平成時代・令和時代の日本語会話をどのように解読するのでしょうか。
プラスチックの責任問題
今年(2021年)3月、環境省はコンビニやスーパーなどで弁当などに付いてくる使い捨てのスプーンやフォークなどプラスチック製品の規制を含む“プラスチック新法案”の審議を決定したそうです。2022年4月施行を目指しているようですが、施行されればこれまで無料だったものが有料化されるということで、昨年7月にレジ袋が有料化されたのをさらに一歩進めた環境汚染対策になります。
いわゆるプラスチックと総称される合成樹脂素材で廃棄されるもののうち、ポリエチレンのレジ袋の占める割合は2%にも満たないと聞いていたから、レジ袋有料化程度の施策では自己満足に過ぎない、頼みもしないのに付いてくるプラスチックのスプーンやフォーク、さらには販売される弁当や惣菜のプラスチック容器自体まで規制しなければ意味ないのになと思っていたから、今回の“プラスチック新法案”は遅まきながら百里の道の2歩目をやっと踏み出したところだと思っています。
ティムール・ヴェルメシュという作家の『帰ってきたヒトラー』という小説の中で、2011年の現代にタイムスリップで甦ったアドルフ・ヒトラーが、着ていた軍服をクリーニング店に預けに行く場面、店頭に並ぶ仕上がった衣類がすべてポリエチレンの袋に梱包されているのを見て、これは石油を原料にしているはずだと正確に理解しており、第三帝国時代から研究が進んでいたが、こうして大量に出回っているのは“我がドイツ帝国”がすでに有力な油田を手に入れたためか、などと見当違いの憶測をしているところは面白いけれども、それはともかく、この小説の設定からも分かるとおり、プラスチックは第二次世界大戦前後から研究がスタート、戦後になって“新しい時代の新しい素材”として一躍脚光を浴び、たちまち世界中のあらゆる素材に利用されるようになったわけです。
私事で言えば、1951年生まれの私が幼児だった頃、自動車や機関車やロボットやロケットの玩具はほとんどすべてブリキの金属製でした.。当時も現在も木の玩具はありましたが、乗り物やロボットのように精密な部品を組み上げなければいけない玩具は木で作るのは無理、だからそれらの玩具は現在はプラスチック素材、当時はブリキの部品で組み立てるわけです。ブリキの玩具は古くなってくると、ブリキ板の端がめくれてきて指先を切ったり、表面の錫加工が剥げて内側の鉄が錆びたりしたものですが、プラスチック製品ではそういうことはない。
いわゆるプラスチックモデル(プラモデル)というのも我々の世代の少し前くらいから流行が始まりました。私たちより上の世代の人たちは、例えば飛行機の模型を作る時、設計図の型紙を当てながら木片に根気よくサンド・ペーパーをかけて、何ヶ月も費やして製作されたようです。ところがプラモデルは最初から部品の形は八割方完成しており、大雑把な人と几帳面な人の違いはあるものの、それらを接着剤で貼り合わせるだけで、零戦でもファントムでも戦艦大和でも何となくそれらしいモノが完成します。
形を簡単に整えられる、半永久的に美しさを保つ、というのが20世紀中期に登場したプラスチックという新しい素材の魅力だったわけで、あっと言う間に我々の生活のほとんどあらゆる分野にプラスチックが使用されるに至りましたが、物事そう良いことばかりではなかった。特に半永久的に残る素材であるというのがクセ者です。いったんプラスチックがゴミとして環境中に廃棄されてしまうと、自然界で決して分解されることなく海洋や土壌中に“半永久的”に残留してしまう。それを海鳥や魚類が餌と間違えて食べてしまうと体内に蓄積して、最終的に生態系にも影響を与える恐れがある。
さらに“半永久的”に残るとは言っても、長い年月のうちに劣化すると表面が崩れて、目に見えない微細な粒子として大気中に飛散してしまう。飛散したプラスチックの微粒子は半永久的に漂い続けて、もし人間などが肺内に吸入すると塵肺のような慢性の呼吸障害を引き起こし、最悪の場合アスベスト肺のように悪性腫瘍の原因となる可能性も否定できません。
あまりにも我々の生活と深く結びついてしまったプラスチックを今さらいきなり使用停止するわけにもいきませんから、最近話題の持続可能な開発目標(SDGs)の一つにある「作る責任 使う責任」というところが重要になってきます。企業や製造業はいくら便利で見栄えの良い素材であっても必要最低限だけ作る、消費者も不要になったプラスチックを放置せずにゴミは分別して再利用のリサイクルに回すということですね。これはもうプラスチック素材の恩恵を受けずにはいられない大量消費社会に暮らすすべての人間の義務です。
しかし私も毎週家庭で出たプラスチック・ゴミは几帳面に分別してリサイクルの日に出していましたが、報道など見るとリサイクルなど追いつかないほど大量のプラスチック・ゴミが発生して、大半は焼却処分になっているらしいし、さらにリサイクルを前提として海外に輸出までしているといいます。お陰で輸出先になった発展途上国ではリサイクルが間に合わず、プラスチック廃材の山から出火して火災になったり、海洋にこぼれ出て環境汚染の元凶になっているらしい。これではまさにゴミの押し付け、厄介な物は外へ掃き出して事足れりとする「鬼は外」の節分原理と同じです。
結局不要なプラスチック・ゴミの大半は焼却処分しなければいけないとすると、当然二酸化炭素を排出して地球温暖化を加速させてしまいます。私が別の記事で書いたような植物型プラント、すなわち植物細胞だけが持つ葉緑体(クロロプラスト)の原理で、大気中の二酸化炭素から食糧の炭水化物を合成する生産ラインが完成していたら良かったんですがね。誰も研究していないようだし、原理的に不可能なんでしょうか。
あとプラスチックに関しては“作る責任と使う責任”以外に“売る責任”も問題になると思います。例えばプラスチック容器で梱包された商品を販売したら、そこから発生するプラスチック・ゴミは必ず販売者の責任で回収するということです。今では日本全国津々浦々に至るまで飲み物の自動販売機がありますが、約半数は売ったら売りっぱなし、つまり空になった空き缶やペットボトルの回収箱が設置されていません。空になった容器は飲んだ人がどこか別のゴミ箱を探すか、家庭に持ち帰るのがエチケットですが、必ずしもそれを守る人ばかりではありません。
面倒くさくなってポイ捨てする人を私も決して容認するわけではありませんが、一部にはそういう心ない人もいるという前提に立って自販機を設置するのがすなわち“売る責任”、自分は家に居ながら公共の電力を費やす機械に日銭を稼がせているわけですから、買う人にモラルがないからゴミ箱を設置しません、という言い分は通用しません。ポイ捨てされた空き缶やペットボトルは雨風に乗って河川に流され、やがては海洋汚染へとつながっていきます。ポイ捨てする人間に非があるのは当然ですが、他人のモラルの欠如を口実にして自分が売った製品の後始末をおろそかにする販売者も地球環境に対しては同罪と言うべきです。
私たちが子供の頃はゴミは必ず持ち帰って街をきれいに保ちましょうと教育されましたが、考えてみれば昔はそれができる時代だったとも言えます。自動販売機などほとんど設置されていなかったし、外出先で水分摂取の必要があるならば水を詰めた水筒を家から持参した、また遠足でもなければ家や学校以外の場所で弁当やお菓子など食べる風習もなかった。家の外でも飲食可という風潮が現代社会の困った現象を産み出している可能性があります。飲食すればほぼ必ず何らかのゴミが出るが、多くの公共機関でもテロ防止やエチケットを守らない消費者の存在を口実にゴミ箱を撤去してしまっています。やはり“(飲食物を)売る責任”ということも考えて欲しいと思います。
補遺:そうは言っても自販機のゴミ箱に家庭ゴミを突っ込んでいく人など、マナーもルールも守らない輩がいるから仕方ないんですよという自販機設置者の言い分も分かります。本当にこの何年か何十年か人々のゴミのポイ捨てに関するマナーは最悪と言っていいですね。私ももう10年ほど前、自宅の前を掃き掃除していたら、人品卑しからぬ母娘が通りかかった、40歳くらいの母親も小学生くらいの娘も上品な訪問着を着ていたが、母娘が通り過ぎた後をふと見たら、何と風もない穏やかな日和だったのに数秒後には道路に真新しいお菓子の包み紙が落ちていた、いや、落とされていた。状況から考えて、「あのオジサンが捨ててくれるでしょ」とばかり、ちょっと目を離した隙にその母娘がポイしていったとしか考えられない。唖然として声も出ませんでした。世の中のごく一部にはそういう不届きな輩もいることを承知のうえ、自販機には容器回収箱を、駅の売店にはゴミ箱を必ず設置して頂きたいものです。なお私はゴミ箱や回収箱の無い自販機や売店では物を買わないことにしています。
明日は我が身
新型コロナウィルス感染第3波に対して、今年(2021年)1月初旬に10都府県(東京・神奈川・埼玉・千葉・愛知・岐阜・大阪・兵庫・京都・福岡)に発令された2度目の緊急事態宣言は2月末に首都圏以外で解除され、3週間遅れて首都圏も解除されましたが、先行解除された関西では明らかに第4波と見られるリバウンドの状況を呈し、さらに首都圏でもそれを追いかける形で新規感染者数が増加の一途をたどっています。
第4波には感染力が増強したものや、体内で産生された抗体が効きにくくなるものなど、新たに遺伝子が変化した変異ウィルスが関わっているとされ、第4波は第3波を大きく上回る可能性さえあります。人間の方もワクチン接種が世界的に始まり、やっと反撃の光明も見えてきて、今年の前半はいよいよ人間vsウィルスの最初の決戦の舞台となるかも知れません。
新型コロナウィルスとの戦いは、今後比較的長期にわたって同様の一進一退を示すであろうという予想に傾きつつあります。つまりウィルス感染患者の増加に対して、人の流れを抑えるために緊急事態宣言または同様の経済抑制措置を取り、一定の効果が上がって患者数が減少したら再びその措置を解除する、たぶんそれを数回繰り返した後にやっと人間は新型コロナウィルスと共生できるようになるのではないか。
いずれは共生段階に入って、少なくとも現在ほどには恐れずに済むことになるであろう新型コロナウィルスですが、やはり現在も万全の注意を払って感染しないように心掛けるのは当たり前のことです。報道番組のキャスターやコメンテーターなども言っていますが、最初に感染流行が判明した昨年初頭以降ほとんど1年以上も感染予防対策に心を砕いてきた国民に、いわゆる自粛疲れの気の緩みが表れているのは憂慮すべきことではないでしょうか。
緊急事態宣言が解除されても、第4波のリバウンドを防止するためにさらなる自粛生活を心掛けて下さいと政府や自治体は要請していますが、人間はそんな不安と恐怖に満ちた緊張状態に1年も1年半も耐えられるものではありません。おまけにそうやって国民にさらなる自粛を求める政治家や官僚や自治体職員からして気が緩んでいる。昨年の菅首相の多人数会食にはじまって、厚生労働省の官僚が20人以上で深夜まで送別会の宴会をした、幾つかの自治体では職員の会食で感染者まで出しているらしい、こんなことで国民に示しがつくわけがありません。上に立つリーダーの資質の問題と言ってしまえばそれまでですが、女性蔑視発言で墓穴を掘った森喜煬ウ首相がその後もさらにある女性を「女性と言うにはあまりにお年」などと失言した報道の舞台も、二度目の緊急事態宣言が解除された直後に開かれた河村建夫元官房長官のパーティー席上だったというから呆れて物が言えません。宣言が解除されても多人数会食は控えてと要請したのは政治家ではないのか。
まあ、そんなわけでウィルス感染はまだ当分は落ち着きそうもないし、政治家も官僚も自治体も信頼できないし、いろいろな情報が真偽不明なまま氾濫するし、一般国民はいったい何を支えにこの先ウィルスと対峙していけば良いのか。そんな状況で気を緩めるなと言う方が無理ですので、ただ一つだけ自戒も込めて心に留めるべき言葉を挙げておきます。それは『明日は我が身』ということです。
幸いにしてこれまで新型コロナウィルスに感染しなかった日本国民は抗体保有率の調査などから推測すると約99%、つまり大多数といってよい多くの国民はこれまでの1年間を無事に過ごしてきたわけですが、その幸運は明日も続くと保証されているわけではない。これまで無事だったのはたまたま周囲に危険なウィルス感染者がいなかっただけの話です。
ではその危険な感染者とは何か。今回のウィルスの最も厄介な性質として、無症状者や発症前の患者など症状が無くて一見健康に見える感染者でも周囲にウィルスを含む飛沫を撒き散らすということが分かってきました。そういう危険な感染者は例えば東京都内にどれくらいいるのか。4月上旬現在、東京都内で確認される新規感染者は400人レベルにまでリバウンドしていますが、これが1日1000人になった場合、まだ無症状や軽症なのにウィルスを飛散させている潜在患者は最大限数千人程度と推定されます。東京都民1000万人として、その中の2000人ないし3000人に1人が危険な潜在患者ということ、そしてこの人たちが何も知らずに全員街中に繰り出したとしても満員の山手線1編成にせいぜい1人か2人くらいしか乗っていません。そういう人たちにたまたま出くわす確率はそんなに高くないし、しかも満員の山手線ではほとんどの乗客がマスクして黙っているし…。
しかし会食の場ではそうは行きません。飲食する時は必然的にマスクを外すし、味覚が刺激されるから唾液も分泌されて飛沫は飛びやすくなるし、こんなご時世に会食する親しい仲間同士ですから会話は弾むし、アルコールが入れば声は大きくなるし、最低でも1時間や2時間は比較的狭い空間で顔を突き合わせているし、それにそういう会食に参加するメンバーは社交的で他にもいろいろなグループと一緒に飲食する機会も多いだろうし、とにかく満員の通勤列車内とは比べ物にならないくらい感染のリスクは大きいと思われます。都内の飲食店は10数万店以上はあると思いますが、そこで例えば一晩に1万組が数人以上の会食をしていたとすれば、4つか5つの店で感染が広まる可能性がありますね。
先週も会食した、先月も何件か飲み会があった、だけど感染しなかった、だから明日のコンパも大丈夫…という論理の罠にはまってはいけません。昨日までの飲み会で無事だったのは、単に自分の席のまわりにたまたま危険な感染者が1人もいなかったという幸運な偶然が積み重なった結果と考えるべきです。もし明日のコンパで危険な感染者からマスク無しのお酌をされて上機嫌で乾杯すれば、その後の人生は一転します。ビートたけしさんはあるTV番組で、コロナ感染のリスクはロシアン・ルーレットだと評しましたが、まさにその通りだと思います。
自分の頭部に向けて引き金を引いた時に、明日もまた弾倉に実弾が入っていない確率は何をしてもゼロではありませんが、電車で外出するロシアン・ルーレットの拳銃よりも、会食に参加する拳銃の方が、はるかに実弾の装填率が高いことを意識しましょう。さらにコロナの拳銃は自分の頭に向けて引き金を引くだけでなく、一緒に飲食したメンバーを撃ってしまうこともあり得ます。自分は絶対にコロナに感染していないという思い込みもまた危険な論理の罠です。
ある都立病院では昼休みの職員休憩室で、皆がマスクを外して昼食を取ったことで職員のクラスターが発生したと言われています。患者さんは危険だが、身内の職員同士なら安全という思い込みが招いた感染でした。そういう事例も報道されていたのに、一部の医療・保健・福祉関係者の中には、外部の人間には厳重な感染対策を要求するくせに自分たちはフリーパス、仲間うちの空間になるとマスクも手洗いもおろそかになってしまう人をかなり見受けます。自分だけは大丈夫という誤った思い込みはなかなか抜けないようです。
気付かぬうちに自分が飛沫を散らして一緒にいた人たちを感染させてしまうと、それもまた辛いものがあるのではないでしょうか。焼肉店なら換気も行き届いているから安全と思い込んで友人や部下を誘って飲み会をしたら、直後に自分の感染が判明、さらに潜伏期を経て一緒に飲んだメンバーを何人も感染させてしまったと、悔やんでも悔やみきれない胸の内を告白して下さった方を紹介する報道番組がありました。自分が声を掛ければ付き合ってくれる親しいグループだったのでしょうが、いったんこういう事態になってしまったら、今後の交際は気まずいことになってしまうことだってある。
『明日は我が身』、いつ自分が感染してもおかしくないという意味で、この言葉だけは胸に刻んでおこうと思います。早く飲食業界支援のために昔の同僚や教え子を誘って飲み会を開きたいと思っていますが、心置きなくそうやって楽しめる日々がいつかきっと戻ってきますように。
室内炭酸ガス濃度の警告
しばらく前からコロナ禍の飲食店で換気状況を示すために、店内の炭酸ガス(二酸化炭素)濃度を測定する機器が設置されるようになったという報道がありますが、これが具体的にどういうものかをお見せします。空気中の炭酸ガス濃度測定装置などという大袈裟な名称から、多くの方は大学や研究機関の研究室にあるような大規模で複雑な機械を想像されるかも知れませんが、実物はこんな物です。電源プラグのサイズと比べても分かるとおり、ちょっとしたバッグか何かに入れて持ち運べる程度の大きさなんですね。右側の四角い箱の中に気温と炭酸ガスを測定するセンサーがあり、中央の箱でそれらのデータを表示・記録するようになっています。
何で私が室内炭酸ガス濃度測定用のこんな機器を持っていたかというと、もう10年ほど前になりますが、私がかつて勤務していた大学の新しい校舎が完成、しかし発言力の強い学部や学科がフロアのスペースを好き放題に分捕ってしまい、医療系学部には不要な“商業実習スペース”まで獲得した学部があった一方、私の学科の学生実習室としては、どう見ても当初は物置倉庫にする予定だったとしか思えないほど狭い窓の無い部屋しかあてがわれませんでした。こんな今で言う“3密”(密閉・密集・密接)の部屋に50人もの学生を詰め込んで実習を実施すればどんな事故が起きるか知れませんから、この部屋を実際に使用したら室内の炭酸ガス濃度がどれくらいになるか、とりあえず測定してみようと思ったわけです。
まあ、調査の結果、大学側が折れて、私の学生実習に関してはきちんと関連法令にも適合した安全な実習室を確保してくれるようになりましたが、室内の炭酸ガス濃度変化に関する知見は当初の私の予想をはるかに越えるもので驚いたことを思い出します。私が機器を購入して真っ先に測定した大学の教授室(個室)のデータをご覧下さい。
大学に出勤して買ったばかりの機器を電源につないで測定を開始したところ、炭酸ガス濃度は何と700ppm前後を指していました。大気中の各成分の濃度は水蒸気を除くと窒素が約78%、酸素が約21%で、残りの1%程度の中にその他もろもろの気体が入ると小学校の頃に教わりました。その他もろもろの中でもアルゴンが0.9%を占め、炭酸ガスは20世紀末の時点では0.035%、21世紀になってからは0.04%(400ppm)前後と言われていますから、この700ppm(0.07%)という数値は高すぎるわけです。
そう高い買い物でもありませんでしたから、ああ、この程度の簡単な機器では誤差が大きくて不正確なんだなと半分諦めモードで、そのまま自動計測を続けていたところ、学生講義で部屋を空けていた間に炭酸ガス濃度はいったん下降、また午後も部屋の出入りや客人の訪問などに応じて上昇と下降を繰り返した後、退勤して部屋を一晩不在にしたところ、室内の炭酸ガス濃度は次第に下降していって、翌朝再び出勤した時には大気中の濃度とされる400ppmまで下がっていたではありませんか。
つまり最初に機器が示した700ppmという測定数値は決して誤差などではなく、私が出勤して部屋に入ってから機器をセットアップするまでのほんの30分にも満たない間に、私自身の呼気に含まれる炭酸ガスが室内に拡散した結果だったのです。これは驚きましたね。最近の建築は冷暖房や空調効果を高めるために、大学校舎に限らず非常に気密性が高まっている、昔ならすきま風で適度な換気になったところ、現代建築は気密重視になっているので、室内で有害物質など取り扱う場合は注意が必要だと書いたことがありましたが、これはコロナウィルスの飛沫についてもほぼ同じです。
まず朝一番で室内の炭酸ガス濃度は大気中と同じ400ppmになっていますが、私が1人出勤してきて呼気を撒き散らし始めた途端700ppm程度にまで上昇してしまう。出勤して30分後の私が吸い込むのは炭酸ガス濃度700ppmになった室内の空気、300ppm上乗せされている分は私が一度吐き出した空気を再び自分が吸い込んでいることになります。さらにこの日は午後に卒業生が訪問してくれて2度ほど炭酸ガス濃度が1000ppmを越えていますが、これは彼らが吐きだした空気を私が吸い込み、私が吐き出した空気も彼らが吸い込んでいるということ。コロナ禍の飲食店では客が混み合ってこの状況が危険にならないようモニターしているわけです。
コロナ禍の時代に改めて考えてみると恐ろしいことです。確かに空気中の炭酸ガス分子と、呼気に含まれる飛沫の動きは異なっていて、気体分子は比重に応じて室内にほぼ一様に拡散すると考えられるのに対し、飛沫は重いからどんどん沈んでいく。しかし近い距離で対面の会話をしたり、咳やクシャミをしたり、扇風機やエアコンの風向き次第によっては他人が排出した飛沫を浴びる危険が高まるのは当然です。
新型コロナウィルスの感染経路は飛沫感染が最も重要であることが分かってきました。つまりウィルスに感染している人が空気中に吐き出した飛沫を自分が吸い込むことによって感染させられてしまう。そのことをもっともっとイメージする必要があります。日本人に限らず世界中の人々にこのイマジネーションが不足しているために感染拡大が止まらないのではないでしょうか。他人が吐き出した飛沫を自分が吸い込むことが危険なのです。
宗教儀式や生活習慣などで群衆が寄り集まる国があります。日本でも年末年始の神社仏閣参拝やゴールデンウィークなどで大人数が集中する場面があったようです。政府や自治体が「3密を避けろ」と呼び掛ければ、密閉・密集・密接の3要素が揃わなければ良いんだろとばかり、河原の開放空間における密集・密接した“2密”の飲み会を行なって感染者続出したという報道もありました。
たとえ2〜3人の少人数でも新しい建物の室内ではお互いの呼気を吸いあう状態になるのは上に書いたとおりです。開放空間でも多人数で大騒ぎすれば一定の面積内に呼気が充満する傾向になるはずです。特に今年になってから脅威になっているコロナウィルスの変異株は感染力がきわめて強くなっていて、従来株では感染しない程度の少数の飛沫量でも感染するようなので、これまで安全と思われてきた状況でも油断はできません。ウィルスは目に見えませんから、ウィルスがどう動いているかを想像できるイマジネーションの力が求められているのではないでしょうか。
新型コロナ変異株の脅威
前項の最後にも書いたとおり、今年になって強力な感染力を示す新型コロナウィルスの変異株が出現したので、ウィルスの動きを想像する力が必要になりましたが、ではこの新手の変異株に対して何をイマジネーションすればよいのでしょうか。
まずコロナの変異株と一口に言っても、最初に発見された国によって異なる幾つかのタイプがあります。中でも令和3年の春先から特に大阪や神戸方面で現実の脅威になっているのがイギリス型で、これはN501Yと呼ばれる変異(ウィルスのRNA遺伝子で規定されるタンパク質のアミノ酸配列501番目のアミノ酸が、RNA塩基の変異によってアスパラギン:Nからチロシン:Yに置換したもの)によって従来株よりも感染力が増強しており、まさに“新しい新型コロナ”と言ってもいいくらいの深刻な脅威を示すようです。
具体的にどのような脅威かというと、最初に報告されたイギリスでは都市の厳しいロックダウンまで施行しても感染拡大を防げなかった。今年(2021年)1月の中途半端な緊急事態宣言さえも性急に解除してしまった大阪ではあっという間に爆発に近い感染拡大を引き起こしてしまった。この大阪に引きずられる形で関西圏の医療は崩壊に直面し、大学病院や基幹病院が整備したコロナウィルス専用の重症者病床がたちまち満杯になって、自宅や療養施設で経過観察中の患者さんが集中治療を受けることもできずに何人も亡くなる事態に立ち至った、また若年者も重症化するようになり、もう手遅れに近い状態で重症者の病棟に搬送されてきた30歳代の患者さんもいらっしゃるとのこと、平時ならばこれは病院や救急医療の落ち度として厳しく糾弾される社会問題だったはずですが、その報道の論調は半ば諦観に近いものだったことに衝撃を受けました。事態はもうそこまで悪化しているのです!
我々一般人が新型コロナウィルス感染症をどのように捉えれば個人的に適切な行動を取れるのか。数理解析に長けた専門家の賢い先生方がスーパーコンピューター富嶽などの演算データなども使っていくら感染対策を力説しても、もっと身近にウィルスを感じられるような説明でなければ、学校時代に出席を取られて居眠りしながら教室で聞かされたつまらない授業や講義と同じことです。終了のチャイムが鳴れば、つまり緊急事態宣言が解除されたり緩和されたりした途端、「さあ遊びに行こうぜ」「20時までなら良いってさ、飲もうぜ歌おうぜ」ということになってしまいます。
本来は電子顕微鏡を使わなければ見えないウィルスを、どう捉えれば心眼で“見る”ことができるのか。私も何回かこのサイト上で試みていますが、ちょっと変異株まで含めてまとめてみますね。
例えば東京で1日当たりの新規感染者が平均1000人出ているとします。今度の新型コロナウィルスの厄介な点は、症状が出る2日くらい前から飛沫中にウィルスを排出して他人に感染させてしまう可能性があるということですが、新規に症状を出す人が毎日1000人として、その背後にはまだ感染に気付かずにウィルスを撒き散らし始めている“予備軍”が2000人程度いると考えられます。いや、症状が出てから検査を受ける人と、濃厚接触者になったから検査を受ける人では事情が違うはずだなどと厳密に議論しようとするから、我々一般人の心眼にウィルスが“見えなく”なってしまうので、ここは大雑把にザックリと斬る思考実験に付き合って下さい。
東京都民1000万人の中にこれら潜在的予備軍が混じっていると考えると、東京都内で接触する5000人のうち1人程度がまだ気付かずにウィルスを排出している勘定になります。ここでも東京都は昼と夜で人口が違うとか、高齢者はあまり街に出歩かないはずだなどと厳密な理屈をこねないで下さい。ここではそういう“潜在的ウィルス排出者”がせいぜい数千人に1人程度という実感が持てればいいわけですから…。“潜在的ウィルス排出者”の頻度はラッシュ時の山手線2編成(22両)にせいぜい1人乗車している程度と思えれば良い。それが私の心眼に見える感染者の人数です。
たとえ満員の山手線2編成に1人程度でも、その人が車内でマスクを外して大声で喋ったり、ドリンクを飲んだりしていたら、周囲の乗客はウィルスの飛沫を浴びる恐れがありますが、その確率は特に従来株の場合は非常に低いと思われます。日本人はほとんどの人が外出時にはマスクを着用し、満員の通勤列車内では黙って乗っていることが多いからです。
しかし都内にある約12万店の飲食店では少し状況が異なります。12万店のうち開店している10万軒の1割に当たる10000軒の店内で毎晩平均4人の会食が行われたとすると、40000人がマスクを外して会話を楽しみながら食事をし、約30000人はアルコールが入ってハイテンションになっている、すると一晩に会食している“潜在的ウィルス排出者”は8人程度いるわけで、都内で約8軒の飲食店で人から人へのウィルス伝播が起こっている可能性があります。
ここにコロナの変異株が入ってくるとどうなるか。従来株と変異株の違いを心眼に“見える”ようにするため、またここでも例によって大雑把にザックリ斬る思考実験モデルを取り入れます。そもそも変異株は従来株より感染力が70%強いとか何とか言われたってピンときません。ですからここでは従来型は飛沫中に含まれるウィルス量を例えば100吸い込むと感染が成立すると仮に考えておきます。すべての人が100吸い込むと感染するわけでなく、個人の免疫力の強さとか、その時の大気の湿度などによって差は出るでしょうが、とにかく100吸い込むと感染が成立する、100以下だと何らかの理由で感染を免れる、おそらく実際にもそういう限界の値はあると思います。
ところが変異株だと人間の細胞に取り付く能力が従来株より強いので、50吸い込んだだけで感染が成立してしまう。すると今までの従来株では“鼻出しマスク”くらいでは電車の中で他の乗客に感染成立させるほど多量のウィルスを排出することはなかったのに、変異株では鼻から漏れた呼気中のウィルス飛沫だけで、隣に座っている乗客に50の量のウィルスが飛んで行ってしまう恐れが出てくる可能性があるわけです。まして満員の駅構内や車内で一時的にマスクを外して水分補給をするなんて行為もリスクが高いかも知れない。厳密なウィルス量の議論をしているわけではありませんから、必ずそうなると断言はできませんが、いかなる行為も変異株では従来株の時以上に危険になることだけは確実です。
飲食の場合はもっと恐ろしい。従来株では都内で毎晩8軒の店でウィルス飛沫が飛び交う計算でしたが、隣や対面の席の人はせいぜい70のウィルス量しか吸い込まずに済むだけの距離が開いていたから感染は成立しなかった。しかし変異株では感染が成立してしまうことになります。少しはウィルスの飛ぶ姿が心眼に映るようになったでしょうか。
従来株にせよ変異株にせよ、新型コロナウィルスを“見る”うえで最も大切なことは、
●潜在的にウィルスを排出している人は全員が街中に出て来たとしても約5000人に1人程度の人数だから、会う人ごとに、あるいはすれ違う人ごとにノイローゼになるほど過敏に恐れる必要はないということ。
●しかし自分自身が、あるいは今同じ室内にいる同僚や家族が約5000人に1人の潜在的ウィルス排出者であるという確率は決してゼロではないということ。もし自分自身や家族や同僚が不幸にしてどこかで気付かずに感染してしまっていたとしたら、その人がウィルスの飛沫を撒き散らす確率は1/5000ではありません。必ず周囲にウィルスの飛沫を飛ばすことになりますから、自分や周囲の人々が体内にウィルスを持っている可能性は常にあると考えて警戒すべきです。どんな希有な事象でも、いったん起こってしまえば、その人にとってそれが100%の運命となります。
確かに新型コロナを舐めたらいけませんが、飛行機や自動車に乗る危険だって決してゼロではないし、成人病で血管にトラブルが起きる確率もゼロではない、コロナの危険だけゼロにしようと考えるからノイローゼ気味になるのであって、大雑把にザックリとウィルスを俯瞰しながら、人としてのルールとエチケットを守りつつ、ワクチン接種が奏功する日を待ちましょう。
「親しき仲にもマスクあり」
「渡る世間にコロナあり」 (渡る世間はコロナばかり…ではない)
「君子危うきに近寄らず」(コロナの後も虎児はいる。虎穴に入るのは自粛しろ…笑)
ルール破り
新型コロナウィルスのパンデミックが続いて、我が国でも生活のさまざまな面での自粛や規制が長引く中、社会生活において“ルールを守る”ということの重要性が改めて問われているように思います。交通機関や公共の場所でのマスク着用を巡って幾つものトラブルが発生していることは報道されてますし、乗務員の指示にもかかわらず徹底的にマスクを拒否する乗客のために航空機の運航が遅延したり、場合によっては目的地以外の空港に臨時着陸を余儀なくされた事例もありました。
公道をけたたましい爆音を立てて暴走したり、動物を虐待したり、草木を荒らしたりするのは、もはやルール違反ではなく犯罪行為ですが、そこまで行かない社会のルールとは、自分の行為や態度が同じ空間にいる他人に不安や不快の念を起こさせないことと定義してもよいと思います。自分はもうワクチンを接種したからマスクは不要と公共の場で強弁する人、コロナなんかただの風邪だから予防するに及ばないと独り善がりな信念を主張する人もいるようですが、共に暮らす社会の多くの人々がマスクをしない人に不安を感じていることを知りながら、マスクを正しく着用しない行為はやはりルール違反だと思いますし、実際にその人がもしコロナに感染していたら周囲に感染を広げるリスクは高い。
ところで諸国民に比べて特に礼節を重んじ、秩序に従うと自他ともに認める日本国民の間でさえ、マスク着用拒否や路上飲みや会食自粛無視など、法律には触れないものの他人に不安や不快を与えるルール破りのトラブルが絶えないというのに、東京オリンピックで入国する外国人たちが日本人と同じルールを守ってくれると信じられるのでしょうか。どうしてもオリンピックを強行したいコロナを恐れぬ現政権は、大会開催に伴って感染が拡大したらどうするのかという国民の不安と反感を少しでも和らげようと、選手団と共に来日する大会関係者やマスコミ関係者には厳重な行動制限を課し、もし違反した場合には罰金を支払わせ、以後の権利や許可を取り消すなどと言っていますが、実際にそんなことできるんでしょうか?
昨年春以来、私の住む練馬区上空は南向きに羽田空港に着陸する旅客機の進入航路になりました。飛行機や艦船や鉄道など乗り物が好きな私にとっては、自宅が絶好の写真撮影ポイントになりますから、南風の午後はけっこう楽しみながら空を見上げています。先日はかなり面白い写真も撮影できて、それはまたいつかご披露しようとは思いますが、今回はちょっと苦言を…。
飛行機が傍若無人に人々の頭上を飛び回ることができないのは当然で、定められた航路を管制に従って飛行することは関連航空法規で決められているはずですが、そういう細々とした法規に縛られない部分でも、いくつかのルールを守って飛ぶことが求められていると思います。例えばこの2葉の写真、左側の全日空機は練馬上空で車輪を降ろそうとしているし、右側の日航機はまだ車輪格納扉さえ開いていない、おそらくこの先の新宿か渋谷上空あたりで車輪を出すつもりでしょうが、これはルール違反ではないのか。
航空機が車輪を降ろす時には高空で付着した氷片や老朽化した部品が機体から落下する恐れがあるので、人口密集地上空で車輪操作をしても良いとは、どんな監督官庁も許可するはずがありません。しかし下界から眺めていると実に半数以上の旅客機が車輪を格納したまま羽田の方へ通過して行きますね。もし罰則を伴う法令で取り締まられていれば、どの旅客機もあらかじめ車輪を出してから都区内上空に進入するはずですから、これはあくまで“ルール”の範囲で済まされることなのでしょう。
内陸にある成田空港は開業時、着陸する航空機は太平洋上で車輪を出してから陸地に進入するように要請されていたが、必ずしも遵守する航空会社ばかりでなく、空港周辺の農村地帯では年間1件弱程度の機体落下物が発見されているそうです。日本の航空会社でさえ都区内上空で車輪の操作をする、まして外国の航空会社に太平洋上で車輪を出してから陸地に進入して下さいとお願いしたって、法令で厳しく取り締まらない限りそんなルールは破られる運命にあります。
ですから東京オリンピックを取材しに来日する海外のジャーナリストに、行動範囲を宿舎と競技会場の往復だけに限定するようお願いしても、言うことを聞き入れてそのルールを守ってくれると期待する方が無理な話、ジャーナリストの使命は読者や視聴者に取材先で起こっていることを、正確かつ迅速に報道することです。コロナ禍で開催される東京オリンピック、地元の日本国民が何を考えているか、日本社会で何が起こっているか、それこそジャーナリストが最も伝えたいことの一つであることは間違いありません。
宿舎と競技会場を往復するだけでは決して分からないこと、各国のジャーナリストはそこに食いつこうとする、まさにそれこそジャーナリスト魂が発揮されるところですから、彼らが日本政府や大会関係者の要請をかいくぐって不特定多数の日本国民の中に潜入して取材を敢行しようとする、それを禁止することができるのか。
もし大会開催中にコロナ感染が拡大していれば、各国のジャーナリストと日本国民の間に“コロナウィルスの交流”が起こる可能性がある。必ずしも彼らが日本にウィルスを持ち込むことばかりではない、彼らが日本から新たなウィルスを母国に持ち帰るリスクもあるということです。
さらに東京オリンピック成功を大々的に喧伝したい日本政府にとっては、多くの日本国民が大会開催を危惧している現状などできれば報道して欲しくない、しかしそれを躍起になって規制しようとすれば、それはまるで中国や北朝鮮やミャンマー軍事政権の権力者がやっていることと同じです。民主主義という共通の価値観を有するG7のメンバーですなどと胸を張っている日本政府がやるべきことではありません。
オリンピック取材に来日する世界のジャーナリストたちの前に、行動規制などという“ルール”はまさに破られるためにあるようなもの、コロナ感染を最も効果的に制圧しようと思えば、中国共産党のように徹底的・強権的に人々の動きを封じ込めなければいけませんが、それでは報道や言論の自由を含む民主主義的な価値観を否定することになります。この二律背反をどう乗り越えるのか、オリンピック期間中の具体的な感染対策も明確にしない、民主主義の価値観への制約など考えてもいない、そんな日本政府がひたすら「安心安全な大会運営を〜」と空念仏を唱えながらオリンピック開催へ猪突猛進のを見ていると、もう本当に日本国民はアマビエ様にお縋りするより他にないんでしょうね。
新型コロナワクチン接種報告
2021年6月25日、私は新型コロナの2回目のワクチン接種を受けました。ちなみに1回目はちょうど3週間前の6月4日でした。この時点で日本におけるワクチン接種完了者は1回目が2555万人越え、2回目が1165万人越えだそうです。
5月の連休が終わる頃に練馬区健康部の住民接種担当課からワクチン接種券がきて、令和3年度中に65歳になる高齢者のワクチン予約が5月17日に始まり、診療所などでの個別接種は6月1日から、病院や区立施設での集団接種は5月22日から開始されるとのこと。
へ?お前は医療従事者じゃないの?という質問は多くの方々から受けましたが、定年退職した医師は最初から勘定に入っていないのか、私のところには医療従事者枠での接種の案内はありませんでした。そのくせ今後さらにワクチン接種を進めるに当たって、注射の打ち手が足りない、接種直前の診察医師が足りないと、政府も自治体も医師や看護師を必死に捜し回り、ついには歯科医や臨床検査技師や救急救命士にまで接種の権限を拡大しようなんて言っているのですから、本当に混乱の極みだったわけですね。
私は定年後ではありましたが、高齢者施設や知的障がい者施設や保育園などの健康診断で首都圏を飛び回っているわけですから、私のような立場の医師にさっさと医療従事者枠でワクチン接種を施行して、そういう施設でのワクチン接種拡大を担当させる計画を早々に立てておくべきではなかったかと思います。しかしそれが戦争やパンデミックという非常事態に生じがちな計画の齟齬というやつですから、今後はこれを教訓として、どこにどういう人的・物的医療資源が転がっているかを平時から把握する努力が必要でしょう。
その後は私も一部の自治体で集団接種のお手伝いもさせて貰っていますが、本当にこれはウィルスとの戦争ですね。インフルエンザのように完全に実用化されたワクチンならば、アンプル(バイアル・小瓶)に封入されているワクチン液を1本あたり2人分(インフルエンザの場合)を注射器に吸って、そのまま被接種者に注射すればよい。しかし新型コロナのワクチンは1本あたり5人分ないし6人分、さらに注射器に吸う前に生理食塩水で希釈しなければいけませんが、その生理食塩水が規定の量の何倍もついてきます。
つまり新型コロナワクチンはまだ完全に実用化されたキットとして配布されているわけでなく、とにかくウィルスの機先を制するために、生理食塩水のような既製品はわざわざコロナ用に規格化している時間はない、市中に出回っている通常の大きなアンプルから希釈に必要な分量だけ取って残りは廃棄と、無駄で勿体ないわけですが、それほどワクチン接種が急がれているということです。
戦争になれば事前の計画通りに武器弾薬を使用できるとは限りません。敵(ウィルス)の状況に合わせて、とりあえず拙速を尊んで手持ちの物資や人員の配備を急がなければいけない。戦争にしろパンデミックにしろ、勿体ないなどと言っていられないのです。集団接種会場に必要量の何倍も届く生理食塩水アンプルを見ながら、唐突ですが日露戦争のシベリア鉄道の話を思い出しました。ロシアと開戦すればロシアはヨーロッパにいる兵力をシベリア鉄道で極東に回すだろうが、シベリア鉄道は単線だから列車の入れ替えを含めてそれほど速やかな増強はできないと踏んでいたところ、ロシア軍は兵員輸送を終えた鉄道車両を次々に焼き捨て、後から後から新手の列車を送り込んで兵員の増強を完了したという話です。非常事態における物資の投入に関して、平和な戦後日本に育った私の世代にとっては、この生理食塩水アンプルの件はちょっとした驚きでしたね。
ワクチンを接種する立場からはこれくらいにして、今度は自分自身の接種についてご報告しておきます。練馬区からワクチン接種券が届いたので、さっそく集団接種を申し込もうとしたが、どの会場もいっぱいで近所の小学校で1回目の接種を予約できたのは7月4日分でした。他の高齢区民の皆さんも早くワクチンを打って安心したいだろうから仕方ないと思いましたが、一度診察を受けたことのある病院の先生が、私も高齢者のいる施設を健診で回る医者なのに7月まで待つのでは困るだろうと言って、1ヶ月早い6月4日に1回目の個別接種をして下さいました。
1回目はそれほど強い副反応は出ないと報道されているし、すでに医療従事者として接種を完了した元同僚や部下や教え子たちから情報を得ていましたが、まさにその通りでした。接種後12時間から48時間くらいは注射部位の左肩がズーンと重たい感じで痛み、左腕が水平より上には挙がりませんでしたが、3日目には完全に消失。あと体内で免疫反応が進行し始めたせいか、まるで遠足か運動会の後みたいな心地よい疲労感があって、夜よく眠れるようになりました(笑)。
2回目は高熱が出たり、関節が痛んだり、吐き気があったり、今まで経験のないような言うに言われぬイヤな気分になったり…、と私の周囲には医者や看護師や臨床検査技師が多いせいで、いろいろビビるような副反応について聞かされてきましたが、私の場合は翌日に軽い倦怠感と37.5度前後の微熱があったくらいでした。ただしこればかりは個人差もあるし、年齢や性別によっても違うみたいですので、あまり私だけの話を鵜呑みにしないで下さい。
ただしこれだけは申し上げておきたいと思うこと、副反応のリスクが恐いからワクチン接種を見送りたいという方もいらっしゃるようですが、ちょっとだけご再考のほどを…。重篤なアレルギー体質であるとか、過去に他の予防接種で重い副反応が出たとか、あるいは宗教的その他の理由でワクチンを接種したくないという方は、然るべきワクチン回避の理由になりますが、単に発熱などの副反応が恐いというだけの理由なら、ここは是非ワクチン接種をお勧めします。
私自身もワクチンの副反応についてはちょっと考えました。よく“ワクチンのリスク”という言葉を使う人がいますが、これは正しくは“ワクチンを打つことによるリスク”と言うべきです。私などは高血圧と高血糖があり、普段から全身の血管に負荷が加わっているから、今回のワクチンを打つことによる血栓形成のリスクは普通の人より高いと思われます。もし血栓ができれば、その部位によっては脳梗塞や心筋梗塞を起こして余生はリハビリ生活、もしくは最悪の場合に死亡することもある。
しかしワクチンのリスクを評価する場合、“ワクチンを打たないことによるリスク”も考慮しなければいけません。ワクチンを打たなければ新型コロナウィルスに感染して肺炎を起こし、人工呼吸器やECMOのお世話になる可能性が高くなりますし、これも最悪の場合は酸素を吸っても吸っても全身に行き渡らず、呼吸ができない苦悶のうちに死亡することもある。
ワクチンを打つかどうか決心するためのリスク評価ですが、“打つことによるリスク”と“打たないことによるリスク”を天秤に掛けることが必要です。そしてどちらの場合でも、いったんそれぞれの“リスク”が起こってしまった時は、ああ、もう一方の選択にしておけば良かったと必ず後悔することになります。ワクチンを打つかどうかは個人の意思と判断に任されるべきですが、どちらを選ぶべきかというリスク評価は絶対これが正しいということはあり得ない。
注射は痛いからイヤだとか、mRNAワクチンは後遺症があるという噂だから打ちたくないとか、そうお考えの皆さんは是非もう一度だけ、“ワクチンを打たないリスク”もあるということを判断材料に加えて下さい。私は新型コロナ肺炎の呼吸不全で死亡するリスクの方が、血栓による心筋梗塞で死亡するリスクよりも重視するに値すると、私自身の責任で判断してワクチン接種を受けました。
富者の驕り
私は中学・高校生の頃は空想科学小説(SF小説)のファンで、いろいろな作家による宇宙旅行、時間旅行、時空論、異生物などさまざまなジャンルの作品を読んだものです。その中で今では作家もタイトルもあらすじも何もかも忘れてしまったのですが、ただ一つだけ鮮明に記憶に残っているワン・シーンがあります。かなり遠い未来の話、地球文明と火星文明の交流がある時代に、地球に暮らす火星人の科学者が主人公の短編小説でした。
一応地球人と火星人は平和裏に共存しているのですが、現在の白人と有色人種とか、東アジアの某国と某国とか、やはり民族が異なると偏見や差別を生じがちなのは今も未来も同じこと、火星人の主人公も地球人からの蔑視やイジメには慣れてはいるのですが、どうしても耐えられない地球人からのイジメ、それは目の前でコップ一杯の水を床にジャッとこぼされることだったのです。
火星には水が極端に少ない(あくまで当時の通説)、だから火星人にとっては水の一滴は何物にも代えられない貴重品なのですね。それを悪意に満ちた地球人が目の前でわざと床にぶちまける、その行為は火星人にとって最大の屈辱的な仕打ちに等しかったのです。地球には海もある、池や湖や川もある、雨や雪もよく降る、意地悪な地球人はそれを逆手にとって、その火星人の科学者を苦しめた、私にはそのワン・シーンだけが強烈な印象に残りました。
決してこの小説の地球人のような意地悪ではありませんが、日本人もそのように見える同様な行為をした、そういう残念なニュースが流れました。東京オリンピックの開会式や各競技会場で大量の食品ロスが出たそうです。大会関係者やスタッフやボランティア用に注文した弁当が、それこそ何百食、何千食と手つかずのまま廃棄されたとのこと、開会式では10000食のうち約4000食が、その他の会場でも2割から3割が廃棄されているそうです。
世界には貧困や食糧不足に悩む国の方が多い、そういう国がなけなしの資金を投入してオリンピック選手を育成し、コーチや役員と共に選手団を東京に派遣してくれた、そんな人たちの目の前で飽食を見せつけるかのような食品廃棄。関係者は弁当の発注量を間違えたとか、忙しくて弁当を食べるヒマも無かったスタッフやボランティアが多かったとか、いろいろ言い訳しているようですが、これは常日頃からの日本人の驕慢がたまたま露見しただけの話です。
私がかつて関与していたある学会のイベントでも毎年のように弁当の廃棄がありました。事務局も前日くらいまでに出席者に弁当の要不要の確認を取らない、たぶん「弁当ごとき注文取るなんてケチくさい」とか何とか言われそうで遠慮するのでしょう。出席者の方も当日の弁当の山を見ても、どうせ俺が金を払ったわけじゃないし、自分の好きな物を食べに行った方が気を遣わなくて楽だと、食品がむざむざ廃棄されることに心を痛めることもない。それが現代日本人の傲慢なのです。
食糧自給率が低いくせに賞味期限が切れたからと一律に廃棄する非合理性については別の記事でも論じたことがありましたが、今回は特にオリンピックという世界中の人々の目が集まる場所でこういう事が起こった、そのことを問題にしたいと思います。貧困に苦しみ、多くの国民が満足に食べられないような国の人々が、何千食もの弁当が捨てられているのを見たらどう思うか、その怒りや悲しみや苦痛に思いを馳せられないのが今の日本人です。
だからオリンピックに限らず、節分には大量の恵方巻きの寿司が廃棄され、クリスマスには大量のケーキが廃棄される、そんなことを毎年繰り返している。今回の弁当廃棄は発注数量を間違えたからだとか、スタッフやボランティアが忙しくて食べるヒマが無かったからだとか言ってオリンピック組織委員会が謝罪したそうですが、そんなのは見え透いた言い逃れでしかないことは明らかで、結局は日本人の他者(他国民)への思いやりの無さが原因です。日本人は経済大国への道を駈け登って行くうちに、いつしかこの思いやりの心を失ってしまったのだろうと残念な思いです。
思いやりの心を無くしてしまったから、熱帯夜に選手を4時間も拘束してダラダラした演出や長すぎるお偉いさんのスピーチで開会式を企画できると最近の記事で書きました。そもそも7月から8月にかけての猛暑の東京にオリンピックを招致すること自体、参加する選手たちへの思いやりが欠けています。招致に当たって、日本のこの時期は運動に最適な季節だと嘘八百のスピーチをした者がいたそうですが、原子力発電所事故の放射能はコントロールされていると世界を欺いた者といい、いつから我が国は鹿を馬と言いくるめるような者が国家の要職に就くようになったのでしょうか。こんな猛暑の時期に世界のアスリートを呼び寄せておいて、「おもてなし」だの「アスリート・ファースト」だの白々しい言葉を連発する為政者の姿を恥ずかしく思わなくなった国民も同罪です。
メダル噛みつき事件
今回の東京オリンピック2020(実際は2021)もいろいろな事がありましたが、こんなことになるならオリンピック無い方が良かった…と後悔している1人が河村たかし名古屋市長でしょう。オリンピック女子ソフトボール決勝戦で宿敵アメリカを破って金メダルを獲得した日本チームのリリーフ・エース後藤希友(みう)投手が8月4日に表敬訪問に訪れた際、せっかくだからとリクエストして首に掛けて貰うと、いきなりマスクを外してガブッとメダルに噛みついた、しかもその後は付着した唾液を拭き取ろうともせずに紐をクルクルッと巻き付けて、そのまま後藤選手に返したとのこと。
そのワン・シーンだけでもテレビで放映された時にはあまりの非常識さに唖然としましたが、スポーツ界や芸能界はじめ一般のSNSなどでこの河村市長の行為への批判が一気に高まると、さらにこの映像前後の発言などもクローズアップされて批判に油を注ぎました。「あんた、できゃ〜な、女のソフトボールやっとるやつは、元気な女の子は最高だわ、女の子とは言えんか」などと、オリンピック・アスリートへの尊敬も賞賛も感じられない発言や、「ええ旦那をもらって、まあ旦那はええか、恋愛禁止かね」などとセクハラ発言までが拡散されてしまった。
この人は表敬訪問に来たのが男子選手でもメダルに噛みついただろうし、今年の4月には16年振りに名古屋城の屋根から降ろされて地上展示された金鯱にも噛みつこうとしたらしいから、噛みつき行為自体は動物的習性というか、セクハラとも言えんわね(笑)。ただし直後の誠意のない謝罪会見で「メダルを噛んだのは最大限の愛情表現」と言ったのは完全にセクハラです。この場合の“愛情”は金メダルへの愛情ではなく、選手個人への“愛情”を指すとしか考えられないから、その辺のストーカーとかつきまとい行為と同レベルとしか言えません。
しかし政界歴も長い政治家が72歳にもなってこんな事するかね、というのが同世代に近い私の印象ですし、ただの色ボケ金ボケ権力ボケでないとすれば、同世代の人間にとっては教訓にしなければいけない不祥事です。こんな事件をきっかけに、河村氏のとんでもない面が次々に暴露されてきた、映画監督の北野武さんは制作した映画の結末をばらされてあいつはとんでもないヤツだと怒ってますし、大村愛知県知事リコール署名運動の時、河村氏が話を持ちかけてきたから協力したのに、不正署名が大半で事件に発展してくるや全部高須クリニック院長が言い出しっぺだったとして自分は逃げ出すような男だから、高須院長は河村氏と絶交したとか、金メダルばかりか自分の晩節まで汚すようなことが次から次から出てきますね。
河村たかし氏は1980年代に政界入りを志すも挫折を繰り返し、1990年に先ず自民党に入党して衆議院選に臨んだが公認を得られず落選、1992年に自民党を離党し、日本新党の公認を得て翌年の衆議院選で初当選、その後日本新党は新進党への合流、新進党の分裂で自由党に参加、さらに離党して民主党に参加と、あの時期の目まぐるしい政界再編成の中で順調に再選を繰り返しました。たぶん政界入りに憧れる人間が最初に目指す大ブランド自民党に冷たくあしらわれた後、その対抗勢力として徐々に頭角を現してきた、その自負はかなり強かっただろうと思います。自分は本当は力があるんだと…。自分は天下の大自民党ですら一目置く存在なんだと…。金メダル取ったか何か知らにゃーが女子(おなご)の1人や2人、俺がちょっと茶目っ気を見せてやればキャッキャと笑って喜ぶはずだと…。
さらに2009年に名古屋市長選に出馬して初当選、衆議院時代から市民減税やら議員報酬削減やら大衆受けする政策を掲げ、敵を作ってワン・フレーズで攻撃するという戦法で自分をアピール、名古屋弁丸出しの気さくな姿勢を見せることで庶民派を気取り、有権者からも熱狂的な支持を得るに至ったが、衆議院時代に国会議員互助年金の廃止を民主党の先頭に立って熱心に訴えて結局この年金を廃止に至らしめたにもかかわらず、河村自身は議員引退時に年金の既得権を放棄するどころか、より高く貰える方の申請を行っていた、まあ人気は取りたいが自分には甘い政治家だったわけです。立派な政治家に噛まれた金メダルなら後々家宝にもなるでしょうが、偉そうに振る舞っていても本質的に自分の損得しか考えていないような人間に噛まれたんでは金メダルも泣いている…。
そんなこんなでせっかくの努力の結晶、チームメートの仲間たちと勝ち取った金メダルを汚された後藤選手が可哀そうという世論が盛り上がり、しかも新型コロナ感染の時代にマスクを外して他人の物に唾液を付着させるとは何事かと炎上は収まりそうもない。後藤選手が所属するトヨタも社長名で正式に抗議しました。IOCも後藤選手に代わりの金メダルを渡すそうですが、河村市長にその弁償はさせないらしい(8月16日現在)、これは武士で言えば切腹と打ち首の違いですね。自分の人生も残りが少ない方になってきた時に河村市長のようなみっともない目に会わないよう、同年配の方々はよくよく気を付けた方がいい。いや、若い人たちもいずれは同じ道を通るのだから、自分がその年齢になった時に同じ轍を踏まないように今のうちから気を付けるに越したことはない。
自分は偉いと思わない、自分は得したいと思わない、誰も見てないと思わない。この3ヶ条は最低限必要ですね。あと昔の人もいろいろ言ってますから参考にしましょう。あんな噛みつき亀みたいなブザマな情けない顔を連日ネット上にさらされる恥辱を受けることがないよう自らを戒めようと思います。
ただ今回の事件直後にしばらくネット上を賑わしたアナグラムという言葉遊び、頭の体操にもなって非常に面白いと思いました。「河村たかし(か・わ・む・ら・た・か・し)」の文字を並べ替えると、
「わ・た・し・か・む・か・ら (私噛むから)」
「た・か・ら・か・む・わ・し(宝噛むワシ)」
「か・し・た・ら・か・む・わ(貸したら噛むわ)」
久し振りに大笑いしてしまいました。
コロナ肺炎ナメてませんか
東京オリンピックは閉幕しましたが、新型コロナ感染症はいっこうに収束する気配が見えません。東京での新規感染者数は一日5000人を越える日も珍しくなくなり、8月20日現在、同じ曜日ごとの比較で前の週より多い日がほとんどです。しかも新しい変異のデルタ株は感染力も病原性も従来型を大きく上回っているようで子供や若者の感染も多く、40歳代50歳代の重症化が目立つようになりましたし、中には20歳代30歳代で人工呼吸器を必要とする患者さんも見られるようです。
医療の逼迫は東京に限らず多くの道府県で深刻なものになっており、30歳代の患者さんで酸素投与が必要になっても入院先が見つからずに自宅待機を余儀なくされたり、重症化しやすい妊娠後期の妊婦さんでさえ陣痛が始まっても受け入れ先がなく自宅分娩となって未熟児の赤ちゃんが死亡した例もありました。こんな状況になっても、まだ自粛に飽いて旅行だ食事会だと大人数で遊び回る若者、もし感染すれば重症化しやすいことは昨年から知られていて、自分が発症すれば医療に大きな負担を掛けてしまうことが分かっているのにワクチン接種を拒否する高齢者、いったい何を考えているんでしょうね。特攻隊の若者には感動して讃美するくせに、自分は国のため、共同体のため犠牲を払うことは真っ平御免という国民性については最近他の記事でも書きましたから、今回は少し医学的にコロナ肺炎の恐ろしさを考えて頂きたいと思います。
新型コロナウィルスの恐ろしさは、味覚・嗅覚障害や胃腸炎などいくつもありますが、何と言っても患者さんの生命を脅かす最大のものは肺炎です。私たちのように病理学や病理診断をやった者は、ニュース報道や医学解説番組などを見ているだけで、患者さんの身体の中でどういう事態がどういう風に進行しているのか、一目瞭然とまでは行かなくとも、かなり視覚化された映像や画像として想像することができます。これは顕微鏡で人体組織観察をしたことのない臨床医には不可能です。私も小児科医時代には未熟児・新生児の肺疾患の治療は慣れていましたが、その肺の状態を画像として思い浮かべることはありませんでした。コロナ肺炎の最前線で働いているドクターたちも、おそらく病理組織画像の観察は医学部学生時代に経験しただけでしょうから、治療の時に頭にあるのは患者さんの症状、血液検査所見、胸部レントゲン画像だけでしょう。むしろ病理の医師はそういう情報を理解できないわけですが、私も臨床から病理に転向した時に、こういう病理組織画像を理解していたら、もっと正確な診断や予後判定ができていただろうと悔やみます。
臨床医ですらそうですから、一般の人々は“肺炎”だとか“重症化”だとか言われても、その言葉の持つ暗いイメージに恐れおののくばかりで思考が止まってしまい、もう考えても仕方ないから結局コロナ肺炎やその後遺症なども軽視してしまう。ですから私も今回は病理医時代の経験を活かして不十分ながら解説してみたいと思います。ただ私も定年退職してしまいましたし、今回の記事のためにわざわざ古巣の職場を訪ねて写真を撮影し直すようなことで、人との接触、それも現在最も必要とされている医療従事者との接触を増やしてしまうわけには行きませんから、臨床検査学科の学生実習に使用した画像を適宜アレンジして、肺炎、重症化、後遺症といったものを簡単に説明することにします。
この顕微鏡写真は正常な肺の断面像です。口や鼻から吸い込んだ空気は気管から気管支へ枝分かれしていって肺の末梢にある肺胞という小さな袋にまで到達します。肺胞は全部で約3億個あるといわれ、これらがギッシリ並んでいるわけですね。その肺胞の集合体である肺をスパッと断面切りして顕微鏡標本にしたのがこの写真。
網目のように見えるのが肺胞の壁、この網目の中に見える深紅の粒々が赤血球、白く抜けて見える部分が肺胞内部で、ここに吸い込まれてきた空気中の酸素分子を赤血球は受け取って、それを身体の隅々まで届けるわけですね。
注目すべきは白い部分(肺胞に入ってきた空気)と深紅の粒々(赤血球)との距離です。赤血球が流れている毛細血管と肺胞内部の空気との距離は、ほぼ赤血球1個分の大きさ(直径7〜8ミクロン)ほどもありません。肺胞に入ってきた酸素分子はこの微小な距離を浸透していって赤血球に捕捉されます。
我々が大きく深呼吸すると気持ち良いのは、この肺胞の網目がパアッと広がって大量の空気が入ってきて、広がった肺胞の表面積の至るところで酸素分子が毛細血管の方へ浸透していって赤血球に結合、そのまま全身隅々まで行き渡って身体各部でその酸素を利用したエネルギー産生が起こるからです。よく新鮮な大気とか、新鮮な酸素とかいう文学的な表現もありますが、肺胞と赤血球の間で交換される酸素分子に新鮮も何もありません(笑)。
さてここで少し縮尺を小さくした下の3枚の顕微鏡写真をご覧下さい。左がほぼ正常な肺、中央が肺炎が重症化した時にも見られる“水浸しの肺”、右が本当に心配な後遺症になった肺です。どうですか。3枚はそれぞれまったく違って見えるでしょう?我々病理医はニュース番組などで“肺炎”と聞くと、このアナウンサーやコメンテーターはこれらのうちのどの状態のことを言っているんだろうと考える習慣が身についています。
一番左側の肺、これを正常と言ってしまうと本当は病理医仲間から叱られますが、やや老人性の変化が進行しているけれども一応普通に呼吸はできる肺です。中央の肺と比べると白く抜けてますね。中央の肺は一面にベターッとピンク色ですね。このピンク色がいわゆる“水浸しの肺”の正体です。炎症や栄養障害や循環障害などで本来は体の内部に留まっているはずの水分がジワーッと肺胞の中に漏れ出してしまう。これでは空気が肺胞の中にまで入って来られませんから、酸素分子も赤血球に受け渡せなくなります。
「吸っても吸っても息ができない感じ」
「深呼吸しても肺が膨らまない感じ」
新型コロナ感染症から幸運にも生還した方々の体験談にこういう談話が多いですが、まさに中央の写真の肺に相当する症状です。水に溺れたのと同じと解説する専門家もいますが、それも一目瞭然ではないですか。
しかし最もヤバイのが一番右の肺です。本当はこう言いきってしまうとやはり病理医仲間から叱られるのですが、中央の肺は肺胞の中身をきれいに掃除してしまえば、つまりこの肺炎が治癒すれば元通りまた空気が入ってくることも期待できます。だが新型コロナばかりでなくウィルスによる肺炎では、肺胞の中に水分が浸出するばかりでなく、網目の部分すなわち肺胞の壁が激しくやられるのが特徴です。そうなると肺胞の壁が破壊されて隣り合った肺胞同士がつながって大きくなってしまったり、肺胞壁の炎症が治癒する過程で膠原線維が増殖して分厚くなってしまう。
右側の肺では、左の2つに比べて白く抜けた部分が大きい。これは洗剤などの泡が互いにくっつき合って次第に大きくなるように、肺胞の壁が壊されて隣り合った肺胞同士が互いにくっつき合った結果こうなるのです。さらにこの大きくなった肺胞同士の間は薄いピック色に染まってしますが、これは先ほどの“水分”ではなく、増殖した膠原線維です。このため赤血球が流れている毛細血管は肺胞内部から遠く隔てられてしまい、せっかく空気を吸い込んでもなかなか酸素分子が赤血球まで届かない。患者さんはかなり強い息苦しさを感じると思います。
しかも悪いことにいったん増殖した膠原線維は生涯にわたって消失することはありません。つまりこの状態まで悪化してしまった患者さんは一生強い呼吸困難に悩まされて生活することになります。この状態は専門的には間質性肺炎による肺線維症といいます。当初は感染しても重症化しにくいと信じられていた若年者でも、この状態になってしまうとこの先何十年も肺線維症に苦しめられることになります。ちょっと動くだけで息苦しい、スポーツだけでなく普通の仕事や日常動作にも影響が出る恐れがあります。
特に変異したデルタ株が猛威をふるう恐れが出てきた時に、もっと若い人たちにも感染予防の心得を徹底させ、移動や集団飲食の自粛を強力に押し進めるべきだったのですが、時の政権はオリンピックを強行したいばかりに、また自分のワクチン政策を誇示したいばかりに、ワクチンで高齢者の感染は減少しているから大丈夫だと、そんな寝ぼけた中途半端なメッセージを国民に送り続けた。そのため若年層は年寄りが感染してないから俺たちは何をしてもいいんだとばかり気が緩み、いくら緊急事態宣言やまん延防止等重点措置を発出しても、40歳代50歳代を含む若年層が言うことを聞かず、都道府県を跨ぐ移動や酒食を伴う大人数の集会が跡を絶たなかったために、デルタ株の跳梁を許してしまった面は否定できないと思います。
本当は肺の状態などを医学的に解説してしまうと、すでに新型コロナで亡くなられた多くの方々のご遺族は辛い思いをされるかも知れないと思ったので、これまで敢えて記事にしませんでした。しかしワクチンが一部の世代で奏功しているかに見える成果のみを強調して、自らの施策の正当性をアピールするばかりの政治家のメッセージに踊らされて、気が緩んだままになった若年層や中年層に一石を投じるため今回ちょっと書くことにしました。
古稀でございます
還暦でございますを書いてから早くも10年が経ちました。月日の流れる速さに驚きますね。小学生だった10歳の誕生日は永遠に来ないかと思うほど待ち遠しかった、それから20歳の誕生日までもずいぶん長かった、その後は30歳、40歳、50歳、60歳という大台の区切りがどんどん短く感じるようになったと思ったら、もう70歳…、来年には80歳になりそうな気がする(笑)。
しかしよく考えてみるとこの10年間、いろいろなことが起こりました。まず年号が平成から令和に変わった、日本の政治はどんどん右傾化(極右化)した、オリンピックはゴタゴタ続きだった、そうこうしているうちに世界は新型コロナウィルスのパンデミックに襲われた…。個人的にも東日本大震災で被災した相馬市の子供たちとのキャンプに参加するようになった、病理医オーケストラで40年振りにアマチュア打楽器奏者に復帰した、そして何と言っても定年退職の日を迎えた…。あと、そうそう、はやぶさ2も小惑星リュウグウを往復しましたっけ。
しかし“古稀”の出典は杜甫の「人生七十古来稀なり」だそうですが、70歳まで生きる人は昔から稀だったと詩に詠んだ時代と違って、私の学校時代の同級生たちはまだ大半が存命です。古稀を待たずに逝った同級生や先輩後輩たちの面影を偲びつつ、まだもうしばらくは天の命ずるところまで頑張って生きてみようかと思いました。
長寿の祝いの節目も還暦、古稀と通過しましたが、これからは喜寿(77歳)、傘寿(80歳)、米寿(88歳)、卒寿(90歳)、白寿(99歳)、百寿または紀寿(100歳)と全部“寿”が付いている。そんなにめでたいのかな(笑)。
さらに100歳の後も茶寿(108歳:“茶”の字を分解すると“十”足す“十”足す“八十八”で108歳)、皇寿(111歳:“皇”の字を分解すると“白の99”足す“一”足す“十”足す“一”で111歳)と寿シリーズが続き、最後は大還暦、二度目の還暦という意味の120歳ですから、あとは順次、大古稀(140歳)、大喜寿(154歳)となるのかな(笑)。三度目の還暦180歳は超還暦だったりして(爆笑)。目指せ、超還暦!
10年前の還暦の時と現在で最も状況が異なってしまったのは、やはり新型コロナウィルスのパンデミックでしょうか。還暦の時もあとまだ20年や30年の余生はあると思っていましたし、古稀の今回もまだ10年や20年は元気で生きるぞと思ってますが、古い知己と思うように会えなくなってしまったことだけはちょっと悲しいです。もしこのままパンデミックが長引いてしまうなら、それほど老い先が長いと言えない世代にとっては、もう一度あの人に会っておきたい、もう一度あいつと飲みながら話をしたいという思いが却って強くなる気がします。
そう思ったら、阿川弘之さんの小説『雲の墓標』の一節をふと思い出しました。この小説は古稀や還暦どころか、20歳代の若さで特攻戦死した主人公たちの物語です。
雲こそ吾が墓標
落暉よ碑銘をかざれ
というこの小説のタイトルになった詩で始まる主人公が親友に宛てた最後の書簡、
わが旧き友よ、今はたして如何に。共に学び共によく遊びたる京の日々や、その日々の杯挙げて語りし、よきこと、また崇きこと。大津よ山科よ、奥(沖)つ藻の名張の町よ、布留川の瀬よ。軍に従いても形影相伴いて一つ屋根に暮したる因縁や、友よ、思うことありやなしや。されど近ければ近きまま、あんまり友よしんみり話をしなかったよ。なくてぞ人はとか、尽くさざるうらみはあれど以て何をかしのぶよすがとなせ。
友よたっしゃで暮らせよ。
昭和二十年七月九日朝
高校生の頃に愛読していた『雲の墓標』のこの一節、まさかコロナ禍で迎える古稀になって唐突に甦ってくるとは思いませんでした。本棚の奥で埃にまみれていたボロボロの文庫本を半世紀ぶりに手に取って、何かこみ上げてくるものがあります。
コロナ禍に迎えた古稀になって、ようやく差し迫って実感した人生の終幕、あの戦争の時代に20歳代の日々を過ごした人々より50年遅かったというべきでしょうか。それともあの時代の人々より50年も長く、何も難しいことを考えずに自分の人生と向き合う時間を与えられたのだから、それに見合う物をこれから後世に残さなければいけない、そのことを今一度深く自覚しなければいけないというべきでしょうか。
新型コロナ第5波はなぜ終息したか
東京では2021年も9月に入って、ようやく新型コロナウィルス第5波の新規感染者数も峠を越えた感がありますが、この機を捉えて政府自民党はワクチン接種済みの国民には旅行や飲食の行動制限を緩和するなどと、自民党総裁選挙や衆議院選挙を意識していることが見え見えの人気取り政策を打ち出そうとしています。そんなことで国民の気持ちが緩んで早々に次の第6波を招き寄せられたら医療現場はさらに逼迫して大変だとばかり、感染症の専門家たちは、まだ緊急事態宣言が発令されている最中に行動制限を緩和するようなメッセージを発するべきではないと、慌てて引き締めに苦慮しているようです。
しかし政府に助言する立場の専門家たちにも、国民の気持ちを緩めてしまうような誤解を与えかねない失言がありました。それはなぜ東京はじめ全国各地で第5波の新規感染者数がピークを打って減少に転じたのか理由がよく分からないという発言。
専門家たちは今日の新規感染者数は2週間前の国民の行動によって決まっていると言い続けてきました。だから7月から8月に新規感染者が一気に増加したのはオリンピックを開催するという政府のメッセージが国民の警戒を緩めたから、また8月中旬以降にやや頭打ちの傾向が見られたのはお盆や帰省シーズンで東京都内の人の流れが減少したためかも知れない、だからまだまだ油断してはいけない。
確かに油断禁物の時期はずっと続いていますが、そんなことを言っても猖獗を極めた第5波も何だかんだいいながら9月中旬に向けて減少傾向が続いています。第4波も第3波もそうだった、ピークに達する前後は大変だ、大変だと政府も専門家も大騒ぎで心配していたが、なあんだ、何のことはない、感染症の波なんてオリンピックをやろうがやるまいが、人の流れが増えようが増えまいが、いつか時期が来れば自然に終息するもんじゃないか。しかも医学の専門家でさえ新規感染者のピークが下がってきた理由は分からないなんて言っている…。
そういう誤解をする一般国民がいても不思議ではありません。人の流れが減れば2週間後に感染者数も減る、人の流れが戻ればまた上昇に転じるはずだ、そういう理論の前提が崩れたからといって、専門家たる者が原因が分からないなどと軽々しく口にしてはいけません。原因が分からなければ自分の頭を使って考え抜こうとするのが専門家の役目ではありませんか。
各県のコロナ新規感染状況をまとめてくれているサイトがありますが、その東京都の新規感染者数の9月13日現在の推移グラフを見ても、確かに第1波から第5波までいずれも時が来れば終息しているように見えます。これは国民の自粛行動や生活様式変容などの効果によるものであることは間違いありません。第5波もオリンピック開催前後から他の4つの波に比べて明らかに急峻な上昇を示していて、私も別のコーナーでいよいよ1週間から10日ごとに新規感染者がほぼ2倍ずつになる倍々ゲームの終末相を呈するに至ったと書きましたが、やっぱり終息したじゃないか!
その理由はちょっと常識を働かせればすぐに分かること、そのペースで増えていけば年内には東京都内の新規感染者数は1日あたり1000万人を越えてしまいます。さらに年が明ければすぐに1億人さえ越えてしまう。そんなバカなことが起きるわけないでしょう。倍々ゲームの最も分かりやすい逸話、豊臣秀吉と曽呂利新左衛門について別のコーナーにも書きました。秀吉が新左衛門に褒美を取らせようとしたところ、新左衛門は米を1粒、そして1日ごとに倍々に増やして1ヶ月後に頂きに参りますとのこと、何じゃ欲の無い奴めと秀吉は笑って許したが、1ヶ月後には大阪城の米倉を空っぽにしても足りないほどの量になっていたという話です。
実は倍々ゲームは最初から始まっているのであって、新型コロナの第1波でも2波でも少しずつ増えていきましたが、まだ新左衛門の米が10粒が20粒になる、せいぜい1升が2升になるという程度でした。しかし第5波では米1俵が2俵に、2俵が4俵にという恐るべきスピードで増えていく終末相に達していたのです。それがなぜ一転して減少に転じたのか。さすがの秀吉も大阪城に備蓄された米以上の褒美は渡せない。新型コロナウィルスも都民や国民の人口以上の人間に感染することはできない。どこかで頭打ちになるのは当然のことです。
では新規感染者数のピークの大きさを決める要因は何でしょうか。まずウィルス流行株の感染力の強さ、第5波でいえば今回のデルタ株と呼ばれる変異株は非常に強い感染力を持っていた。従来株に比べて少数のウィルス粒子でも感染が成立してしまう。だから中年者や若年者も簡単に感染が成立して患者はあっと言う間に倍々に増えていった。ただし今回は高齢者へのワクチン接種がある程度進行していたため、このピークをかなり低く抑えることに成功しています。上のグラフは年齢別に30〜40歳は緑色、20歳代は黄色で示してあり、この年代層が多数感染していることが分かりますが、ここに高齢者の青や紫が上乗せされていたら医療機関はまさに死屍累々の惨状を呈していたことは明らかです。
もう一つの要因は国民の行動自粛や感染防止の徹底の度合いでしょう。つまりウィルスの強さと、国民の防御意識の強さの兼ね合いで流行の波の大きさは決まる、ウィルスの攻撃力と国民の防御力ですね。私はそう考えています。つまり第1波なら第1波、第5波なら第5波、それぞれ攻撃側のウィルスの感染力がどのくらい強いか、防御側の国民の感染対策意識がどのくらい強いか、そのバランスによってピークの高さやピークまでの時間が決まる。そしてその時のウィルス主力株の感染を退け得るだけの防御条件に満たない国民の感染がほぼ飽和状態に近づいた時にピークの上昇は頭打ちになり、以後は次第に減少に転じていく。この状況をウィルスの側から見れば、自分の遺伝子をコピーするために感染可能な人間を探し回るが、防御力が低い人間の数はだんだん残り少なくなってきて、ウィルスに対する弱みを持っている人間がほぼ底をついた時に新規感染の波は終息する。そして変異株の出現によってウィルスの攻撃力が増加する、あるいは国民の側の気の緩みで行動様式に変化が生じるなど、攻守のバランスが崩れた時に次の感染の波が襲ってくる、そういうことじゃないかと私は思ってます。
従来株が相手だった第1波から第3波にかけては、おそらく人々も緊急事態宣言に慣れて気の緩みが進行したのでだんだん波のピークが大きくなった、第3波で1日の新規感染者が2000人にもなったことは東京都民にとってショックが大きく、また関西で医療崩壊が現実のものとなった報道もあって人々の警戒心が再び強化され、東京の第4波は比較的小さくて済んだが、オリンピック開催という状況に気分が高揚して行動制限が緩んだところへデルタ株という強力な感染力を示すウィルスが攻撃側の主力となった結果、第5波はワクチン接種が開始されていたにもかかわらず過去最大の破壊的な波になってしまった。
第5波が急に終息した理由は分からないと一部の専門家は述べていますが、攻撃側のウィルスの視点から見れば、例えばマスクを正しく着用していないとか、無警戒で人混みに出歩いたり多人数会食を繰り返したりと、次の感染を拡大させる攻撃の足場として利用できる人間が少なくなってくれば、攻撃は次第に散発的になって終息に向かいます。つまり新規感染者数のピークの高さは、不用心で無警戒な人々と、そういう人たちを足場にして思わぬ形でウィルスに晒された不運な人々の総和と考えられますし、またそのピークに達するまでの速さはウィルスの感染力の強さと考えられますが、どんな強力な感染力を持っていても、ウィルスに対して防御の弱点を晒す人間の大半が感染してしまえば、流行は下火になるわけです。
そういうわけだと思いますから、さらにミュー株だのラムダ株だの得体の知れない変異株に対しても、自然に終息するのを待つしかないと半ばヤケクソで行動制限を勝手に緩めることなく、可能ならワクチンを打ってウィルスに対する免疫を強化し、マスク着用や手洗いなどの実行継続に留意すべきです。
勲章貰いました!
毎年秋になると社会や文化に貢献した人々への叙勲のニュースが流れてきますが、社会にも文化にも大した貢献をしたと思っていない人間には“勲章”など無縁だと考えていたら、何と私も昨年暮れ、日本赤十字社から『金色有功章』というものを頂きました。これはある一定以上の金額を寄付した人に贈られる勲章だそうですが、そろそろ1年以上が経つし、その経緯などご報告しておきます。
昨年(2020年)3月末、いよいよ新型コロナウィルスの脅威が高まってきて我が国で初めての緊急事態宣言が出る直前、生化学や代謝学の基本をまとめた本を出版したことはすでに書きました。この本が出版後1年半以上経過した今でもけっこう売れ続けていて、Amazonの医学書売れ筋ランキングの生化学部門など見ると、最初の半年は常にトップ3を堅持、その後もトップ20以内には必ず入っているというありがたい結果です。出版社(羊土社)の担当の方に聞くと、最初の1年で2回も増刷を重ねたのは医学書としては珍しいとのことでした。購入して頂いた皆様にこの場を借りて厚く御礼申し上げます。
ところで著書が売れたというと下世話な話、印税がガッポリ入ったでしょうということになります。しかし本が何十万冊も売れるベストセラー作家などと違って、医学関係書籍はそもそも対象となる読者数が圧倒的に少ないし、また日進月歩の医学の進歩についていけるのはせいぜい最初の数年間だけ、だから医学書を執筆して“田園調布に家が建つ”とか“年収一千万の夢の印税生活が送れる”などということは絶対にあり得ません。
しかしそれでも“アブク銭”とは言わないけれど、これだけ売れればある程度まとまった臨時収入が期待できるのは事実です。だから新型コロナとの戦いが始まろうとしていた時期、もう自分は第一線に立てないのだから、せめて金銭的な支援でお役に立ちたいと思い、幾つかの団体を探して寄付を行いました。日本赤十字社だけでなく、遺児奨学金、収入を失った家庭の食事支援、補助犬育成、難民支援など、ホームページなどで活動実績を確認した団体に対し、いつもよりは1桁大きい金額を寄付させて頂いたところ、日本赤十字社にはこういう報奨制度があって、たまたま私も勲章を戴ける次第となったわけです。
さて私も少しは社会に対して恩返しができる元手を作ってくれた著書ですが、これは私が臨床検査学科という臨床検査技師の学生さんを教育する学科で教鞭を取っていた時の講義内容をほぼ当時のまままとめたものです。臨床検査技師というのは、看護師や診療放射線技師などと同じく、医療機関で働くコメディカルスタッフの一種です。コ(co-)とは一緒にという意味の接頭語で、医師と一緒に協同して働くことを表しています。かつてはパラ(para-)という接頭語を付けて、医師の周囲で下働きするという意味が強いパラメディカルスタッフと呼ばれていましたが、近年ではなくてはならない協同の仲間という意味合いになっているわけです。
とは言うものの、看護師にはナイチンゲール以来医師が立ち入れない看護の聖域がある、診療放射線技師は普通の医師をはるかに凌駕する専門的な放射線の知識を持つように教育されている、しかし臨床検査技師は医師の知識や技能と重複する部分が多く、ともすれば臨床の現場で一段軽く見られがちなコメディカルスタッフである。
私はそういう現場の気の毒な状況もさんざん見聞きしていたから、彼らを教育する現場に着任した時、普通の医師が逆立ちしても出て来ないような高度な専門知識を教え込んでやろうと考えて、講義のプログラムを組みました。しかし医学部の修業年限は6年、臨床検査学科は4年、さらに入学後初年次の1年間は一般教養科目が主体であり、卒業前の最後の1年間は国家試験準備の対策講義に当てられるので、実質的な履修年限は医学部のほぼ半分程度しかありません。
この半分の履修期間で、現場に出てから普通の医師を凌駕できる知識を教えるために私がやったのは、まず解剖学と病理学の講義と実習は私が1人で全部みっちり担当したことです。医学部は悪く言えば「船頭多くして舟山に登る」のように、肝臓なら肝臓、腎臓なら腎臓、神経なら神経の専門家(と称する教員)がゴチャマンといて、それぞれがバラバラに講義を分担するので、聴講する学生の方は確かに高度の専門知識は聞かされるものの、各教員の講義内容や資料の形式はまちまち、喋り方や間の取り方も巧拙があり、さらには講義の熱意に乏しい教員もたまにいるということで、せっかくの高度な内容も卒業と同時に雲散霧消してしまいがちです。この医学部講義の宿命的な弱点を補うために、私は人体の全身を1人で講義して、各分野の知識が学生の頭の中でガッチリとネットワークを形成できるように計画しました。
さらに私は医学部教育の大きなピットフォールが生化学の代謝部門の知識にあることを体験的に知っていましたので、これを補うために私なりに科目の全体像が理解できるようにアレンジした講義を準備しました。その内容をまとめたのがこの本です。その本が出版後もう1年半にもなるのにまだそこそこ売れ続けている、少なくない学生さんが手に取って勉強してくれている、さらにAmazonの書籍売れ筋ランキングの読者評価など見ると、五つ星評価で★★★★★が50%以上となっている、本当にありがたいことですね。日本赤十字社から勲章を戴いたのは寄付金の多寡ではなくて、この本を世に出せたからだと自分では思っています。
新型コロナ第6波は来るか
新型コロナ第5波はなぜ終息したかの記事を書いた時には、2021年9月に入って第5波も終息に向かいつつある状況が明らかになってきていましたが、11月に入るとその傾向は一段と顕著になって新規感染者は東京で1日50人を切る日が連続しています。(グラフはいつものサイトより)
新規感染者が1日5000人を越える日もあって緊迫していた猛暑の頃がまるで嘘みたいですね。私がまだ高校生だった1969年に公開されたイギリス映画『空軍大戦略』は第二次世界大戦でナチスドイツによる空襲から英国本土を防衛した連合国空軍の物語でしたが、連日来襲するドイツ爆撃機の大編隊を探知して防空戦闘機隊に出撃命令を出す司令部も映画の舞台の一つでした。ドイツ軍が英国空襲を断念した翌日、今日もドーバー海峡を越えて敵機がやって来るだろうと緊迫していた司令部に気が抜けたような安堵感が流れるシーンがありましたが、第5波の東京での新規感染者数が1日100人を切り、50人を切り、30人を切り、10人を切る日もある(11月1日の9人)などということになってきて、私はふとあの映画を思い出しました。
しかしナチスドイツはその後も戦争末期までV2ロケットなどという物騒な新兵器でロンドンやベルギーなどを空襲し続けたように、新型コロナウィルスも遺伝情報を巧みに変異させて反撃してくる可能性は非常に高いです。いや、仮にもしこのまま新型コロナが人類の疾病史から消滅してしまうものならば、東京における新規感染者数は11月の中旬にはすでに1日10人を連日下回るようになっていたはずですが、実際にはそうなっていない、11月13日現在でも1日20〜30人前後で推移し、1週間前の同じ曜日を上回ることも多くなってきました。
日本に先駆けてワクチン接種が開始されて経済活動の制限も解除されたヨーロッパ諸国で再び新型コロナの新規感染者数が1日何万人にもなっている現実を見れば、日本でも12月頃から再び目に見える形で新規感染者が増加していき、年末年始を過ぎる頃には第6波のピークを形成することを覚悟しなければいけません。来て欲しくないものはたぶん来ないだろうと、自分に不都合な現実から目を逸らすようなことをしていては、80年前にミッドウェイの海に沈んだ同胞たちに申し訳が立ちません。
新型コロナの第6波は必ず来ます。ただこれまでの医学の“常識”から考えれば、第6波以降の波は第1〜5波に比べていくぶん致命的な破壊力は弱まるだろうと想像しています。ただ想像しているだけで期待や楽観はしていませんが、私は前の記事の中で、新しい波はウィルスの攻撃力と人間集団の防御力のバランスが崩れた時に起こると書きました。
最近第6波が再び頭をもたげてきた背景には、日本でも飲食店や各種イベントの制限が緩和または撤廃されて人々の流れが増えてきたことがあると思います。すでに倍々ゲームの初期相に入っているのではないでしょうか。しかし今回は多くの諸国でワクチン接種率も上昇しており、また各種経口薬や点滴薬の開発・認可も進んでいるので、第6波以降のコロナ感染では昨年の欧米諸国のような死屍累々の惨状は、少なくとも“ワクチン先進国”では回避できる望みが高いと思われます。これは途上国への緊急ワクチン支援が必要な所以でもあります。
ウィルスもこれに対して攻撃力を高めて反撃してくるはずですが、ウィルスの目的は人間に感染して死亡させることではなく、自分の遺伝子を増殖させて拡散させることです。賢いウィルスならばそろそろそれに気付くと思われます。別にウィルス自身がいろいろ考えて変異してるわけではありませんが(そもそもウィルスには考える脳はない!)、遺伝子の核酸による言語(大多数の生物ではDNA、コロナウィルスはRNA)は、それが表現しうるすべての事象空間内をランダムに動き回って、より適合性の高いものへ進化していくと、グレゴリー・チャイティンという数学者が数理的に解説しています。
そういうことであれば、コロナの遺伝子がこの先も増殖したいのであれば、必ず人間を重症化させたり死亡させたりする毒性を弱めて、感染力だけを増強するように数理的に“進化”することになり、それこそが『ウィルス大戦略』なのですね。毒性の強いウィルス、例えばエボラ出血熱のようなウィルスは、感染すると多くの患者が死んでしまい、生きていても社会活動に参加できなくなるから次の人間に感染させることもできない。毒性の強さはウィルス戦略にとっては逆効果になります。
ウィルスの核酸がより適合性の高いものへ進化していくものならば、新型コロナウィルスが現在目指しているのは、きわめて毒性の低い状態、できれば人間に感染したことさえ悟られず、3密の飲み会でもイベントでも自由にやって貰えるような状況を作り出すことが最も理想的なわけです。しかしその代わり、ちょっと一緒にいただけで次の人間を確実に感染させられるだけの伝播力も研ぎ澄ましている、それこそが『ウィルス大戦略』にとって最強のウィルスということになります。おそらく新型コロナもあの数学者の仮説どおり、そういう最強のウィルス目指して数学的に進化している可能性が高いです。つまり人間にとっては「ウィズ・コロナ」ですが、コロナにとっても「ウィズ・人間」なのです。
これが第6波の正体か
もうギリシャ文字の勉強はイヤですね(笑)。アルファ(α)、ベータ(β)、ガンマ(γ)、デルタ(δ)などは一般の医学関連でもよく使いますし、イプシロン(ε)、カッパ(κ)、ラムダ(λ)、ミュー(μ)は日本の宇宙ロケット開発段階を知る者にとっては懐かしい。カイ(χ)は基本的な統計学にお馴染みのギリシャ文字、パイ(π)やシグマ(σ:大文字はΣ)は大学入試の数学には避けて通れません。おっと健康に良いと注目されているのはオメガ(ω)脂肪酸。
“アルファベット”という言葉の語源はこのギリシャ文字の最初の2つ、アルファ・ベータから来ているわけですが、新型コロナウィルスの新たな変異株が確認されるたびにギリシャ文字が順番に命名されていくので、最近では不吉なイメージも持つようになりました。デルタ株は世界中でかなり猛威をふるいましたね。
と思っていたら今度はオミクロン(ο)株という強敵が出現したようです。オミクロンなんてギリシャ文字、私はこれまで勉強してきたどの分野でも使ったことがありません。巷間の話によれば、オミクロンの前にニュー(ν)とクサイ(ξ)があるが、ニューは英語の
new を連想して「ニュー株」と「新しい株」が紛らわしくなるので不使用、クサイは英語表記で“xi”となり、中国共産党独裁者の習近平主席の表記と同じになるので不使用とのこと。
それならオミクロンの次の変異株が出た場合、ギリシャ文字の順番に従えばパイ(π)株になりますが、これだと新型コロナウィルスのパンデミックが円周率のように永遠に続きそうなイメージになるので、できれば命名を避けて欲しい(笑)。
さて2021年11月後半頃から、これまで猛威をふるい続けてきたデルタ株に取って代わったオミクロン株ですが、南アフリカなどではあっと言う間に流行の主役の座を奪ってしまったらしい。コロナウィルス界の生存競争はかなり熾烈です。
核酸の配列で決まる生物界の言語(コロナではRNA)は、それが表現しうる言語空間をランダムに動き回って最適なものへ進化していくと数理的に解析した数学者がいることは前の記事でも書きましたが、オミクロン株はまさにそのとおりの進化を遂げているようです。
まず凄まじいまでの感染力の高さ、最初に確認された南アフリカではわずか1ヶ月でデルタ株を駆逐して流行の主流におどり出たそうです。デルタ株の感染力も従来のアルファ株などをたちまち圧倒したほど強かったが、オミクロン株はそれをもはるかに凌駕するということです。
次に毒性の低さ、これもウィルスの生き残り戦略にとっては重要な要素になります。エボラ出血熱のように感染した人間を片っ端から死亡させてしまうような強毒ウィルスは、感染の連鎖を先に広げられないから生き残り戦略には不利です。南アフリカの感染症ドクターへのインタビューが報道されてましたが、デルタ株の患者は肺の奥から絞り出すような咳をしていたが、オミクロン株の患者は喉の咳をしているとのこと。つまり肺炎まで重症化しにくいから、ただの風邪かと思ってあちこち動き回り、猛烈な勢いで感染を周囲に広げていく。
さらにオミクロン株は体力と免疫力の強い若年者にも取り憑いて発症させるだけのしたたかさも持っている。若者の方が活動範囲が広いから、高齢者を主なターゲットにしていた従来株よりも感染を広げるスピードが早い。
これが第6波の主敵となることはほぼ間違いないでしょう。普通の風邪と紛らわしい症状で、行動範囲の広い若者たちを巻き込むオミクロン株は、おそらく2021年の年末には日本でも爆発的な流行を示すと思われますが、この恐るべき新手に対して私たちはどう対処したら良いのでしょうか?
ワクチン接種も進んでいますし、注射・経口の治療薬や重症化予防薬の開発や認可も進んでいますから、昨年(2020年)初めの頃ほどに恐れる必要はないと思われます。まだ予断は許しませんが、ヨーロッパやアフリカ諸国からの報道によればオミクロン株は従来株より重症化率が低そうなのも救いかも知れません。考えてみれば新型コロナのプロトタイプが最初に襲いかかってきた時、火元の武漢や欧米諸国ではたちまち死者の埋葬や火葬が追いつかない状況に立ち至ったわけですから、オミクロン株の第一撃がこの程度で済んでいることはまさに天佑です。
しかしこのまま油断してオミクロン株の跳梁を許せば、大量の感染者の中には重症化して亡くなる方も増えてくる(インフルエンザだって肺炎を起こして亡くなる方は少なくないのです)、さらにせっかく経済活動が再開されて国内に活気が戻りつつあるのに、また新型コロナの一族が爆発的に増え始めたとなれば、やはりインフルエンザの場合とは違ってパニックも助長され、再び飲食や移動も制限されることになるかも知れません。現にヨーロッパ諸国などではいったん抑え込んだかに見えた新規感染者数が1日数万人レベルになって、再び制限措置やワクチン接種義務化を検討し始めた国もあります。
海外では再び猛威をふるい始めた新型コロナウィルス、気付かぬうちにオミクロン株に置き換わっていた可能性もありますが、日本では幸いなことに第5波終息後まだ新規感染者の増加は目立っていません。このまま第6波は来ないだろうと油断していてはいけないと前の記事でも書きましたが、では何をすればいいのか。とにかくコロナは呼気中の飛沫を介して人から人へ感染するわけですから、我々日本人はナントカの一つ覚えでマスクを手放さない、いや鼻と口から離さないことが大事です。
掲載した写真のように二宮金次郎の銅像も、銀座三越のライオン像も、鶴岡八幡宮の狛犬も、マスクの重要性を訴えています。欧米では従来株の感染の波を抑え込んだ後、経済活動再開に合わせて人々がマスクを手放してしまった国も多い。大勢の群衆がワクチン接種も終えたからと油断してマスクもせずに大声で叫び合い、狂喜乱舞するニュース映像に不安を感じていたら案の定1日の新規感染者が何千何万…、必ずしもマスクを外したことが原因と断定することはできませんが、第5波を乗り越えた日本国民がこのままマスク着用を継続して、他国よりも低いレベルでオミクロン株を切り抜けることができるかどうか、それは国民的な疫学実験として非常に貴重な医学データになると思います。
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